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カルフーンの研究は社会崩壊の動物モデルとして使われるようになり、彼の研究は都市社会学と心理学全般の試金石となった.

行動シンク  

フリー百科事典ウィキペディアより

行動シンク」とは、動物行動学者の ジョン・B・カルフーンが発明した用語で、過密状態から生じる可能性のある行動の崩壊を表していますこの用語と概念は、カルフーンが 1958 年から 1962 年の間にノルウェーのネズミに対して実施した一連の過剰個体実験に由来します。 [1] 実験では、カルフーンと彼の研究者は一連の「ラット ユートピア」を作成しました。食糧と水への無制限のアクセスにより、自由な人口増加が可能になります。Calhoun は、1962 年 2 月 1 日のレポートで、 Scientific Americanのラット実験に関する「人口密度と社会病理学」というタイトルの記事で「行動シンク」という用語を作り出しました[2] 。[3]彼は後に、1968 年から 1972 年にかけて マウスで 同様の実験を行った

カルフーンの研究は社会崩壊の動物モデルとして使われるようになりの研究は都市社会学心理学全般の試金石となった. [4]    

 

実験 

1962 年の研究で、Calhoun はこの行動を次のように説明しました。

多くの[メスのラット]は、妊娠を満期まで続けることができなかったか、妊娠したとしても同腹児を出産することができませんでした. 出産に成功した後、母性機能が十分に発揮されなかった人はさらに多くなりました。男性の行動障害は、性的逸脱から共食い、熱狂的な過活動から、コミュニティの他のメンバーが眠っているときにだけ食べたり飲んだり動き回ったりする病的な引きこもりにまで及びました。動物の社会的組織は、同様の混乱を示しました。...

これらの障害の共通の原因は、最初の一連の 3 つの実験の母集団で最も劇的に明らかになりました。この実験では、行動シンクと呼ばれるものの発達が観察されました。動物は、コロニーが維持されていた4つの相互接続ペンの1つに最大数で群がっていました。各実験集団の 80 匹のラットのうち 60 匹ほどが、摂食期間中に 1 つの囲いに集まります。個々のラットは、他のラットと一緒にいる場合を除いて、めったに食べません。その結果、食用に採用されたペンで極度の個体数密度が発生し、他の個体群はまばらになりました。

...行動シンクが発達した実験では、人口の中で最も混乱したグループの乳児死亡率は96%にも達しました。[5]

ネズミを使ったカルフーンの初期の実験は、1947 年からメリーランド州ロックビルの農地で行われました。 [6]

カルフーンは 1954 年に国立精神衛生研究所(NIMH) で働いていましたが、ラットとマウスを使った数多くの実験を開始しました。最初のテストでは、モンゴメリー郡の納屋にある 3.0 m × 4.3 m (10 x 14 フィート) のケースに約 32 匹から 56 匹のネズミを入れました。彼はその空間を 4 つの部屋に分けた. すべての部屋は、十数匹の成熟したドブネズミをサポートするために特別に作られました。ネズミはスロープを使って部屋の間を行き来することができました。カルフーンは、水、食物、捕食者や病気や天候からの保護などの無制限の資源を提供したため、ネズミは「ネズミのユートピア」または「ネズミの楽園」にいると言われていました. [7]

ラットを使った以前の実験に続いて、カルフーンは 1968 年に「マウスの死亡率を抑制する環境」を作成しました。101 x 101 インチ (260 cm × 260 cm) のマウス用ケージで、マウスの増加をサポートするために餌と水を補充しました。 [ 8]彼の実験的アプローチを限界まで行った。彼のシリーズで最も有名な実験「Universe 25」では、マウスの数は 2,200 匹でピークに達し、その後、求愛の拒否、メスの子離れ、同性愛など、さまざまな異常な、しばしば破壊的な行動を示しました。600日目までに、人口は絶滅に向かっていました。物理的に繁殖することはできたものの、マウスは交尾に必要な社会的スキルを失っていました。[6]

1962 年のサイエンティフィック アメリカンの記事は、人口過剰が大きな社会的関心の対象となり、かなりの文化的影響力を持っていた時期に掲載されました。[9]

カルフーンは、彼の作品の多くを擬人化された言葉で表現し、彼の考えを一般の聴衆が非常に理解しやすいものにしました。[6]

カルフーンは 1984 年に NIMH を退職したが、1995 年 9 月 7 日に亡くなるまで研究を続けた[10]。

 

説明 

「行動シンク」という用語が指すラットの特定の自発的な混雑は、以前の不随意的な混雑の結果であると考えられています。個々のラットは、食事をしているときに他のラットの近くにいることに非常に慣れ、摂食を他のラットの仲間と関連付け始めました。 . カルフーンは最終的に、いくつかの設定を変更することでこれを防ぐ方法を見つけ、それによって死亡率をいくらか減らしましたが、過密状態の全体的な病理学的影響は残っていました. [11]

 

ヒトへの適用性 

カルフーン自身は、ネズミの個体群の運命を人類の潜在的な運命の比喩と見なしていました。彼は社会の崩壊を「精神的な死」と特徴付け[8] 、聖書の節の黙示録 2:11で言及されている「第二の死」としての身体の死に言及している[8] [8]

実験の意味については論争があります。心理学者のジョナサン・フリードマンの実験では、行動に対する密度の影響を測定する一連の実験を実施するために高校生と大学生を募集しました。彼は彼らのストレス、不快感、攻撃性、競争力、および一般的な不快感を測定しました。彼は 1975 年に明らかな悪影響を発見しなかったと宣言した。 研究者は、「カルフーンの研究は、単位面積あたりの個体数などの物理的な意味での密度に関するものではなく、社会的相互作用の程度に関するものであった」と主張しました。[12]

 

