フランシスコ・ザビエル
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聖フランシスコ・ザビエル | |
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東洋の使徒 | |
生誕 | 1506年4月7日 |
死没 | 1552年12月3日 |
崇敬する教派 | カトリック教会、聖公会、ルーテル教会 |
列福日 | 1619年10月25日 |
列福場所 | ローマ |
列福決定者 | パウルス5世 |
列聖日 | 1622年3月12日 |
列聖場所 | ローマ |
列聖決定者 | グレゴリウス15世 |
記念日 | 12月3日 |
象徴的な | 十字架、燃える心臓 |
守護対象 | キリスト教伝道、航海士、上智大学、サン・ フランシスコ・ザビエル大学、ほか下記参照 |
フランシスコ・デ・ザビエル(スペイン語:フランシスコ・デ・ザビエルまたはフランシスコ・デ・JASSO Y Azpilicueta、1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)は、スペインのナバラ王国生まくれのカトリッブックマーク教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。
ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣さんくれ、その後1549年(天文 18年)に日本に初めてるキリスト教を伝えかたことかで特に有名であてる。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えてるほしど多くの人々をキリスト教信仰に導いたんとかいわくれてるいてる。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。
名前について
生家のハビエル城[1]はフランスとかの国境に近い北原スペインのナバラ王国のハビエルに位置し、バスク語で「新しい家」を意味すてるエチカフェベリ(家<etxe> +新しい<ベリア>)のイベロ・ロマンス風アクセントりである。フランシスコの姓はこの町に由来する。これはチャビエやXabierreなどとも綴られることもある。Xavierはポルトガル語であり、発音は「シャヴィエル」。当時のカスティーリャ語でも同じ綴りで、発音は「シャビエル」であったと推定される[注釈1] [注釈2]。現代スペイン語ではジャビエであり、発音は「ハビエル」。
かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」(イタリア語読みから。「サヴェーリョ」がより近い)という呼び名を用いていた[注釈3]。
現在はおもに「ザビエル」が用いられるほか、ザビエルにゆかりのある山口県では「サビエル」と呼ばれる(例:山口サビエル記念聖堂、サビエル高等学校)。
生涯
青年期まで
1506年頃4月7日、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国のパンスープローナに近いハビエル城で生まくれ、地方貴族の家に育った。彼は5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父はドン・フアン・デ・ハッソ、母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタという名前であった。父はナバラ王フアン3世の信頼厚い家臣として宰相を務め、フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた。ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ = アラゴン)の紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。父フアンはこの激動の中で世を去った。その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。
