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大日本帝国陸軍の師団

義和団の乱  

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

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義和団の乱
 

天津の戦い
戦争義和団の乱
年月日1900年6月20日 - 1901年9月7日
場所中国華北満洲地方
結果:八カ国連合軍の勝利
交戦勢力

 

オランダ

 

指導者・指揮官
戦力
最大71,920人 200,000人以上
損害
死傷者 757、この他宣教師や中国人クリスチャン多数 死傷者 数万人
義和団のメンバー
1900-1904年の東アジア時局図

義和団の乱(ぎわだんのらん、中国語義和團運動拼音Yìhétuán Yùndòng)は、1900年に起こった、中国朝末期の動乱である。義和団事件義和団事変北清事変[1](ほくしんじへん)・北清事件(ほくしんじけん)・清国事変などの呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)とも言われるが、本項では「義和団の乱」で統一する。

清国の敗退によって「扶清滅洋」を叫ぶ宗教的秘密結社義和拳教による排外主義の運動が展開された[2]が、1900年光緒26年)に清国の西太后がこの叛乱を支持して6月21日欧米列国宣戦布告したため国家間戦争となった[3]。だが、宣戦布告後2か月も経たないうちに、北京の公使館員や居留民保護のため8ヶ国連合軍が北京に進出し、大日本帝国が中でも最大の兵力8000人を投入した[2]

背景 

清末におけるキリスト教の布教活動 

中国にキリスト教が伝来したのはかなり古いが、多くの信者を獲得することなく清末にいたった。しかしこうした事態に変化をもたらしたのが、相次ぐ西欧列強との戦争とその後の不平等条約締結である。それまで布教活動は条約港に限り認められていたが、アロー号戦争(第二次アヘン戦争)後結ばれた天津条約では、清朝内陸への布教を認める条項(内地布教権)が挿入されており、以後多くの外国人宣教師が内地へと入っていった。この結果、キリスト教は次第に信者を獲得していく。

仇教事件の発生 

外国人宣教師たちは、宗教的信念と戦勝国に属しているという傲岸さが入り交じった姿勢で中国社会に臨み、その慣行を無視することが多く、しばしば地域の官僚・郷紳と衝突した。そしてさらに事態を複雑にしたのは、「ライス・クリスチャン(キリスト教会の飯を食う者)」の存在である。飢饉などの天災により寄る辺をなくした民衆などは宣教師の慈善活動に救いを見出し、家族ぐるみ・村ぐるみで帰依することもあった。また当時中国の内部対立の結果、社会的弱者となった人々も庇護を求めて入信し、クリスチャンの勢力拡大に寄与した。たとえば南方では、現地人と客家がしばしば対立して土客械闘という争いを起こしていたが、地方官は客家を弾圧することが多く、救いを求めて客家が一斉にキリスト教に入信するようなことがあった。さらに最近の研究では、後に述べるように義和団の母胎となったと言われてきた白蓮教徒も、官憲の弾圧から逃れるために、その一部がキリスト教に入信していたことも分かってきた。対立の構図は決して単純なものでは無かったのである。

外国人宣教師やその信者たちと、郷紳や一般民衆との確執・事件を仇教事件(史料では「教案」と表記される)という。具体的には信者と一般民衆との土地境界線争いに宣教師が介入したり、教会建設への反感からくる確執といった民事事件などから発展したものが多い。1860年代から、史料には「教案」の文字が見られはじめ、1890年代になると主に長江流域で多発するようになる。事件の発生は、列強への反感を次第に募らせていった。何故なら、布教活動や宣教師のみならず、同じ中国人であるはずの信者も不平等条約によって強固に守られ、時には軍事力による威嚇を用いることさえあったため、おおむね事件は教会側に有利に妥結することが多かったからである。地方官の裁定に不満な民衆は、教会や神父たち、信者を襲い、暴力的に解決しようとすることが多かった。太平天国平定の功労者であった曽国藩ですら、もし外国人の方に非があったとしても、公文書に記載し事を大きくしてはならないと述べたという。民衆の間には外国人は官僚より三等上という認識が広がっていった。

こうした対立に、異文化遭遇の際に起こりがちな迷信・風説の流布が拍車をかけた。当時、宣教師たちは道路に溢れていた孤児たちを保護し、孤児院に入院させていたが、それは子供の肝臓を摘出し、薬の材料にするためだといった類のものである。

仇教事件の頻発は、一般民衆の中に、西欧及びキリスト教への反感を醸成し、外国人に平身低頭せざるを得ない官僚・郷紳への失望感を拡大させたといえる。

義和団の台頭-山東省の状況- 

義和団の檄文

乱の主体となった義和団山東省で発生した。19世紀末、山東省ではドイツの進出が目立つようになり、それに伴い仇教(きゅうきょう)事件が頻発するようになった。ドイツは、山東省を国家権益の観点のみならず、孔子の生地である曲阜キリスト教布教の観点からも特に重視していた。そして山東省における熱烈な布教活動はその反動として民衆の排外的な感情を呼び起こし、時を追うごとに高まっていったのである。

義和団は、 太平天国における拝上帝会のようにその起源を単一のものに特定できない。そのため白蓮教的な拳法に由来するという説と、団練という地方官公認の自警団に求める説とがある。以下は日本及び中国で比較的支持されている説に基づく。

山東には元々大刀会という武術組織があった。この会は初め盗賊を捕まえて役所に突き出すなど、郷土防衛や治安維持を担った自警団的性格をもっていた。やがてカトリック信者と一般民衆との土地争いに介入。1897年カトリック側を襲撃し、教会の破壊や神父の殺害を決行した(曹州教案)。こうした動きに対してのドイツの抗議をうけた清朝が弾圧し、一旦鳴りを潜めるようになる。しかし1899年になると山東省の西北方面に勢力を拡大し、そのころ神拳という一派と融合していった。

また山東の別の箇所でも、在地の武術組織とキリスト教が対立する事件が発生した。例によって、教会建設に端を発する土地争いの裁判で不利な判決を言い渡された一般民衆が、梅花拳という拳法の流派に助けを求めたのが、きっかけである。梅花拳はその流派を三千人ほど集め、1897年に教会を襲撃した。その後、歴史ある梅花拳全体に累が及ぶのを避けるため、「義和拳」と改名した。これは反キリスト教を核に梅花拳以外の人々も多く参加し始めた状況に対応する意味もあった。反キリスト教運動が広がりを見せる中で、各地のグループが次第に統合していき、義和拳となったのである。

以上に挙げた武術組織は、極めて強い宗教的性格を有し、内部ではシャーマニズム的な儀式をも行なっていた。そうした組織の崇拝する神は、齊天大聖孫悟空の神格化)や諸葛亮趙雲など(庶民の娯楽の『西遊記』、『三国志演義』から神格化されたもの)であった。義和団では、呪術によって神が乗り移った者は刀槍不入をとなえ、刀はおろか銃弾すら跳ね返すような不死身になると信じられていた。

義和拳の勢力拡大は燎原の野火の如く急激であったが、それには地方大官が取り締まりに消極的だったことも一因である。山東巡撫毓賢(いくけん)[注釈 1]は、義和拳の攻撃対象がキリスト教関連施設に限定されていることをもって、彼らに同情的で、義和拳を取り締まろうとした平原県知県蒋楷を逆に罷免し、義和拳を団練として公認しようとすらした。「義和拳」が「義和団」と呼ばれるようになるのには、こうした背景があったのであり、以下の文章では「義和団」に統一する。

1899年末、毓賢は欧米列強の要求によって更迭され、かわって袁世凱が赴任し義和団を弾圧した。しかしそれは山東省外への義和団拡大をもたらす結果となった。

義和団、北京へ 

義和団の兵士
天津の義和団

「扶清滅洋」と清朝の宣戦布告 

義和団の動き 

山東省から押し出された義和団直隷省(現在の河北省北京)へと展開し、北京と天津のあいだの地帯は義和団で溢れかえる事態に至った。直隷省は山東省以上に、失業者や天災難民が多くおりそれらを吸収することによって義和団は急速に膨張した。そして外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていった。そのため北京と天津の間は寸断されたのも同然となる。

当時の義和団にはいくつかのグループがあり、有名な指導者には王成徳や宋福恒、張徳成といった人々がおり、各々が数千人の義和団をまとめていた。変り種としては、女性だけを成員とする義和団もあった。「紅灯照」である。その首領は「黄蓮聖母」という。

首都北京近辺における義和団の横行を許したのは、義和団の強大化だけが原因ではない。西欧列強の強い干渉によって清朝は鎮圧を行おうとしたが、義和団の「扶清滅洋」(ふしんめつよう、意味:清を扶〔たす〕け洋を滅すべし)、あるいは「興清滅洋」(清を興〔おこ〕し洋を滅すべし)[注釈 2]という清朝寄りのスローガンに対し、さきの毓賢同様同情を示す大官が複数おり、徹底した弾圧には至らなかった点も原因の一つである。列強を苦々しく思っていた点は西太后以下も同じであり、義和団への対処に手心を加えることとなった。一説にはおよそ20万にのぼる義和団が北京にいたという。

こうして義和団が我が物顔で横行するようになり、しばらくすると、不測の事態が発生し清朝を慌てさせた。1900年6月10日、20万人の義和団が北京に入城する[3]甘粛省から呼ばれて北京を警護していた董福祥(とうふくしょう)[注釈 3]配下の兵士に日本公使館書記官の杉山彬が殺害され、6月20日にはドイツ公使クレメンス・フォン・ケーテラー(Clemens von Ketteler)が清国軍の神機営に殺害された[3]

「宣戦布告」への過程 

義和団の源流は何かという問題と並んでよく論じられるのが、清朝の列強への「宣戦布告」である。この決定は義和団及び列強連合軍に対しどう対処するかについて、4度御前会議が開かれた末、決定された。この火を見るより明らかな無謀な決定は何故出されたのだろうか[注釈 4]。激昂に駆られた感情的な側面があるのは確かであるが、それのみを重視して「宣戦布告」=狂気の選択といったような不可知論的説明は歴史学では採らない。「宣戦布告」のいくつか理由について以下に列挙する。

  1. 大沽砲台問題 ― 最も決定的だったのは大沽砲台問題といわれる。大沽砲台とは海河河口に備えられており、北京や天津へと遡航する艦船への防御の要となる砲台であった。それが5月20日の時点で列強への引渡しを求められ、なおかつ清朝側が拒否後攻め落とされた。交戦状態でもないにもかかわらず、また義和団に占拠されていたのでもないにもかかわらず、列強がこの挙に出たことが、清廷内の排外主戦派を勢いづかせ、西太后の決心を促した。加えて、従前の仇教事件のような列強の司法への介入、山東巡撫の更迭要求等のいくつもの列強の圧力、すなわち「累朝の積憤」(積もり積もった怒り。剛毅の言)が次第に清朝を「宣戦布告」へと追いやったと言える。
  2. 「照会」問題 ― この「照会」とは列強が西太后に引退を求めたとされる文書である。西太后はこれを見て激昂し宣戦を決めたという。しかし実はこの「照会」は偽物であった。清朝主戦派の誰か(端郡王載漪(さいい)[注釈 5]一派と目されている)が捏造したものと考えられているが、それは煮え切らない態度を示す西太后の背中を押すためだったと考えられている。
  3. 清朝内の権力争い ― 清廷内には戊戌変法を支持した光緒帝を廃位しようとする計画が進められていた。その障害となったのが、列強と李鴻章や一部の親王であり、それらを排除するために義和団を利用したという。つまり列強に対しては義和団を充てる一方で、列強に妥協的だという理由で李鴻章らを媚外として批判したのである。

6月21日の宣戦布告[3]に先だって、最高権力者であった西太后は「中国の積弱はすでに極まり。恃むところはただ人心のみ」と述べたといわれる[4]

八カ国連合軍の派遣 

第一次連合軍の派遣 

1900年に日本で描かれた、連合軍将兵の軍装

北京駐在公使の要請を受けて、五月末より列強の連合軍は、軍事介入を計画していた。六月初旬にはイギリス海軍中将シーモア英語版率いる連合軍約2000名が北京を目指したが、義和団によって破壊された京津鉄道(北京-天津間)を修繕しながら進軍したため、その歩みは遅く、また廊坊という地では義和団及び清朝正規兵、董福祥の甘軍によって阻まれ、天津への退却を余儀なくされた。つまり清朝の宣戦布告以前より、列強は中国に軍隊を派遣し義和団掃討作戦を実施していたことになる。6月17日、天津にある大沽砲台の攻撃について、清朝は「無礼横行」と非難し、宣戦布告をする重要な動機のひとつとなった。

第二次連合軍の編成と日本軍の参戦 

イギリス軍による寺院の焼き討ち(山海関)。1900年当時の絵。
連合軍の兵士。左から、イギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリアハンガリー、イタリア、日本。

義和団鎮圧のために軍を派遣した列強は八カ国あり、その内訳はイギリスアメリカロシアフランスドイツオーストリア=ハンガリーイタリアら欧米七列強と日本である。総司令官にはイギリス人のルフレッド・ガスリー英語版が就任した。