こちらもご覧ください 

参考文献 

  1. ^ ホール、エドワード、T. (1966). 隠された次元: 人類学者が公共および私的空間における人間の空間の使用を調査します。アンカーブック。p。25.ASIN B0006BNQW2。
  2. ^ 「人口密度と社会病理学」 (PDF) . サイエンティフィック アメリカン2019-11-21 のオリジナルからアーカイブ (PDF) 2015 年12 月14 日閲覧
  3. ^ カルフーン、ジョン B. (1962)。「人口密度と社会病理学」. サイエンティフィック アメリカン206 (3): 139–148. doi : 10.1038/scientificamerican0262-139 (2022 年 7 月 31 日に非アクティブ)。PMID  13875732
  4. ^ ホック、ロジャー R. (2004)。心理学を変えた40の研究:心理学研究の歴史への探求(第5版)。プレンティス・ホール。ISBN 978-0-13-114729-4.
  5. ^ Calhoun、JB(1970)。「人口密度と社会病理学」 . カリフォルニア医学113 (5): 54。PMC 1501789 PMID 18730425    
  6. c 「行動シンク」 . キャビネットマガジン。2011 年夏。2020 年 2 月 15 日に元の場所からアーカイブされました2012 年8 月24 日閲覧
  7. ^ Medical Historian Examines NIMH Experiments in Crowding Archived 2013-03-27 at the Wayback Machine , nih record, 2013-10-13.
  8. c Calhoun、JB(1973)。「死の二乗: マウス個体群の爆発的な増加と終焉」 . 王立医学会の議事録66 (1 ポイント 2): 80–88. ドイ10.1177/00359157730661P202PMC  1644264 . PMID  4734760
  9. ^ ラムズデン、エドマンド。アダムス、ジョン (2009)。「研究所からの脱出: ジョン・B・カルフーンの齧歯類実験とその文化的影響」 (PDF) . 社会史ジャーナル42 (3): 761–797. ドイ10.1353/jsh/42.3.761 . 2019-11-21 のオリジナルからアーカイブ (PDF) 2019年8月12日閲覧
  10. ^ NLM は、2013 年 10 月 13日、米国国立医学図書館のウェイバック マシンで2018年 9 月 11 日にアーカイブされたJohn B. Calhoun の論文の公開を発表します。  
  11. ^ Ramsden、Edmund、Jon Adams2009. 研究所からの脱出: ジョン B. カルフーンのげっ歯類実験とその文化的影響、p.22。[1] 2021 年 3 月 28 日、 Wayback Machineでアーカイブ
  12. ^ ガーネット、カーラ. (2008)。「行動シンク」を配管し、医学史家が混雑した NIMH 実験を調べます。 Wayback Machineで 2020NIH レコード。2013 年 7 月 7 日閲覧。

 

古くから、日本各地に五穀の収穫を祝う風習があった[注釈 1]。また、宮中祭祀の中で最も重要な祭事として古代から行われてきた。

新嘗祭  

 

伊勢神宮 内宮・別宮倭姫宮の大御饌
1990年平成2年)、平成の大嘗祭
宮中祭祀の主要祭儀一覧
四方拝歳旦祭
元始祭
奏事始
昭和天皇祭(先帝祭
孝明天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
祈年祭
天長祭天長節祭)
春季皇霊祭・春季神殿祭
神武天皇祭皇霊殿御神楽
香淳皇后例祭(先后の例祭)
節折大祓
明治天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
秋季皇霊祭・秋季神殿祭
神嘗祭
新嘗祭
賢所御神楽
大正天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
節折・大祓

新嘗祭(にいなめさい、にいなめのまつり、しんじょうさい)は、宮中祭祀のひとつ。大祭。また、祝祭日の一つ。

新嘗祭は、天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇(てんじんちぎ)に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式である[1]。毎年11月23日宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる[2]。同日には全国の神社でも行われる。

なお、天皇即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を、特に大嘗祭(だいじょうさい、おおにえまつり、おおなめまつり)という。

 

歴史 

古くから、日本各地に五穀の収穫を祝う風習があった[注釈 1]。また、宮中祭祀の中で最も重要な祭事として古代から行われてきた。

記紀神話に「大嘗」(『古事記』)或いは「新嘗」(『日本書紀』)の記述がある[注釈 2]

新嘗に関する記録の中で最初のものは、『日本書紀神武天皇即位前紀の次の記述である。

乃ち丹生にふの川上五百箇いほつさか抜取ねこじにして、諸神もろかみたちいはひたまふ。此より始めていつおきものあり。時に道臣命みちのおみのみことみことのりすらく、「今たかむすのみことを以て朕みずか顕斎うつしいはひさむ。なんじもちひ斎主いはひのうしとして、授くるに厳媛いつひめを以てせむ。其の置けるはになづけていつとす。又、火の名をばいつのつちとす。水の名をばいつの罔象女みつはのめとす。おしものの名をばいつの稲魂女うかのめとす[注釈 3]たきぎの名をばいつの山雷やまつちとす。草の名をばいつのづちとす」とのたまふ。冬十月の癸巳ついたち天皇いつおしものにひなへしたまひて[注釈 4]、兵をととのへて出でたまふ。先づ八十やそ梟帥たけるくにみのおかに撃ちて、やぶりつ。[注釈 5]——日本書紀』巻第三 神日本磐余彦天皇

"新嘗"の語を用いた記録の中で最も古いもの[注釈 6] は『日本書紀仁徳天皇40年条に

とし新嘗の月にあたりて、宴会とよのあかりの日を以て、おほみき內外命婦ひめとねたちたまふ。——日本書紀』巻第十一 大鷦鷯天皇

とある。これらの記述が史実をどの程度反映しているのかは明らかではないが、新嘗祭の儀式の中に弥生時代に起源を持つと考えられるものがあるため、その原型は弥生時代に遡るという説もある[5]

その後、律令により国家祭祀としての体裁を整えていった[注釈 7]。また、皇位継承儀礼に組み込まれ(大嘗祭を参照)、伊勢神宮の神事の形式を取り入れながら、宮中祭祀として続いてきた[6]

後花園天皇寛正4年(1463年)に行われて以降、応仁の乱や朝廷の窮乏により長らく中断していたが、東山天皇元禄元年(1688年)に霊元上皇の強い意向により「新嘗御祈」という形で略式に再興(この前年の貞享4年(1687年) に大嘗祭も再興)している。ただし祭場となる神嘉殿がないため、紫宸殿を代わりの場として用いた。ついで桜町天皇元文5年(1740年)に元の形に復興し、光格天皇寛政3年(1791年)には内裏の造営に伴って神嘉殿が再建された。その年以来、現在に至るまで毎年続けられている[7]

明治5年(1872年)から、新嘗祭に合わせて神宮(伊勢神宮)に勅使が遣わされるようになった。

明治41年1908年9月19日制定の「皇室祭祀令」では大祭に指定。同法令は昭和22年(1947年5月2日に廃止されたが、以降もこれに則って新嘗祭が行われている。

平成25年(2013年12月23日宮内庁は当時の天皇誕生日上皇明仁80歳誕生日)に際して初めて新嘗祭の様子の一部を映像で公開した[8]

新嘗祭まで新米を口にしない風習が古代からあったが、第二次世界大戦後に衰退した[9]

 

祭日 

明治6年の改暦より以前は太陽太陰暦旧暦)の11月の二のの日(卯の日が2回しかない場合は下卯、3回ある場合は中卯とも呼ばれる、旧暦11月13日~24日のいづれかが該当する)に行われていた[注釈 8][注釈 9]改暦の年である明治6年(1873年)に、旧暦で実施すると翌年1月になってしまうため、グレゴリオ暦新暦)を採用することとなり、同年11月の二の卯の日にあたる11月23日に行われた。11月の二の卯の日は11月13日から11月24日の間で毎年変動するが、翌年以降も毎年11月23日に行われ、今日に至っている[1][注釈 10]