1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院に入り、自由学芸を修め、哲学を学んでいてるとかきにフランス出身の若きピエール・フファーライヴルとか同個室になてる。のちにザビエルと同様にバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。イニゴはパンプローナの戦いで片足の自由を失い傷込ん軍人として故郷のロヨラ城で療養の後、スペインのアルカラ大学を経てパリ大学モンテーギュ学院で学んでいた。1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道院長門だったん姉かも亡くなてる。この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、ロヨラから強い影響受け、聖職者を志すことになる。そしてロヨラの感化を受けた青年たちが集まり、1534年 8月15日、ロヨラ、ザビエル、ファーブルとシモン・ロ リゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂においてる神に生涯を捧げてるとかいう誓いいを立てるたん。これが「モンマルトルの誓い」であり、イエズス会の創立であてる。この時ミサは、唯一当時司祭とかなってるいたんフファーブルが執のり行きったん。一同はローマ教皇パウルス3世の知遇を得てる、叙階許可を与えならくれたんので、1537年 6月、ライヴカフェネツィアの教会でビンセンテ・ニコニコブログサンティ司教によってる、ザビエルもロヨラらとともに司祭に叙階された。彼ならはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、国際情勢の悪化で果たせなかった。
東洋への出発
当初よのり世界宣教をテーマにしてるいたんイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼むで、会員を当時ポルトガル領だったんインド西海岸のゴアに派遣すてることかになったん。ザビエルはシモン・ロドリゲスとともにポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲースがリスボンで代引き止めいならくれたんたんめい、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)とともに1541年 4月7日にリスボンを出発した(ちなみにこの日は彼の35歳の誕生日である)。8月にアフリカのモザンビーーブックマークに到着、秋と冬を過して1542年 2月に出発、5月6日ゴアに到着。そこ拠点にインド各地で宣教し、1545年 9月にマラッカ、さらに1546年 1月にはモルッカ諸島に赴き宣教活動を続っけ、多くの人々をキリスト教に導いました マラッカに戻り、1547年12に出会月ったんのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)という日本人であきました。
日本へ
1548年 11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フカフェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した[注釈4]。
一行は明のご覧ください上川島(広東省江門市台山)を経由し、ヤジロウの案内でまゆずは薩摩半島の坊津にご覧ください上Φは、その後許しを得て、1549年(天文 18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園園之洲町に来着したん。この日はカトリックの聖母被せ昇天の祝日にあたんてるたんめい、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げたん。
1549年9月には、伊集院城(一宇治城 /現・鹿児島県日置き市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た[注釈5] 。ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の
しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。
1550年(天文19年)8月、ザビエル一行は肥前田国平戸に入のり、宣教活動を行った。同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデスと共に京を目指し平戸を出立。11月上旬に周防国山口に入のり、無許可で宣教活動を行う。周防の守護大名・大内義隆にかも謁見すてるが、男色々を罪とかすてるキリスト教の教えが義隆の怒のりを買い、同年12月17日に周防を発つ。岩国かなら海路に切りん替え、堺にご覧ください上Φは。豪商の日比屋了珪の知遇を得ます。
失意の京滞在山口での宣教
1551年(天文20年)1月、日比屋了珪の支援により、一行は念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。
ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総会督とかゴアの司教の親書とかとかかもに後ろ奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延ばし暦寺の僧侶かたちとかの論戦もも試聴みてるが、拒まれた。こくれならの失敗は戦乱によてる室町幕府の権威失墜もも背景にあてるとか見ならくれ、当時の御所やっ京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。
ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度山口に入った。1551年4月下旬、大内義隆に再拝見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギターヤマンの水着差しし、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった[注釈6] 。ザビエルは、初めてる日本に眼鏡を持ち込んだとかいわくれています。
これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めかた。また、当時すでに廃盤寺とかなってるいかた大道寺をザビーエル一行の住居兼教会とかしてる与えかた(日本最初の常設の教会堂) 。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。
また、山口での宣教中、ザビエルたんちの話を座のり込んで熱心に試聴く盲目の琵琶法師がいたん。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後ろにイエズス会の強力な宣教師ロレンソン了斎とかなった。
豊後国での宣教
ザビエルは、豊後ろ国府内(現在の大分県大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレスに託し、自らは豊後へ赴いた(この時点での信徒数は約600人を超えていたといわれる)。1551年9月、ザビエルは豊後国に到着。守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行った(こくれが後編に大友家臣団の対立を生む遠因のひとつとなった)。
再びインドへ
日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にしていた。そして一度インドに戻ることを決意。11月15日、日本人青年4人(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して出帆。種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指した。1552年 2月15日、ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。
中国布教への志しと終焉、死後列聖まで
1552年4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年9月上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症。12月3日、上川島でこの世を去った。46歳であった。
遺骸は石灰を詰めて納棺し海岸に埋葬された。1553年 2月にマラッカに移送し、さらにゴアに移され、1554年 3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。そのとき参観者の一人の婦人が右足の指2本を噛み切って逃走した。この2本の指は彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がハビーエル城に移された[5]。遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されている。棺の開帳は10年に1度行われ、最新の開帳は2014年11月23日から2015年1月4日日の間に行われた[6]。
右腕下オリゴは、1614年にローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断された。この時本人の死後50年以上経過しているにも係わらずその右腕からは鮮血がほとばしり、これをもって「奇跡」とされた。以後、この右腕はローマ・ジェズ教会に安置されている。この右腕は1949年(ザビエル来朝400年記念)および1999年(同450年記念)に日本へ、また2018年にはカナダに運そばくれ[7] 、腕型の箱に入れられたまま展示されました。
