開けて悔しき玉手箱のブログ

浮世の世間で ある日 玉手箱を 開けてしまった........。 気づくと そこは......。

デモを意義あるものにするため、例えば反核運動では8月6日(→広島市への原子爆弾投下)を、イラク戦争を非難するのに3月20日(米英連合軍が侵攻した日)を、原子力撤廃を訴えるのに3月11日(→東日本大震災と福島第一原子力発電所事故)を、反ロシアを訴えるのに8月9日(満州にソ連軍が侵攻した日で反ソ連デー)を選ぶなど、デモに関係する記念日を選ぶことがある(10月21日の「国際反戦デー」関連は有名だった)。また場所は、大人数を収容できる広場やその行進に適した道幅の広い大通りが選ばれる。また、デモに関係する土地や施設

デモ活動   

 

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デモ活動(デモかつどう、英語demonstration, street protest)は、ある特定の意思・主張をもった人々が集まり、集団でその意思・主張を他に示す行為である。「デモ」とはデモンストレーションの略であり、示威運動[1]示威行為、あるいは単にデモとも呼ばれる。その活動内容によってデモ行進デモ集会ともいう。

 

概要 

国会議事堂を取り囲むデモ (1960年6月)

デモ活動は、公の場で集団で自分達の意思や主張を示す行為である。事実上の責任者や決定者がいる施設の前で行われることもある。集団の主張が他の人が認知できるようにプラカードなどを掲げたり、マイクやスピーカーで演説をする場合もある。「デモ行進」のように徒歩で一定区間を移動しながら行われるものもみられる。大きなものでは数万人から百万人の規模が参加する一種の集会のようなものもあれば、その一方で参加人数はともかくとして、非常に遠距離(都市間など)を移動しながら主張を掲げ続ける場合もある。主張されるテーマは、政治経済社会に対するものなど多岐に渡り、それらは個人的な主張から、社会問題を示して世間にアピールすることを目的とするものまで、さまざまである。

日本において20世紀末以降、一般に見られるものでは、たいていは自分たちの主張が書かれたプラカードを掲げ路上を行進するなどの内容で、広く公衆にその意思・主張を表示するデモ行進であるが、自動車歩行者の往来に用いられる道路を一時的にせよ占有することもある場合は、多くの都道府県条例では所轄警察署から事前の許可を受けなければならず、法治国家の内ではいくつかの守るべき点もあり、無許可のデモ活動は取締りを受ける場合もある(後述)。

また暴動に発展する可能性を警戒して、警察が監視することがある。日本でも、1960年代の安保闘争日本の学生運動が盛んに行われていた当時はデモ活動から暴動に発展する事態もしばしば発生した。なお、政治的主張をデモ活動で掲げることをそもそも禁止する国・地域もある。

一般にそのデモに参加する人が多ければ多いほど、そのデモの世論に働きかける力は大きいといえるが、社会不満が大衆に鬱積している状況下では、任意の参加を認める場合に次第に集団が膨れ上がって、無秩序に集まった結果として暴動に発展する傾向も強い。このため国や地域によってはデモをする場合、事前に参加人数などや活動の目的・移動経路の細かい届け出が必要な場合もある。

なお、開催日時と場所によっては渋滞などを引き起こすことがあり、通行人や周辺住民などにとって非常に迷惑になるため反感を買うこともある。

 

デモ活動の要素 

デモ活動では、特に目立ったトラブルもなく、社会の注目を集められれば一応の成果といえる[誰?]。更に加えてそれら主張が周囲に認識され、それらが他人にも受け入れられたのであれば、目的を果たしたといえる[誰?]

主張 

主張は、そのデモ活動を行う集団にもよってまちまちである。しかしあからさまに反社会的な主張は、これを見た者の怒りないし不快感や冷笑を得ることはあっても、受け入れられることはない。例えるなら「人種差別を合法化せよ」という主張をすることがこれに当たる。

また、主張と行動の内容に不一致が見られると、これも同様に不信感を被ることもある。例えば環境保護はたいていの場合においてほかの支持を得やすいテーマだが、この主張を掲げながら活動し終わった後がごみだらけだという場合は、台無しになる。自然保護活動に際しては、ただ集団で主張を掲げるというだけではなく、主張を掲げつつ集団で所定区間のごみを拾う活動を行う団体もしばしば見られる。

また主張が一方的であるとか、独善的な場合も同様である。例えば銃社会の問題が深刻な地域で、自衛のために銃が必要だとして、銃の所持と販売の更なる容認・緩和、つまり銃規制撤廃を訴えた場合がこれに相当するだろう。

このため、多くの場合では他人に示した場合に賛同が得られるか、あるいは賛同されないまでも拒絶もされないものを示し、またそれらのテーマに沿ったアピール方法を選択し、主張を示すにしても一定の注意が払われ、常識的に妥当な理由が示される。

こういったデモ活動において掲げるテーマが選ばれたケースとしては、1991年には日本で暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律暴力団対策法)の制定に絡んで暴力団員を含む支持者団体がデモ活動したケースもあるが、この際には「憲法で保障された結社の自由を侵害する」や「暴力団構成員にも家庭があるが行動を禁止されると子供を養えない」など、別の視点・理由によるものや同情を呼ぼうとした主張が掲げられた。結局、同法は「暴力団が集団として存在すること」ではなく「違法な行為で市民生活を妨害したり金品を得ること」を規制する性格の法律であったため、違憲問題に関しては合憲との判断が成されている。

時と場所 

デモを成功させるのには、それが行われる時と場所が重要である。誰も見ていないところで、誰もいない時間にいくらデモをしても意味がなく[2]、より効果的に行うために適した日・時間としては、デモの参加者が集まりやすく他人にも示しやすい休日が選ばれることが多い。

またよりデモを意義あるものにするため、例えば反核運動では8月6日(→広島市への原子爆弾投下)を、イラク戦争を非難するのに3月20日(米英連合軍が侵攻した日)を、原子力撤廃を訴えるのに3月11日(→東日本大震災福島第一原子力発電所事故)を、反ロシアを訴えるのに8月9日満州ソ連軍が侵攻した日で反ソ連デー)を選ぶなど、デモに関係する記念日を選ぶことがある(10月21日の「国際反戦デー」関連は有名だった)。また場所は、大人数を収容できる広場やその行進に適した道幅の広い大通りが選ばれる。また、デモに関係する土地施設の前で行われることも多く、例えば所定の国の政府政策に抗議するために、その国の在外公館前でデモを行うなどがみられる。

しかし、ただ人通りが多い場所や日時を選べばよいというものではない。交通量の多い通りのいくらかの車線を封鎖したり、普段から混雑する広場や歩行者専用道路を用いてデモを行うということは、多くの人に自らの主張を伝えられる一方、渋滞や混雑、騒音などで直接的な不利益を被った者は不快感を、そして時には主張そのものに反感を覚え、さらには直接的な衝突に発展することもある。これを回避するため、治安当局はデモの主催者に開催場所や日時の変更を指導したり、許可を降ろさないこともあり、デモ隊には多数の警察官警備に当たることがある。

デモの非暴力と暴力 

中国の人権問題に関するデモ

一般にデモは非暴力による有効な戦略の一つであると考えられている。しかし時にそのデモはエスカレートし、国旗を燃やしたり、周りにあるものを壊したりなどの暴力的な手段に発展することがある。場合によってはデモの主張とは関係のない、ただ暴れたいだけの暴徒までが寄って来て収拾がつかなくなる。

そのような参加者らが暴徒と化した場合、警察などが出動し、例えば参加者に対する放水催涙ガスゴム弾といった非致死性の武器を使って鎮圧を試みようとする。こういった状況は、デモ参加者との応酬に発展する場合もあるほか、非殺傷性武器を使ってなお、至近距離弾で死傷者も出すなど熾烈さも増し、非暴力のデモ行進から暴動に発展する事態を、デモ計画者側が警戒する場合もある。

なお警察側にしても、鎮圧のために死傷者が発生するのは本意ではなく、高圧放水銃や非殺傷性の音響兵器のような装備の利用を行うケースも見られる。

またデモ側が非暴力であったとしても、国策の遂行に反対するデモなどは、国家によっては無条件に武力で鎮圧される場合があり、その際その国の治安維持部隊は、強権的な手段に訴えることもある。過去の例としては完全非暴力を掲げながら銃火にさらされたインド塩の行進や、デモに参加した労働者らに向け無差別発砲の起こったロシア血の日曜日事件アパルトヘイト政策であるパス法に反対する群衆に発砲を行ったシャープビル虐殺事件民主化を求め天安門広場を座り込みで占拠した学生らを武力弾圧した中国天安門事件、最近では香港において逃亡犯条例の議会通過を阻止するべく香港の立法会周辺に集まった学生や一般市民などに対し警察が発砲した事件などがある。

 

日本でのデモ 

21世紀の日本のデモは諸外国に比べると小規模なものとなっている(そもそも参加人数自体が欧米アラブなど諸国に比べ[3] 非常に少ないので混乱もそれに応じて少ない)。

日本の場合警備が厳しく、デモ隊より警備の機動隊の人数の方が多くなることもしばしばあり、さらに機動隊がデモ隊をぐるりと包囲する形で監視していることもしばしばみられる。これにより、日本でのデモ活動では事前計画を超えることが難しく、デモが自然発生的に大規模化する現象が起りにくい。

日本で「デモ活動」(公安条例には「集団示威運動」とあり、「デモ行進」に限定されていないため、「デモ活動」と表現)を行うにあたり、道路上でデモ活動を行う場合は道路交通法77条に基づき所轄警察署長の許可を受ける必要があるほか、デモ活動を行う都県または市が公安条例(正しくは「集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例」・「多衆運動に関する条例」)を定めている場合はそれに従う必要がある。国会議事堂外国大使館・領事館政党事務所などの周辺部では国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律が適用される地域として指定されている場所があり、その場所では拡声器を用いたデモ活動が制限されている。また破壊活動防止法では破壊的団体に対して6ヶ月間以内の期限と地域を定めてデモ活動を禁止させることができる規定が存在する。

戦前 

大正時代の労働者デモ

日本にデモンストレーションという言葉が紹介されたのは20世紀の初めだとされ、示威行為と訳された(現在も「集団示威運動」[4]、「示威運動」[5][6][7]、「示威行進」[8][9] の語が法令に存在する)。

有名なデモや暴動としては、自由民権運動米騒動がある。

終戦~1970年代 

終戦後、メーデーが復活し、終戦翌年の1946年には食糧難・物資不足から1千万人餓死説も囁かれ「米よこせデモ」が発生し、暴徒化したデモ隊が皇居に入る血のメーデー事件も起こった[10]。各地で中国共産党式の非合法活動を行って世論の反発を受けた当時の日本共産党1952年の総選挙で一転議席が0になった。党員の一部が暴力を肯定したが、党は1955年その暴力を誤りだったと否定、そして議会による革命路線(民主主義革命)を明確にした。それに反発して以前の暴力による革命路線を貫いた日本の新左翼、暴力革命に向かう人々は日本共産党から離党したが、その後も非合法な暴力事件を繰り返し、日本の左翼衰退の原因となる[11]日本共産党は、平和を貫く党としての立場、民主主義革命(当然、非暴力)路線を明確に示すため、2003年6月に1971年の改定でも維持した綱領で「君主制の廃止」を「これの存廃は国民の総意によって解決される」に、「自衛隊解散を要求する」を「国民の合意で憲法第9条の完全実施に向かう」と改定している[12]