また、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、明治6年1873年)から昭和22年(1947年)まで同名の祭日休日)であった。昭和23年(1948年)公布の国民の祝日に関する法律祝日法、昭和23年法律第178号)[注釈 11]により、勤労感謝の日と改称されて国民の祝日となっている(詳細は「勤労感謝の日」を参照[2][10]

なお、固定日の休日の中で最も長く続いている休日である[注釈 12]

 

意義 

新嘗祭の意義については、「天皇が新穀を神祇に供進し、収穫を感謝する」ことが本義であるという説、「天皇が大嘗を食す」ことが本義であるという説、「天皇が神前で新穀を食すことにより天照大神の霊威を身に受けて、それを更新すること」が本義であるという説などがある。

職員令』内に「大嘗」[注釈 13] の注釈として、

謂う、新穀を嘗して以て神祇を祭るなり。朝は諸神の相嘗祭、夕は新穀を至尊に供するなり。

とある。また、『宮主秘事口伝』[注釈 14] には、

大嘗会者、神膳之供進第一之大事也。秘事也。

とある。そのため、一般には「天皇が新穀を神祇に供進する、収穫感謝の祭り」と解釈されることが多い[11]

しかし、『延喜式』にみえる大嘗祭[注釈 13] の祝詞には

十一月しもつきなかのうのあま御食みけとほ御食みけすめ御孫みまのみこと大嘗おほにへ聞食きこしめさむためのゆゑ皇神等すめがみたちあひ宇豆うづ乃比のひ[注釈 15]たてまつり

とあり、皇御孫命(天皇)が大嘗を聞こしめす(食する)ことが新嘗祭の目的であることを鈴木重胤本居宣長が指摘している[12]

また、大嘗祭に際して発せられる「中臣寿詞」の中では、

高天の原に神留ります皇親神ろぎ神ろみ命もちて八百万神等を神集へたまひて、皇孫の尊は高天の原に事始めて、豊葦原の瑞穂の国を安国と平けく知ろしめして、天つ日嗣の天つ高御座に御坐しまして、天つ御膳の長御膳の遠御膳と、千秋の五百秋に、瑞穂を平けく安らけく、斎庭に知ろしめせと、事依さしまつりて、天降しましし後に…

とあり、にわの稲穂[注釈 16] をもって瑞穂の国を実現することの重要性、その祈りを込めて、それをきこしめす(食する)ことの意義を述べている[13][注釈 17]

また一説には、太陽の光を受けて成長した稲穂には皇祖神、太陽神であるところの天照大神の霊威がこもっており、ニニギノミコトの子孫である天皇(皇孫の尊)が米を食すことにより、天照大神の霊威を身に移し(大嘗祭)、それを年々更新することが新嘗祭の意義である[14]と考える説もある。この説の根拠としては、本来新嘗祭が挙行されていた旧暦11月の2回目の卯の日は太陽の力(天照大神の霊威)が最も弱まる(死と再生を意味する)冬至に近く、さらに卯の日は陰陽五行思想に従うと再生・更新を意味する日である。また、新嘗祭が行われる亥刻(午後10時)は、もっとも太陽の衰えた時刻であり、その陰極まった果てに忌み籠って夕御饌を食して日神の霊威を身に体し、子刻には一旦退出するが、暁の寅刻(午前4時)に再び神嘉殿に入り朝御饌を食し、復活した太陽=日神とともに、天皇としての霊性を更新し、若々しい日の御子、日継の御子として顕現すると解釈される[14]

 

語源 

「新嘗」(にいなめ)の語源については、諸説ある。 古語では「ニフナミ」「ニヒナメ」「ニヒナヘ」「ニヒナヒ」「ニハナミ」「ニハナヒ」「ニヘナミ」など、さまざまな呼ばれ方をしていた[15]

「ニヒノアヘ」「ニヒアヘ」の約語という説

本居宣長は『古事記伝』において、「ニヒナヘ」は「ニヒノアヘ」(=「にひあへ」)の約語で、「ニヘ」は「ニヒアヘ」(=「新饗にひあへ」)の約言である、と唱え、この説が長らく主流であった[16]

「ニヒ」(「贄(ニヘ)」の派生語)+「ナフ」(補助動詞)の名詞形という説

西宮一民は本居説に対して、「ニヒナヘ」=「新之饗」で「ニヘ」と等しく、「ニヘ」が「ニヒアヘ」(=「新饗」)の約語ならば、「之」の有無で「ニヒナヘ」と「ニヘ」という二つの語形が生じたことになるが、「ニヒアへ」の約は「ニハヘ」であり「ニハヘ」は「ニヘ」とはなりえない、と論じた。その上で、古典の中から

より、「ニヒナヘ」「ニヘ」は同じ意に用いられていることがわかる。これらは全て「贄」(にへ)に派生する単語であり、「ナフ」という派生語尾[注釈 18] がつくことによって「ニハナヒ」(四段活用動詞「ニハナフ」《「神や天皇に供薦する」の意》の連用形)、「ニヒナヘ」(下二段活用動詞「ニヒナフ」《「神や天皇がその供薦を受ける」の意》の連用形)の区別がついた、と論じた[17]

さらに、古代中国では稲の祭りを「嘗祭」といったことから、これを当て字にして「嘗」(ニヒナヘ)となったとされる。やがて、「新穀=初もの」という連想から「新」の字が冠せられ、さらに「嘗」の訓読みである「ナメ」に引きずられて「ニヒナ」(新穀を嘗める[注釈 19])に転じた[18]

「ニヒ」(「贄(ニヘ)」の派生語)」+「ナミ」(「の忌み」の約語)という説

折口信夫は、「ニハナヒ」「ニフナミ」「ニヒナメ」「ニヘナミ」の四つの語の「ニヘ」「ニハ」「ニフ」は、「贄」と同語根としている。さらに、新嘗祭を「五穀が成熟した後の、贄として神に奉る時の、物忌み・精進の生活である」として、「の忌み」が短縮されて「ナミ」となったとしている[19]

「ニフ」(産屋を意味する)+「ナミ」(「の忌み」の約語)という説

工藤隆は、一漢字一ヤマト語表記で読みを伝えているのは『日本書紀』「雄略天皇紀」の「爾比那閉ニヒナヘ」と『万葉集』巻14「東歌」の「爾布奈未ニフナミ」だけであることを挙げ、中央の「ニヒナヘ」よりも東方の「ニフナミ」の方が古形を伝えている可能性がある、とした[20]。その上で、「中部以東の日本の広い地域で『稲積』を『ニホ・ニュウ』に近い名称で呼んでいる」「ニフ・ニュウなどが産屋を意味する」[21] ことや、マレー半島の収穫儀礼において「稲魂の誕生」が人間の出産になぞらえられている[22] ことを踏まえて、「ニフ(産屋)の忌み」が「ニフナミ」に変化したという説を述べた[23]