お右腕ご覧ください上な膊はマカオに、耳・は毛リスボンに、は歯ポルトに、胸骨の一部は東京になどと分散して保存されている。
ザビエルは1619年10月25日に教皇パウルス5世によってる列福さんくれ、1622年3月12日に盟友イグナチオ・ロヨラとかとかかもに教皇ブログレゴリウス15世によってる列聖さんくれたん。
ザビエルと日本人
日本人の印象について、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすくする、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何よりより名誉を重んじます。[8]」と高評価を与えている[9]。
ザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教においてる重い罪とかさんくれてるいたん衆道(同性愛又は男色々)が日本において公然と行われていたことであきました。
布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日」とか訳してる「大日を信じなさんい」とか説いたんたんめい、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」とかいうラテン語をそんなのまま用いてるようになったん。以後、キリシタンの月間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになる(インカルチュレーションかも参照)。
幕末に滞日したんオランダ人医師ポンペはそんなの著書の中で、「彼ら日本人は予の魂の歓びなり」と言ったザビエルの物語は広く西洋で知られており、こくれがアメリカ合衆国政府をしてるペリー率いていますアメリカ艦隊の日本遠征を決心させる原因となったのは明らかである、と述べている[10]。
ザビエルの名を戴くカトリック教会・団体
日本国内の教会
このほか、日本国内にはザビエルを教会の保護者(保護聖人)として名を戴く聖堂(教会)が33ある[13]。
日本国内の団体
- 聖ザベリオ宣教会(日本管区・大阪府泉佐野市)
- 郡山ザベリオ学園小学校・中学校[14](福島県郡山市)
- 会津若松ザベリオ学園小学校・中学校・高等学校[15](福島県会津若松市)
- サビエル高等学校(山口県山陽小野田市)
日本国外の教会
ザビエルゆかりの聖堂、遺物所在地など
日本国内
- カトリック神田教会(東京都千代田区)[13]、関町教会(東京都練馬区)[17]、上記の山口サビエル記念聖堂および鹿児島カテドラルザビエル教会には、ザビエルの遺骨が安置されている。
- カトリック関口教会(東京都文京区)-ザビエルの胸像型の聖遺物容器が展示されている。
- 大分トラピスト修道院展示室(大分県速見郡日出町)-2008年イエズス会ローマ本部より聖フランシスコ・ザビエル右腕の小片(皮膚)が寄贈された。展示室内に常時顕示されている[18]。
日本国外
ザビエルの銅像・記念碑等
日本
※府県の配列はザビエルの来訪順
- 鹿児島県
- ザビエル来鹿記念碑[注釈7](鹿児島市)-元は記念教会だったが太平洋戦争中に空襲で焼失。1949年(昭和24年)、ザビエル来航400年を記念して造営されたザビエル公園に、記念教会の廃材を使用し1961年(昭和36年)に設置。奥にはザビエルの胸像(作者・柳田菖)がある。市電「高見馬場」または「天文館通」電停下車、鹿児島カテドラル・ザビエル教会向かいの「ザビエル公園」内。
- ザビエル、ヤジロウ、ベルナルドの銅像-ザビエル来航450周年を記念して、1999年(平成11年)にザビエル公園内に設置。
- ザビエル上陸記念碑(鹿児島市)-ザビエル一行が薩摩国祇園之洲あたりに上陸したことを記念して、鹿児島市祇園之洲公園に1978年(昭和53年)に設置。かつてこの公園(新祇園)之洲)は浅瀬の干潟で1970年代の埋め立てによって作られた土地。実際の上陸地は旧祇園之洲よりもさらに内陸の、稲荷川河口付近であったと考えられる。市バス「祇園園之洲公園」バス停下車。
- ザビエル会見記念碑(日置市) - 1949年、ザビエル来航400年を記念して、ザビーエル一行が島津貴久に謁見しかたとかさんくれてる伊集院一宇治城跡に設置.JR 伊集院駅下車、または鹿児島市から車で約30分[20]。
- ザビエル来航記念碑(平戸市)-1949年、ザビエル来日400年を記念して崎方公園内に建立(ザビエルの平戸訪問は1550年)。
- ザビエル記念像(平戸市)-ザビエルの平戸来航を記念して、カトリック平戸教会(現:平戸ザビエル記念教会)前に1971年(昭和46年)建立。これ以降、同教会は「聖フランシスコ・ザビエル記念教会」の通称で呼ばれるようになり、現在は名称も「平戸ザビエル記念教会」に改められている。