安保闘争日本社会党やそれを支持する組織は非武装中立を主張して、日本共産党や支持組織は「非合法の軍隊」とする自衛隊日米安保に基づく米軍を不要としてアメリカが主導する陣営に対抗する「自主的自警組織」を主張して参加、支援した。選挙直前に参加者数は最高潮に達したが、安保条約に反対して闘争支持していた日本社会党日本共産党は1960年の総選挙で敗北した。安保闘争にも関わらず両党の合計得票は自民党の半分未満で投票率も前回の選挙よりも下がった。次第に第一野党の候補者擁立する選挙区自体が減って、候補者全員が当選しても過半数にならないなど政権獲得や有権者による選挙よりも市民運動やデモを重視する路線になる。2度目の安保闘争直前の1969年の選挙でも有権者全体の支持を獲得出来ず敗北した[13]

ビートルズ来日時に右翼が「青少年を不良化するビートルズを日本から叩き出せ!」というデモを行い警官達と衝突した。その記録映像は「コンプリート・ビートルズ」や「ザ・ビートルズ・アンソロジー」などに使われている。

1970年代~1990年代 

1970年代には韓国南ベトナムの軍事政権を打倒して北朝鮮北ベトナムを支援する動きや市民活動が強くなる。ベトナムに平和を!市民連合に代表される市民運動なども起こった。しかし、安保闘争の規模と参加者を越えるものは無くなった。

背景には成田闘争における過激な抗議活動や、日本の新左翼による相次ぐテロ活動によって、安保闘争参加者や好意的に思っていた人々でさえも学生運動市民運動への考えが変わったことにある。1972年のあさま山荘事件は日本を震撼させ学生運動とデモが急激に衰退させた。日本社会党も途中までは新左翼を評価する発言をしたが、新左翼への世論の嫌悪が強まると離れた。もともと社会党は、成田闘争で党勢拡大のために反対を党の方針と決定、多くの議員が土地を買うなど参加して抗議活動を焚き付けたが、地元の多くが補償で移転を受け入れ、新左翼手動の過激な闘争で反対運動が世論を支持を失うと土地を手放し、最終的に成田空港を利用するようになった。

1972年以後に学生になった世代はしらけ世代と呼ばれ、デモや学生運動を忌避するようになる。安保世代で学生運動家の多数を占めていた大学生も多くが入社後にサラリーマンになって、学生運動やデモから離脱した。安保世代は高卒が圧倒的多数を占めていたため、学生運動を行う「大学生」という存在の多くがこのようにノンポリや別の政党支持者になったことは痛手となった。ノンポリしらけ世代以降も数多く生まれて、専従活動家など以外がデモに参加しなくなった。組合内部からの闘争路線への支持も激減して、労働運動も下火になる[14]。1990年代以降はソ連崩壊による冷戦の終結、それに伴うイデオロギー対決の自由主義陣営の勝利、若者の政治離れ、日本の新左翼の展開した政治的主張の方法への慢性的な反感によって日本におけるデモは更に衰退傾向になった[15]

社会評論家の三浦展は、特に安保闘争以降に選挙よりもデモや市民運動に過度に重視して非武装中立自衛隊解体を掲げていたのは、支持層の固定と政権獲得放棄して3分の1獲得のみを目指す路線に繋がったと主張している。1970年代初頭まで活動支援や擁護して新左翼を「役に立つ」仲間や支持層と放置したことを批判し、新左翼が広く知られた以降から国内のデモや抗議活動への忌避が国内の主流になったとする[15]

政治運動不遇の時代を活動家として過ごした外山恒一は、連合赤軍よりも革マル派中核派解放派内ゲバのほうが悪影響が大きかった、また全共闘運動の崩壊と入れ替わりに70年代の左翼シーンを席巻したのが反差別運動であったが、在日朝鮮人でも被差別部落民でも障害者でも琉球民族アイヌ民族でも女性でもない一般男性に許されるのは自己否定のみとなり、衰退は必然だったとする[16][17]

2000年代~ 

機動隊が警戒する中で行なわれる、中核派系集団による反靖国神社デモ

2003年イラク戦争に対する反戦デモでは数百、数千人規模の抗議がいくつかの都市部であったもの、東京での最も参加者が多かったデモでも主催者発表で4万人など安保闘争には及ばなかった[18]

戦後の日本でデモと言えば、先述の安保闘争反戦反核といった左翼リベラル市民団体による徒歩デモや、街宣右翼による街宣車を連ねる反共演説デモが主流だったが、2000年代後半以降は脱原発改憲の左翼系市民団体や行動する保守と呼ばれる右翼系市民団体はインターネットなどを通じた草の根運動化がそれぞれ進み、従来のデモとは異なり特定の所属組織を持たない一般市民を巻き込んだ徒歩デモが目立つようになった。

1990年代後半頃から、社会に不満を持つ若者は『ゴーマニズム宣言』や『マンガ嫌韓流』を読む風潮ができていた[16]2009年民主党政権誕生に危機感を抱いた保守層は、ナショナリズムを掲げたデモを次々に実行した。2011年のフジテレビ抗議デモに始まる反韓デモは、竹島奪還デモ、外国人参政権反対デモ日韓断交デモなどと拡散し、2013年には排外主義によるヘイトスピーチ(憎悪表現)を叫ぶデモと、その主張に反対するカウンターデモが行われ応酬することも起こるなど[19][20]、激しさを増した。

2011年福島第一原子力発電所事故がきっかけで同年6月11日に新宿で行われた「6.11 新宿原発やめろデモ!!!!!」は主催者発表で2万人が参加し、反原発デモはその後も2012年7月16日に主催者発表で約17万・警察発表で約7万5千人が参加した「さようなら原発10万人集会」など何度も行われ、毎週金曜日の夜に官邸前で行われたデモでは数万人規模となることもあった(6月29日は10数万人が警察の規制を振り切り国会議事堂正門前から皇居外堀通りに向かう車道を埋めたと伝えられている[21][22][23][24][25][26][27]

2015年前後には特定秘密保護法反対デモ、集団的自衛権反対デモなども各地で行われた。インターネット上でのデモ活動(ハッシュタグ・アクティヴィズム)の運動も起きた。

インターネットによる「動員の革命」の一方、一般社会全体は冷笑主義へと向かっていると言われ[28]、デモに対する嫌悪感も非常に強いものとなっている[29][30][31]

 

アメリカ合衆国のデモ 

人種 

人種差別撤廃をアピールするデモ行進。1963年8月28日ワシントンD.C.で行われたワシントン大行進は有名である。

労働 

アメリカ合衆国では、ファーストフード店の労働者らが最低賃金の引き上げを求める大規模デモを2014年9月に計画した[32]。その大規模デモは、150以上の都市で行われ、マクドナルドバーガーキングピザハットなどの労働者は、連帯して最低賃金を時給15米ドルまで上げるよう求めていた。この継続的な一連のデモは「15ドルのための闘い」と題し、大きな動きとなった。

これらのデモ活動が、政治に影響力を与え始めた。アメリカ合衆国連邦政府が定める最低賃金は、時給7ドル25セント(2015年時点)であるが、各州が独自に設定もできる(アメリカはが一国相当)。ニューヨーク州知事アンドリュー・クオモとその諮問機関が、最低賃金を15ドルまで引き上げることに賛同して以来、ニューヨーク州では15ドル水準の最低賃金が現実味を帯びてきている[33]ニューヨーク州が動けば残りの州も追随するだろうとクオモは語る。バーニー・サンダースは、2020年までに国内全域で最低賃金を15ドルと定める法案を連邦議会に提出しており、マーチン・オマリー最低賃金引き上げ支持を表明している[33]

人々による熱心なデモの成果が出た。2016年4月上旬、アンドリュー・クオモはニューヨーク市とその周辺地域の最低賃金を時給15ドルに引き上げるための法案に署名した。ほぼ同時期に、カリフォルニア州知事ジェリー・ブラウンカリフォルニア州最低賃金を、現状の時給10ドルから2023年までに時給15ドルに引き上げる法案に署名した[34]。ブラウンは以下のように語る―「この法案は経済的正義のためであり、人々のためであり(資本主義経済下では自然と格差が拡大し)、アンバランスが生じるシステムにいくらかのバランスを与えるための処置だ。今日は重要な日であるが(最低賃金を15ドルにしても、貧困などの問題への解決にはまだ遠いのであり)、これからさらに前進するための重要な第一歩でしかない。前進し続けよう。我々は立ち止まってはいられない」[34]

キリスト教 

2005年9月24日に行われたワシントンD.C.での反戦デモ。横断幕には「ブッシュ、チェイニー、イラクカトリーナ――インテリジェント・デザインはその位にしとけ」と書かれている。

進化論教育や人工妊娠中絶を巡るデモ。

銃規制 

2018年2月14日フロリダ州マージョリー・ストーンマン・ダグラス高校で銃乱射事件が発生すると、同校の生徒を中心に銃規制を訴える行動が盛んになった。2018年3月24日、生徒達がワシントンD.C.で企画した銃規制要求デモは、数十万人が集結するという全米でも近年まれにみる規模となり、アトランタボストンシカゴシンシナティダラスヒューストンロサンゼルスマイアミミネアポリスナッシュビルシアトルなど各都市へも波及した[35]

新型コロナウイルス 

2020年3月、2019新型コロナウイルスの感染が拡大すると、全米各地では州政府や自治体が外出禁止令ロックアウトを行使して感染の封じ込めが行われた。これに対して経済的に困窮した住民らが、各地で経済活動の再開を求めるデモ活動を起こした[36][37]

 

韓国のデモ 

2016年には、20万人規模のローソクデモで朴槿恵前大統領を退陣に追い込む要因になるなど社会的に大きな影響力を持つ。デモはソウル市鍾路区光化門周辺で盛んに行われており、2017年には1年間で2,563件のデモが行われている[38]

 

スペインのデモ 

カタルーニャ地方のデモ 

2018年9月11日、当日は18世紀にバルセロナスペイン帝国との戦争に敗れた陥落記念日(ディアーダ・ナシウナル・ダ・カタルーニャ)であり、毎年、カタルーニャ地方の独立を要求するデモ行進が行われるが、前年に州議会が独立宣言(後にスペイン政府が否定)した後ということもありバルセロナに100万人の参加者を集めて行われた[39]

2019年10月以降、断続的に独立を要求するデモ活動が行われ、同月18日には約50万人[40]、翌10月26日には約35万人を集めるデモが行われた[41]

 