 

祭具・祭服  

祭具

神嘉殿の殿内に神座、寝座、御座(天皇の座)が設けられる。これは、新嘗祭当日の午後に掌典長以下が奉仕して用意するものである。

  • 神座…黄端の短畳(たんじょう)。
  • 御座…白端の半畳。
  • 寝座…薄帖(薄い畳)を何枚も重ね敷き、南に坂枕を置き、羽二重袷(はぶたえあわせ)仕立ての御衾(おふすま)が掛けられる。この御衾は、天孫降臨時にニニギノミコトが真床追衾(まとこおふすま)にくるまれていた故事によるものである。その端には女儀用の櫛、檜扇(ひおうぎ)、沓(くつ)などが置かれる。古くは寝座を「第一の神座」と称した。

神座と御座は相対して伊勢神宮の方向(現在は南東。東京奠都以前は南西方向であった)を向いており、寝座は神座・御座の東、殿内のほぼ中央に南北に敷かれる[24]

祭服

御祭服は、大嘗祭の悠紀殿の儀、主基殿の儀、および新嘗祭の時にのみ天皇が着る。天皇の着る神事の服の中で最も清浄かつ神聖な服装で、純白生織りのままの絹地で製作される。

冠は幘(さく)の冠で、白平絹で巾子に纓を結びつけている。また袍は御斎衣といわれ、普通の仕立と異なり、雨覆(あまおおい)という裂が襴の上にあり、襴は入襴になっていて、ありさきはない[9]

 

神饌  

神饌として、以下のものが供される。

  • 稲作物…米の蒸し御飯、米の御粥、粟の御飯、粟の御粥、新米から醸した白酒しろき黒酒くろき
  • 鮮魚…鯛、烏賊、鮑、鮭を甘塩にして三枚に卸し、背の部分を小さい短冊形に切り、一品ずつ四筥に納める。
  • 干物…干鯛、鰹、蒸鮑、干鱈で、筥に納める。
  • 果物…干柿、かち栗、生栗干、で、筥に納める。
  • 他には蛤の煮付け、海藻の煮付け、鮑の羹、海松みるの羹がある。
ここで用いられる「筥」は、葛を編んだものである。
調理用の火は、鑚火きりび忌火を用いる(「忌」とは、この上なく清浄という意味)。
これらを盛る容器は、御酒や汁物には土器が用いられるが、他は窪手、枚手ひらてで、いずれも柏の葉に竹のひごを刺して作られたものである。窪手は筥型で盛り付け用、枚手は丸い皿型で取り分け用で、窪手の中の神饌を枚手に取り分けて神前に供える。これは食薦すごもの上に並べて供える[25]
神饌はそれ自体が神として扱われており、奉持して運ぶことを「神饌行立(行立)」という[注釈 20]掌典が階下に控えて警蹕を唱える[注釈 21][26]
 

式次第 

鎮魂祭

まず、新嘗祭の前日に綾綺殿で鎮魂祭が行われる。鎮魂祭には新嘗祭に臨む天皇の霊を強化するという意義があるとされる。神楽の奉納が行われる。

新嘗祭 賢所皇霊殿・神殿の儀

新嘗祭当日、14時に宮中三殿で「新嘗祭賢所皇霊殿神殿の儀」が行われる。この儀式では、天皇に代わり掌典職宮中三殿に神饌と幣帛を捧げ、代拝を行う[7]。また、午後に掌典長以下が神嘉殿内の母屋神座、寝座、御座の奉安を行う。

神嘉殿の儀

夜、「神嘉殿の儀」が行われる。まず、侍従が剣璽を、東宮侍従壺切御剣を奉安する。次いで、皇太子が斎戒沐浴し、東宮便殿で祭服に着替え、天皇より先に神嘉殿に入り、御座につく。次いで、天皇も斎戒沐浴の後に綾綺殿で白の御祭服を着用し、松明の明かりが照らす中を神嘉殿に渡御する。この時、楽師により神楽歌が奏でられる。

次に、神饌行立が行われる。天皇は神嘉殿内の母屋で神座の前の御座に正座し、神饌が用意されると、御手水の後、古来のやり方に則りピンセット型の竹箸で柏の葉の皿に神饌を移し、神前に供える(しん)。親供が終わると、自ら天照大神および天神地祇の諸神に告文つげぶみを奏上する。この時、皇太子は座を立ち、南庇の間の中央の座(母屋御扉口の拝座)につき、拝礼する。帳舎の参列者は起立する。続いて帳舎の参列者が正面階下で拝礼する。その後天皇が、神前に供えたものと同じもの(詳細は神饌の節を参照)を食す(直会おんなおらい[注釈 22]。それが終わると、陪膳采女の奉仕で神饌が下げられ、天皇は御手水の後、綾綺殿に還御する[9]

この後、天皇は綾綺殿で再び斎戒沐浴、更衣、神嘉殿へ渡御し、全く同じ所作を再び行う。この2度の所作をそれぞれ「夕御饌の儀」「朝御饌の儀」と呼んでおり、旧例ではそれぞれ亥刻から子刻(22時から0時)および寅刻から卯刻(4時から6時)、現在は18時から20時および23時から1時に行われている[28]

豊明節会

奈良時代頃から平安時代にかけては、新嘗祭の翌日に豊明節会が行われていた。

伊勢神宮の供儀

新嘗祭当日には神宮(伊勢神宮)でも外宮と内宮で神饌を供える(「新嘗祭大御饌の儀」)。また、神宮に勅使を遣わし(16日に皇居で「神宮勅使発遣の儀」を行う)、外宮、内宮の順に幣帛と五穀を供える(「新嘗祭奉幣の儀」)。神宮では両宮に引き続き、7日間かけて関連するすべての宮社で新嘗祭の一連の儀式を行う[29]

 

古伝新嘗祭 

出雲大社では同じ日の夜にでんしんじょうさいが斎行される。祭典に用いられるすべての食事が熊野大社から鑽り出された神聖な火で調理され、釜社の神釜を安置し、神職が「オジャレマウ(=お出でませ)」と唱えると出雲国造が参進する。神職海獣の皮の上に神火調理の新穀玄米の強飯、ひとよ酒を置く。国造はこの供物を四方に献じ、相嘗する。その後、「歯固め神事」「百番の舞」「釜の神事」「神おろし」「御饌井祭」などの重儀が行われる[30]

 