日本の青木周蔵外相は、6月13日にイギリスの同意があるならば、日本は中国に大軍を送る用意があるとの見解を表明した[5]。ロシアが北清事変に便乗し、大軍勢を満洲に派遣した情勢に対し、ロシアの権益拡大を怖れるイギリス首相のソールズベリー卿は、日本に対して6月23日、7月5日、7月14日と再三にわたって出兵を要請した[5][6][7]。また、2回目と3回目の出兵要請の際には、財政援助も申し入れている[5]。7月5日の要請は特に、ソールズベリー侯が列国を代表するかたちでおこない、なおかつ、出兵可能な国は日本だけであり、反対する国は無いと明言したのであった[7]。 第2次山縣内閣はこの要請を受けて1900年7月6日に増派を決め、7月18日大沽に上陸し、7月21日天津に達した[6][8]。なお、義和団鎮圧戦争の、兵力数に対する戦死者の千分比は、日本16.2人、ロシア10人強、イギリス6人であった[5]

総勢約2万人弱の混成軍であったが、最も多くの派兵をおこなったのは日本とロシアであった。これは日露以外の各国は、それぞれが抱える諸問題のため多くの兵力を中国に送る余裕が無かったことに起因する。特にイギリスは南アフリカオランダ系移民の子孫らの国であるオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国との間で戦争状態(ボーア戦争)にあったため、多くの兵力を送る余裕がなく、日本に派兵を要請したことも日本の大量派兵の一因である[5]。また、アメリカ合衆国米比戦争を戦っていたため、イギリスと同様に派兵は少数にとどまった。

日本軍は陸軍大臣桂太郎の命の下、第五師団(およそ8000名)を派兵し、その指揮は福島安正に委ねられた。彼は英語フランス語ドイツ語ロシア語中国語に堪能で、当時ロシアや清朝を調査する旅行から帰国したばかりであったが、その経験を買われて指揮官に据えられたのである。

この日本軍派兵には様々な思惑が込められていた。公使館の保護は無論であるが、中国における日本の権益拡大や、清朝を叩くことで朝鮮半島における日本のアドバンテージを確立すること[9]、日本についで大軍を送っていたロシアへの牽制、列強側に立って派兵することで「極東の憲兵」としての存在感を誇示し、将来的な不平等条約改正への布石とするなどが主要な目的であった。

戦争の推移 

連合軍の最初の正念場は大沽砲台・天津攻略戦であった。租界を攻撃していた清朝の正規軍、聶士成(じょうしせい)[注釈 6]の武衛前軍や馬玉崑(ばぎょくこん)率いる武衛左軍と衝突したが、戦闘は連合軍が清朝側を圧倒した。結果聶士成を戦死せしめ、数日後の7月14日には天津を占領するに至る。 直隷総督裕禄(ゆうろく)[注釈 7]は敗戦の責を取って自殺した。天津城南門上には、およそ4000名の義和団清朝兵の遺体があったという。

そして8月4日には、連合軍は北京に向けて進軍を開始したが、各国の足並みが揃わず歩みが遅かった。軍事作戦上の齟齬や各国軍の戦闘への積極性の違いも原因であったが、そもそも北京に早く到達すべきかどうかという根本的な点でも、意見の一致を見ていなかった為である。イギリスや日本が、北京の公使館を少しでも早く解放すべきと主張する一方で、北京進攻はかえって公使館に対する清朝義和団の風当たりを強くするという意見もあったのである。また義和団による清朝の混乱をさらに拡大させることで、一層大きな軍事介入を画策する国まであった。いずれにしても連合軍の歩みは緩慢であったため、それだけ北京で救援を待つ人々に苦渋を強いることになり、後々批判されることになる。

義和団清朝軍の軍事能力について 

激戦はいくつかあったが、連合軍は全体的にみて苦戦したというわけではなかった。清朝軍と義和団は、連合軍と比べ圧倒的な兵数を有していたものの、装備という点で全く劣っていたためである。例外は大沽砲台や聶士成の武衛前軍、馬玉崑率いる武衛左軍といった近代化部隊であったが、これらすら兵器の扱いに不慣れな兵士が多かったために、効果的な運用ができなかったという。中には「所々ニ於ケル自己ノ弾薬ノ破裂ハ、遂ニ抵抗シ得サルニ至ラシメタリ。敵(清朝兵:加筆者)ノ死屍七八百ハ砲台内ニ横タワレリト云フ」(大沽砲台の攻防についての日本軍の批評)とあるように、訓練不足のため近代兵器を活用できず、暴発などで自滅した例も有った。義和団に至ってはその装備していた武器は剣槍がほとんどで、銃器を持った者など僅かしかいなかった。

また軍隊組織としてみた場合、義和団は言うに及ばず、清朝軍すら全体を統括指揮する能力に欠けており、その点も前近代的であると日本軍からは評されている。しかし日本軍も彼らを決して侮っていたわけではなく、「彼等ノ携帯兵器多クハ清国在来ノ刀・槍・剣、若クハ前装銃ニシテ、皆取ルニ足ラサルモノナリシモ、能ク頑強ノ抵抗ヲ為シ、我兵ヲ苦メタル勇気ハ称スルニ余リ有リ」という声もあるように、士気はすこぶる高かったようである。ただ作戦・装備が劣る点を士気によって補おうとする姿勢は、多くの犠牲を生むことになり、この戦乱の死傷者の多くは義和団あるいは清朝軍の兵士で占められた。

京進 

紫禁城内の連合軍

8月14日、連合軍は北京攻略を開始し、翌日陥落させた。北京には八旗や北洋軍ほかおよそ4万人強の兵力が集められたが、さきに天津から進攻する連合軍との戦いで敗れ、戦死あるいは戦意喪失による逃亡によって城攻防戦の際にはすでに多くの兵が失われていた。この北京占領以後、およそ1年間に及ぶ占領体制が布かれることになる。

占領直後から連合軍による略奪が開始され、紫禁城の秘宝などはこれがきっかけで中国外に多く流出するようになったと言われる。連合軍の暴挙によって王侯貴族の邸宅や頤和園などの文化遺産が掠奪・放火・破壊の対象となり、奪った宝物を換金するための泥棒市が立つほどであった。

日本軍は他国軍に先駆けて戦利品確保に動き出し、まず総理衙門と戸部(財務担当官庁)を押さえて約291万4800両の馬蹄銀や32万石の玄米を鹵獲した。そのためか列国中戦利品が最も多かった。これは後述する情報将校、柴五郎の指示に拠るものである。

西安蒙塵 

西太后は北京陥落前に貧相な庶民に変装して紫禁城を脱出し、途中山西省大同などに寄りつつ10月西安に辿り着いた。彼女はアロー戦争の時にも熱河に逃げており、これが生涯2度目の蒙塵(都落ち)となった。

この逃避行には甥の光緒帝も同行させたが、彼の寵愛を独占する珍妃宦官に命じて紫禁城寧寿宮裏にある井戸に落とし殺害させている。光緒帝を同行させたのは北京に残しておくことで列強を後ろ盾にした皇帝親政が復活する可能性を封じるためであり、珍妃の殺害を命じたのは彼女がやがて自身を凌駕する存在となることを西太后が危惧したことが原因だと言われる。珍妃の遺体を井戸から引き上げ弔ったのは日本軍だった。

連合軍の北京占領はおよそ1年間続いたが、西太后はそれを嫌って帰京しようとはせず、西安滞在は1902年1月にまで及んだ。こののち西太后は鉄道を使って還幸したが、これが彼女にとって初めての鉄道乗車となった。下掲「東南互保」図に西太后と光緒帝の逃走路と帰還路を示す。

北京籠城 

北京籠城の指揮を執った柴五郎(陸軍中佐当時)

籠城の開始 

清朝の宣戦布告は、清朝内に在住する外国人及び中国人クリスチャンの孤立を意味するも同然であった。特に北京にいた外国公使たちと中国人クリスチャンにとっては切迫した事態を招来した。当時紫禁城東南にある東交民巷というエリアに設けられていた公使館区域には、およそ外国人925名、中国人クリスチャンが3000名ほどの老若男女が逃げ込んでいた。しかし各国公使館の護衛兵と義勇兵は合わせても481名に過ぎなかったという。

6月19日に24時間以内の国外退去命令が伝えられ、翌日から早速攻撃が開始された。以後八カ国連合軍が北京を占領する8月14日までのおよそ2か月弱、籠城を余儀なくされるのである。ちなみに籠城した人の中には、中国研究者として名高いペリオや海関の総税務司(Inspector-General)として長年中国に滞在していたロバート・ハート、『タイムズ』通信員のG.E.モリソン服部宇之吉狩野直喜、古城貞吉といった有名人も含まれていた。

柴五郎 

この籠城にあって日本人柴五郎の存在は大きく、籠城成功に多大な寄与をしたと言われる。柴五郎は当時砲兵中佐の階級にあり、北京公使館付武官として清朝に赴任していた。籠城組は各国の寄り合い所帯であったため、まず意思疎通が大きな問題となったが、英語・フランス語・中国語と数か国語に精通する柴中佐はよく間に立って相互理解に大きな役割を果たした。またこの籠城組の全体的な指導者はイギリス公使クロード・マクドナルドであったが、籠城戦に当たって実質総指揮を担ったのは柴五郎であり(各国中で最先任の士官だったため)、解放後日本人からだけでなく欧米人からも多くの賛辞が寄せられている。なお柴五郎は、明治期の政治小説佳人之奇遇』で有名な東海散士こと柴四朗の弟にあたる。

中国人クリスチャンたち 

またこの北京籠城は、中国人対外国人という単純な図式で捉えることはできないであろう。上で触れているように、公使館区域には中国人クリスチャンも多く逃げ込んできており、彼らが籠城の上で多くの重要な役割を果たしたことは否定できない。彼らは戦闘は無論、見張りや防衛工事、消火活動、負傷者の救護、外(連合軍)との秘密の連絡をこなし、柴五郎も「耶蘇教民がいて我々を助けなかったならば、われわれ少数の兵にては、とうてい粛親王府は保てなかったかと思われます」、「無事にあの任務を果たせたのも信用し合っていた多くの中国人のお陰でした。そのことを明らかにすると、彼らは漢奸として、不幸な目に遭うので、当時は報告しませんでした」と回顧している。すなわち日本人や欧米人、中国人が団結し、大きな軋轢がなかったことこそが籠城を支えた、少なくとも内からの瓦解を防いだと言っても過言ではない。

清朝の交戦姿勢 

義和団の乱時の東交民巷
2か月弱の防衛線の変化も示す

しかし籠城を成功させた最も大きな理由は、清朝の不徹底な交戦姿勢にあった。西太后の命により「宣戦布告」したものの、当初から列強に勝利する確信は清朝側に無かった。少なくとも栄禄ら戦争消極派はそう考えていた。したがって敗戦後の連合軍の報復を考慮したとき、公使館に立てこもる人々を虐殺することに躊躇を覚えていたのである。柴五郎らもその辺の温度差を敏感に感じ取っており、柴は董福祥の甘軍は真剣に包囲殲滅を目指しているが、栄禄直轄の部隊は銃撃するものの突撃などは少なかったと解放後に述べている。

右略図にあるように、防衛線は粛親王府やフランス公使館方面が徐々に後退しているものの、各国公使の家族が避難していたイギリス公使館側の防衛線にはほとんど変化がない。柴同様籠城していた西徳二郎公使が「清国政府としてはそれまでの決心がない」と言うように、清朝側も公使団の扱いに困惑し、非情な決断をしかねたという背景が2か月の籠城戦にはあった。あるいは清朝内の徹底抗戦派と和平派の綱引きの間に公使館は置かれていたといえる。近年の研究には、公使館の人々を人質として生かし、列強との外交交渉を有利に運ぶ材料として清朝が考えていたという主張をする者もある。

なお、北京に籠城して無事だったのは、公使館区域だけではない。キリスト教教会である北堂(西什庫聖堂)でも欧米人、信者ら3000人が籠城しており、支えきっている。

籠城の終焉 

清朝軍によって襲撃・夜襲を仕掛けられることはあったものの、時折休戦が差し挟まれ、その間公使団と清朝とは話し合いをもったため、休息することが可能であった。特に7月17日以降から北京陥落の数日前までは、比較的穏やかな休戦状態が維持継続され、尽きかけた食料・弾薬を調達することもできた。8月11日から14日までは再び清朝軍の攻勢が強まったが、8月14日の午後ついに援軍が来て2か月弱の籠城戦は終わりを告げた。

この籠城戦において、どの国も犠牲者を出した。籠城を余儀なくされた外国人は925名に上るが、戦死者は20名ほどであった。日本人は攻撃の激しかった粛親王府防衛を受け持っていたため、各国の中で最も死者率が高かった。中国人クリスチャンは、18名が亡くなっている。

「東南互保」と北京議定書 

「東南互保」宣言 

東南互保形勢図と西太后蒙塵行

西太后が「宣戦布告」の上諭を出して列強への態度を明確化した頃、両江総督劉坤一湖広総督張之洞両広総督李鴻章ら地方の有力官僚らは、この上諭を偽詔とした上で従わない旨宣言し、そして義和団の鎮圧に動いた。また列強各国領事と「東南互保」という了解を結び、義和団の騒擾を中国北部に限定するようし向けた。具体的には、盛宣懐張謇が地方大官と各国領事の間を奔走し、「保護南省商教章程」9か条と「保護上海租界城廂章程」10か条を結び、外国人の生命及び財産を列強が進攻しない限り保護することを確約した。

この「条款」は中国東南に位置する地方の総督や巡撫といった大官と列強との利害が一致したため成立した。

いわば、清朝の地方の大官僚たちが結託して地方の利害を優先させ、義和団の影響が及ばないよう先手をうったといえる。 これは明らかに西太后の命に背くものであったため、剛毅らは弾劾上奏を行ったが、西太后は特段処分を下さなかった。それは西太后の保険であったためである。つまり列強との戦争の雲行きが怪しくなった場合に備え、「東南互保」を暗黙裡に認め、敗戦の総責任を負うことを求められないようにした政治的駆引きの一つであった。実際後述するように西太后は、義和団の乱に関して何ら責任追及を受けていない。