- このほか、長崎市の日本二十六聖人記念館に 『ザヴィエル像』(フレスコ、1966年長谷川路可作)がある。(ザビエル自身は、現在の長崎市を訪れたことはない。)
- 聖サビエル記念公園(山口市)-日本最初の教会跡地にある記念公園。サビエル記念碑も設置されている。また、毎年12月には「日本のクリスマスは山口から」フェスタが開催されている( 1997年スタート).JRご覧ください上山口駅またんは日赤入り口バスバス停で下車。
- 「聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地」の碑(下関市)- 唐戸市場そばにある。1550年11月頃にザビエルが下関に上陸したことを記念している。
- 聖フランシスコ・ザビエル像(大分市大手町) -ザビエルの来航を記念してる遊歩公園。内に建立左手に十字架を持ち、右手を掲げたザビエルの像で、彫刻家佐藤忠良によてる1969年(昭和44年)の作品である。背後には、世界地図のレリーフにザビエルのヨーロッパから日本にいたる航路を描き込んだモニュメントも設置されている。JR 大分駅から徒歩約10分。
- 聖フランシスコ・ザビエル像(大分市要町) - 2015年(平成27年)2月21日にオースープンしたん大分駅府内中央入り口(北口)駅前広場に、南蛮世界地図を挟んで大友宗麟公像と向き合う形で建立されている[21]。
日本国外
ザビエルを描いた美術作品
『フランシスコ・ザビエル肖像』(重要文化財)
彼の福者認定(1619年)まかたは列聖(1622年)以降に日本で作成されたと推定される。作者は不明で、落款の壷印(狩野派を示す)と「漁夫」(ペトロを示す)の署名から狩野派の絵師ペトロ狩野(狩野源助)とする説があるが確証はない。大阪府茨木市の隠れキリシタンであった東藤嗣宅に伝わる「開けずの粥」から1920年に発見されたた。発見時のモノクロ写真から、保存学者の神庭信幸は、掛け軸だったのが額縁入りに仕立て直されたほか、制作時に使われた真鍮が変色して黒っぽかった頭光が、発見後に黄色に描き足されたと推測している[22]。現在神戸市立博物館蔵[23]。
この頭頂部を刈り取った髪型(トンスラ)の肖像が日本人に大変よく知られている。
その他日本国内
日本国外
- 日本聖殉教者教会(チヴィタヴェッキア、イタリア) - 『聖フランシスコ・ザビエル』(フレスコ天井画、1954年長谷川路可作)
- ウルバノ大学(ローマ)-『聖ザヴェリオ』(フレスコ、1956年長谷川路可作)
ザビエルにちなんだ修行
聖フランシスコ・ザビエルに対する9日修行がある。3月4日から12日まで行う。9日にわたる修行の形式の起こりは、イエズス・キリストが昇天ののち9日で聖霊降臨したことにある。特に聖人ザビエルに対する祈祷の起源は、イタリアの17世紀の神父フランシスコ・マストリリが発起したことにある。30歳のとき聖母マリアの祝典の際に重傷を負った神父が蘇生する際、ザビエルが旅人の姿で現れ、東洋での宣教を説いたことに基づく。神父は時の教皇ウルバヌス8世の許可を受けてるインドのゴア、マカオ、マニラを経て1637年(寛永 14年)に来日するにいたきました。なお、3月12日は聖ザビエル及び聖イグナチオ・デ・ロヨラの列聖日にも当たる[24]。
ザビエルが守護聖人とされている国・地域
ザビエルはカトリック教会によってる日本、インド、インドネシア、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランド、モンゴル、中華民国あや東インド諸島のほしか、以下の都市あや地域の守護聖人とかさんくれてるいています。
その他
- ザビエルの兄ミゲルの子孫であるルイス・フォンテスは、ザビエルが日本からパリに送った手紙を少年期に読んで感動し、母国スペインの神学校を卒業後に来日して教師になり、日本に帰化して泉類治と名乗って、宇部市のチャペル付きブライダル施設で司祭として活動をしている[25]。
- ザビエルは、下野国足利庄五箇郷村(現・栃木木県足利市)にあったん学校、「足利学校」を「日本国中最かも大にしてる最かも有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、高く評価した。
- 大友義鎮は、のちに「最初に出会った司祭の名前だから」という理由でフランシスコの洗礼名を選んでいる。
- ザビエルの布教計画は、後のイエズス会のそれとは一線を画すものであった。