脚注 

注釈 

  1. ^ 万葉集東歌に「誰れぞこの屋の戸押(お)そぶる新嘗(にふなみ)に我が背を遣りて斎(いは)ふこの戸を」(巻14-3460)という歌が見える。
  2. ^ 古事記』上巻、『日本書紀』神代第七段本文、神代第九段本文、神代第九段第三の一書
  3. ^ 工藤隆は、日本列島の民俗儀礼において稲魂には女性性や生殖性の観念が付随していたとして、その具体的な事例として奥能登(石川県北部)のアエノコトという風習を例に挙げている。工藤隆『大嘗祭天皇制と日本文化の源流』p.112
  4. ^ 「嘗」は「にひなへする」以外に「たてまつる」「なむ」と訓読することもできる。
  5. ^ 肥後和男は、この物語は新嘗の歴史にとってきわめて重要な伝承で、清浄にして神聖な材料を供物に用いることや、旧暦の十月一日が新穀のできる時期であることから新嘗にふさわしい時期であることなど、古代における新嘗祭のやりかたを伝えている、と述べた[3]。また、真弓常忠はこの記述について「少なくとも大嘗祭の原像を伺う資とすることができる」と述べ、また、ここでは天照大神の御名は見えず、天皇高皇産霊尊を祀っていることを指摘し、天照大神という人格神が形成される以前の段階を現わしているという説を述べている[4]
  6. ^ 神代(記紀神話)を除く。
  7. ^ 飛鳥浄御原令あるいは大宝律令において明文化されたと考えられている。
  8. ^ 養老令』(757年)の「神祇令」仲冬条には「上卯(かみのう)に相嘗祭(あいんべのまつり)、寅日に鎮魂祭、下卯(しものう)に大嘗祭(おおんべのまつり)」とある。また、それ以前の記録では『日本書紀』に、新嘗祭舒明天皇11年(639年)「乙」の日に、皇極天皇元年(642年)「丁」の日にそれぞれ行ったことが書かれている。これらの記事は新嘗祭を「卯」の日に行うという慣例が、律令以前にすでに出来上がっていたことを示すものであると考えられる。工藤pp.129-130
  9. ^ 真弓常忠は「陰暦十一月の二の卯の日は冬至の前後にあたり、持統天皇大嘗祭冬至であったことによって判るように、元来は冬至の日に行うのが本旨であろう」と推測している。
  10. ^ 新嘗祭明治6年以降新暦を採用し続けているが、同時に一旦は新暦を採用した神嘗祭が、イネの生育の問題から明治12年1879年)以降は月遅れを採用して新暦10月17日に行われるようになったため、神嘗祭新嘗祭の間隔は約1ヶ月縮まっている。
  11. ^ 昭和23年(1948年)7月20日公布。
  12. ^ ただし改暦以降も、大嘗祭は(新暦)11月の二回目の卯の日に行われたために、大正・昭和の大嘗祭が行われた大正4年(1915年)と昭和3年(1928年)は11月23日は休日とはならなかった。
  13. a b 『神祇令』(701年)には「大嘗は、世毎に一年、国司事を行え。以外は年毎に所司事を行え」とあるので、『神祇令』の段階では即位の時の大嘗祭と年中行事としての新嘗祭を、どちらも大嘗祭と呼んでいたことがわかる。工藤p.43
  14. ^ 14世紀後半に成立。
  15. ^ 珍なふ(うずなう)は(神が)承諾する、の意味。
  16. ^ 稲作の起源について、記紀神話においては、ニニギノミコトが天上界から地上に降りる(天孫降臨)に際し、天照大神がこれに稲穂を授けたことを起源とする(斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅)。
  17. ^ 宮中祭祀に近侍した星野輝興掌典は「新嘗祭における神々への御礼は、奉幣を以て行われてあるのでありますから、新嘗祭即ち宮中神嘉殿に於ける新嘗祭は、御礼を主としたものでは無いということができると存じます」「陛下の召上り給う時の御模様は、(中略)皇孫御降臨の節、皇祖よりお授けになった斎庭の稲穂をお受け遊ばすものと解し奉る外ないように拝されます」と述べている。星野輝興『日本の祭祀』国書刊行会、1987年
  18. ^ 現代語に残存するところでは「オコナフ」(行う)・「アキナフ」(商う)・「ウベナフ」(諾う)の「ナフ」であり、これを語尾につけて「贄」を動詞化したもの。
  19. ^ ここでの「嘗める」は、「試みる」の意。
  20. ^ 「行立」は生きつつ立ち、立ちつつ行くの意。
  21. ^ 神霊の動座に際し、「オーシー」と唱えること。
  22. ^ 宮中祭祀に近侍した星野輝興掌典によると「陛下が新穀を聞食されるに当たって、(中略)いよいよ召上がるに当り、サバ(散飯)をサバの神へ奉られる」といい、「サバ」は、散飯、生飯、左波、三把、最把、最花などと表記するが、もとは梵語である。インドでは餓鬼に中国では鬼神に施すためとされた。わが国でもむかしから陛下も散飯(サバ)をとられることが『侍中要群』『江家次第』『禁秘御抄』『建武年中行事』等にも散見できる」[27] という。

出典 

  1. a b 真弓, p. 40.
  2. a b 西角井正慶 編 『年中行事事典』東京堂出版、1958年5月23日、584頁。
  3. ^ 肥後和男『新嘗の研究』第二輯 吉川弘文館、1955年、p.12~13。
  4. ^ 真弓, p. 144.
  5. ^ 工藤隆『大嘗祭天皇制と日本文化の源流』p.47,p.104
  6. ^ 工藤隆『大嘗祭天皇制と日本文化の源流』p.17
  7. a b 入江相政『宮中歳時記』
  8. ^ “知っておきたい「新嘗祭」貴重映像で解説”日テレNEWS24. 日本テレビ放送網. (2017年11月22日) 2019年12月9日閲覧。
  9. a b c 『神社のいろは』扶桑社
  10. ^ 国民の祝日に関する法律
  11. ^ 真弓, pp. 52–53.
  12. ^ 真弓, pp. 53–54.
  13. ^ 真弓, pp. 57–59.
  14. a b 真弓, p. 60.
  15. ^ 工藤隆『大嘗祭天皇制と日本文化の源流』p.8
  16. ^ 真弓, pp. 45.
  17. ^ 真弓, pp. 45–47.
  18. ^ 真弓, pp. 47.
  19. ^ 折口信夫大嘗祭の本義』
  20. ^ 工藤隆『大嘗祭天皇制と日本文化の源流』p.206
  21. ^ 柳田国男『稲の産屋』、1953年
  22. ^ 三品彰英『古代祭政と穀霊信仰』、1973年
  23. ^ 工藤隆『大嘗祭天皇制と日本文化の源流』p.204
  24. ^ 真弓, pp. 49–50.
  25. ^ 真弓, p. 50.
  26. ^ 真弓, pp. 50–51.
  27. ^ 星野輝興『日本の祭祀』国書刊行会、1987年
  28. ^ 真弓, p. 52.
  29. ^ http://www.isejingu.or.jp/sp/topics/03tl4gk2.html [リンク切れ]
  30. ^ 出雲大社教教務本庁『出雲大社教布教師養成講習会』1989年9月全427頁中328頁
 