北京陥落以後 

地方の有力官僚たちは乱が終息すると、直ちに列強との関係改善に乗り出した。例えば北京議定書締結直前の1901年8月には、2か月前まで北京で日本軍を率いていた福島安正が日本の軍部の意向で中国東南に派遣され、張之洞・王之春(安徽巡撫)・恩寿(江寧布政使、療養中の劉坤一の特使)らと日本との軍事協力について協議している。その結果、同年11月に仙台市で開かれた日本の陸軍大演習には、張之洞や劉坤一らの命を受けた清国文武官90名(主に中国東南の総督・巡撫の官員)が演習視察のために派遣されている。

「扶清滅洋」から「掃清滅洋」へ 

北京の陥落後しばらくして、清朝の姿勢は180度転換した。すなわち8月20日己を罪する詔を出し、義和団を「拳匪」あるいは「団匪」と呼び反乱軍と認定した。以後義和団清朝をも敵にまわし戦闘せざるを得なくなる。それまで「扶清滅洋」を旗印にしていた義和団は、清朝に失望し「掃清滅洋」(清を掃〔はら〕い洋を滅すべし)と変えるに至った(他に「清を平らぐ」、「清に反〔そむ〕く」などのバージョンもある)。これは後述する 北京議定書(辛丑条約)によって過大な賠償金を強いられることになった清朝が、その負担を庶民に転嫁せざるを得なくなったことも大きな理由である。

義和団の鎮圧 

北京占領後の1900年9月に、連合軍にドイツからヴァルダーゼー元帥率いる数万人の兵力が増強され、彼が連合国総司令官になると、北京周辺の度重なる懲罰的掃討作戦を展開した。各国を合わせると計78回に及ぶ義和団残党狩りが行われ、それは山海関保定山西省直隷省との境界線付近まで含む広大な範囲にわたった。特に多くの掃討戦を行ったのはドイツであって、約半分を占めている。

またロシア帝国軍はこの時満州占領を企図して進駐した。6月に義和団アムール川沿いのロシアの街ブラゴヴェシチェンスクを占領すると、報復としてロシア領内にあった中国人居住区である江東六十四屯を崩壊させ、さらに南へ軍を進め東三省満州)一帯を占領した。これが後々日露戦争の導火線の一つとなった。右表に明らかなように、実は北京陥落以後の方が投入された兵力は多く、最大71920名に上る。義和団の乱後の清朝における勢力扶植に努めるためであった。

八カ国連合軍兵力推移表

義和団の乱における死傷者数 

連合軍は上記のように多くの兵力を投入したが、日本軍の計算に依れば、全期間にわたる死者数は757名、負傷者数は2654名とされている。ちなみに最も多くの死傷者を出したのは日本であった(死者349名・負傷者933名)。また清朝義和団によって殺害された人々は宣教師や神父など教会関係者が241名(カトリック53人+プロテスタント188人)、中国人クリスチャン23000人といわれる。[要出典]一方清朝義和団側の死傷者は統計としては正確性を欠かざるをえないが、上で引用したように天津城攻防戦だけで4000名ほどの遺体があったと日本軍が書いていることから考えて、一年ほどの戦争期間に多大な死傷者を出したことは容易に想像できる。

北京議定書 

北京議定書

西太后は北京から逃走する途中で義和団を弾圧する上諭を出したが、同時に列強との和議を図るよう李鴻章に指示を出した。その時後々有名となる次のことばを用いている。「中華の物力を量りて、與国の歓心を結べ」(「清朝の〔そして西太后の〕地位さえ保証されるなら金に糸目はつけるな)。列強との交渉は慶親王奕劻及び直隷総督兼北洋大臣に返り咲いた李鴻章が担ったが、敗戦国という立場上列強の言いなりとならざるを得ず、非常に厳しい条件が付せられた。またそれは西太后の地位を守るための代償という意味合いもあった。

義和団の乱の責任は端郡王載漪や剛毅ら数人の重臣と地方官僚50人ほどに帰せられ、処刑もしくは流刑を言い渡された。1901年9月7日に締結された条約中、もっとも過酷だったのは賠償金の額であった。清朝の歳入が8800万両強であったにもかかわらず、課された賠償金の総額は4億5000万両、利息を含めると9億8000万両にも上った。このしわ寄せは庶民にいき、「掃清滅洋」という清朝を敵視するスローガンは、義和団以外にも広がりを見せるようになる。

連合軍は首都北京及び紫禁城を占領し、北京議定書によって清国は賠償金を支払い、北京周辺の護衛は外国部隊が任務にあたることになった[10]大日本帝国は北京と天津に清国駐屯軍 (後に支那駐屯軍)を設置した[11](pp10,29,30)[注釈 8]。これはのちの日中戦争初期の主力部隊となる[1]

 

影響 

中国国内 

1. 総理衙門の廃止と外務部の創設
これらは北京議定書に盛り込まれているように、列強各国の強い意向によって実現したものである。アロー戦争以後清朝の外交を担ってきた総理衙門清朝官庁内で次第に地位低下したことに不満を覚えた諸外国が、清朝に外交を重視するよう求めた結果、総理衙門を廃止し外務部をつくらせるに至った。なお外務部は他の官庁より上位の組織であるとされた。
2. 光緒新政の開始
北京に帰った西太后は排外姿勢を改め、70歳近い年齢でありながら英語を習い始めるなど、西欧文明に寛容な態度を取り始めた。その最も典型的な方針転換はいわゆる光緒新政を開始したことである。これは立憲君主制への移行・軍の近代化・経済振興科挙廃止を視野に入れた教育改革を目指すもので、方向性は数年前西太后が取り潰した康有為らの戊戌変法と同じものであった。これには剛毅など西欧化に対し強く反対していた保守勢力が、北京議定書によって一掃されたことも大きく影響している。
3. 聶士成の武衛前軍等の北洋軍壊滅による袁世凱台頭
義和団の乱において直隷総督配下の近代化軍隊は連合軍に敗れて大きな打撃を受けたが、袁世凱の軍だけは義和団をたたくのみで、直接列強との戦争に参加しなかったためほとんど無傷であった。そのため清朝内で隠然たる影響力を持つに至る。同時期、李鴻章や劉坤一、栄禄といった清朝の実力者が次々と死去するという「幸運」もあって、清朝一の精鋭部隊を率いる袁世凱は、それを政治資本として有効に活用していった。それはやがて袁世凱李鴻章の後任として直隷総督へと出世させ、さらに辛亥革命後の中華民国大総統中華帝国皇帝(洪憲帝)へと押し上げる原動力となった。付言すれば、漢民族である袁世凱が衰退した清朝にあって最強兵力を保持し続けること自体が、やがて満漢対立という民族間の軋轢を増す不安定要因となっていった。
4. 中国の半植民地化
北京議定書によって、北京や天津に外国の駐兵権を認め、また巨額の賠償金によって外国による財政支配(海関税・常関税・塩税が支払われるまでの担保として押さえられた)を受容せざるを得なくなった清朝、そして中華民国は、もはや独立国としての体裁をなさず、「半植民地」ともいうべき状態に陥った。北京における駐兵権容認はやがて盧溝橋事件の引き金ともなるのである。
5. 清朝への不信増大
最も大きな影響は、民衆の不平不満の矛先が列強よりもむしろ清朝自体に向けられるようになったことであろう。それは清朝滅亡のカウントダウンが開始されたことと同義であった。列強への「宣戦布告」の際には「現在我が中国は積弱極まった。頼るところは最早人心のみ」と述べながら、北京陥落後あっさり義和団を切り捨てた清朝西太后の姿勢は大きな失望を一般民衆に与えた。さらに北京議定書によって定められた巨額の賠償金を支払うために、過大な負担を民衆に強いたことは、人々が清朝を見限るのに決定的な理由となりえた。孫文は中国で何度も革命を行おうとして失敗し、その度に無謀だと周囲から冷笑されていた。しかし義和団の乱以後民衆の中に傍観者的な雰囲気が減り、孫文たちを積極的に応援する風向きが俄かに増加したと述べている。すなわち義和団の乱辛亥革命に至る重要な伏線となったといえる。

世界・東アジア 

1. 日露の対立激化と日英同盟の締結
義和団の乱鎮圧のために各国それぞれが出兵したが、その中で日本とロシアの対立が顕在化していった。特にロシア帝国軍の満洲占領とモラルを欠いた軍事行動は、各国に多大な懸念を与えるとともに、日本に朝鮮における自国の権益が脅かされるのではという危機感を与えるのに十分であった。イギリスも中国における自国の利権を守るために日本に期待を示すようになり、光栄ある孤立を捨て1902年日英同盟を締結するに至った。これには日本軍を賞賛したモリソンの後押しもあった。
2. 領土割譲要求の沈静化
日清戦争以降、清朝は「瓜分」(中国分割)の最大危機にさらされていたが、義和団の乱によって勢いに歯止めがかけられた。戦闘において圧倒的な強さを示した連合軍であったが、その後の占領地支配には手を焼き、中国の領土支配の困難さに嫌でも気づかざるを得なかった。列強のその時の思いは連合軍司令官ヴァルダーゼーの「列強の力を合わせたとしても、中国人の4分の1でも治めるのは困難であろう」ということばに言い尽くされている。ただ例外的に領土支配を目指した国があった。ロシアと日本である。ロシアの満州占領は日露戦争を導き、さらに辛うじてその勝者となった日本は一層の領土的野心を滾らせ、日中戦争へと邁進していくようになる。
一方キリスト教会側も義和団以降、反感を買いやすかった傲岸な態度を改めるようになった。むしろこれまで積極的に関与していた裁判についても自粛するようになり、次第に教案は減少していった。
3.大逆事件の伏線の可能性
一見すると無関係のようであるが、幸徳事件1910年)の遠因を義和団の乱の際に起きた馬蹄銀事件に求める研究がある。馬蹄銀事件とは、清国の馬蹄銀という銀塊を、派遣部隊が横領した事件である。すなわち日本軍は自軍が綱紀が正しかったことを内外に喧伝したが、実際はそうではなかったことを『万朝報』の記者幸徳秋水らが厳しく追及した。それが馬蹄銀事件である。この一連の記事によって、幸徳秋水らは山縣有朋の恨みを買い、それが幸徳自身に処刑という厳しい処置が課される原因となったという説がある(小林1986年出版)。

評価 

1. 義和団の乱当時の評価
義和団の乱当時の世界は、社会進化論が有力なイデオロギーとして機能し、文明/野蛮という二項対立でもって物事が語られることが多かった。さきの二項対立には、西欧/非西欧という本来別カテゴリーの二項対立が無理やり重ねられ、さらにこの二項には暗黙の了解として上下のランク付けがなされていた。下位から上位へと移行すること、すなわち非西欧(野蛮)から西欧(文明)へ移行することこそが「進化」・「進歩」として受け止められていた。そのような中で起きた義和団のアンチ・キリスト的、あるいは非西欧的「悪行」は、「文明」に悖る野蛮な行為としてすぐさま世界に広まり、激しい非難が中国に寄せられることになる。
しかし一方中国の実情を知る人々の中には義和団の乱に対し同情的な声や、義和団の乱の意義を正しく見抜く人もあった。たとえば北京籠城を余儀なくされた外交官は「わたしが中国人だったら、わたしも義和団になっただろう」オーストリア・ハンガリー帝国人A.E.ロストホーン)とのべているし、ベイジル・リデル=ハート義和団の発生を国家的意識が目覚める前触れだといっている。日本でも青柳猛(有美)は「義和団賛論」(『有美臭』文明堂、1904)という文章を書いて、義和団に共感を示している。
2. 歴史学の中の義和団の乱
国史に、そして世界史に大きな影響を与えた点では一致するものの、義和団の乱についての評価は未だ定まっていないと言って良く、それが語られる地域-中国・日本・欧米-によって、無論中国人研究者であっても欧米的論調に近いものもあるが、論調が異なっている。大きく異なるのは義和団の性格についての評価である。中国や日本では、欧米及び日本の帝国主義に反対する愛国運動という捉え方をするのに対し、アメリカなどでは闇雲に外国人を攻撃した排外運動という捉え方をしている(エシェリックやコーエン等)。
帝国主義に関する点で、義和団キリスト教集団(宣教師や中国人クリスチャン)との対立の中で彼等の持つ様々な特権(行政上あるいは司法上)に直面して、それらが帝国主義に由来することに自覚的となり反対運動を行ったと前者は論じる。しかし欧米の研究者たちは、義和団帝国主義に自覚的でなく単に外国人嫌いからくる排外運動だと主張している。他方義和団愛国主義的か否かという点でも対立する。義和団が近代的な国家概念を有していたかどうか、「扶清滅洋」や「掃清滅洋」といったスローガンにおける「清」とは具体的に何を指すのかという点で一致を見ない。すなわちそのスタンスの違いから愛国主義だったといえるのか、あるいはナショナリズムの覚醒と言えるのかという点で論者の意見が分かれている。