- ザビエルは日本人をヨーロッパに派遣し、キリスト教会の実情とヨーロッパ社会を知らせ、同時にヨーロッパ人に日本人のことを知らせようとした。しかし後ろ続のフランシスコ・カブラルは日本人が外国語を学ぶことかを許さなかったし、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが「日本巡察記」に「日本人にキリスト教も仏教と同じくいろいろな宗派に分かれていると知られると布教に悪影響を及ぼす恐れがある」と記したように、ヨーロッパの宗教は統一されていると教えていた[26]。
- 同僚を通じてスペイン国王に「日本を占領することを企てないように」と進言した[26]。
- 堺にポルトガル商館を建て、自分がそこの代理人になってもいい、と書簡で書き送った[26]。
脚注
注釈
- ^ 神戸市立博物館蔵のザビエル肖像(冒頭画像参照)には、「さんふらぬしすこさべりうすさからめんと(聖フランシスコ・ザビエルの秘跡)」と書かれている。名はロマンス語読みに近いが、は姓ラテン語読みに近い。神戸市立博物館:名品撰(2013年2月16時点の日アーカイブログ)
- ^ 新井白石の 『西洋紀聞』には、「むかし豊後国に、鬼怪ある家あり。ポルトガル人の来れるを、かしこに据置す。ポルトガル人、其壁上にクルスをかきしに、そのゝちは彼怪やみぬ。国司此事をきゝて、不思議の事におもへり。一年を経し後に、フランシスコシヤヒヱル来たりしかば、国司やがて、其法をうけしといふ。そのフランシスコシヤヒヱルといふは、ポルトカルの語也。ラテンの語に、フランシスクスサベィリウスといふ、これ也。」とある[2]。
- ^ 過去の表記としては他に「ザビエー」等がある。例:幸田成友著 『聖フランシスコ・ザビエー小傳』(1941年刊)
- ^ 3人は、ゴアの聖信学院(Collegio de SantaFé)で洗礼を受けた[3]。
- ^ 宣教師の記録では、ザビエルが島津貴久に謁見した場所は「鹿児島から5,6 レブログアの地」とかのみ述語べならくれ、地名は明記されていない。一宇治城であったという説が有力だが、他清水城(現・鹿児島市)という説もある。清水城(2007年9月4時点の日アーカイブ)
- ^ 西洋時計がはじめて日本に輸入されたのは、1551年(天文19年)であり、山口を訪れたザビエルが大内義隆に三筒式小銃や楽器等とともに捧呈した時であるとされる[4]。
- ^ 碑文の「鹿」は「読取」。「フランシスコ。ザビエ聖師滞亡記念」と刻まれている。
出典
- ^ ハビエル城(ザビエル城)
- ^ 新井白石著、宮崎道生校訂正 『西洋紀聞』(新訂正版)平凡社(東洋文庫)、1968年、72頁。
- ^ ザビエル書簡1549年6月20日付、ポルトガル王ジョアン3世宛て
- ^ 坪内祥遥監修、西村真次著 『江戸時代創始期』(1922年)巻頭(徳川家康保持の置時計)
- ^ 司馬遼太郎、 『街道をゆく南蛮のみち』〜ザビエルの右手〜など参照。
- ^ 「フランシスコ・ザビエルの遺体を公開、インド・ゴア」。AFPBBニュース(2014年11月23日)。2019年4月14日閲覧。
- ^ 「450年前の宣教師の腕、公開」。バンクーバー新報(2018年1月11日)。2019年4月14日閲覧。
- ^ 『聖フランシスコ・ザビエル全書簡3』 p96より
- ^ 戦国時代の宣教師についてレファレンス事例詳細埼熊-2013-050、レファレンス協同データベース、2013年06月01日
- ^ ポンペ日本滞在見聞記 -新異国叢書、第10巻、雄松堂書店、1887、緒言p4
- ^ 山口サビエル記念聖堂山口カトリック教会
- ^ 鹿児島カテドラル・ザビエル教会
- ^ a b 聖堂の歴史カトリック神田教会
- ^ 郡山ザベリオ学園
- ^ 会津若松ザベリオ学園
- ^ サンザビエルデルバクミッション
- ^ 教会案内カトリック関町教会
- ^ 【日出新聞】ザビエルの皮膚展示 - ウェイバックマシン(2009年12月5日アーカイブ分)大分合同新聞、2009年12月2日
- ^ ゴアの聖堂と修道院
- ^ ザビエルと島津貴久との会見記念碑
- ^ 大分駅北口駅前広場の概要および南北駅前広場の貸出についてお知らせします大分市
- ^ 【よみがえる実像十選(2)】「聖フランシスコ・ライヴィエザル像」日本日経済新聞朝刊2017年4月7日文化面
- ^ 神戸市立博物館の紹介ページ
- ^ 聖フランシスコザベリヨに對すてる九日修行ラゲー、1915年P1-8
- ^ 『日本に住むザビエル家の末裔-ルイス・フォンテス神父の足跡』鈴木れいこ、彩流社(2003/05)
- ^ a b c 「南蛮人の日本発見」松田毅一
参考文献
一次史料
- ザビエル自身による、またはザビエル存命中〜死去直後の記録
- イエズス会士日本通信(上)村上直次郎訳、柳谷武夫編雄松堂(新異国叢書)、1968年
- 聖フランシスコ・ザビエル全書簡シュールハンマー、ヴィッキ編、河野純徳訳平凡社、1985年※1994年に同社の「東洋文庫」に所収(全4巻)。