参考文献 

 

関連項目 

 

外部リンク 

 

 

ここで言う悪とは、「(人間は様々な意味で)弱い存在」という程度の意味であり、「悪=罪(犯罪あるいは悪事)」という意味では無い(「弱い存在」である人間が、犯罪や悪事に手を染めずに一生を終える、という事もありうる)。また、偽とは、「人の為す行い」という程度の意味であり、「偽=嘘あるいは偽物」という意味ではない(後述のように、後天的な努力や習得によって初めて獲得する性格のものと捉えている)。

性悪説  

 

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?"性悪説" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年3月)

性悪説(せいあくせつ)とは、紀元前3世紀ごろの中国思想家荀子が、孟子性善説に反対して唱えた人間の本性に対する主張。「人の性はなり、その善なるものは偽(ぎ)なり」(『荀子』性悪篇より)から来ている。

ここで言う悪とは、「(人間は様々な意味で)弱い存在」という程度の意味であり、「悪=犯罪あるいは悪事)」という意味では無い(「弱い存在」である人間が、犯罪や悪事に手を染めずに一生を終える、という事もありうる)。また、偽とは、「人の為す行い」という程度の意味であり、「偽=あるいは偽物」という意味ではない(後述のように、後天的な努力や習得によって初めて獲得する性格のものと捉えている)。

いわゆる「厳罰主義」や「厳罰化」のバックボーンとして性悪説が指摘される事がしばしばあるが、本来の性悪説に厳罰は含まれておらず(むしろ後述するように教育に力点を置いている)、性悪説を解釈する側の二義的な問題である。また、「人間を信用する/しない」という問題も性悪説自体には含まれておらず、やはり解釈する側の二義的な問題である。

また、キリスト教における原罪とも根本的に異なる概念である。

荀子は、人間の本性はこのように欲望的存在にすぎないが、後天的努力(すなわち学問を修めること)により公共善を知り、(人間の本性は根本的に変えられないとしても)礼儀を正すことができるとして、(性善説同様に)教育の重要性を説いた。

 

 

関連項目 

 

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ローマ帝国の全盛期を指すパクス・ロマーナ(ローマによる平和)に由来する。「パクス」は、ローマ神話に登場する平和と秩序の女神である

パクス・アメリカーナ   

 

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パクス・アメリカーナPax Americanaパークス・アメリカーナ)とは、「アメリカによる平和」という意味であり、超大国アメリカ合衆国覇権が形成する「平和」である[1]ローマ帝国の全盛期を指すパクス・ロマーナ(ローマによる平和)に由来する。「パクス」は、ローマ神話に登場する平和秩序女神である。

 

定義 

始まった時期については、以下の3説が一般的である[要出典]

第一次世界大戦終結(1918年) 

第一次世界大戦終結後から第二次世界大戦までの間は、アメリカ合衆国以外にもイギリスやフランスなどが莫大な植民地を持っており、3つ以上の植民地帝国がしのぎを削る多極体制であった。

第二次世界大戦終結(1945年) 

第二次世界大戦終結後の冷戦時代においては、アメリカ合衆国ソ連の2国が覇権を握る両極体制の下で「平和」な状況が継続したものであり、これを「パクス・ルッソ=アメリカーナPax Russo-Americana ロシアとアメリカの平和 なお、同時期の東側諸国における戦争のない状態を『パクス・ソヴィエティカ英語版(ソヴィエトの平和)』とも称する)」と称することもある。しかし、この時期の「平和」の本質は、核の抑止力にあったため「パクス・アトミカ英語版Pax Atomica[2] 原子の平和)」又は「核の平和英語版Pax Nuclei パクス・ヌクレイ又はPax Nuclearis パクス・ヌクレアリス)」とも称される。

湾岸戦争勝利・ソビエト連邦崩壊(1991年) 

アメリカ合衆国湾岸戦争で勝利を収め(1991年2月)、ソビエト連邦が崩壊した(同年12月)後は、基本的にアメリカ合衆国1国のみの主導による「平和」である。これは「アメリ一極体制」と呼ばれる。

 

第一次世界大戦 

第一次世界大戦前のアメリカは世界最大の工業国であると同時に世界有数の債務国でもあった。しかし大戦中に協商国に借款を提供したため、大戦後のアメリカは世界最大の債権国に転じ、ニューヨークロンドンと並ぶ国際金融市場になった。また、文化面では巨大な生産力を背景に大量生産大量消費に基づくアメリカ的生活様式を生み出し、映画ジャズプロスポーツに代表される、大衆文化と呼ばれる新しい文化が誕生。アメリカ発の大衆文化は1930年代にはいり西欧日本にも定着した。国際政治に関しては、孤立主義を唱える共和党1920年代の大統領選挙に連勝して、ハーディングクーリッジフーヴァー共和党の大統領が続き、アメリカはアメリカ大陸外への政治関与には消極的であった。よって国際政治面では経済面や文化面と異なり世界の中心的存在にならなかった。

 

冷戦時代 

パクス・アメリカーナ」とは、ソ連を盟主とする社会主義圏(東側諸国)に対抗する自由主義圏(西側諸国)の盟主として、アメリカ合衆国北大西洋条約機構NATO)や日米安全保障条約などを通して西側世界の軍事を引き受け、「の傘」で資本主義諸国と西側世界を保護するとともに、マーシャル・プランなどによって西欧諸国の、エロア資金などによって日本・琉球・台湾の復興を支え、「ドルの傘」のなかで自由主義経済を編成する体制であったと概括することができる[誰?]

ただし、より正確に世界経済システムとしての性質を考慮すると、ドルの傘(ドル体制)、すなわち世界一の金保有量を誇ったアメリカ合衆国の「金ドル本位制」の側面と、IMFGATT体制(「ブレトン・ウッズ体制」)という側面の2つにまとめることができる[誰?]。後者は、「自由・無差別・多角主義」をスローガンとし、各国間の貿易や金融取引における障害を撤廃し、相互に自由平等な立場で競争をおこなうことによって、世界貿易の拡大、開発途上国の開発、国内の完全雇用を実現しようというものであった。

 

冷戦終結 

冷戦終結すると、ヨーロッパにおける旧共産圏の諸国を含める形で「アメリカによる平和」は広がった。しかし、その後もなお世界各地(主にアジアアフリカヨーロッパ旧共産圏ラテンアメリカ)において地域紛争テロリズムは絶えてはいない。例えば、アフリカにおいては、ルワンダ大虐殺ダルフール虐殺など、人類史上稀に見る大惨事が立て続けに発生している。