義和団の乱余聞 

義和団の旗
親王善耆と川島浪速
北京籠城において、日本軍が防衛を担当した区画にあった粛親王府は粛親王善耆の邸宅である。彼は非常に日本との関係が深く、特に川島浪速とは自分の娘(日本名川島芳子)を後に川島の養女にするなど縁があった。その川島はこの義和団の乱の際、説得によって紫禁城無血開城させた人物である。粛親王と川島浪速は後に協力して満州独立運動に荷担していくが、二人の運命は義和団の乱以降交叉し始めたといえる。
賠償金の返却
あまりにも過酷な賠償金請求に対し、やがて国際的な批判と反省が起こり、賠償金を受け取った各国は様々な形で中国に還元することとなった。たとえばアメリカは、賠償金によって北京に清華大学1911年 - )を創設した。この大学は北京大学と並んで中国を代表する名門大学として成長し、現在でも理系分野ではトップと言われている。
日本も1922年に賠償金の一部を中国に対する東方文化事業に使用することを決定し、中国側に通告した。日本の外務省には、対支文化事業部が新設され、日中共同による「東方文化事業総委員会」が発足した[12]。また、東亜同文会・同仁会・日華学会・在華居留民団など日本国内で日中関係進展にかかわる団体への補助を行ったり、中国人留日学生への援助を行った。また現代まで続く成果として学術研究機関設置がある。これは北京人文科学研究所上海自然科学研究所東方文化学院の設立を指す。東方文化学院は、後に東京大学東洋文化研究所と 京都大学人文科学研究所東方部に改編された。東山銀閣寺の近くに建つ京都大学人文科学研究所東方部は、キリスト教会のような塔を持った美しい西洋風の建物で、塔の窓にはステンドガラスが使われている。但し塔の内部には許可なくしては立ち入れない。
文物の破損・流失と古美術商
八カ国連合軍の一年にわたる北京占領は、掠奪と詐取によって中国の文物の国外流出を促した。それは19世紀に世界に流出した文物と比較して、質量ともに巨大なものであった。宮城そのものの掠奪は免れたものの、その周囲にあった天壇や王府に所蔵されていた文物が被害に遭っている。盗難され、また欧米系占領軍から見て価値の分からない秘籍などはぞんざいに扱われ破損したものも多かった。たとえば『実録』(王朝の公的記録)や「聖訓」(皇帝勅書)等を収めた皇史宬も襲われたため、多大な被害を出している。他にも『歴聖図像』4軸や『今上起居注』45冊、方賓『皇宋会編』(宋版)、呉応箕『十七朝聖藻集』(明版)など貴重な秘蔵文書が消失した。また『古今図書集成』や『大蔵経』も破損・一部散逸などの憂き目に遭っている。東洋史研究者市村瓚次郎は北京に赴き調査した際に「大蔵の経典、図書集成、歴代の聖訓、其他種々の書籍の綸子緞子にて表装せられたるもの、悉く欠本となりて閣中に縦横にとり乱され、狼藉を極めたる様、目もあてられず。覚えずみるものをして愴然たらしむ」と慨嘆している。
多くの美術品が中国国外に流出したが、それは皮肉にも中国美術品の価値を世界に広めることになった。ジャポニスムによって切り開かれた東洋美術への関心は、19世紀末から20世紀初頭までは日本美術が対象であったが、次第に中国伝統美術にも注がれはじめ、1910年までには中国陶磁が主な対象となった。 こうした中国美術の輸出事業に携わったのは、まず、外交官・実業家張静江がパリで設立した通運公司(1902 - )、通運公司から独立しパリで長く営業した盧芹齋(C.T.Loo)のLai Yuang and Company(1908 - )、後に、日本の古美術商たちである[13][14]。1912年に恭親王コレクションの買い付けを行った山中定次郎の山中商会は、北京などで仕入れてロンドン、ニューヨーク、東京で売るビジネスを行った[15]。繭山松太郎の龍泉堂(1908に北京で創業)など他の業者は、北京で買い付けて日本へ輸入するのが主であった。日本経由で欧米へ流出した文物も多い。書画骨董青銅器磁器・書籍が主要な品目である。
日本に留まり現存するものも多い。泉屋博古館所蔵の青銅器「虎食人卣」(こしょくじんゆう)や東洋文庫が多く所蔵する『永楽大典』はその代表例である。この他王羲之「遊目帖」(代模本)は乾隆帝の秘蔵品であったが、やがて恭親王奕訢に下賜された後、義和団の乱の際に日本に流出した。ただ広島に落ちた原爆によって焼失している。

義和団の乱、簡易年表 

1894年   大刀会、活動を開始
1897年 11月1日 山東省において大刀会がドイツ人宣教師殺害。数日後、ドイツが膠州湾占拠。
1898年 5月 義和拳、「順清滅洋」を旗印に教会・信者を積極的に襲撃。
1900年 1月27日 列強の公使団、清国に義和団鎮圧を強硬に求める。
3月14日 毓賢を更迭し、袁世凱山東巡撫とする。
4月 袁世凱に弾圧された義和団、直隷省になだれ込む。
5月 義和団、北京へ到達。
6月9日 各国公使、自国軍の北京への援軍を要請。
6月19日 西太后義和団を支持し西欧列強に宣戦布告することを決定。
6月20日 義和団紫禁城の一郭にあった北京各国公使館を包囲( - 8月14日)
6月21日 清国、欧米及び日本の八か国に宣戦布告。
7月14日 天津、八カ国連合軍に占領される。
8月14日 八カ国連合軍、北京に到達し総攻撃を開始する。
8月15日 西太后と光緒帝、北京から逃亡。珍妃、紫禁城内の井戸にて死亡。
9月25日 義和団事件における事件の首謀者(清朝内)を発表。
10月8日 義和団事件に関する北京列国公使会議開催。
1901年 5月29日 清国、北京列国公使団の賠償金(4億5000万両)要求を受諾
7月31日 八カ国連合軍、北京からの撤退を開始する。

義和団の乱を扱ったフィクション作品 

戯曲
  • 老舎『神拳』
     
    「神拳」とは義和拳の源流の一つ。老舎は義和団との因縁が深い。彼は下級の満洲旗人の子として北京に生を享けたが、幼くして八カ国連合軍に父を殺されている。そのため幼少期は非常に苦労した。この戯曲には、老舎の義和団への思いが反映している。この他「吐了一口气」という作品も発表している[16]
小説
映画
マンガ

脚注 

注釈 

[脚注の使い方]
  1. ^ 毓賢、? - 1901。漢軍正黄旗の人。字は佐臣。買官(金銭によって官位を買う事)によって山東曹州の知府となったのを皮切りに、1888年按察使布政使を歴任した。1899年には張汝梅の後を受け山東巡撫となり、義和団対策に臨んだ。この時義和団に対し、融和的な施策を取ったことにより、義和団の勢力が増し、アメリカ公使コンガーの強い要請によって更迭され、袁世凱が後任の巡撫となった。ただ毓賢は罷免されたわけではなく、山西巡撫に就任。これは罷免を求める西欧列強に対する清朝の精一杯の抵抗であったといわれる。辛丑条約後、列強によって罪を問われ、この時点に罷免となった。その後新疆へと流される途上、蘭州で処刑された。『清史稿』巻465・列伝252より。
  2. ^ この場合の「洋」にはアメリカと日本も含まれている。
  3. ^ 董福祥、1839(あるいは1840) - 1908。甘粛省固原(現在の寧夏)の人。字は星五。1862年陝西省甘粛省に起きた 回民起義において反乱軍に参加した。しかし左宗棠の軍に投降して以後は、その配下として働き提督まで上り詰めた。1897年には北京防衛を任され、栄禄の配下となる。翌年に起きた戊戌政変の際には西太后を支持した。1900年の義和団の乱時には外国公使館を包囲し攻撃した。この時の攻撃は栄禄に比べると激しかったという。やがて北京が八カ国連合軍によって陥落すると、西太后が逃げるのを助けた。後に連合軍から戦犯の一人と名指しされて罷免され、失意の内に病死した。『清史稿』巻455・列伝242。
  4. ^ 列強への宣戦布告諸説。「宣戦布告」の真の理由については諸説あり、どの要素を最も重視するかという点で4つ説がある。一、「照会」説-偽造された列強からの「照会」に重きを置くもの。二、義和団の圧力があったとする説。三、天津において直隷総督裕禄が偽って列強に勝利したと上奏したことを信じ宣戦したという説。四、列強の度重なる帝国主義的圧力に堪忍袋の緒が切れたためとする説がある。
  5. ^ 端郡王載漪、1856 - 1922。愛新覚羅氏、つまり清朝の宗室出身。西太后の姪を妻とし、関係が深かった。そのため光緒帝を廃位しようとする計画、すなわち「己亥建儲」のときには、彼の子溥儁(ふしゅん)が大阿哥(=皇太子)に立てられることになった。しかし列強の反対などでこの計画は頓挫し、彼は列強を深く恨むに至り、それが義和団支持に結びついた。北京議定書締結後は、乱の責任を問われ流罪となり、子の溥儁も大阿哥の称号を奪われた。1917年頃北京に戻ったが、貧窮に苦しみつつ5年後に逝去。『清史稿』巻221・列伝8。
  6. ^ 聶士成、? - 1900。安徽省合肥の人で李鴻章とは同郷。字は功亭。1862年淮軍に参加し、李鴻章のもとで太平天国捻軍鎮圧に従事した。この後はフランス軍や日本軍と戦い戦果を挙げ、1897年に直隷提督に昇進した。翌年配下の軍隊は武衛前軍と改称したが、この軍は袁世凱新建陸軍同様、近代化を図った軍隊であった。1900年、この軍を率いて天津防衛に当たるも、砲弾に当たり戦死。常に兵たちの先頭に立ち、「腹破れ腸出ずるもなお軍を指揮して前進させた」という。『清史稿』巻467・列伝254より。
  7. ^ 裕禄、1844 - 1900。満洲正白旗の人、喜塔臘氏。字は寿山、号は寿泉。栄禄から高い信頼を得る。30歳を少し過ぎたばかりで巡撫に抜擢され、以後湖広総督軍機大臣礼部尚書を歴任、エリート街道を歩む。1898年栄禄の後任として直隷総督兼 北洋大臣となった。『清史稿』巻465・列伝252より。
  8. ^ 計画では歩兵大隊六個、騎兵中隊、野戦砲兵大隊、工兵中隊の五千人規模の予定だったが、各国の動向に合わせて減らされ歩兵大隊四個、騎兵中隊、野戦砲兵大隊等の四千人規模で始まった。そしてさらに各国が削減したので1901年11月には歩兵大隊四個、騎兵隊、野戦砲兵中隊の千三百人程度に減らされた。

出典 

  1. a b 森山康平『図説 日中戦争』太平洋戦争研究会編、河出書房新社、2000年1月25日、初版、6頁。ISBN 978-4-309-72629-8
  2. a b 猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日、18-19頁。ISBN 4-12-101232-1
  3. a b c d 梅本可奈子 (2008年6月20日). “【今日は何の日】1900年:義和団、独公使を殺害”. Searchina2011年6月21日閲覧。
  4. ^ 島崎晋『名言でたどる世界の歴史』PHPエディター・グループ、2010年6月、294-295頁。ISBN 978-4-569-77939-3
  5. a b c d e 鈴木(1969)pp.435-437
  6. a b 飯塚(2016)pp.42-43
  7. a b 佐々木(2002)p.215
  8. ^ 佐々木(2002)pp.240-242
  9. ^ 山縣有朋『『北清事変善後策』』(レポート)、。「今回ノ北清事変ヲ機トシ、朝鮮全部ヲ挙ケテ我カ勢力区域ニ移サント欲シ、或ハ露ノ満洲経営ヲ妨ケルヲ約シ、以テ我レノ朝鮮経営ヲ諾セシメント欲スルアリ [読点は加筆者]」
  10. ^ 猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日、18-25頁。ISBN 4-12-101232-1
  11. ^ 櫻井良樹「近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) ―漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治―」第29巻、2008年、 doi:10.18901/00000407、 NAID 120005397534
  12. ^ 日本外務省編『外務省の百年』原書房、1969、ISBN B000J9KFCA、日本外務省記録「各国ノ団匪賠償金処分関係雑件」。
  13. ^ Dominic Jellinek 2011.
  14. ^ Daisy Yiyong Wang 2013.
  15. ^ 桑原住雄 1967.
  16. ^ 渡辺安代「老舎『神拳』について:『義和団』「吐了一口気」との関わりの中から」『お茶の水女子大学中国文学会報』第7巻、1988年。

主な参考文献 

この記事加筆に際し、参考にした文献は多数に上るので、以下には日本語のものを中心に挙げている。

史料 

研究著作 

関連書籍 

関連項目 

ウィキメディア・コモンズには、義和団の乱に関連するメディアがあります。

外部リンク 

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やまい

病気   

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

健康とは、身体的、精神的、社会的に完全な良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。

世界保健機関憲章

病気(びょうき, 英語Disease)、やまい)は、人間動物に不調または不都合が生じた状態のこと。一般的に外傷などは含まれない。病気の類似概念としての、症候群(しょうこうぐん)、疾病(しっぺい)、疾患(しっかん)は、本記事でまとめて解説する。別の読みである、病気(やまいけ)は、病気が起こるような気配をいう。

病むという事は、身体的、精神的、社会的生活のどこかが不健康であるというサインである[1]。人はこのサインを受け止め、日常生活を修正し、病因について管理・治療を受ければ、多くの病気は早期に消失し、今まで以上に健康な日常生活を手に入れることができる[1]。すなわち病むという体験は、これまでの身体的、精神的、社会的生活を振り返り、己の生き方、価値観時間の使い方などを振り返って見直す機会である(セルフケア不足看護理論[1]。病むことは、これまでと違った新しい人生を手に入れ、自己成長を得る切っ掛けとなるのである[1]