脚注 

  1. ^ 広辞苑』(第六)岩波書店
  2. ^ 青島幸男はこれに抗するために、国会議事堂前で「民主主義の敵、金丸を許すな」と書いたプラカードを掲げて、独り座り込みを続けた事がある
  3. ^ 1995年、「ネーション・オブ・イスラム」の呼びかけによりワシントンD.C.に100万人の黒人が集結した例がある。いわゆる「100万人大行進」。
  4. ^ 破壊活動防止法(昭和二十七年七月二十一日法律第二百四十号)
  5. ^ 人事院規則一四—七(政治的行為)(昭和二十四年九月十九日人事院規則一四—七)
  6. ^ 自衛隊法施行令(昭和二十九年六月三十日政令第百七十九号)
  7. ^ 日本国憲法の改正手続に関する法律(平成十九年五月十八日法律第五十一号)
  8. ^ 国立公園集団施設地区等管理規則(昭和二十八年十月二日厚生省令第四十九号)
  9. ^ 国民公園千鳥ケ淵戦没者墓苑並びに戦後強制抑留及び引揚死没者慰霊碑苑地管理規則(昭和三十四年五月六日厚生省令第十三号)
  10. ^ 米よこせデモ コトバンク
  11. ^ 団塊世代の戦後史」p247,三浦展,2007年
  12. ^ 団塊世代の戦後史」p274,三浦展,2007年
  13. ^ 団塊世代の戦後史」p249,三浦展,2007年
  14. ^ 団塊世代の戦後史」p251,三浦展,2007年
  15. a b 団塊世代の戦後史」p253,三浦展,2007年
  16. a b 外山恒一学生運動入門 2.歴史篇
  17. ^ 外山恒一21世紀に残したくない曲
  18. ^ 団塊世代の戦後史」p273,三浦展,2007年
  19. ^ 激化する「排外」デモ。新大久保で「反排外主義」のカウンターデモと激突 週刊SPA!
  20. ^ 「在日は帰れ!」「レイシストは帰れ!」4.21新大久保反韓デモとそのカウンターを直撃取材 1/5(全5ページ)エキサイトレビュー
  21. ^ 「再稼働反対」叫ぶ20万人の洪水 機動隊車両が官邸突入防ぐ 田中龍作ジャーナル2012年6月30日
  22. ^ 再稼動ノーだ / 官邸前 空前 しんぶん赤旗2012年6月30日
  23. ^ なお、催しにもよるが、主催者発表というのは実数より多く公称されることがある。もっとも、「6・11脱原発100万人アクション」と銘打ち全国に呼びかけられていたこの日のデモは、各地で他の脱原発デモも行われたため、総参加者数はさらに増え、合わせて7万9千人とも伝えられた。またこの前後にも4月10日に高円寺で1万5千人、9月19日に明治公園で6万人規模の脱原発デモが行われた。なお諸外国では数万人規模のデモも頻繁に起こる。例えばイタリアジェノヴァサミットの時に起きた時は25万人の参加者が居た。福島第一原発事故に際しても、ドイツではベルリンなど国内4都市合計で25万人が参加した。『朝日新聞』 ドイツで反原発25万人デモ 福島事故受け「停止を」 2011年3月26日23時37分
  24. ^ 震災3カ月、各地で脱原発デモ 福島・新宿・フランス… asahi.com(2011年6月11日23時47分)
  25. ^ 大江健三郎さんら脱原発訴え 都心で6万人参加デモ asahi.com(2011年9月19日22時41分)
  26. ^ 6・11脱原発デモ、48%が初参加 ネット・口コミ7割 asahi.com(2011年10月19日12時2分)
  27. ^ さよなら原発「17万人」集う 酷暑の中 最大規模”. 東京新聞 (2012年7月17日). 2013年9月8日閲覧。
  28. ^ 「冷笑主義」に向かう日本人。|RISKYBRANDのプレスリリース
  29. ^ 政治デモ参加者に「近づきたくない」 日本と中国で突出:朝日新聞デジタル
  30. ^ 若者に投票を呼びかける一方で、社会運動への参加は叩く日本の風潮(室橋祐貴) - 個人 - Yahoo!ニュース
  31. ^ 東浩紀が時代の節目に自らを振り返る――「平成という病」 | 特集 | Book Bang -ブックバン-
  32. ^ Fast food workers plan biggest US strike to date over minimum wage Dominic Rushe、ガーディアン2014年9月2日経済面
  33. a b The rapid success of Fight for $15: 'This is a trend that cannot be stopped' S. Greenhouse、ガーディアンアメリカ関連面2015年7月24日
  34. a b California and New York sign into law bill raising minimum wage to $15-an-hour A. Justice, International Business Times, 5 Apr 2016
  35. ^ 米首都、高校生の呼び掛けで数十万人が銃規制要求デモ 過去数十年で最大”. AFP (2018年3月25日). 2018年6月17日閲覧。
  36. ^ 米各地で外出制限に抗議デモ、ミシガンではトランプ氏支持の右派集結”. AFP (2020年4月17日). 2020年4月22日閲覧。
  37. ^ 自宅待機命令への抗議デモ、参加者に医療従事者が対峙”. CNN (2020年4月21日). 2020年4月22日閲覧。
  38. ^ 【コラム】葛藤と分裂の大韓民国”. 朝鮮日報 (2018年11月18日). 2018年11月20日閲覧。
  39. ^ 100万人カタルーニャ独立要求”. 産経新聞 (2018年9月12日). 2019年10月27日閲覧。
  40. ^ バルセロナ、5日目の抗議デモに50万人 衝突激化 ゼネストも”. AFP (2019年10月19日). 2019年10月27日閲覧。
  41. ^ バルセロナで大規模デモ、35万人が平穏に行進 急進派のデモでは警察と衝突”. AFP (2019年10月27日). 2019年10月27日閲覧。
 

関連項目 

 

 

1945年(昭和20年)の終戦以降、日本国内における映画の検閲は連合国軍総司令部(GHQ)が行っていたが、やがてGHQは映画界に対しても自主的な審査機関の設置を示唆してきた。1949年(昭和24年)に「映画倫理規程」が制定され、この実施・管理のため業界内部組織として「映画倫理規程管理委員会」(旧映倫)が発足した[1]。同年4月14日、永田雅一を同委員会代表に、野田高梧、山崎修一、初田敬、小林勝、長江道太郎らが委員となって発足した旨の発表が行われた[2]。 それまでの日本映画では民間検閲支隊(CCD)の検

映画倫理機構  

 

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映画倫理機構
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団体種類 一般財団法人
設立 2017年4月1日
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北緯35度40分11.3秒 東経139度46分19.8秒
法人番号 2010005026525 ウィキデータを編集
起源 映画倫理規程管理委員会
主要人物 代表理事 濱田 純一
活動地域
日本の旗
日本
主眼 言論・表現の自由を擁護し、青少年の健全な育成を図ること
活動内容 劇場用映画、予告篇、ポスターなどの審査
年齢別レイティングの交付
ウェブサイト https://www.eirin.jp/index.php
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一般財団法人映画倫理機構(えいがりんりきこう、Film Classification and Rating Organization)は、主に映画作品の内容を審査し、レイティング設定を行う日本の一般財団法人である[1]。略称は映倫(えいりん)。

1949年(昭和24年)に設立された映画倫理規程管理委員会(通称「旧映倫」)を基礎に、1956年(昭和31年)に新たに設立された映画倫理管理委員会(通称「新映倫」)、新映倫を2009年(平成21年)に改称した任意団体映画倫理委員会を前身とし、2017年(平成29年)に設立された[1]

外国映画でモーション・ピクチャー・アソシエーション(MPAA)などの認証を受けている場合でも、日本国内で上映する場合は映倫の審査が必要であり、映画にも映倫マークが表示される。MPAAなどのマークは国内では効力は無いが、特に削除されること無く上映されている。

 

歴史 

1945年(昭和20年)の終戦以降、日本国内における映画の検閲は連合国軍総司令部GHQ)が行っていたが、やがてGHQは映画界に対しても自主的な審査機関の設置を示唆してきた。1949年(昭和24年)に「映画倫理規程」が制定され、この実施・管理のため業界内部組織として「映画倫理規程管理委員会」(旧映倫)が発足した[1]。同年4月14日、永田雅一を同委員会代表に、野田高梧山崎修一、初田敬、小林勝、長江道太郎らが委員となって発足した旨の発表が行われた[2]

それまでの日本映画では民間検閲支隊(CCD)の検閲による認証番号がメインタイトルに映し出されていたが、「映画倫理規程管理委員会」の発足によって新たに映倫番号と映倫マークが制定され、映画作品のメインタイトルに映し出されるようになった。

1951年(昭和26年)1月、従来の日本映画製作者連盟(映連)会長兼任から学識経験者を委員長として専任することになり、元東宝社長・法学士渡辺銕蔵が2代目委員長に就任した[3]

1956年(昭和31年)に、若者の享楽的な風俗を描いた、石原慎太郎原作の映画太陽の季節』が公開された際には、各地で未成年者の観覧が条例青少年健全育成条例)によって禁止される社会問題となり[4][5]、その反省を受けて委員を外部の有識者に委嘱し、運営を映画界から切り離す組織改編が行われ、同年12月に新たな表現の自主規制機関となる「映画倫理管理委員会」(新映倫)が発足した[1]

2009年(平成21年)4月23日に「映画倫理規程」に代わり「映画倫理綱領」が制定され、同時に委員会の名称も「映画倫理委員会」に改められた。また、年齢層に対応して推薦する映画を選定するため、映画倫理委員会委員長の諮問機関として「年少者映画審議会」が設置された。全国興行生活衛生同業組合連合会(全興連)に加盟する映画館は、映倫の審査した作品のみを上映することになっている。

2017年(平成29年)、任意団体としての映画倫理委員会は解散し、4月1日より新たに設立された一般財団法人映画倫理機構」に業務を移管した。審査は同機構内に新たに設けられた「映画倫理委員会」が引き続き行う[6]

年表 

  • 1949年4月 - 「映画倫理規程」制定、映画倫理規程管理委員会(旧映倫)発足。
  • 1956年12月 - 映画倫理管理委員会(新映倫)が発足。
  • 1972年9月 - 日活ロマンポルノ事件が発生、映画審査をした映倫が「猥褻図画公然陳列幇助罪」で問われるも、裁判で無罪判決が確定。
  • 2009年4月23日 - 「映画倫理綱領」制定、「映画倫理委員会」と改称。
  • 2017年4月1日 - 「映画倫理機構」として一般財団法人化。
 

委員会組織 

委員長
濱田純一東京大学名誉教授)
副委員長
吉永みち子(文筆業)
委員
吉國浩二(事業構想大学院大学副学長)
別所哲也(「ショートショート フィルムフェスティバル&アジア」代表/創設者)
升本喜郎(弁護士)
審査員
8名
歴代委員長
映倫
  氏名 在職期間
1 永田雅一 1949年 - 1950年
2 渡辺銕蔵 1951年 - 1956年
映倫
  氏名 在職期間
1 高橋誠一郎 1957年 - 1978年
2 有光次郎 1978年 - 1990年
3 清水英夫 1990年 - 2009年
4 大木圭之介 2009年 - 2017年
5 濱田純一 2017年 - 現職
 