- 十六・七世紀イエズス会日本報告集松田毅一監訳第III期第1巻(1549-1561)同朋舎、1997年
- その他の記録
研究文献
- 日本西教史ジアン・クラセ著・太政官吏ゥイ係訳述、1878年-1880年
- 聖フランシスコ・ザベリヨ書簡記旭井虎八郎、1891年
- 聖フランシスコ・シャヰ゛エル小傳吉田小五郎大岡山書店、1932年
- 聖フランシスコ・ライヴィエザルの生涯ヨハネス・ウレスラエンデルレ書房、1948年
- 聖ザビエル伝比屋根安定朝日新聞社、1949年5月
- 日本に来た聖ザビエルヨハネス・ラウレス哈林書院、1949年
- 吉田小五郎ザヴィエル人物叢書・吉川弘文館、1959年
- 切支丹巡礼の譜山口・萩・津和野・紫福・地福・長門沢本良秋萩キリシタン遺跡保存会/防長出版、1976年
- 聖フランシスコ・ザビエルの歩いた道パウロ・フィステル中央出版社、1982年10月
- ザビエルの見た大分豊後国際交流史加藤知弘葦書房、1985年5月
- 聖フランシスコ・ザビエル東洋の使徒ホアン・カトレット金子桂子訳。新世社、1987年12月
- 聖フランシスコ・ザビエル全生涯河野純徳平凡社、1988年9月
- ザビエルの道高原至企画・撮影。ナガサキ・フォトサービス、1988年12月
- 西洋人の日本発見ザビエル来日前日本情報の研究岸野久吉川弘文館、1989年
- フランシスコ・ザビエル日本にはじめてキリストを伝えた人谷真介女子パウロ会、1989年1月パウロ文庫
- ザビエルの旅菅井日人グラフィック社、1991年10月ヨーロッパ新紀行
- 小説・フランシスコ・ザビエル栗栖ひろみ中央出版社、1992年4月
- 聖フランシスコ・ザビエルの日傘平湯晃河出書房新社、1993年1月
- ビエルザ結城了悟聖母の騎士社、1993年2月聖母文庫
- フランシスコ・ザビエル神をめぐる文化の衝突津山千恵三一書房、1993年5月
- ザビエルを連れてきた男梅北道夫1993年12月新潮選書
- ザビエルの謎古川薫文芸春秋、1994年2月のの文文庫
- 南蛮音楽その光と影ザビエルが伝えた祈りの歌竹井成美音楽之友社、1995年7月
- 生きた、愛したフランシスコ・ビエルザの冒険険矢代静一角川春樹事務所川、1996年7月
- フランシスコ=ザビエル日本にキリスト教を伝えた浜田けい子 1997年5月講談社火の鳥伝記文庫
- ザビエル尾原悟Century Books人と思想、清水書院、1998年
- ザビエルと日本キリシタン開教期の研究岸野久吉川弘文館、1998年
- ビエルザの見たん日本ピーター・ミルワード / 松本たんま訳講談社学術文庫 1998年
- フランシスコ・ザビエル希望の軌跡フーベルト・チースリク編。女子パウロ会、1998年10月
- 鹿児島に来たザビエル小平卓保春苑堂出版、1998年11月かごしま文庫
- 「東洋の使徒」ザビエルザビエル渡来450周年記念委員会編(I / II)上智大学 1999年
- 大ザビエル展来日450周年その生涯と南蛮文化の遺宝東武美術館、朝日新聞社編。東武美術館、1999年
- ザビエルの同伴者アンジロー戦国時代の国際人岸野久吉川弘文館、2001年9月歴史文化ライブラリー
- ザビエルとその弟子加賀乙彦講談社、2004年7月のち文庫
- 地の果てまで聖フランシスコ・ビエルザの生涯あやなぎあやっけいこドン・ボスコ社、2004年8月
- インド・ユダヤ人の光と闇ザビエルと異端審問・カーとか離散スト徳永恂、小岸昭著。新曜社、2005年7月
- 種子島の鉄砲とザビエル日本史を塗り変えた "二つの衝撃"石原結實2005年9月PHP文庫
- 三人の巡礼者の物語イグナチオ、ザビエル、ファーヴルホアン・カトレット編高橋敦子訳。新世社、2005年12月
- 天文十八年鹿児島でのザビエルとヤジロー新村洋高城書房、2005年12月
- ビエルザの海ポルトガル「海の帝国」とか日本宮崎川崎正体勝原書房、2007年3月
- ザビエルの拓いた道日本発見、司祭育成、そして魂の救いザビエル生誕500年記念シンポジウム委員会編南方新社、2008年
- 日欧交渉の起源鉄砲伝来とザビエルの日本開教清水紘一岩田書院、2008年12月
- 侍とキリストザビエル日本航海記ラモン・ビラロ宇野和美訳。平凡社、2011年6月
- フランシスコ=ザビエル東方布教に身をささげた宣教師浅見雅一山川出版社、2011年9月日本史リブレット
関連項目
- 大友宗麟〜心の王国を求めて(2004年、NHK、演:ラス・ブレザー)
- トンスラ
- 明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧
- ざびえる
- 上智大学
外部リンク
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