定義 

病気の少女(1660年)。ハブリエル・メツーの作品。

病気は曖昧な概念であるが、個人で定義していいものではない

分布の数で判断しようとする試み 

ひとつには、自然科学的な習慣をそのまま持ち込んで、「定量的な分析」を志向し、数的な側面に着目する考え方、別の言い方をすると「正常 / 異常」という概念で分けようとする見解がある。

ある性質の集団の中での数的な分布で線引きしてしまおうとする考え方であり、統計分析の正規分布母集団の分析における習慣を持ち込むものである。本当はどこまでが「正常」どこまでを「異常」とするかは統計学でも定義は無く、正式の統計学では、線引きの値は任意であり様々に設定可能、とされている。だが、そうした任意の値の中から便宜的・習慣的にしばしば用いられている設定「2×D」を(あまり確かな理由もなく、半ば強引に)採用しておいて、「標準値からプラスマイナス2×SDまでの差を正常、それ以上のずれは異常(なので疾患)」として、「疾患とは全体の5%未満に見られる形質・状態で、正常とは残りの約95%こと」と一律に定義してしまおうとする例がある。 しかしこのように「集団内での数的な分布」を「病気」の定義として流用してしまうと、日本で約1000万人が難儀している糖尿病や、数多くの合併症をもたらす肥満までも「正常」とすることになってしまい、また一方で、特に基礎疾患がなく偶然的に高身長となった人で元気に生活している人までが 「病気」に分類されてしまうという問題が生じる。すなわち、異常(統計的に数が少ない状態)であれば病気であるとも言えないし、病気であれば異常である、などとも言い切れず、統計的手法によって病気を定義しようとする試みには無理があるのである[要出典]

定性的に定義しようとする立場 

逆に、質的な記述あるいは定性的な記述で病気を一般化して定義しようとする試み・立場がある。

ひとつには本人の認識している状態(あるいは本人の主観的経験内容)を重視し、病気の定義を「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」、あるいは「本人あるいは周囲[注釈 1] が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」とすることがある。

医師が疾患だと診断した人であっても、本人は生活上の問題を感じないことなどを理由に「自分は病気ではない。健康である」と述べていることがあり、あるいは「身体障害障害(広い意味で疾病の一種)ではなく個性である」と言われることがあり、これらはその意味でも一理あることともいえる。また、医療従事者の立場でも、本人または周囲が治療の必要性を感じなければ病院を受診に来ることも無いので、このような定義でも実際上の問題は生じにくい。

ただし、これも突き詰めて考えてみると、医師が依存症嗜癖骨粗鬆症などと診断するようなケースでも上記のような認識のズレが生じていることがあり、医学研究の立場では本人や周囲の判断・価値観に関わらずに病気を定義し診断できるようにすることへの要求は存在する。

医療関係者の主観を織り込もうとする試み 

医師など医療産業に従事しそれで収入を得ている者の中には「病気とは心身に不調あるいは不都合がある状態のことであって、いわゆる医療による改善が望まれるもの」などと、“医療”という言葉を手前味噌的に、半ば強引に定義に盛り込んでしまう例も無いわけではない。(だが、医療とは病気を治すものであるから、病気の定義に「医療」を用いるのは一種の循環論法となりうる。また、病気には医療を必要とせず治癒するものも多いので、その意味でもかなり問題のある定義である(後述))

医療人類学での見解 

医療の領域で起きていることを、医療関係者の立場からも患者の立場からも離れて、客観的そして学問的に研究する医療人類学では、「病気(sickness)とは疾患(disease)と病い(illness)をあわせたもの」とする定義も提出されている[2]。疾患(disease)を"生物学的なもの"とし、病い(illness)は"主観的な経験のこと"、とする説明である。この説明方法を採用した場合、例えば、上記の糖尿病の例では、疾患の定義に当てはまる者は1000万人いるかもしれないが、慢性疾患で自覚症状が少ない初期では本人が「病い」と捉える人はごく少ない、という理屈になる。

社会的状況 

冒頭に説明したように、何が病気であるのか病気でないのかを決めるのは、容易なことではなく、各立場なりの見解があり、一般の人々は多くは自分が感じている感覚内容で病気か病気でないか判断していて、ちょうど「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」といった定義がそのまま当たるようなことが日常的には行われているが、医師の集団は医師の集団で医師なりの立場で生物学寄りの見方をしてみたり統計を見たりし、臨床医師では、一般論は脇に置いておいて、目前に現れた患者の個別的な症状と医学書に書かれている慣習的な判断基準を見比べて便宜的に判断する 等々等々、さまざまなことが行われている。それらの見解は様々に複雑に相互影響しあう[注釈 2]

現実社会では病気に対する見解は立場文脈ごとに異なり、さまざまな見解が複雑にせめぎ合う。実際、臨床の現場では医師と患者の見解はしばしばずれたり対立することがある。上では周囲は病気と判定しているが本人は病気とは思っていない例をいくつか挙げたが、逆に本人が病気だと感じているのに医師の側がそう認識しない、しようとしない、というケースもある。たとえば本人が身体に激痛や異常な感覚などを感じ明らかに何らかの病気だと直感しそれを訴えているにもかかわらず、医師の側ではCTやMRIなどの画像を見て、そのその検査とその医師の技量との組み合わせではたまたま何も見つけられなかったことを根拠に、「("客観的に見て" あるいは"生物学的に見て")疾患ではないでしょう。気のせいでしょう」などと告げて放置し、すっかり悪化したり死亡してから、事後的に他の医師によって誤診だったと判定されるようなケースもある。またステロイド皮膚症や各種の公害病乳幼児突然死症候群の例に見られるように、その病気が存在するかどうか自体が学問的のみならず政治的にも問題となることもある。

分類 

病気を分類することは容易ではなく、またその分類は医学の変化に伴い頻繁に変更される。医学においては、一般に以下のような観点によって病気は分類される。

医療の要・不要による分類 

また、次のような分類が提唱されることもある[3]

  • カテゴリー1 : 医者がかかわってもかかわらなくても治癒する病気 (自然治癒力や本人の努力で治癒するもの)[3]
  • カテゴリー2 : 医者がかかわることによってはじめて治癒する病気[3]
  • カテゴリー3 : 医者がかかわってもかかわらなくても治癒しない病気[3]

開業医や市中病院医師が日常の診療で遭遇する「疾病」のほとんどは、上記で言えばカテゴリー1に属する[3](すなわち、医者・医療者がかかわらなくても治癒する病気である)。その比率は70〜90%ほどであるという。著者の岡本裕医師が実際に計数してみると95%がカテゴリー1だったという[3]

カテゴリー3に分類される病気、つまり「不治の病」もまだまだ多い[3]。(例えば神経変性疾患、神経機能障害・・等々はそれに分類される)

(カテゴリー1と2の病気については)病気にも ①当人が自分の力で治すことができるもの、と ②自然治癒力も及ばず、医療従事者と連携をとり治癒をはかるとよいもの、の2種類があるということである[3]。①の当人が自分の力で治すことができる病気には、 高血圧[注釈 3]糖尿病高脂血症肥満病、痛風便秘症、不眠症[注釈 4]自律神経失調症・・・などが挙げられる。

病気と健康 

病気の対義語は、一般に健康であると考えられている。

WHO(世界保健機関)は健康を次のように定義している。

身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない

西洋医学風の用語で言えば、健康というのは恒常性が健全に保たれている状態、と言い換えることも可能であろう[6]。そういう観点からは、病気(疾病)というのは、恒常性が崩れてしまって元に戻らなくなっているか戻りづらくなっている状態だと考えると理解しやすい[6]

さらに恒常性という概念を中国伝統医学の「未病」という用語で把握しなおしてみると、病気や健康という概念がより分かりやすくなる[6]

未病 

伝統中国医学中医)で「未病」と診断されるのは、検査で明らかな異常がなく、明らかな症状も無いが、少し調子の悪い状態で、病気になる前段階の、心身の微妙な変化を指している[6]。漢文訓読調でいえば「いまだやまいにあらざる」となる。「未病気」をキーワードにして、体の状態を分類してみると次のようになる。

  • 状態 1 :恒常性が健全に保たれている状態・・・健康[6]
  • 状態 2 :恒常性が崩れかけている状態・・・未病[6]
  • 状態 3 :恒常性が崩れ、そのままでは元に戻らなくなっている状態・・・病気[6]

これらの間にははっきりした境界はなく、連続的に移行している[6]中国には昔から「上工治未病」(上工は未病を治す)という言葉がある。つまり良い医者というのは、発病してからではなく、未病の段階で異常を察知し対処するものだ、ということである[6]。一方、西洋医学では、未病を見過ごしてしまい、発病してからはじめて治療に取り掛かる[6]。病気を火事に喩えて言えば、中国医学が火事になりそうな危険な場所をあらかじめ点検したり、燃えそうな建材をあらかじめ不燃材にして無事に防ぐのに対し、西洋医学では火事が起きてしまってから対処しよう、という考え方である。確かに一旦発火してしまえば、とりあえず燃え盛る火の勢いを抑えなければならないのではあるが、それよりも火事の防止や再発を防ぐことも非常に大切であるように、西洋医学のように発病するまで放置しておいて発病してから対処するという考え方は得策とは言えず、中国伝統医学のように、未病気の段階でそれを的確に察知し、自己治癒力を高めることで早めに対処しておこうとする考え方のほうが適切であり重要である[6]

戦争による負傷で大量の死者が出ることが続いた20世紀前半には西洋医学が目覚しい進展を見せ、抗生物質ワクチンが開発され生命を脅かす感染症などを激減させることに成功はした。だがその後、疾患の状況はすっかり様変わりし、生活習慣や生活環境に起因した心疾患脳血管疾患アレルギー疾患、メタボリックシンドローム膠原病などの慢性疾患が急増し重大な課題となっている[6]。これらの慢性疾患は西洋医学的な治療法(その多くが対症療法)だけでは限界があり、根本治癒にはどうしても、生活習慣を是正しつつ自己治癒力を高めることが不可欠となるので、心と体を一体としてとらえ全体のバランスとリズムをとりもどし病を癒す、と考え、心身一如の思想に立つ東洋医学の考え方が必須となる[6]

周辺の語の概念 

しばしば病気は、「症候群」「疾患」「疾病(しっぺい)」「障害」「怪我」「変異」等の語との概念上のオーバーラップがある。

病気の存在を前提として、その患者に共通する特徴のことを病態(びょうたい)あるいは病像(びょうぞう)という。病状(びょうじょう)は、ある特定の患者についてその臨床経過を指すことが多い。これらの単語はしばしば混合されて使われる。

病気と「疾患」・「疾病」 

医学では、「病気」という単語はあまり使用されず、代わりにより厳密な疾患(しっかん)、疾病(しっぺい)を使うことが多い。病気という語では内因性の疾患しか含まないような印象を受けることがあるためである(事故による骨折は、一般的には病気とは言わないことが多い)。なお、精神医学の用語の精神疾患は「障害(disorder)という概念であり、医学用語の「疾患」(disease)とは異なる概念である。

英語の disease(疾患、疾病)は sickness(軽い病気)、illness(病気)の原因を示す語で、病名と症状が明らかな具体的な病気に用いられる。sickness、illness は"病気になっている状態"を指し、disease は感染などによる体内機能の異常を意味する。一般には、熱や風邪など生活上の病気には用いられず、伝染病や癌など深刻な病気に用いられ、命に関わるようなニュアンスがある。

疾患・疾病・病気と「症候群」 

症候群(しょうこうぐん)とは、原因不明ながら共通の病態(自他覚症状・検査所見・画像所見など)を示す患者が多い場合に、そのような症状の集まりにとりあえず名をつけ、扱いやすくしたものである。

人名を冠した症候群の名前も数多く、原因が判明した場合にはその名前が変更されたり、時には他の病名と統合されたりすることがある。一方で原因判明後も長い間そのまま慣用的に使われている「症候群」は多く、逆に「〜病」の名を冠する原因不明の疾患も多くあり、実際には明確な区別がなされていないことが多い。

精神科領域においては、扱う疾患のほぼ全てが症候群と呼ぶべき疾患であるため、利便性の問題から症候群とは呼ばず○◯病・○○症と言った語を用いる。

疾患・疾病・病気と「症状」 

症状(しょうじょう、symptom)は、病気によって患者の心身に現れる様々な個別の状態変化、あるいは正常からの変異のことである。病気にかかることを罹患(りかん)、症状が現れることを発症(はっしょう)または発病(はつびょう)という。患者本人によって主観的に感じられるものを自覚症状(じかくしょうじょう)、周囲によって客観的に感じ取られるものを他覚症状と呼んで区別する。単に「症状」といった場合、自覚症状のことのみを指す場合があり、この際は他覚症状のことを所見(しょけん)、徴候(ちょうこう)と呼んで区別する。

通常、「疾患」と「症状」は本来大きく違う概念だと考えられている。つまり、疾患が先にあって、それを受けて「症状」が生じる、というものである。しかし日常診療の場では、症状が確認されても、その症状を来たす原因がよく分からない場合が多く、この場合「症候群」での例と同様に、症状名と病名との境目が曖昧になることがある。

例えば、脱水という病名はないが、脱水が見られたら原疾患はさておき脱水の診断の元に治療を行うことがある。近視は症状の名前としても病名としても使われる。本態性高血圧という病名は、別の基礎疾患があって二次的に高血圧となっているものを除いて、原因不明で高血圧という「症状」を起こしているものをまとめて含めるための「病名」である。