審査 

倫理基準 

レイティングは主にアメリカの倫理基準を参考にした独自のものであり、申請者は審査結果に異議がある場合は再審査を請求できる。区分には、G(年齢にかかわらず誰でも観覧できる)、PG12(12歳未満の年少者の観覧には、親または保護者の助言・指導が必要)、R15+(15歳未満は観覧禁止)、R18+(18歳未満は観覧禁止)の4種類があり、2009年より色分け表示が導入された。

規程では質の批評は行わないことになっているものの、基準には時代の流れが反映される。1990年代前半には『美しき諍い女』により性表現が、1990年代後半から2000年代は『バトル・ロワイアル』を始めとした暴力表現や『スワロウテイル』など反社会的勢力の表現が規制の対象になった。

DVD作品やゲームソフトなどの審査は別団体が行うが、経済産業省の指導により2006年(平成18年)7月に映像コンテンツ倫理連絡会議が設置され、日本ビデオ倫理協会(NEVA、ビデ倫)、コンピュータソフトウェア倫理機構(EOCS、ソフ倫)、コンピュータエンターテインメント協会CESA)、コンピュータエンターテインメントレーティング機構CERO)、日本アミューズメントマシン工業協会JAMMA)とともにレイティングの審査基準・表示の統一化を検討している。

映倫マーク 

日本国内で制作・上映される映画作品の内容を審査し、パスしたものについては映画本編(予告編含む)の題名もしくは最後の右下(左下の場合あり)[注釈 1]に「映倫マーク」(楕円形の中に「映倫」の文字と、審査番号が記されたもの[注釈 2])を表示することができる。表示された作品について、映倫は審査の責任を負う。審査を通過できなかった、あるいは受けていない作品が映倫マークを使用することは許されない[注釈 3]

映画倫理規程制定以前に製作・封切りされた作品(サイレント映画は除く)でも、映画館でのリバイバル上映の際に、内容の審査が入り、「映倫マーク」が適用されることがある。

わいせつ基準の緩和 

2008年(平成20年)に出されたメイプルソープ事件最高裁判決により、芸術作品における刑法上のわいせつ判断基準が緩和され、それに伴い映倫基準も以下のように緩和された[7]

  1. 外国文化尊重の観点から、洋画に限られる。
  2. 海外で芸術的評価を受けている描写、または医学的な描写、性教育目的の学術的描写等の正当な理由があること。
  3. 露骨な描写ではないこと(アップにしないなど)。
  4. 静止画像ではないこと。
  5. セックスシーンではないこと。
  6. 未成年者に配慮し、R指定とすること。

上記の要件を満たせばヘアのみならず性器であってもモザイク等の修正処理を施さなくてもよいとされ、性器が無修正で描写されている作品が多数上映されている。男性器が描写されている例としては、『jackass number two』や『ベティ・ブルー』等が、女性器が描写されている例としては、『愛についてのキンゼイ・レポート』、『クリムト』等がある。多くはいわゆる芸術映画であるが、『jackass number two』のような娯楽作品でも性器の無修正描写が許可されており、その基準は不明確なものとなっている。

 

問題点 

審査委員 

委員の平均年齢が60歳以上、近年まで女性が委員に起用されなかったことなど、審査体制が時代にそぐわなくなっていることが度々指摘されている。

審査基準 

規制基準の不透明性が指摘されている。

前述のように猥褻とされる基準が曖昧である。

2020年2月に公開され、同性愛者に対する差別だと問題視された『バイバイ、ヴァンプ!』が、年齢にかかわらず誰でも観覧できるG区分とされた[8][9]映画倫理機構の映画倫理綱領には「社会的弱者および少数者の権利を尊重する」とあるが、審査基準に疑問が残った[9]。取材に対し機構は「一つ一つの作品の審査については答えられないが、作品の審査基準自体については委員会で議論し更新していくことはある」と語った[9]

2022年5月18日、映倫は公式Twitterアカウントを通じて「映倫表現の自由を守るためにあるもので、脚本やプロットの段階で審査を拒否することはない。もし拒否した場合は検閲となってしまう。」と発言し、「申請者から提出された脚本に対して、『このような表現をしたら【R15+】区分となる』[中略]といった打ち合わせを申請者と行っている」と説明している[10][11]映倫は具体的な作品名について言及していないものの、複数のウェブメディアは同日Twitter上で告知が行われたホラー映画『オカムロさん』のキャッチコピーに「プロット段階で映倫が審査拒否と上映禁止警告を受けた」と記されていたことをうけて映倫がこの発言をしたとみている[10][11]

邦画の場合は完成前に提出された脚本などをチェックする「シナリオ審査」により想定されるレーティングを伝え助言を行っているが[12]、2020年公開の『劇場版「メイドインアビス 深き魂の黎明」』では当初PG12での公開を予定し前売り券を販売していたが、公開前に映倫が最終審査でR15+に変更したため、政策委員会は前売り券を購入した15歳未満に対しチケット代を返金することとなった[13]

制度の整備 

2007年(平成19年)4月に公開された『バベル』で、観客が点滅映像により光過敏性発作を起こした際には、映像技法の審査の不備が、同じく同月公開の『ツォツィ』のR-15指定を巡り再審査が却下された際には、再審査に関し成文化されたルールが未整備であることが問題となった[14]

 

脚注 

注釈 

  1. ^ 著作権表記と併記される場合が多い。
  2. ^ 現在のデザインは新映倫になってから。ポスターでは別のマークが用いられている。旧映倫時代は円形で上部に「管理委員会」の文字があった。
  3. ^ なお、「映倫」は登録商標である。

出典 

  1. a b c d 映倫の概要映画倫理機構、2017年4月10日閲覧。
  2. ^ 遠藤[1973], p.53.
  3. ^ 遠藤[1973], p.59.
  4. ^ 太陽族映画に反発 各地で観覧を禁止」 朝日新聞、1956年8月3日付朝刊。
  5. ^ “余録:アニメ映画「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が…”毎日新聞. (2021年2月21日) 2021年3月13日閲覧。
  6. ^ 「映倫」の一般財団法人化についてのお知らせ”. 映画倫理機構 (2017年3月28日). 2017年4月10日閲覧。
  7. ^ 海外で失笑される日本映画界のボカシ問題|シネマトゥデイ” (日本語). シネマトゥデイ2022年5月20日閲覧。
  8. ^ 「噛まれると同性愛になってしまう」ストーリーに批判殺到 映画「バイバイ、ヴァンプ!」、公式が釈明も非難止まず” (日本語). ねとらぼ2021年1月26日閲覧。
  9. a b c 批判殺到の「噛まれたら同性愛感染」映画、問題点は?上映停止を求める声も(松岡宗嗣) - Yahoo!ニュース” (日本語). Yahoo!ニュース 個人2021年1月26日閲覧。
  10. a b 「映倫が審査拒否」映画告知はウソだった 公式が否定「マジレスするのもどうかと思いますが...」” (日本語). J-CAST ニュース (2022年5月19日). 2022年5月20日閲覧。
  11. a b 「映倫審査拒否の問題作」うたう映画に映倫が苦言 「映倫は表現の自由を守るためにある。拒否はしない」”. ねとらぼ2022年5月20日閲覧。
  12. ^ 映倫インタビュー「鬼滅の刃」大ヒットで〈PG12〉に注目集まる
  13. ^ 劇場版「メイドインアビス 深き魂の黎明」鑑賞区分(レイティング)変更に関するお知らせ”. アニメ「メイドインアビス」公式サイト (2019年12月25日). 2022年9月10日閲覧。
  14. ^ 映画『ツォツィ』、映倫へのR-15再審査請求は却下」、ORICON STYLE ニュース、2007年4月13日付、2012年3月11日閲覧。
 

参考文献 

 

関連項目 

 

外部リンク 

 

 

Network State

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第1章
 

 

 

前文

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しかし、ネットワーク状態とは正確には何ですか?

thenetworkstate.com

 

現在では、手工芸品(特に伝統的工芸品)を作る人や大工・左官・庭師・経師屋(表具師)・建具・指物・鳶・畳・瓦・石屋・竹芸・漆・塗装・保温板金工・家具木工・硝子・飾り職・蒔絵・螺鈿・組子・目立て・箪笥といった手工業の職人のほか、例外的なものとしては食品を扱う「寿司職人」、また、特に優れた金属加工技術を有する者を職人と呼ぶ。

職人  

 

この記事には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2011年11月) 出典脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2019年6月)出典検索?"職人" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2019年6月)
職人
大阪の町工場の職人

職人(しょくにん、英語craftsmanフランス語artisan)とは、自ら身につけた熟練した技術によって、手作業で物を作り出すことを職業とする人のことである。

日本では江戸時代士農工商の「工」にあたるが、歴史的に彼らを尊ぶ伝統があり、大陸より帰化した陶芸工や鉄器鍛冶士分として遇された。

彼らの持つ技術は職人芸(しょくにんげい)とも呼ばれる。

「職人」は主に工業として物を作る人間を指すことが多く、陶磁器などでも芸術作品として作る者は一般に「陶芸家」などと呼ばれる。

 

概要 

産業革命以前には、職人が生産活動の中心となっていた。技術は主に徒弟制度によって伝承されており、職場を訪ね親方の許しを得て弟子入りし、年季奉公をすることが通例であった。技は手取り足取り親方が弟子に教えるのではなく、簡単な作業や雑用を行う合間に盗むものとされ、一人前になるには数年から数十年を要する場合すらあった。

しかし、近年の経済・社会・産業・生活様式の変化に伴い、従来の厳しい徒弟制度の下で職人を目指す若者は激減しており、そのあり方は大きな変革を迫られている。

 

日本における職人 

職人の歴史 

『七十一番職人歌合』

日本では古代から様々な職人が存在し、王権国家の成立・経済社会の発展により商工業が成立し、日常生活から神事など宗教活動に到るまで様々な諸職人が誕生した。中近世期も引き続き経済社会の発達により職人分化が進み、中世期の職人の実態については不明な点が多いが、このころには職人歌合類など文学作品において様々な職種の職人の姿が描かれ、職人歌合は朝廷や貴族に従属する職人を和歌によって結縁させ、怨霊鎮魂など呪術的意図によって作成されていたと考えられている[1]。また、職人歌合類は時代の変遷とともに描かれる職種が増加していることから社会の変遷を反映した歴史資料としても活用されている。

中世後期から近世には戦国大名などの地域権力や織豊政権から江戸幕府に至る統一権力が出現し、諸職人も領主権力に把握され諸役免除などの特権を得て奉仕を行った。江戸時代には経済社会・都市の発達に伴い職人はさらに分化し発展した。また、近世期には専門的な職人のほか、在方において農間余業として行う零細な商職人活動を行う場合もあり、様々な職人が存在していた。

研究史においては戦後期に歴史学をはじめ美術史国文学など様々なアプローチから歴史的な職人の位置づけが注目され、歴史学では網野善彦らが日本社会における職人の位置づけについて研究を展開し、国文学・美術史においても職人歌合類をはじめ洛中洛外図浮世絵などにおける職人の描かれ方が注目されている。