アメリカによる一極支配が弱まる中、2009年1月20日アメリカ合衆国大統領に就任したバラク・オバマは、新保守主義派の影響力が強かったジョージ・W・ブッシュ時代の政策から大きく転換し、「国際協調」を掲げている。しかし、その裏をかく形で中華人民共和国ロシアの軍拡・勢力圏の拡大を許してしまうのではないかとの懸念もある[誰?]。これは、米ソデタント時代に見られた現象である。デタントの時期、表面的には両者の緊張は緩和していたが、裏でソ連は極秘裏にスカッド・ミサイルの配備や通常戦力の拡大を行い、アメリカ合衆国との軍事力の差を縮めていった。現代の世界情勢においても、今まではアメリカ合衆国の勢力圏だった一部南米諸国が左傾化し、ロシアや中国との接近を深め、アメリカは自国の勢力圏を失っている。

アメリカもロシアも中国も、帝国主義的、覇権主義的な性格を持っていることである。中国は台湾や琉球諸島に対する領土的野心をあらわにしており、また、ロシアも隣国を自国の「勢力圏」とみなし、親欧米路線を取っているウクライナグルジア、そして2009年に入って以降EUへ接近し始めたベラルーシに対して禁輸措置などを行い、強硬な圧力をかけている。

2013年にはアメリカの財政難から債務不履行(デフォルト)が起きそうになったり、アサド政権がレッドラインを超えたとして当初アメリカ主導で行う予定であったシリアへの軍事介入を取りやめた。

 

パクス・アメリカーナグローバリズム 

パクス・アメリカーナがそれ以前の「超大国による平和」と異なる点 として、多国籍企業非政府組織の世界政治への影響力拡大がある。これらの組織はアメリカの推進する「グローバル・スタンダード」によって各国で影響力を拡大しつつある。

なお、アメリカ合衆国主導のグローバリズムは、アメリカ国内産業の衰退や中国など新興国の経済発展にも関係しており、アメリカの弱体化にも繋がるものになっているため、グローバリズムアメリカ国内でも伝統的保守派の反発を呼んでいる[要出典]

 

脚注 

  1. ^ “格差拡大、排外主義、感染症…前世紀の大戦前夜と現在は怖いぐらい似ている だから「第一次世界大戦史」が重要だ (3ページ目)”PRESIDENT Online(プレジデントオンライン). (2020年11月26日) 2020年12月10日閲覧。
  2. ^ Jayita Sarkar. “Whither Pax Atomica? - The Euromissiles Crisis and the Peace Movement of the early 1980s”. ウイルソン・センター2013年8月6日閲覧。
 

関連項目 

 

 

 

ローマ帝国の全盛期を指すパクス・ロマーナ(ローマによる平和)に由来する。「パクス」は、ローマ神話に登場する平和と秩序の女神である

パクス・アメリカーナ   

 

この記事には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2012年12月) 出典脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2014年5月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2009年8月)出典検索?"パクス・アメリカーナ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL

パクス・アメリカーナPax Americanaパークス・アメリカーナ)とは、「アメリカによる平和」という意味であり、超大国アメリカ合衆国覇権が形成する「平和」である[1]ローマ帝国の全盛期を指すパクス・ロマーナ(ローマによる平和)に由来する。「パクス」は、ローマ神話に登場する平和秩序女神である。

 

定義 

始まった時期については、以下の3説が一般的である[要出典]

第一次世界大戦終結(1918年) 

第一次世界大戦終結後から第二次世界大戦までの間は、アメリカ合衆国以外にもイギリスやフランスなどが莫大な植民地を持っており、3つ以上の植民地帝国がしのぎを削る多極体制であった。

第二次世界大戦終結(1945年) 

第二次世界大戦終結後の冷戦時代においては、アメリカ合衆国ソ連の2国が覇権を握る両極体制の下で「平和」な状況が継続したものであり、これを「パクス・ルッソ=アメリカーナPax Russo-Americana ロシアとアメリカの平和 なお、同時期の東側諸国における戦争のない状態を『パクス・ソヴィエティカ英語版(ソヴィエトの平和)』とも称する)」と称することもある。しかし、この時期の「平和」の本質は、核の抑止力にあったため「パクス・アトミカ英語版Pax Atomica[2] 原子の平和)」又は「核の平和英語版Pax Nuclei パクス・ヌクレイ又はPax Nuclearis パクス・ヌクレアリス)」とも称される。

湾岸戦争勝利・ソビエト連邦崩壊(1991年) 

アメリカ合衆国湾岸戦争で勝利を収め(1991年2月)、ソビエト連邦が崩壊した(同年12月)後は、基本的にアメリカ合衆国1国のみの主導による「平和」である。これは「アメリ一極体制」と呼ばれる。

 

第一次世界大戦 

第一次世界大戦前のアメリカは世界最大の工業国であると同時に世界有数の債務国でもあった。しかし大戦中に協商国に借款を提供したため、大戦後のアメリカは世界最大の債権国に転じ、ニューヨークロンドンと並ぶ国際金融市場になった。また、文化面では巨大な生産力を背景に大量生産大量消費に基づくアメリカ的生活様式を生み出し、映画ジャズプロスポーツに代表される、大衆文化と呼ばれる新しい文化が誕生。アメリカ発の大衆文化は1930年代にはいり西欧日本にも定着した。国際政治に関しては、孤立主義を唱える共和党1920年代の大統領選挙に連勝して、ハーディングクーリッジフーヴァー共和党の大統領が続き、アメリカはアメリカ大陸外への政治関与には消極的であった。よって国際政治面では経済面や文化面と異なり世界の中心的存在にならなかった。

 

冷戦時代 

パクス・アメリカーナ」とは、ソ連を盟主とする社会主義圏(東側諸国)に対抗する自由主義圏(西側諸国)の盟主として、アメリカ合衆国北大西洋条約機構NATO)や日米安全保障条約などを通して西側世界の軍事を引き受け、「の傘」で資本主義諸国と西側世界を保護するとともに、マーシャル・プランなどによって西欧諸国の、エロア資金などによって日本・琉球・台湾の復興を支え、「ドルの傘」のなかで自由主義経済を編成する体制であったと概括することができる[誰?]