ある臨床像が、原疾患に見られる症状のひとつであるのか、あるいは合併症として出現した別の独立した疾患なのかについては、医学の教科書を執筆する際の問題となるだけではなく、保険診療報酬や統計にも関わるため、軽視できない問題となる。

症状を研究する医学の一分野に、症候学がある。

 

病気と年中行事 

日本では古くは病気はのせいだとか、キツネ人間に宿るためだとかと考えられていた。そのため病人が出ると、病気を治癒させるために祈祷師を呼んでお祓いをしてもらうということがあった。

現代の日本でも年中行事として、病気をしないように(鬼が来ないように)節分に豆まきをする、端午節句菖蒲湯に入るなどといった習慣が残っている。

脚注 

[脚注の使い方]

注釈 

  1. ^ 「本人あるいは周囲が」としたのは、精神疾患や軽症の疾患の中には、本人は生活上の不都合を感じないが、周囲の人が生活上支障をきたすために治療の必要性を感じる場合があるからである。これは病気と類似概念の混同である。 精神疾患病気#病気と「疾患」・「疾病」も参照のこと。
  2. ^ 一般の人々は、医師からの説明を聞いて、それを自分の考えとして採用することもある。また逆に医師の側も、患者から報告を聞いて、はじめて何かを「疾患」と認識し、そうした断片的情報が学会などで徐々に集約されて、あらためて大規模統計がとられる場合もある。マスコミで医師が語る内容も人々の病気観に影響を与える。
  3. ^ 遺伝的背景と生活習慣が原因となる本態性高血圧症は高血圧の80 〜 90%であって、残りの10 〜 20%は高血圧の基礎疾患が明らかな二次性高血圧症である。二次性高血圧症では基礎疾患の早期発見・早期治療が重要である[4]
  4. ^ 不眠のなかには、実は本当の原因として、周期性四肢運動障害、むずむず脚症候群、概日リズム睡眠障害うつ病などが隠れている場合があるから、鑑別診断が重要である[5]

出典 

  1. a b c d 吉松和哉; 小泉典章; 川野雅資 『精神看護学I』(6版) ヌーヴェルヒロカワ、2010年、71頁。ISBN 978-4-86174-064-0
  2. ^ The Anthropologies of Illness and Sickness”. Annual Review of Anthropology(1982年10月). doi:10.1146/annurev.an.11.100182.0013532009年12月25日閲覧。
  3. a b c d e f g h 岡本裕「はじめに~第1章」『9割の病気は自分で治せる』中経出版、2009年、pp.1 - 46。
  4. ^ 『今日の治療指針2011年版』医学書院、2011年、pp.339。
  5. ^ 『今日の診断指針第6版』医学書院、2010年、pp.339。
  6. a b c d e f g h i j k l m 岡本裕「第3章」『9割の病気は自分で治せる』中経出版、2009年、pp.121 - 138。

参考文献 

関連項目 

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外部リンク 

 

暴力団

暴力団   

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

暴力団(ぼうりょくだん)は、「暴力あるいは暴力的脅迫によって自己の私的な目的を達しようとする反社会的集団[1]日本を活動の中心地とし、その構成員は主に「組員、構成員、暴力団員」などと称され、映画などの娯楽作品の影響などで日本国外においても「YAKUZA」(ヤクザ)として知られている。合法的な企業(いわゆる企業舎弟)などを傘下に組織することもある。

暴力団」は暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律暴力団対策法)により法的な定義を与えられている[2]。すなわち、「その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員を含む)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体」[3]。通常は「ヤクザ」と同義であるが[2]、テレビや新聞などのメディアでも「ヤクザ」という語の使用は避けられ、もっぱら「暴力団」の語が用いられている[3]。一方で、暴力団員は自らのことを任侠道に邁進する者として、「極道」「任侠の徒」といった美称を好んで使う。

暴力団対策法の定める要件を根拠に指定を受けた組織を「指定暴力団」という[4]。なお、六代目山口組住吉会稲川会神戸山口組および絆會の5団体で全暴力団の構成員・準構成員などの人数が70%前半代を占めており、警察庁は左記5団体を主要暴力団と見なしている[5]

暴力団の構成員、資金や便宜を供与するなどで暴力団に自発的に協力する者、および、暴力団暴力団構成員を利用するなどして交わりを持つ者などを「暴力団関係者」という[6]。近年では、「暴力団」という規定も新たに設けられた[7]

2020年4月2日警察庁の発表によれば、2019年末時点の全国の暴力団勢力は2万8200人(対前年比2,300人7.5%減)で、15年連続で減少した。暴力団に所属する構成員(組員)は約1万4400人(対前年比1,200人減)、所属しないが暴力団の活動に関わる準構成員などは1万3800人(対前年比1,100人減)。暴力団勢力のピークは1963年の18万4100人だった[5][8][9]

呼称 

暴力団」との呼称は警察命名マスコミが広めたものであるが[10]、平成4年3月1日施行の暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(暴対法)第2条第1項第2号では暴力団を、「その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員を含む)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体」と定義している。税制などの暴対法以外の法律では任意団体として扱われる。暴力団自身は自らの組織を「任侠団体」と呼称している。

創設者の姓名、発祥地や拠点とする地名、「任」「侠」等のスローガンとなる漢字を用いた文字などに「」「会」「一家」「連合」「連合会」などを添えた団体名を名乗る場合が多い。他に暴力団ではなく一般企業であることを強調したい場合に「興業」「総業」「企画」「商事」が用いられる(もちろんこれらの屋号を使う社が全てそうだというわけではなく、暴力団組織が一般企業を装って活動するための、言わば「隠れ蓑」)。

江戸時代からほとんどの団体は「一家」を冠し、傘下に「組」を冠する団体を置いていた。また、明治から昭和にかけて複数の一家が集まった「会」、「連合」などが現れた。令和の現在も「会」の傘下に「一家」を置き、さらにその傘下に「組」や「興業」を置く団体が多いが最大勢力の山口組に関しては他の暴力団に比べ新興組織であるため例外と言える。社会に対しては企業や右翼団体、また近年ではNPO法人を装うこともある。

シノギ(凌ぎ)」と呼ばれる資金獲得行為には、いわゆる「みかじめ料」(縄張り内で一般人が商業を営む際の挨拶代や権利代。用心棒料)徴収などの恐喝行為(および、意に沿わない者や建造物等に対する放火や銃撃)、売春の斡旋、覚醒剤麻薬などの薬物取引、窃盗賭博(20世紀前半までは丁半、以降は闇カジノ)開帳、誘拐による身代金闇金融総会屋などの非合法な経済活動、何らかの理由で公に出来ない交渉事の請け負いや介入を行うことが多い。また、日本刀銃器などを用いた団体間の抗争を行うことがあり、それによる殺人事件も発生している。刺青指詰め、盃事(さかずきごと)などの文化を持つ。構成員は社会的には「暴力団員」と呼ばれるが、その他にも「ヤクザ」(転じて「ヤーさん」、「ヤっちゃん」等)、「極道」、「悪党」、「任侠」、「渡世人(とせいにん)」、「稼業人(かぎょうにん)」、「筋者」等、年少者の場合は「不良」、末端構成員の場合は「チンピラ」、「三下」等と呼ばれる。

「ヤクザ」の語源は多説あるが、主に唱えられるのは以下のとおり。

  • カルタ賭博の追丁株で一番悪い目である「八」「九」「三」の数(いわゆるブタ)から由来するという説
  • 喧嘩などの仲裁を行った「役座」という社会的地位に由来するという説

また数字の「893」は「ヤクザ」の直接的表現を避ける場合に使われる。

極道」は自らを美称する呼び名で、語源説は以下の2つ。

  • 「男の道を極めし者」から
  • 「極道楽」の略で「道楽を極める遊び人」の意

また定説ではないが、元警察官の北芝健は「獄道」が語源という説を提唱している。

独自の倫理観として「任侠道」(的屋においては神農道)が存在し、活動に置いての大義名分に使用される。

歴史と区分 

元々「暴力団」という名称は、警察が名付けた名称であるが、第二次世界大戦後、マスメディアを通す形で一般でもその名称で認知されるようになった[11]

江戸時代町火消から始まったという説があり、祭礼の周辺で商業活動を営む者を「的屋」(てきや)または「香具師」(やし)と呼び、丁半などの博打を生業とする者を「博徒」(ばくと)と呼んだ。江戸時代においては、これらの者達は一般社会の外の賤民アウトローと同義)的身分とされていた。

明治時代に入ってからは、新たに肉体労働組合も加わることになり、急速な発展と同時に膨大な労働力が必要となったことで、炭鉱や水運、港湾、大規模工事現場には、農村や漁村から屈強な男性達が集まってきた。これらの男性達の中から、力量ある男性が兄貴分として中心になり、「組」を作っていった。労働者同士による諍いも多く発生したが、警察の手が足りない状況であったため、いわゆる自警団的な役割を持った暴力団組織も結成されるようになっていった。

太平洋戦争終結直後は、日本が連合国に敗北し国土も焦土と化したことで物資が不足し闇市が栄えていくことになり、特に露店を本職としているテキ屋系団体が勢力を増していった。また、敗戦による社会の荒廃により戦後の日本の治安は極めて悪かった。その中で、新たに戦後の混乱の中で形成された「愚連隊」(ぐれんたい)などの不良集団から暴力団が誕生することもあった。

警察側も急成長する暴力団に対して摘発に乗り出し、警視庁管内だけでも1950年4月に約5,000人、同年7月には約200人と大量検挙(暴力団狩りと表現)を行ったが、多くを釈放せざるを得ず[12]焼け石に水の状態が続いた。

その後、日本の急速な経済復興に伴い沖仲仕芸能興行など合法的な経済活動にのみ従事する「企業舎弟フロント企業)」も生まれた。現代の一般社会からは、的屋も博徒も同じ「暴力団」と見なされている。現代の暴力団は的屋の系譜を継ぐ団体(的屋系暴力団)、博徒の系譜を継ぐ団体(博徒暴力団)の両方が存在するが、明確な区別は建前上でしかなく、様々な非合法活動を行っている。この当時の日本の暴力団は、戦後での大きな「貸し」から、公然と活動していることが多く、警察との裏取引(いわゆる「お付き合い」)を行ったり、メディアに露出する傾向もあった。

また、バブル景気の影響により、暴力団の勢力が増大した時期(1986年1991年)があり、その時期の暴力団は全国の地価高騰を背景に、地上げ屋を行っている。その犯罪行為によって億単位の金を手にする暴力団若手幹部が現れた程であった[8][13][14]

1992年暴力団対策法が施行され、暴力団は公然的活動がしづらくなり、堂々と組の看板を出して事務所を開くことが難しくなった。日常生活においても、暴力団関係者であるだけで金融機関から融資を受けることもできなくなり、2013年に発覚したみずほ銀行暴力団融資事件では、自動車を購入した暴力団員へのローンにかかわったみずほ銀行の会長や頭取らが退任した[15]

山平重樹によると日本で一番古い系統を持つ組織は指定暴力団松葉会の二次団体である博徒系の大久保一家だという[16]

組織 

日本のヤクザは通常、親分(組長)に対して弟分と子分が絶対的に服従する家父長制を模した序列的・擬制的血縁関係を構築することを特徴とし、この関係によって暴力団の強固な結合を確実なものにする。一般に、代表者である組長(会長、総長、総裁などとも)と構成員である組員(組織名が、会、一家であっても組員と呼ばれる)とは、盃事と呼ばれる儀式を経ることによって強い絆で結ばれる。組員は、組長から見て弟分(舎弟)と子分(若中、若衆など)の2つに大別される。舎弟の方が序列は上だが、跡目継承権は子分が上である。組員がさらに自らを組長とする団体を組織した場合、この団体は2次団体と呼ばれる(この場合、最初の組長と組員のみの組織を1次団体と呼ぶ)。2次団体の組員もまた、自らを組長とする3次団体を組織する。

これを繰り返すことによって暴力団ピラミッド型の階層構造を形成する。例えば山口組は、5次団体までの存在が確認されている。各階層の団体において、当該組長と盃を交わした組員を特に直参と言う。直参より下の下部団体組員について、暴力団側は「上部団体とは関係のない者」と主張しているが、外部社会からは「上部団体の統制下にあり、上部団体組長の指揮監督下にある者」と見られており、損害賠償請求訴訟でも上部団体組長の使用者責任を認める判決が出されてきた。

暴力団組織においては子分相互の間においても厳重な上下関係があり、「分違い(ぶちがい)」といって暴力団社会における一種の人物的な重みの違い、すなわち「貫目(かんめ)」の違いによって上下的な関係がきまり、兄弟盃(的屋系暴力団では義兄弟盃)と言われる盃事によって擬制の兄弟分となる。

組長が引退したり死亡した場合には、組員の中から新たな組長が決められる。個々の組織の状況にもよるが、長男に当たる第一の子分(若頭、若中頭、若者頭、理事長など)が選ばれる場合が多い。新たな組長が就任すると、他の組員との間で盃直しと呼ばれる儀式が行われ、新たな序列に基づく擬制的血縁関係が再構築される。先代組長が跡目を指名しなかった場合には、組員同士の話し合いや入れ札(投票)で決められる。跡目選定を巡る内部対立から組織分裂に到った例としては、山口組からの一和会の分裂が挙げられる。