現代の職人 

現在では、手工芸品(特に伝統的工芸品)を作る人や大工左官庭師経師屋(表具師)建具指物石屋・竹芸・塗装・保温板金工・家具木工・硝子飾り職蒔絵螺鈿・組子・目立て箪笥といった手工業の職人のほか、例外的なものとしては食品を扱う「寿司職人」、また、特に優れた金属加工技術を有する者を職人と呼ぶ。

「職人気質」(しょくにんかたぎ)という言葉がある。これは「自分の技術を探求し、また自信を持ち、金銭や時間的制約などのために自分の意志を曲げたり妥協したりすることを嫌い、納得のいく仕事だけをする傾向」、「いったん引き受けた仕事は利益を度外視してでも技術を尽くして仕上げる傾向」などを指す。

建築分野に於ける職人の減少は著しいが、その要因の一つに後継者不足の他、海外から輸入されたツーバイフォー工法や、プレハブ工法など、伝統的技術を要しない工法が大手ハウスメーカーなどにより普及した事が挙げられる。[要出典]

しかしながら高度に精密な加工を要求される機械時計の製作や宇宙工学の分野では依然、高い技能を持った職人の存在が不可欠である。たとえばiPodの背面部分の鏡面加工されたステンレスは、日本(新潟県燕市)の町工場の職人による加工が行われている。

また、名工の中にはいわゆる人間国宝に認定されたり、叙勲される者もいる。手工芸分野の人間国宝には、日本工芸会の推薦が必要とされている。その他彼らに対する大臣表彰や地方自治体表彰などもある。

 

脚注 

  1. ^ 岩崎佳枝『職人歌合-中世の職人群像-』平凡社平凡社選書〉、1987年12月。ISBN 4582841147
 

参考文献 

この節には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年6月)
 

関連項目 

 

外部リンク 

 

 

国家を代表する通信社の栄枯盛衰は往々にして、その社が属する国家のそれと軌を一にしている。即ち、国家の勢力圏の拡大は通信社の販路の拡大に直結するものであり、通信社の配信する記事の増大は国家の発言力の増大を意味する。国営通信社にその傾向が顕著であることはもちろんであるが、その他の通信社も、多かれ少なかれ同様の性格を帯びている。フランスのアヴァスや日本の同盟通信社は、国家の降伏直後に解散。対してアメリカのAPは、第一次世界大戦後の国家の隆盛と歩調を合わせて伸長し、世界最大の通信社として躍り出た。

通信社の歴史  

 

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2012年3月)

本項では、通信社の歴史(つうしんしゃのれきし)を概観する。

国家を代表する通信社の栄枯盛衰は往々にして、その社が属する国家のそれと軌を一にしている。即ち、国家の勢力圏の拡大は通信社の販路の拡大に直結するものであり、通信社の配信する記事の増大は国家の発言力の増大を意味する。国営通信社にその傾向が顕著であることはもちろんであるが、その他の通信社も、多かれ少なかれ同様の性格を帯びている。フランスアヴァスや日本の同盟通信社は、国家の降伏直後に解散。対してアメリカAPは、第一次世界大戦後の国家の隆盛と歩調を合わせて伸長し、世界最大の通信社として躍り出た。

通信社はその業務の性格上、膨大な資金力を必要とする。殊に営利組織の場合、一般ニュースの配信のみで経営を維持するのは困難であり、資力に乏しい社は次々と淘汰された。それは、熾烈な競争を勝ち残ってきたロイターについても同様である。かつて栄華を誇った同社の一般ニュース部門は、1960年代には不採算部門の烙印を押され、一時は売却すら検討された。対して経済通信部門は隆盛を極め、同社の売り上げの大半を占めるまでに成長した。ロイターの事業規模は、一般ニュース部門ではAPの後塵を拝しているものの、社全体ではAPのおよそ10倍に達している。今や、経済・金融情報分野の勢力図に目を向けることなくしては、この業界の全貌を知ることはできなくなっている。

 

世界の通信社史 

黎明期 

ポール・ジュリアス・ロイター像

ニュースをいかに迅速に提供するかということは、通信社に求められる大きな資質である。19世紀以降に進んだ電気通信網の整備は、通信社の発展に大いに貢献した。いち早く産業革命を達成したヨーロッパからは、相次いで有力通信社が出現した。

1835年ユダヤ系フランス人シャルル=ルイ・アヴァス(fr:Charles-Louis Havas、1783年 - 1858年)が、近代的通信社の先駆であるアヴァス通信社 (Agence Havas) をパリで創業した。遡ること10年、1825年に通信事務所を作ったアヴァスは、主要国の首都に配置した通信員から送られる株式・商品市場などのニュースを翻訳・編集して購読者に配布した。アヴァスは1848年、ヨーロッパ各国の首都を伝書鳩によって結ぶという画期的な方法を採用した。当時の鉄道に比べると伝書鳩の方が効率が良く、アヴァスのニュースの速さに注目した新聞社は、こぞってアヴァスを購読するようになった。

14年後の1849年ユダヤ系ドイツ人で元アヴァス社員のベルンハルト・ヴォルフ(Bernhard Wolff、1811年 - 1879年)がベルリンヴォルフ電報局 (Wolffs Telegraphisches Bureau) を創業した。ヴォルフは1848年、ベルリンの新聞「ナツィオナール・ツァイトゥング (National-Zeitung) 」の経営に参画した。このときヴォルフは、取材費と通信費が社にとって大きな負担になっていることを知り、これを軽減するため、銀行や新聞社に相場の情報を配信することを考えた。このころ敷設された電信線が民間に解放されることが決定すると、ヴォルフはこれを利用したニュース配信に乗り出した。

1851年には、やはりユダヤ系ドイツ人で元アヴァス社員のポール・ジュリアス・ロイター(Paul Julius Reuter、1816年 - 1899年)が、ロンドンロイター (Reuters) を創業した。1849年に独立したロイターは、ドイツで興した通信社がヴォルフに駆逐されたのち、イギリスに渡って株式市況を速報する事業を始めた。国内外に張り巡らした電信網の使用を政府から許可されたロイターは、ニュース配信の他に、個人や企業に向けた電信事業を広く展開した。

これら3社は同業他社を圧倒する勢力を保持し、19世紀の世界における3大通信社と称された。

世界分割 

設立当初、3大通信社は激しく競合したが、衝突による疲弊を避けるため、また提携による相乗効果を図るため、1856年に第1回の国際協定を締結し、相場の速報を相互に交換することを約した。協定は1859年に一般ニュースの分野にも拡大、その後何度も更改された。

1870年、3社はニュースの収集・販売の独占権を以下のように分け合うことを決定した。

例えば、日本はロイターの勢力圏に入ったので、日本の通信社は外電が欲しければ、原則としてロイターと契約を結ばねばならないとされた。こうして3大通信社が世界市場を3分する体制が確立したのである。

アメリカAP (Associated Press) は、この流れに遅れをとった。

APは、ニューヨーク港に入る船舶の乗客からヨーロッパ情勢を取材するために、ニューヨークの新聞社5社が1846年に共同で設立したハーバー・ニューズ・アソシエーション (Harbor News Association) を起源とする。HNAは1857年にニューヨークAPと名を改め、各地の新興通信社と結びながら規模を拡大するが、シカゴで創設された西部AP (Western AP) がニューヨークAPを上回る勢いを見せる。1892年、西部APを中心としてAPが結成された。

19世紀のアメリカは対外的には不干渉主義を採り、専ら国内経済の整備・発展に注力してきた。ヨーロッパに比べて歴史の浅いアメリカはまず足元を固める必要があり、APの姿勢はまさに政府と同様であった。だが、結果としてAPは、独占体制に加わる機会を逸した。

協定破棄へ 

国際ニュースをヨーロッパの通信社(とりわけロイター)からの供給に依存せねばならなくなったAPは、国際協定の破棄を大目標に掲げる。1893年アメリカ国内に限って自主権を獲得し、3大通信社に準ずる存在として協定に加わったが、国際市場への進出は依然として制限されたままであった。

1918年、APはアヴァスの勢力圏である南米に進出した。ただし、南米の新聞社が契約相手をアヴァスからAPに変えた場合、その損失分をAPはアヴァスに補償せねばならず、しかもAPからアヴァスへ提供する記事はこれまで通り無償とする、極めて不利な条件下での進出であった。

1927年に開催されたAPの理事会は、協定の破棄を支持した。さらに1933年、APは日本の新聞聯合社とニュース交換契約を締結し、国外市場に乗り出した。堅固な独占体制の崩壊が既成事実となったことで、ロイターやアヴァスは打撃を蒙った。翌1934年、協定は正式に破棄され、3社による分割独占の時代は終わりを告げた。以後、豊富な資力を誇るアメリカの通信社が発展を遂げた。

3大通信社の衰退と変容 

AFP本社(パリ)

この間ヴォルフは、ドイツが第一次世界大戦で敗北を喫したことにより、国外の勢力圏をロイターとアヴァスに奪われ、国際通信社の座から転落した。1933年、ナチス・ドイツの国営通信社DNB (de:Deutsches Nachrichtenbüro) に吸収され、第二次世界大戦の敗戦後は国家の東西分裂に合わせて西ドイツ側のDPA (Deutsche Presse-Agentur) と東ドイツ側のADNドイツ語版(Allgemeine Deutsche Nachrichtendienst) とに分裂した。

アヴァスは、第二次世界大戦でフランスが降伏すると解体に追い込まれ、フランス政府に接収された。これに反発した元社員らは残った施設を元にして通信社群を興し、徹底抗戦の論陣を張った。パリが解放された1944年、これらの通信社を糾合してAFP (Agence France-Presse) が創設された。同社はアヴァスの設備や人材を受け継いだため、アヴァス時代と同様に大きな勢力を持つことができた。設立当初は半官半民の組織であったが、1957年の定款改正により、民間企業に改組された。しかし、収入の多くを政府から拠出される資金に依存する構造は、その後も続いている。

ロイターは、第一次世界大戦中に社長に就任したロデリック・ジョーンズ (Roderick Jones) のもと、世界戦略を推進した。ジョーンズは通信社の社長でありながらイギリス情報省(Ministry of Information)のプロパガンダ局長を兼任し、政府と癒着した経営を続けた。ロイターは、一時は世界最大の通信社として君臨するが、台頭するAPやUP (United Press Association) に押され、次第に衰微していった。1941年に協同組合に改組したロイターは、生き残りの道をイギリス連邦の大合同による経済圏の構築に求め、自社株をオーストラリアのAAP (Australian Associated Press) 、及びニュージーランドのNZPA (New Zealand Press Association) にも開放した。しかし、カナダ南アフリカの抱き込みに失敗し、インドでの売り上げは同国の独立後に激減。また、極東の有力市場であった中国では、共産党政権の成立により、西側諸国の通信社が軒並み締め出された。

ロイターはかつての威光を失い、存亡の危機に立たされた。

米ソの興隆 

UPI本社(ワシントンD.C.
タス本社(モスクワ

20世紀中葉に至ると、アメリカのAPやUP、そしてソ連の国営通信社タス(ТАСС:現・イタル・タス)が勢力を拡大した。

アメリカでは、AP、UP、INSの3社が鎬(しのぎ)を削っていた。APがロイターやアヴァスなどの有力通信社と提携して、相互の活動領域を定める戦略を採ってきたのに対し、UPは独力で商圏を開拓した。