ただし、より正確に世界経済システムとしての性質を考慮すると、ドルの傘(ドル体制)、すなわち世界一の金保有量を誇ったアメリカ合衆国の「金ドル本位制」の側面と、IMFGATT体制(「ブレトン・ウッズ体制」)という側面の2つにまとめることができる[誰?]。後者は、「自由・無差別・多角主義」をスローガンとし、各国間の貿易や金融取引における障害を撤廃し、相互に自由平等な立場で競争をおこなうことによって、世界貿易の拡大、開発途上国の開発、国内の完全雇用を実現しようというものであった。

 

冷戦終結 

冷戦終結すると、ヨーロッパにおける旧共産圏の諸国を含める形で「アメリカによる平和」は広がった。しかし、その後もなお世界各地(主にアジアアフリカヨーロッパ旧共産圏ラテンアメリカ)において地域紛争テロリズムは絶えてはいない。例えば、アフリカにおいては、ルワンダ大虐殺ダルフール虐殺など、人類史上稀に見る大惨事が立て続けに発生している。

アメリカによる一極支配が弱まる中、2009年1月20日アメリカ合衆国大統領に就任したバラク・オバマは、新保守主義派の影響力が強かったジョージ・W・ブッシュ時代の政策から大きく転換し、「国際協調」を掲げている。しかし、その裏をかく形で中華人民共和国ロシアの軍拡・勢力圏の拡大を許してしまうのではないかとの懸念もある[誰?]。これは、米ソデタント時代に見られた現象である。デタントの時期、表面的には両者の緊張は緩和していたが、裏でソ連は極秘裏にスカッド・ミサイルの配備や通常戦力の拡大を行い、アメリカ合衆国との軍事力の差を縮めていった。現代の世界情勢においても、今まではアメリカ合衆国の勢力圏だった一部南米諸国が左傾化し、ロシアや中国との接近を深め、アメリカは自国の勢力圏を失っている。

アメリカもロシアも中国も、帝国主義的、覇権主義的な性格を持っていることである。中国は台湾や琉球諸島に対する領土的野心をあらわにしており、また、ロシアも隣国を自国の「勢力圏」とみなし、親欧米路線を取っているウクライナグルジア、そして2009年に入って以降EUへ接近し始めたベラルーシに対して禁輸措置などを行い、強硬な圧力をかけている。

2013年にはアメリカの財政難から債務不履行(デフォルト)が起きそうになったり、アサド政権がレッドラインを超えたとして当初アメリカ主導で行う予定であったシリアへの軍事介入を取りやめた。

 

パクス・アメリカーナグローバリズム 

パクス・アメリカーナがそれ以前の「超大国による平和」と異なる点 として、多国籍企業非政府組織の世界政治への影響力拡大がある。これらの組織はアメリカの推進する「グローバル・スタンダード」によって各国で影響力を拡大しつつある。

なお、アメリカ合衆国主導のグローバリズムは、アメリカ国内産業の衰退や中国など新興国の経済発展にも関係しており、アメリカの弱体化にも繋がるものになっているため、グローバリズムアメリカ国内でも伝統的保守派の反発を呼んでいる[要出典]

 

脚注 

  1. ^ “格差拡大、排外主義、感染症…前世紀の大戦前夜と現在は怖いぐらい似ている だから「第一次世界大戦史」が重要だ (3ページ目)”PRESIDENT Online(プレジデントオンライン). (2020年11月26日) 2020年12月10日閲覧。
  2. ^ Jayita Sarkar. “Whither Pax Atomica? - The Euromissiles Crisis and the Peace Movement of the early 1980s”. ウイルソン・センター2013年8月6日閲覧。
 

関連項目 

 

 

 

個人の持っている能力によってその地位が決まり、能力の高い者が統治する社会を指す。

メリトクラシー

ウィキペディア フリーな 百科事典 

メリトクラシー (meritocracy) とは、メリットmerit、「業績、功績」)とクラシー(cracyギリシャ語で「支配、統治」を意味するクラトスより)を組み合わせた造語。イギリスの社会学マイケル・ヤングによる1958年の著書『Rise of the Meritocracy』が初出。個人の持っている能力によってその地位が決まり、能力の高い者が統治する社会を指す。

もっとも、ヤングによる著書は、知能指数と努力だけですべてが決まる「メリトクラシー」を採用したディストピア近未来を舞台とした風刺的な内容であり、最後には、傲慢で大衆の感情から遊離したエリートたちを大衆が覆すという結末になっていた。つまり、ここでの「メリトクラシー」は、軽蔑の意を含んだ語であったのである。しかし、広く使われるようになるにつれて、「生まれよりも能力を重視して統治者を選ぶシステム」という前向きな意味合いで使われるようになった。

能力主義の歴史

多くの前近代社会では、社会的地位は能力よりも出自や血縁によって決まっていた。したがって、政治に参加できるのは貴族だけであり、さらに就くことができる官職も家格によって制限されているのが普通であった。また、インドでも、カースト制度に見られるように、一般庶民でも生まれながらに職業が定められていることが少なくなかった。

その後、近代化によって、人はみな平等であるとの観念が広がった。その結果、人間の地位は生まれによって決まるのではなく、その人の持つ能力によって決まるべきであるという意識が社会に広まった。この考え方が支配的な社会をメリトクラシーという。これには19世紀から20世紀前半まで欧米に広がった社会ダーウィニズムなどの影響もある。

一方、前近代からメリトクラシーが行われていた社会もある。例えば、伝統的に出自よりも学識を重視した中国社会の科挙はその典型例であり、欧米のメリット・システムにも影響を与えた 。また、イスラム世界では、マムルークイェニチェリのような非血縁的集団が支配層を形成することが多く、やはりメリトクラシーの傾向が見られた。

日本の能力主義

日本では、一般に「業績主義」、あるいは「能力主義」の訳語を与えられている。これは、企業経営の分野を中心に使用される用語である。第二次大戦後の日本企業の年功主義賃金と終身雇用、学歴(出身大学)による選抜という雇用慣行における、労働者のキャリア形成の特質を指す。2000年代に導入が試みられている成果主義賃金も、メリトクラシーを根底に据えている。

批判

メリトクラシーについては、多くの批判と疑問が投げかけられている。たとえば、高い地位に昇るには他人に能力を示して認められることが必要であるため、各個人が能力の誇示に走り、その結果、本当に優れた人よりも能力誇示に優れただけの人が高い地位を得る可能性があるというものである。

また、能力を誰がどのように判定するかにも確たる基準がない場合、能力を判断される側に不満が溜まったり、その地位に就くにあたって適切な能力を持たない者が誤って就かされることもある。

その他にも、能力は主に過去の実績で測定されるため、能力はあるが実績のない者が過小評価される場合がある。また、それとは逆に、過去の実績が評価されて高い地位に就いたものの、現在の問題に対する能力が不足しているために、うまく仕事を処理できない場合もある。

能力を判定するための手段として試験が使われるが、試験で好成績を上げるには、教育に多大な金をかけることのできる家や、代々教育や文化に子供を触れさせる機会の多い(文化資本のある)家に生まれた子供が有利である。こういった生まれの差は、努力によっても覆すのは難しく、メリトクラシーによって貧しい生まれの子供が高い地位に抜擢される可能性よりも、豊かな家の子供たちがどんどん高い地位を得てますます豊かになる格差拡大が起こる可能性のほうが高い。

脚注

[脚注の使い方]
  1. Huddleston, Mark W. Boyer, William W.The higher civil service in the United States: quest for reform. (University of Pittsburgh Press, 1996), 9–10.

関連項目

外部リンク