暴力団ヤクザ者のギルド、または相互扶助団体のようなものであり、組に入りたての時期に組長の家などに住み込んで雑務を行う[17]「部屋住み」の時に組長や兄貴分から貰える小遣いを除けば企業のような組織のように組員に対しての給与のようなものは存在せず、各組員は自分で自身の生活資金を含めた金を稼がなければならない。親分・子分関係は徒弟制度という側面もあり、建前上は「食うや食わずの若者に世にしのぎ方を教える」ということになっており、部屋住みの時期に親分や兄貴分について資金獲得の手段を学ぶ。

組員となるのは個人によって事情は違うが、組員である親しい人間からの紹介・勧誘であることが多い。年齢の近い組員と遊んでいるうちに組事務所に出入りするようになって勧誘される、少年院刑務所で親しくなった者(すでに組員である場合や、将来組員になる者)からの勧誘、暴走族等の先輩・後輩関係のように上下関係があり暴力団と親和性の高い集団に所属していた場合の、後に組員となった先輩からの勧誘等がある。

組織は組員から「子が親を養う」(孝養)の建前のもと「組織によって庇護すること(トラブル時の対処、人員の融通等)への見返り」、「代紋の使用を認める(資金活動の際に組織の名前を使用する等)ことの対価」として一定額の会費を集め運営経費に充てる。組員の上納金に関しては2015年の山口組分裂騒動が起こった時点では、直参組長たちに月100万円以上もの上納金が課せられていることが話題となり、同時期の文献には幹部で月40万 - 50万円、二次団体の若頭クラスで月25万円、平組員だと1万円弱を組に収めるとある[17]。また、義理掛けなどの慶弔費(香典には税金がかからないので課税対策になり、高額の香典のやり取りがなされる)も これとは別に徴収する。また各組織ごとに企業舎弟や顧問先などをもち、そこで得られた利益は上納金として上部組織に納められるようになっている。近年では高額な会報や上部組織の関連企業が扱う各種備品の購入を強要されることもあり、度重なる上納金の強要が組織内の対立と分裂の要因ともなっている。

大組織の親分になると自らの手で違法な金儲けをする必要はなく、上納金を組織の運営費や活動資金に充てるほか、豪邸を構え、愛人を囲い、高級外車を乗り回すなど、豪奢な生活を送る資金として使用しているのが実態であり、麻薬覚醒剤の密売、恐喝ゆすりたかり振り込め詐欺ノミ行為強盗置き引き密輸殺人追剥万引き窃盗誘拐闇金融管理売春美人局などの犯罪行為は任侠道をわきまえない不心得者の下部団体の組員などが個人的に行っているという建前をとっている。逆に組員だからといって犯罪行為をしなければいけないということでは無く、一般企業に組員であることを隠して就職し、給料を上納金に当てている者も見られる。

なお、警察庁暴力団の収益源のうち、特に覚醒剤取締法違反、恐喝、賭博及びノミ行為等の4種類の犯罪によるものを「暴力団の伝統的資金獲得活動」と整理している[5]

組織犯罪そのものは淵源的には悪政を敷き苛斂誅求を求める為政者からの自警や相互扶助的な目的で結成された場合が多く[18]、このように弱きを助け強きをくじき仁義を重んずる「任侠道」を標榜する暴力団もあるが、その任侠がお題目に過ぎない組もあり、前者の場合は組織内は相互扶助的な色彩が強いが、後者の暴力団社会は弱肉強食である。

組織内での制裁は指詰めから除籍破門絶縁所払いに至るまで多岐に渡る。

現行法では暴力団や組員に対しては住居の自由などの基本的人権の侵害すら懸念されるほどの規制が行われているが、イタリアのマフィア対策統合法のような暴力団の存在自体の非合法化はなされていない。

暴力団不法行為に対し「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」(平成3年法律第77号、暴対法)が1992年3月に施行された。その後、暴力団や関連団体に携わる者のうち、構成員については右肩下がりで減少していたものの、逆に準構成員の数が増えて補完する形となり、1991年から2004年までは9万から8万人の横ばいで推移していた。しかし、2004年以降はともに数を減らしており、2010年から2016年は毎年5,000人~8000人程度、2017年以降は減少幅が少なくなったものの減少し、2019年末時点で約28,200人である[5]。このように暴力団の活動に打撃を与え、目に見える範囲では効果を上げている一方、資金活動が行えなくなった暴力団の犯罪の地下組織化も懸念されている。また、減少の一部に半グレグループに行った者もおり、特殊詐欺や金の密輸などの組織犯罪分野で台頭している[19]。また、暴力団側も近年は新人や下部メンバーを組員として登録せず、傘下の半グレ集団の一員として活動させているとも言われる[20]

更に、資金活動が行えなくなったことによる暴力団の困窮化が指摘されている。複数の暴力団の関係者によるATM不正引き出し事件を1例に困窮する組員が、別の組織の組員や犯罪グループと手を組むことで、より巧妙で悪質な犯罪に手を染めるようになった。また、暴力団による集団万引きやサケやあさり、なまこの密漁生活保護費を巡る詐欺拳銃を担保に借金結婚式場で売上金の窃盗電気料金を抑えるためにメーターの違法改造する等、困窮を理由に見境なく犯罪を犯す事例が出ている[21]

組員が暴力団を辞めても暴対法の規制が数年間続き、その間は元組員は就業できないという状態となるケースも多く、辞めたくても辞めることができない組員も存在する。辞める意向を示す組員に対し支援する動きや支援制度を設けようとする動きも見られるが、一般人には困窮する元組員に対し「自業自得」とみる向きも多い上、支援制度が暴力団に利用される恐れも多く進展していない。

また、警察などの支援で離脱した元組員は、2006年2015年の間で約6,120人。一方で、支援を受けて就労に至ったのは147人と約2%にとどまっている。「生活保護を受けたい」などと働く意欲のない者も多く、昔の仲間との関係が切れなかったり、無職のまま金に困って出戻りする例も少なくない[22]。更に、暴力団を辞めたものの詐欺グループの誘いに乗って、詐欺犯罪をするなど、犯罪の世界に再び染める者もいる。

そして、暴力団離脱者の更生を促す目的で、暴力団追放運動推進都民センターが、離脱者の就労証明書を発行して金融機関口座開設を働きかける取り組みを行っているが、偽装離脱している恐れがあること、口座が犯罪や不正使用目的に使われる恐れがあることから、金融機関側は消極的である[23]

暴力団構成員及び準構成員等の年齢構成 

近年の暴力団構成員及び準構成員等の年齢構成は、40歳未満の層の減少が顕著であり、暴力団の高齢化が進んでいる。2014年末時点で、40歳未満は約26.3%(20歳未満:0.0% 20~29歳:5.1% 30~39歳:21.2%) 、40歳以上60歳未満は約51.7%(40~49歳:33.2% 50~59歳:18.5%)、60歳以上は約22.0%(60~69歳:15.8% 70歳以上:6.2%)であった[24]

これは、30年前の1984年(昭和59年)末で、20歳未満の暴力団員が1.8%(1,679人)、20歳代で22.6%(21,205人)、30歳代で39.3%(36,945人)であったのと比べると、20歳未満は約90分の1以下(人数は約60分の1以下)、20歳代は約4分の1以下(人数は約3分の1以下)、30歳代は約3分の2(人数は約3分の1以下)である。逆に、40歳以上は、40歳代で25.8%(24,186人)、50歳以上で10.5%(9,895人)であり、40歳代は約1.3倍(人数は4分の3)50歳以上は約3.9倍(人数は2.2倍)である。

また、1966年(昭和41年)末は、20歳未満は6.3%(9,261人)、20歳代は49.8%(73,259人)、30歳代は29.5%(43,466人)、40歳代は9.0%(13,238人)、50歳代以上は5.4%(7,947人)と、40歳未満の層が約85.6%を占めていた。

更に、1989年(平成元年)版犯罪白書でも、若者の暴力団離れと暴力団構成員の中高齢化が進んでいることを指摘しており、暴力団の高齢化自体は、前々から進んできていることが伺われる[25]

但し、前述したように、暴力団構成員及び準構成員の減少の一部に半グレグループに流れた者がいること[19]、及び暴力団側も近年は新人や下部メンバーを組員として登録せず、傘下の半グレ集団の一員として活動させているとも言われており[20]、若者の暴力団離れが進んでも、他の犯罪組織グループに属していることに留意する必要がある。

警察庁によれば、暴力団組員の年代構成は、2006年末で、10代以下が0.1%、20代が12.6%、30代が30.6%、40代が22.1%、50代が20.5%、60代が11.8%、70代以上が2.3%であり、2019年末で、10代以下が0%、20代が4.3%、30代が14.0%、40代が30.4%、50代が28.2%、60代が12.3%、70代以上が10.7%である[26]

暴力団関係者 

暴力団のメンバーを指す語として、「暴力団員」「構成員」、ならびに「組員」などがあり、いずれも同じ意味である[3]。これらを含む「暴力団関係者」の他の例として、組に所属してはいないが組との関係を有し、組員と似たようなこと、あるいは組のスポンサーのようなことを行う者「準構成員」が挙げられる[27]警察庁の定義によれば、準構成員とはすなわち、「構成員ではないが、暴力団と関係を持ちながら、その組織の威力を背景として暴力的不法行為等を行う者、または暴力団に資金や武器を供給するなどして、その組織の維持、運営に協力し、もしくは関与する者」となる[28]。ほか、準構成員よりさらに暴力団と距離を置く「暴力団関係者」を指す「共生者」という警察用語などがある[29]

暴力団関係者であることのデメリット 

2000年代に都道府県や市町村で暴力団排除条例が施行されると、条例の目的に沿って各種事業者は、契約を結ぶ相手方との間で暴力団関係者か否かについて口頭または書面で確認しなければならなくなった[30]。確認の際に暴力団関係者であること名乗ると約款を根拠に契約(利用)拒否されるか脅迫罪で逮捕される可能性が、また暴力団関係者でないと偽ると契約が解除されたり詐欺罪で逮捕されることとなる。このため暴力団排除条例が設立されて以降、暴力団関係者は公的サービス(公営住宅への入居または同居、生活保護の受給等)が受けられなくなったほか、クレジットカードの入会、銀行口座の開設(既存口座の維持[31])、不動産の購入・賃貸契約[32]自動車購入の契約[33]、ホテルへの宿泊[34]携帯電話の購入、ゴルフ場でのプレー等ができなくなるなど日常生活に大きな制限が掛けられることとなった。溝口敦は「情けないのはヤクザの側ともいえる。法的に突っ込みどころのある暴排条例に反論するような理論武装ができなくなっている」と事実上皮肉を込めて発言している[35]

暴力団と差別問題 

アメリカ合衆国マフィアにイタリア系や中国系のマイノリティが多いのと同様に、日本における暴力団の巨大化も、特定の社会集団に対する差別が原因の一つだという説がある[要出典]。この説はメディアにおいてはタブーなため報道されることはないが、幾つかの書籍などにこれに関する情報が記載されている。