APはアメリカ国内の契約相手を1つの都市圏につき1社に限定しており、契約できなかった社は不満を募らせていた。UPはこの間隙を縫うように、APとの契約から漏れた社を積極的に取り込んで勢力を拡大した。1958年、設備投資の増大で経営が悪化したINSと合併してUPI (United Press International) となり、APと激しく競争した。UPIは、国外においてはBUP (British United Press) を設立して、イギリス連邦の市場に進出。同地域を地盤とするロイターに対抗した。

ソ連では、帝政ロシア時代の通信社がロシア革命後に再編されて、タスが誕生した(1918年、「ロスタ」に改組。1925年、「タス」に改組)。タスは、連邦内のニュースを独占配布する権限を有し、また国際ニュースはタスを通じて連邦内に流されることになっていたため、安定経営が維持できたのである。

第三世界の動向 

20世紀中葉、アジア・アフリカの植民地は次々と独立を果たした。しかし、こと国際情報の輸出入に関しては先進国との間に著しい不均衡が残ったままであった。発展途上国側から配信されるニュースの量と先進国から配信されるそれとの差は歴然としていた。

また、英語フランス語スペイン語など使用頻度の高い言語を公用語としない国々の通信社の場合、諸外国に記事を配信するにはあらかじめ翻訳をせねばならず、時間と労力、そして経費がかかる(この点では、日本の共同通信社時事通信社も同様である)。このため、欧米の通信社は構造的に優位に立っているとされる。南北問題は、情報面でも存在していたのである。このため途上国の間では、「独立国間の主権の平等を原則として、相互依存の関係を構築すべし」とする機運が高まった。

1978年のUNESCO総会で決議された「マス・メディア宣言」に代表される、いわゆる「新世界情報通信秩序 (New World Information and Communication Order) 」の概念は、こうした情報格差の是正を目的として提唱されたものであるが、現在のところ実現の見込みは乏しい。

ロイターの復活 

ロイター・データ・センター(ロンドン)

一方ロイターは、深刻な経営難に陥っていた。売上高は最大手APの5分の1と大きく水をあけられ、存続すら危うい状況であった。このような中、1963年に急死した前社長を継いだジェラルド・ロング (Gerald Long) の指揮の下、ロイターは社の建て直しを図る。起死回生の切り札は、同社初のコンピュータによる経済情報通信サービス「ストックマスター (Stockmaster) 」であった。

「株の達人」の名の通り、「ストックマスター」は証券取引を生業とする者に向けて開発された製品であった。「ストックマスター」の成功によりロイターは劇的な復活を遂げ、金融情報サービス企業として大きく舵を切る。主たる顧客は新聞社ではなく、端末の画面を凝視するディーラーとなった。

ロイターが開発したこのシステムは、改良によって利便性を増した。「ストックマスター」では、顧客は端末に送られた経済情報を元に取引の方針を決め、電話で売買の注文をしていた。新サービスでは、端末に「売り」または「買い」と入力することで決済が完了するようにした。コンピュータ上で全ての取引が完結する、仮想市場が現出したのである。

1981年、グレン・レンフルー (Glen Renfrew) がロングを継いでロイターの社長に就任した。レンフルーは1984年、ロンドン証券取引所及びNASDAQへのロイター株上場を果たす。同社の株価は急上昇し、社は大いに潤った。以後ロイターは、世界最大の電子証券会社「インスティネット (Instinet) 」を始めとする企業との合併を繰り返して規模を拡大した。

ブルームバーグの台頭 

マイケル・ブルームバーグ。写真は政治家に転身した後のもの

1981年10月、マイケル・ブルームバーグ (Michael Bloomberg) が「イノヴェーティヴ・マーケット・システムズ (Innovative Market Systems) 」(のちブルームバーグ (Bloomberg L.P.) に改称)を創業した。

ブルームバーグソロモン・ブラザーズ (Salomon Brothers) の幹部として活躍していたが、社内抗争が元で解雇された。このとき手にした1000万ドルの退職金を元手に、ブルームバーグと4人の同志は国債価格などの情報を配信するビジネスを開始した。当時は、ダウ・ジョーンズやキャンター・フィッツジェラルドが出資する「マネーライン・テレレート社(Moneyline Telerate, Inc.:以下「テレレート」)」の販売する端末が圧倒的なシェアを誇っており、この分野への新規参入は不可能とさえいわれていた。しかしブルームバーグの開発した端末は、テレレートの製品を凌駕していた。即ち、価格や利率といった情報のみならず、内蔵ソフトがテクニカル分析を行い、「売り」か「買い」かの判断の指針を示すという画期的な機能を有していたのである。

設立当初、ブルームバーグダウ・ジョーンズからニュースの提供を受けて、端末に流していた。しかし、将来ダウ・ジョーンズブルームバーグを敵視して情報提供を断ることを懸念して、自前の取材網の確立を模索する。ブルームバーグは1990年2月、ダウ・ジョーンズから引き抜いたマシュー・ウィンクラー (Matthew Winkler) を中心として、「ブルームバーグ・ビジネス・ニューズ」を開始した。金融情報ベンダーとして創業したブルームバーグは、こうして通信社事業に本格参入するに至った。

ブルームバーグが躍進する中、モスクワでは1989年インテルファクス通信 (Интерфакс) が設立された。ソ連の消滅も影響し、タスの一極集中体制は崩れた。1991年には、慢性的な赤字に苦しんでいたUPIが倒産し、APがアメリカ市場に覇を唱えた。一方ロイターは、インターネットを利用した情報提供に本格的に乗り出した。

世界の通信社の勢力図は、さらなる変動を続けている。

 

日本の通信社史 

乱立 

日本では、江戸時代に米相場の動きを手旗信号によって遠方に伝える手法が存在したが、近代的通信社が生まれたのは明治時代のことである。板垣退助らが中心となって展開した自由民権運動を契機として国会設立の機運が高揚し、1890年明治23年)に第1回帝国議会が開かれた。この動きに乗って続々と新聞が発刊され、同時に国政の動向や政論を配信する通信社も数多く設立された。東京だけで200を超える通信社が存在したというが、草創期の通信社は総じて小規模なものであった。

1887年明治20年)、六角政太郎が「東京急報社」を創業。大阪堂島の米市場の情報を江戸橋電信局に打電し、東京の顧客に伝達した。これが日本における近代的商業通信の嚆矢である。同社は1904年(明治37年)に「合資会社商業通信社」として再生。1919年(大正8年)に株式会社化し、1937年(昭和12年)12月に同盟通信社の子会社「日本商業通信社」に吸収された。

1888年明治21年)11月4日、三井物産創業者の益田孝により「時事通信社」(現在の時事通信社とは無関係)が創立された。同社は、当時の内務省警保局清浦奎吾(のち首相)の肝煎りで設立された御用機関であったが、激しい内紛に見舞われ、3年足らずで事実上の休業に陥った。

1890年明治23年)1月10日、郵便報知新聞社(のちの報知新聞社)社長の矢野龍渓こと矢野文雄が「新聞用達会社」を創業した。同社は郵便報知新聞社と同様に、立憲改進党支持の姿勢を明確にしていた。

1892年明治25年)5月10日、時事通信社と新聞用達会社が合併して帝国通信社(以下「帝通」)が誕生。初代社長には、新聞用達会社で主幹を務めた竹村良貞が就任した。同社の記事は、政府の方針にそぐわないとして度重なる発行停止処分を受けたが、帝通は官庁の発表記事に強く、新聞各社は帝通の記事を欲した。同社は日清戦争及び日露戦争を通じてその業務を拡大し、抜きん出た存在に成長した。

19世紀に生まれた通信社としては他に、1890年11月に清浦奎吾が警保局の機密費を使って設立した「東京通信社」や、1891年(明治24年)に漆間真学が設立した「日本通信社」、1893年明治26年)5月に出版界の雄・博文館大橋佐平が設立した「内外通信社」、1899年(明治32年)2月に自由党代議士の星亨が設立した「自由通信社」などがある。

日本通信社は、1906年明治39年)に庇護者の伊藤博文京城(現在のソウル特別市)に統監府を置き、自ら初代統監に就任すると、京城に支局を設置した。日本の通信社が海外に拠点を置いたのは、これが最初である。内外通信社はロイターとの直接契約に成功し、外電を国内に配信した。しかし当時は外電の需要が低く、売り上げは低迷した。結果、1897年(明治30年)に博報堂瀬木博尚に譲渡され、1955年(昭和30年)に博報堂に吸収された。自由通信社は自由党の宣伝機関として機能し、星の死後は西園寺公望がこれを継いだが、関東大震災以後凋落した。

電通」誕生 

1901年明治34年)7月1日、光永星郎が「電報通信社」を創業した。

光永は、日清戦争の際に従軍記者として中国に渡った経験を持つ。このとき、通信手段の不備による記事掲載の遅れなどの理由から通信社の重要性を痛感した光永は、自ら通信社を興すことを考えた。だが通信社設立には莫大な資金を要することから、光永は営利の見込まれる事業として広告業に目を付けた。即ち、広告代理店「日本広告株式会社」を設立し、然るのちに通信社を広告代理店に併設するという形をとったのである。日本広告と電報通信社は、新聞社から受領する通信料と新聞社に支払う広告料を相殺する方式で地盤を築いた。新聞社にとってこの手法は、広告枠を電報通信社に開放しさえすればニュースを享受できるため都合が良く、後発の通信社であった電報通信社がシェアを拡大する上で大いに役立った。しかし同時に、これは通信社が新聞社の生殺与奪の権を握ることに他ならないとの批判も受けた。

1906年明治39年)12月27日、光永は「日本電報通信社」を興し、「電報通信社」を買収。資本金は20万円であった。翌1907年(明治40年)4月、京城に支局を設置した。また、6月21日にUPが設立されると、翌月には早くもUPと通信協定を結び、アメリカ系の国際ニュースを初めて日本の新聞に導入。8月1日、日本広告と合併した。現在の「電通」である。

電通の急成長ぶりは、1908年(明治41年)に開催された創立7周年記念式典の際に、逓信省通信局長の小林謙二郎が述べた祝辞にも現れている。祝辞によると、当時の日本における予約電報は毎日8000字、予約電話は毎日50通話で、共に3分の1が電通によるものであったという。

日本の有力通信社として台頭した電通は、先行する帝通と激しく争った。なお、電通は他社に比して政治的立場の鮮明な記事は多くはなかったが、立憲民政党系の帝通と競合したこと、立憲政友会(政友会)系の新聞社と多く契約していたことなどにより、電通も政友会系と目されることが多かった。

「国際」と「東方」 

1914年大正3年)2月、「国際通信社」(以下「国際」)が設立された。代表社員は、樺山資紀の長男で財界の重鎮・樺山愛輔。総支配人は元AP東京支局長のアイルランドジョン・ラッセルケネディ (John Russell Kennedy, 1861-1928) が務めた(1923年まで)[1][2]

同社設立の背景には、アメリカ在住の経験を持つ高峰譲吉や、彼に同調した牧野伸顕渋沢栄一らの強い思いがあった。

1909年8月に渡米実業視察団の団長としてアメリカに向かった渋沢は、同国における日本関係の記事が非常に少ないこと、しかもそのわずかな記事の中には悪意に基づくものもあることを憂慮し、日本から海外にニュースを積極的に発信する必要があるとの認識を持つに至った。1911年には、来日したAPのメルヴィル・イライジャ・ストーン (Melville Elijah Stone) が講演し、日本も国家代表通信社 (National News Agency) を持つべきだと主張した。のちの同盟通信社社長・古野伊之助は、これに感銘を受けた1人である。

しかし、世界3大通信社の協定に基づく制約により、「国際」は諸外国の通信社と独自に契約することが許されず、極東市場を掌握するロイターを通してニュースを得るに留まった。渋沢らの意図に反して、「国際」はロイターに従属する立場から脱却できなかったのである。

「国際」は慢性的な赤字に苦しんだ。同社がロイターに支払う通信手数料は月2000円。対して、契約新聞社からの購読料はほぼ同額の2000円余りに留まり、諸経費を含むと足が出た。赤字は外務省が補填した。新通信社の設立が検討された。

1913年11月、ケネディが独断でロイターと契約。渋沢が設立しようとしていた通信社、文言中の「シンジケート」は、ロイターから日本国内における営業譲渡を受ける体裁でありながら、毎年3000ポンドも払って原則ロイターからの受信しかできず、発信はロイター側から求められたときだけ行うことになった。[3]ロイターは日本の新聞社と個別に契約する必要がなくなった。

1914年10月1日に「東方通信社」が上海で設立された。社長は支那研究所所長の宗方小太郎。「国際」がアメリカでの排日運動に刺激されて誕生したのに対し、こちらは中国におけるドイツの排日運動の盛り上がりに対抗するため、外務省の働きかけによって誕生した。1920年大正9年)8月1日、同社は「新東方通信社」(以下「東方」)に改称し、本社を東京に移転している。

電聯時代 

ケネディに代わり国際社長に就任した岩永裕吉は、3万ポンドの代償を払って日本国内のロイター暖簾を譲り受けるなどした[4]。1925年(大正14年)にはモスクワへ赴き、ロスタ(後のイタル・タス)と対等の通信契約を締結した。

さらに岩永は、新聞社の共同機関による通信社の設立を説き、1926年(大正15年)5月1日、国際と東方の合併により「日本新聞聯合社」を設立(翌年「新聞聯合社」に改称。以下「聯合」)した。同社は東京日日新聞社大阪毎日新聞社東京朝日新聞社大阪朝日新聞社国民新聞社時事新報社中外商業新報社報知新聞社の8社による匿名組合であった。

このころ、帝通は落日の時を迎えていた。頼母木桂吉が社長を務めていた大正末期に黄金時代を現出した帝通であったが、関東大震災で社屋が全壊する被害を受けた。また1925年(大正14年)に頼母木が加藤内閣逓信事務次官に就任して社長職を離れたころから、社業は陰りを見せ始めた。

国際は帝通を通じて外電を各地方に配信する契約を締結していたが、新会社の聯合は、契約期間が満了したのを機にこれを廃止。急速に没落した帝通は、1929年(昭和4年)に破産宣告を受けるに至る。以後、電通と聯合の2大勢力が激しく争う「電聯時代」が到来した。

同盟通信社 

1931年昭和6年)の満州事変後、陸軍省海軍省・外務省の情報担当者による会議が行われ、情報通信の一元化による統制を行うための布石として、電通と聯合の合併が画策された。電通にとっては承服できかねる話であり、多くの地方紙も強硬に反対したが、新会社「同盟通信社」の設立構想は進められた。

1932年昭和7年)12月、里見甫の「満州における国家代表通信社」の設立工作により、満州における電通と聯合の通信網を統合した国策会社である「満州国通信社」(略称「国通」)が設立された。同社は後に同盟通信社の姉妹機関となる。

1935年昭和10年)11月17日、電通の承諾なきまま「同盟通信社」の設立が許可され、12月17日の設立総会で、翌月1日からの業務開始が決定した。合併推進派は、小森七郎正力松太郎、寺田四郎の3名を光永の元に向かわせて翻意を促したが、光永は首を縦に振らなかった。

1936年昭和11年)1月1日、「社団法人同盟通信社」(以下「同盟」)が発足した。ただし、未だ電通側の承諾が得られないままの見切り発車であったため、この時点では聯合が社名を変更したに過ぎなかった。同年3月9日に誕生した廣田内閣において逓信大臣に就任した頼母木桂吉は、かつての商売敵である光永を呼び付け「政府裁定案」の受諾を迫った。光永はこの案を呑み、4月30日に契約書に調印。6月1日、電通は通信部を同盟に譲渡し、広告代理部門は同盟の広告部と統合した。現在の、広告専業としての電通の基礎は、こうして形成された。

同盟は日本の国家代表通信社として、また東洋最大の通信社として君臨した。しかし帝国と共に拡大した同社の命運は、帝国と共に尽きることとなる。

「同盟」分裂 

1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦は日本のポツダム宣言受諾によって終結した。同年9月24日、GHQは「新聞の政府からの分離」を指令。同盟社長の古野伊之助は、同盟が原型を留めない形で解体されるのを恐れ、先手を打つことにした。古野は即日GHQに赴き、同盟の自発的解散の意志を表明したのである。10月31日、同盟は正式に解散し、翌11月1日、共同通信社(以下「共同」)と時事通信社(以下「時事」)が発足した。

同盟通信社の解散に関する覚書」では、共同は「新聞社および放送局を対象とする新聞通信を経営」し、時事は「一般購読者を対象とする時事通信、経済通信、出版事業などの経営」を行うとの基本方針が定められた。

共同通信社 

共同通信社旧本社(東京都港区)

共同は発足当日の11月1日に、早くもAPとニュース配信を受ける契約を締結した。11月10日にUPと、また1946年(昭和21年)1月1日にはロイターと契約し、国際ニュースの安定供給に向けて布石を打った[5]。また、1949年(昭和24年)7月に国際ニュースの自主取材を開始して、1952年(昭和27年)6月、ニューヨーク支局の設置に漕ぎ着けた[6]

1950年(昭和25年)に始まった朝鮮戦争は、朝鮮特需による好景気を日本にもたらしたが、共同もニュース配信量の急増による恩恵に浴した。さらに、中国が戦争に介入すると、新華社から受信するニュースが世界中から重宝され、共同の価値を高からしめた[7]

しかし1952年(昭和27年)9月、加盟新聞社のうち朝日毎日読売の3大紙が脱退を表明した[8]

他社を圧倒する規模を有する3社は、共同に高額な負担金を払わずともニュースの収集が可能と判断した。また3社には、「共同が干上がれば、多くのニュースを共同に依存する各地方紙が打撃を受け、自社の販路拡大に有利に働く」との思惑があったとされる。3社の負担金の合計額は1800万円と、全体(7200万円)の4分の1に達しており、これを失えば共同が直ちに苦境に陥ることは確実であった。共同は、他の加盟新聞社に負担金の増額を要請。各社がこれを了承したことにより、危機を乗り切った。なお、ロイターなどとの契約が思うように進まなかったことから、3社はのちに、海外ニュースに関しては再び共同からの記事配信を受けるようになった[9]

世界の注目を集めた1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは、共同の配信する記事が存在感を示した[10]

時事通信社 

一方時事は1946年(昭和21年)8月、UPと経済通信分野における独占契約を締結[11]。さらに1949年(昭和24年)12月、AFPと一般ニュースの契約を締結して[12]、1952年(昭和27年)1月、ロイターと経済通信の独占契約を、その翌年にはAFPと、経済通信の独占契約をそれぞれ締結した[13]

しかし、時事の船出は順調には進まなかった。同盟の目ぼしい遺産は共同が引き継ぎ、さらに時事は外地から引き揚げて来る元同盟社員の受け皿とされたために人件費がかさみ、設立当初から苦難の道を歩まざるを得なかったのである[14]

同盟解散時、古野は将来時事と共同が再合同することを期していた。一般ニュース分野と経済通信分野とに分割して棲み分けを図ったのも、両社の無用な衝突を避けるためである。そして「時事は、一般ニュースを必要とする場合は共同から無料で供給してもらえばよい。専用線も共同のものを無償で使用すればよい」としていたが、実際に分社化するとそのようにはいかなかった。一般ニュースの自主取材は「覚書」によって厳しく制限され、また、敗戦後間もない日本経済は著しく疲弊しており、経済通信での収入も芳しくなかった。

このため、1949年(昭和24年)7月14日に社長の長谷川才次が共同常務理事の松方三郎(松方正義の末子)と直接交渉し、両者は「覚書」の撤廃に合意した。以後、共同から時事へのニュース供給は途絶し、古野の意図に反して両社の本格的な抗争が始まった[15]

1971年(昭和46年)、日本経済新聞社が子会社「株式会社市況情報センター (QUICK) 」を設立した。QUICKは、専用端末「ビデオ-I」で経済情報サービス分野に参入し、急成長を遂げた。新たな脅威の出現により、時事はさらなる苦境に陥った[16]

1971年は時事にとって、もう1つの意味で特別な年であった。この年の6月、初代社長の長谷川が退陣したのである[17]

「独裁的」とも評される長谷川の経営方針や、政財界寄りの態度に不満を覚えた社員らは1968年(昭和43年)、実質的には機能していなかった「時事通信社労働組合」(1950年発足)に代わる組織として「時事通信労働組合」を結成し[18]、待遇改善などを要求する運動を展開。組合には約120人が参加した。1971年(昭和46年)3月26日と4月28日、組合は全日ストに突入し、機動隊が出動する異常事態となった[19]

労使の対立は、1971年5月の第51回定期株主総会で頂点を迎える。席上、組合員による質問が突如打ち切られ、提出議案が強行採決されたことに組合側が猛反発し、総会は紛糾した。こうした一連の混乱の責任を取って、長谷川ら経営陣は辞職した[20]

外資の参入 

ロイターは明治初期に、外国の通信社で初めて日本に特派員を置いた歴史を持つが、20世紀半ばの段階では現地法人の設立には至っていなかった。1971年のQUICK設立時、ロイターは8%の資本参加を行い、「ストックマスター」など主力商品の販売を委託した。しかし、1984年(昭和59年)にQUICKとの関係を解消。翌1985年(昭和60年)、日本法人「ロイター・ジャパン」を設立した。

一方、ブルームバーグも日本市場の開拓を目指し、経済情報を一刻も早く入手できる環境を整えるべく、東京証券取引所内の記者クラブ兜倶楽部」への加盟を申請した。しかし外国メディアの加盟は例がなく、また全国の記者クラブのあり方にも関わる重大事であったため、再三にわたる申請に対しても許可は下りなかった。また、「兜倶楽部に加盟すれば重要な経済情報がいち早く手に入るため、立場を悪用すれば不正に利益を上げることもできる。通信社といえるのかどうかも疑わしいブルームバーグに、そのような特権を与えてもよいのか」といった疑問の声もあった。