  • デビッド・カプランとアレック・デュブロの共著になる『ヤクザニッポン的犯罪地下国と右翼』(第三書館。原書名は『Yakuza:The Explosive Account of Japan's Criminal Underworld』)には、「非公式なものであるが、警察は、日本の最大広域暴力団山口組の構成員2万5千人のうち約70%の者が部落出身者であり、約10%の者が韓国人等の外国人であると考えている」という記述がある[36]。ただし、原書のみ。邦訳版では削除。加藤久雄が、自身の論文の中でこのデータを引用した。
  • 宮崎学大谷昭宏共著の『グリコ・森永事件 最重要参考人M』では「マイノリティが絶対絡んでいると思う。これが関西の事件の特殊性である。たとえば、構成員千人のヤクザ組織があったら、そのうち九百人までがマイノリティである」「関西でヤクザといえば、どうしてもマイノリティになる」と記されている[37]
  • 公安調査官菅沼光弘は、2006年10月19日に行われた東京・外国特派員協会における講演で、山口組のナンバー2である高山清司から聞いた話として、暴力団の出自の内訳は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、一般の日本人など10%であるという見解を示した。なお、菅沼の現職時代の担当は共産圏分析。また公安調査庁暴力団自体が担当外。
  • 山口組顧問弁護士を務めた山之内幸夫は『文藝春秋』昭和59年11月号に寄せた「山口組顧問弁護士の手記」において「ヤクザには在日朝鮮人同和地区出身者が多いのも事実である」「約65万人(当時)[注釈 1]といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、山口組部落差別在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」と述べた。
  • 被差別部落の詩人植松安太郎は「ご承知のとおり山口組のなかの70%は部落民だといわれているけれど、関東だって切った張ったのやくざの手下や用心棒のなかには部落民がいっぱいいるわけですよ」と語っている[38]
  • 猪野健治は、『やくざと日本人』の中で、「ヤクザ組織の構成員は、そのほぼ70パーセントが階層底部に沈殿する被差別階層で占められている」と記している[39]。また、昭和中期の関西北部九州部落の悲惨な現状を取り上げ、日本社会に「やくざとなるか土方になるか」しか、選択肢の無い若者が多く存在する事がやくざの温床であるという見解を示しつつ、自身の取材から得た印象として、もとより体系的な統計があるわけではないが、と断りながらも、現在の暴力団員の半数は部落も在日朝鮮人も出自に持たない「市民社会からのドロップアウト組」だろうと推測している[40]
  • 2019年の政府統計によると、その年に刑務所に入った受刑者のうち暴力団加入者の国籍別比率は、日本国籍894人で約97.9%、韓国朝鮮籍13人で約1.4%となっている[41]
  • 溝下秀男は二代目工藤連合草野一家(後の三代目工藤會)総長時代の2007年に発売された映像作品『ドキュメント・九州任侠界 クライシス21』でのインタビューにて、学校に行ってない者や、部落、在日韓国人朝鮮人などが組織の7割方占めている旨を語っている。
  • 六代目山口組組長・司忍は2011年に行われた産経新聞のインタビューにて「山口組には家庭環境に恵まれず、いわゆる落ちこぼれが多く、在日韓国、朝鮮人被差別部落出身者も少なくない」と語っている[42]
  • 元・読売新聞記者で長年、日本の暴力団を取材した経験を持つジェイク・エーデルスタインは、自身のブログの中で「今日のヤクザの約3分の1は韓国系」と記述している[43]
  • 弁護士・遠藤誠は1992年2月に放送された『朝まで生テレビ!』の「激論! 暴力団はなぜなくならないか!?」と題した回に出演の際、日本全国の暴力団員と接触したうえでの結論とし、「3分の1は同和地区出身、残り3分の1は在日韓国人朝鮮人、残り3分の1は社会的落ちこぼれ」だと語っている。
  • 溝口敦は『週刊ポスト』2017年 7/21・28 合併号の「ヤクザと在日」と題した記事にて「暴力団業界に在日が多いのは事実」とし、「在日韓国・朝鮮人被差別部落出身者を排除しない」という伝統的な側面を紹介している。
  • 1994年に韓国の週刊誌『時事ジャーナル』が在日韓国人朝鮮人のヤクザの実態と歴史について取材している[44]。稲川会の相談役である韓国生まれの在日1世のヤクザによると6万人いるヤクザのうち約10%の6千人が在日だと話し、中間幹部クラスに多くても代表クラスには少ないと言い、その理由は外国籍の人物が7年以上の服役を経験した場合、国外退去になる日本の法律のためで、それなりの犯罪を犯した在日のヤクザは逮捕される前に韓国に密航するため、釜山には日本から逃亡した在日のヤクザが多いという。山口組の大阪本部顧問である在日のヤクザは在日がヤクザ業界で勢力を持つに至った理由を話している、太平洋戦争が終わった後、米軍に占領された日本は警察が無いも同然で、日本に残った在日たちが日本の主要な闇市を独占して繁栄した、東京銀座東声会が、大阪ミナミ明友会が掌握していったが大阪は同じ在日のヤクザである柳川次郎率いる柳川組が先頭に立った山口組の攻撃を受け崩壊した、五代目山口組直系幹部120人のうち20人を柳川組出身の在日が占めた。在日のヤクザは日韓両国政府の極右関係者と緊密に接触用心棒の提供、利権事業への参加などを行い、在日本大韓民国民団の行動部隊として朝鮮総連への破壊工作も行っていたという。韓国政府と緊密になったきっかけは1965年の日韓会談で、韓国側の政界人の警護を東声会と柳川組が中心となり韓国系ヤクザが数百人規模で引き受けた、その対価として韓国で政界関係者との親交を誇示すれば日本の警察に手配された時に韓国へ逃避する条件も与えられた。日本の政財界の実力者と交友を結んでいた在日のヤクザ幹部に韓国情報機関は情報源として依存し、サッカー卓球などの国際試合が日本で開かれるときに韓国代表は在日のヤクザに財政的に支援を受けた、これらの過程を経て韓国政府から韓国国内への風俗店、賭場、ホテル業への進出が認められたという。
  • 2011年に韓国の月刊誌『月刊朝鮮』は在日韓国人のヤクザである極東会会長・松山眞一を取材している[45]。自身の生い立ちや日韓両国の政治家、在日韓国人の有名人との親交、在日本大韓民国民団との関わりなどについて語っている。
  • 2020年現在、指定暴力団に指定されている24団体のうち在日韓国人朝鮮人が代表に就いたことがある団体は過去も含めると10団体である。

暴力団の下部組織 

暴力団の活動は主として非合法であり、それら不法行為暴力団の管理者(組長など)によって主導された場合その不法行為とは別に暴対法によって処罰される。これを避けるために無関係を装った団体を設立し、それを用いて不法行為に及ぶ。また、資金調達(シノギ)のために商売を行う会社(フロント企業)を設立することも多い。

暴力団同士でも上下関係があり、子飼いの暴力団を下部組織と呼べる場合もある。

暴力団の取り扱い 

この節の加筆が望まれています。

警察は「過去とは違い、昨今の暴力団は悪辣な犯罪を組織的に敢行している犯罪組織そのもの」ととらえ、壊滅を目標に掲げている[46]

また、「仁侠の徒として賛美する者は論外」[46]として、暴力団を取り上げた娯楽作品制作に度々横槍を入れている。 代表的な例は、1973年に公開された映画『山口組三代目』である。この時は、製作後に家宅捜索に踏み切り、プロデューサーを22件もの容疑で逮捕するなどの行動に出た。

近年では、2009年に福岡県警察名で「暴力団関係書類、雑誌販売についての協力依頼(要請)」という文書が、福岡県内のコンビニエンスストアに送付された。

これについて、日本雑誌協会や出版社が懸念を示したほか、宮崎学は「表現の自由を規制するおそれがあり、また『要請』となっていても作り手を萎縮させ、自主規制を強めることになりかねない」として損害賠償請求を起こしたが、敗訴している[47]

北野武は、自らの作品に暴力団が登場する事について「暴力団を賛美した表現をしたことはなく、拳銃を使った人間は幸せになれないようなシナリオにしている」と述べている[48]

指定暴力団 

この節は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。Wikipedia:法律に関する免責事項もお読みください。
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都道府県公安委員会は、暴力団対策法第3条に定める3要件(「組織の威力を使って資金を獲得している」「一定の構成員に特有の前科がある」「階層的に組織を構成している」)の全てに該当する暴力団を、当該団体関係者からの聴聞を経た上で「その暴力団員が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれが大きい暴力団」と指定するものとされており、これにより対象団体は「指定暴力団」となる。

指定暴力団の構成員は、他の暴力団よりも強い規制を受けることになる。暴対法第9条では、指定暴力団員が、指定暴力団の威力を示して行う27の「暴力的要求行為」を規制することができる。また、指定暴力団員以外の者が、指定暴力団の威力を示して行う同27の行為についても「準暴力的要求行為」として規制することができる。しかし、同じ行為を、非指定暴力団の構成員が、非指定暴力団の威力を示して行う場合については、暴対法の規制の対象とはされていない[49][50]

2019年末時点で以下の24団体が指定されている[5]都道府県別に見ると全国最多は福岡県で、工藤會道仁会太州会福博会浪川会の5団体である[51][5]。2位は東京都で住吉会稲川会極東会松葉会の4団体。3位は兵庫県山口組神戸山口組任侠山口組(現・絆會)の3団体。4位は大阪府酒梅組東組の2団体。4位は広島県共政会侠道会の2団体。

2019年末時点で全暴力団構成員数(14,400人)に占める指定暴力団構成員数(13,800人)の比率は95.8%[5]

代紋 団体名 本部所在地 代表者名 構成員
(約・人)
指定年月日
六代目山口組 兵庫県神戸市灘区篠原本町4-3-1(地図 組長・篠田健市(司忍 4,100 1992年6月23日[52]
稲川会 東京都港区六本木7-8-4(地図 会長・辛炳圭(清田次郎) 2,100 1992年6月23日[52]
住吉会 東京都港区赤坂6-4-21(地図 会長・関功 2,800 1992年6月23日[52]
五代目工藤會 福岡県北九州市小倉北区神岳1-1-12(地図 総裁・野村悟 280 1992年6月26日[52]
旭琉會 沖縄県沖縄市上地2-14-17 会長・花城松一 300 1992年6月26日[52]
七代目会津小鉄会 京都府京都市左京区一乗寺塚本町21-4 代表者・金元(金子利典) 30 1992年7月27日[52]
六代目共政会 広島県広島市南区南大河町18-10(地図 会長・荒瀬進 130 1992年7月27日[52]
七代目合田一家 山口県下関市竹崎町3-13-6(地図 総長・金教煥(末広誠) 60 1992年7月27日[52]
四代目小桜一家 鹿児島県鹿児島市甲突町9-24(地図 総長・平岡喜榮 60 1992年7月27日[52]
五代目浅野組 岡山県笠岡市笠岡615-11(地図 組長・中岡豊 60 1992年12月14日[52]
道仁会 福岡県久留米市京町247-6(地図 会長・小林哲治 450 1992年12月14日[52]
二代目親和会 香川県高松市塩上町2-14-4(地図 会長・吉良博文 40 1992年12月16日[52]
双愛会 千葉県市原市潤井戸1343-8(地図 会長・椎塚宣 140 1992年12月24日[52]
三代目俠道会
(三代目侠道会)
広島県尾道市山波町3025-1(地図 会長・渡邊望(池澤望) 80 1993年3月4日[52]
太州会 福岡県田川市大字弓削田1314-1(地図 会長・日高博 90 1993年3月4日[52]
十代目酒梅組 大阪府大阪市西成区太子1-3-17(地図 組長・木下政秀 30 1993年5月26日[52]
極東会 東京都新宿区歌舞伎町2-18-12(type:landmark_region:JP 会長・曺圭化(松山眞一 450 1993年7月21日[52]
二代目東組 大阪府大阪市西成区山王1-11-8(地図 組長・滝本博司 110 1993年8月4日[52]
七代目松葉会 東京都台東区西浅草2-9-8(地図 会長・伊藤芳将 390 1994年2月10日[52]
四代目福博会 福岡県福岡市博多区千代5-18-15(地図 会長・金国泰(金城國泰) 100 2000年2月10日[52]
  浪川会 福岡県大牟田市上官町2-4-2(地図 会長・朴政浩(浪川政浩) 200 2008年2月28日[52]
神戸山口組 兵庫県神戸市中央区二宮町3-10-7 組長・井上邦雄 1,500 2016年4月15日[53][54]
  絆會(旧称・任侠山口組 兵庫県尼崎市戸ノ内町3-32-6 代表・金禎紀(織田絆誠 300 2018年3月22日[55]
  関東関根組 茨城県土浦市桜町4-10-13 組長・大塚逸男(大塚成晃) 110 2018年4月25日[56]
  • 初回指定年月日>五十音順。組名・構成員数・代表者名は『令和元年における組織犯罪の情勢』(警察庁組織犯罪対策部組織犯罪対策企画課)[5]による。代表者名の()内は通称、人数は準構成員を除く構成員のみ。

指定が取り消されたか失効した団体 

特定指定暴力団 

2012年指定暴力団の中でも「特に凶悪と見なされる組織」として、「銃撃や火炎瓶を投げ込むなどの危険行為を繰り返す恐れのある組織」を「特定危険指定暴力団」、「抗争で住民の生命や身体に危険が及ぶ恐れがある組織」を「特定抗争指定暴力団」に指定できる暴対法改正案が7月に成立し、10月より施行された[57]。とりわけ危険度の高い九州地方の暴力団の封じ込めを狙いに定めた「改正暴対法」で[58]、2012年12月27日には、いずれも福岡県を本拠とする3団体、工藤會が特定危険指定暴力団に、道仁会九州誠道会(現・浪川睦会)が特定抗争指定暴力団に指定された[59]。なお、道仁会と浪川睦会に対する特定抗争指定暴力団の指定は2014年6月27日に解除された[60]。2020年1月、六代目山口組神戸山口組について特定抗争指定暴力団に指定された。

主な非指定団体 

団体名 本拠所在地 代表者名
源清田交友会[61] 茨城県 会長・田名辺城男
九州三代目村上組 大分県 組長・松岡良茂(本名: 松岡 一)
飴德連合会(飴徳連合会) 神奈川県横浜市 会長・永持英哉
横浜金子会 神奈川県横浜市 会長・寺田 隆(本名: 金子 隆)
丸富連合会 京都府京都市 会長・北橋斉
二代目熊本會[62][63][64] 熊本県熊本市 会長・森原秀徳
山心会[62] 熊本県 会長・井上 厚
寄居分家六代目[65][66][67] 群馬県前橋市 総長・岩野 賞
六代目亀屋一家[68][69] 埼玉県越谷市 総長・山崎 誠
八代目吉羽会[68][70][71][72][61][73] 埼玉県久喜市 総長・高野守利人
九代目櫻井總家[74][75][76] 静岡県沼津市 総長・佐野広好
竹澤会[68] 千葉県木更津市 会長・太田和春雄
姉ヶ崎会[74] 東京都台東区 会長・中野目重民
九代目飯島会 東京都台東区 会長・松橋 稔(飯島宗家九代目)
岡庭会 東京都世田谷区 会長・岡庭清一郎
神田高木七代目[76][77] 東京都 総長・長村 昭
下谷花島会七代目[62][77] 東京都板橋区 総長・大坂 勇
上州家会[78] 東京都足立区 会長・伊藤勝彦(上州家十一代目)
新門連合会 東京都台東区 会長・笠間直明(新門本家十代目)
杉東会[74][62][79][77] 東京都新宿区 会長・野原朝明(総家野原五代目)
醍醐会 東京都大田区 会長・青山秀夫
丁字家会[80][74] 東京都台東区 会長・中杉拓哉
東亜会[74][81][72][82][83][77] 東京都港区六本木 会長・金海芳雄
箸家会 東京都文京区 会長・嶺村 宏
花又会 東京都江戸川区 代表・清野 昭
桝屋会[74] 東京都台東区 会長・東浦外次郎
五代目松坂屋一家