業を煮やしたブルームバーグ側は、アメリ大使館の圧力を利用して揺さぶりをかけた。これが功を奏し、1993年(平成5年)、ロイターと共に兜倶楽部への加盟を認められた。この結果、両社の速報性は向上した。対して、規制に安住して20年前の商品「ビデオ-I」を販売し続けてきた、QUICKの影響力は著しく損なわれた。また、時事にとってこの一件は、QUICK以上に巨大な競争相手の登場を意味していた。

合併説 

汐留メディアタワー(東京都港区)。共同通信社の本社が入居する

共同の命綱は加盟社からの負担金であるが、強大な発言力を有する大手新聞社や経営環境の厳しい新聞社からの値下げ要求に悩まされている。1998年、外信のみ共同と契約していた朝日、毎日、読売が、負担金の値下げを要求した。部数が減少した産経も脱退を仄めかし、負担金の大幅削減を実現している。2005年には、負担金に関する日本テレビとの交渉が決裂。日本テレビは脱退し、ニュース収集に関する読売への依存度を強めることとなった。こうした動きが波及すれば、共同の財務体質に深刻な影響を及ぼしかねない。

対する時事は、創業時に一般ニュースの分野を共同に明け渡したことから、長く辛酸を嘗めてきた。主力の経済情報分野では、ロイターやブルームバーグの参入でパイの争奪戦が激化しており、安閑としていられない状況が続く。

こうした事情から、共同・時事両社の合併が常に囁かれている。両社が出資する新会社「日本メディアーク」の設立時などには、業界紙や雑誌が「合併に向けた動きか」と報じた。

日本の通信社を代表する両社の合併が仮に実現した場合、新会社が日本の国家代表通信社として世界に雄飛する可能性が期待される。だが反面、少なくとも日本国内においては新会社が突出した影響力を持つことになるため、情報市場の独占による弊害を危惧する声もある。

 

年表 

  • 1835年 - シャルル=ルイ・アヴァスがパリでアヴァスを創業
  • 1846年 - ニュー・ヨークでハーバー・ニューズ・アソシエーション(HNA:APの前身)創業
  • 1849年 - ベルンハルト・ヴォルフがベルリンでヴォルフを創業
  • 1851年 - ポール・ジュリアス・ロイターがロンドンでロイターを創業
  • 1852年 - アヴァス、広告専門の子会社を設立
  • 1856年 - アヴァス、ヴォルフ、ロイターの3社による初の協定締結
  • 1857年 - HNA、「ニュー・ヨークAP」に改称
  • 1865年 - ロイターが株式会社化
  • 1875年 - ヴォルフが株式会社化。「大陸電報会社 (Kontinental Telegraphen Kompagnie) 」に改称(その後もヴォルフと通称された)
  • 1879年
  • 1887年 - 六角政太郎が東京急報社を創業
  • 1888年 - 益田孝が時事通信社を創業
  • 1890年 - 新聞用達会社、東京通信社創業
  • 1891年 - 漆間真学が日本通信社を創業
  • 1892年
    • 時事通信社と新聞用達会社が合併、帝国通信社誕生
    • AP誕生
  • 1893年 - 5月5日、大橋佐平が内外通信社を創業
  • 1899年 - 2月11日、星亨が自由通信社を創業
  • 1900年 - AP、本社をニュー・ヨークへ移転
  • 1901年 - 光永星郎が電報通信社を創業
  • 1906年 - 電報通信社を改組、日本電報通信社誕生
  • 1907年 - エドワード・ウィリス・スクリップス (Edward Wyllis Scripps) がUPを創業
  • 1909年 - ウィリアム・ランドルフ・ハースト (William Randolph Hearst) がINSを創業
  • 1914年 - 国際通信社及び東方通信社創業
  • 1917年 - カナダでCP (Canadian Press) 創業
  • 1918年 - ロシア通信社 (Российское телеграфное агентство) 、略称ロスタ (РОСТА) 誕生
  • 1920年
  • 1925年 - ロスタが改組、タス (Телеграфное Агенство Союза Советских Социалистических Республик、ТАСС) 誕生
  • 1926年 - 国際通信社と新東方通信社が合併、日本新聞聯合社誕生
  • 1927年 - 日本新聞聯合社、「新聞聯合社」に改称
  • 1929年 - 3月28日、帝国通信社が倒産
  • 1931年 - 北京で紅色中華通訊社創業
  • 1932年 - 満州国通信社創業
  • 1933年 
    • APと新聞聯合通信社、ニュースの相互提供を決定
    • ヴォルフ、国営通信社DNBに吸収される
  • 1934年
    • 3大通信社による協定解消
    • オランダでANP (Algemeen Nederlands Persbureau) 創業
  • 1935年 - オーストラリアの新聞社14社が共同で、AAPを創業。初代社長はルパート・マードックの父キース・マードック (Keith Murdoch)
  • 1936年 - 同盟通信社創業
新華社本社(北京宣武門)
 

脚注 

  1. ^ 国際通信株式会社デジタル版『渋沢栄一伝記資料』2020.3.6
  2. ^ North China Standard OnlineThe Baker Centre for Translation and Intercultural Studies Shanghai International Studies University December 25, 2017
  3. ^ アジア歴史資料センター B03040802100 井上準之助から牧野宛の電文および契約書
  4. ^ "News Service Agreement" 18 Articles and 2 Appendixes; "Commercial Service Agreement"
    Reuters Archives Record. 1/8714753 LN242.
    1923年12月19日付。上記出典の確認を強く推奨する。
  5. ^ 共同通信社年表』(同社社史刊行委員会編集・1996年6月出版)28頁
  6. ^ 海外自主取材するスタート - 『共同通信社50年史』(同社社史刊行委員会編集・1996年6月出版)第2部第2章第7節
  7. ^ 朝鮮戦争が突発 - 『共同通信社50年史』第2部第2章第9節
  8. ^ 共同通信社年表』38頁
  9. ^ 3社、共同を脱退 - 『共同通信社50年史』第2部第2章第2節
  10. ^ 東京オリンピック - 『共同通信社50年史』第2部第3章第12節
  11. ^ 時事通信社50年史』(同社社史刊行部会編集・1995年11月出版)572頁
  12. ^ 時事通信社50年史』576頁
  13. ^ 時事通信社50年史』578頁
  14. ^ 時事通信社50年史』49頁
  15. ^ 時事通信社50年史』65頁
  16. ^ 沿革 - 株式会社QUICK
  17. ^ 時事通信社50年史』116〜117頁
  18. ^ 時事通信社50年史』106頁
  19. ^ 時事通信社50年史』113頁
  20. ^ 時事通信社50年史』115頁
 

参考文献 

 

外部リンク 

 

 

創立当初は東京・九段(現在の東京都千代田区九段)の愛国婦人会本部の別棟が仮校舎であったが、1939年(昭和14年)4月に旧電信隊跡地の中野区囲町に移転。1945年(昭和20年)4月、空襲の激化に伴い群馬県富岡町に疎開、富岡中学校などの施設を利用して講義が行われた。当初は純粋なスパイ技術養成機関であったが、太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦を機にゲリラ戦術教育機関(アメリカ陸軍の特殊戦スクールに相当)へと変貌した。

陸軍中野学校   

 

陸軍中野学校 (りくぐんなかのがっこう)は、大日本帝国陸軍情報機関の一つで、諜報防諜宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした軍学校である。かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来する。偽装用の通称号東部第33部隊

 

概要 

沿革 

創設の動きは1937年昭和12年)、戦争形態の加速度的進化で謀略の重要性が増し、日本が世界的な潮流からの停滞を余儀なくされることを怖れた岩畔豪雄中佐が、参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことに始まる。同年末、陸軍省が中心となってその創設を決定。岩畔、秋草俊、福本亀治各中佐を中心として1938年昭和13年)3月に「防諜研究所」として新設。同年7月より特種勤務要員(第一期学生19名)の教育を開始した。1939年昭和14年)5月に同研究所は「後方勤務要員養成所」に改編、7月には第一期学生の卒業を迎える。1940年昭和15年)には「陸軍中野学校」と改名し、1941年昭和16年)には参謀本部直轄の軍学校へ転身する。その存在は陸軍内でも極秘とされていた[1]

創立当初は東京・九段(現在の東京都千代田区九段)の愛国婦人会本部の別棟が仮校舎であったが、1939年昭和14年)4月に旧電信隊跡地の中野区囲町に移転。1945年(昭和20年)4月、空襲の激化に伴い群馬県富岡町疎開富岡中学校などの施設を利用して講義が行われた。当初は純粋なスパイ技術養成機関であったが、太平洋戦争大東亜戦争)の開戦を機にゲリラ戦術教育機関アメリカ陸軍特殊戦スクールに相当)へと変貌した。

1944年昭和19年)8月、静岡県二俣町(現在の静岡県浜松市天竜区)に遊撃戦(ゲリラ戦)の要員養成を主たる目的として「陸軍中野学校二俣分校」が設立された(1974年(昭和49年)、ルバング島から帰国した小野田寛郎や、インドシナ戦争中にベトミンクァンガイ陸軍士官学校教官を務めた谷本喜久男、現在では数少ない生き証人井登慧が同校の卒業生であった[2])。

学生陸軍士官学校陸軍予備士官学校陸軍教導学校(1943年(昭和18年)8月廃止)出身者から選抜された。その大半は一般大学卒等の学歴を持ち、市井を経た甲種幹部候補生陸軍予備士官学校卒)出身者であり、次いで教導学校卒の下士官出身者が多く、陸軍士官学校卒の者は少数であった。

1945年(昭和20年)1月3日に中野学校に入校した第8期生150名のうち、90%以上は一般大学や高等専門学校の出身者で、東京帝国大学(現在の東京大学)出身者が最も多く、次いで拓殖大学東京外事専門学校(現在の東京外国語大学)、そして早稲田大学慶應義塾大学明治大学等が続いた。名門とされる一般大学出身者から数多く選抜された理由は、諜報員として幅広く高い学識と冷静な視点のほか、市井の生活習慣に馴染んでいることが求められていたためである。一般的な職業軍人たる陸士卒の現役将校の場合、軍人としての規律や高度な軍事知識は身に付いているものの、その知識・慣習は一般社会においては偏っていることから判断を誤るおそれがあったためである。また態度にも軍人らしい雰囲気を出してしまうため、商社マンや新聞社通信員等の民間人を装って諜報活動を行う際に妨げとなりやすく、これを避けられたのである。

校風 

学生は軍服を着用せず、また任務の性質上、一般人のなかでも目立ちにくいように普段から平服姿に長髪でいる事が推奨されていた。そのため、里帰り時には親から軍人にあるまじき姿を叱責され、スパイとして教育を受けている以上は親にも理由を明かせず、言い訳もできず苦労したと言われる。また、軍刀を佩用し長靴を履き将校軍服を着る陸軍将校に憧れ陸軍を志した手前、入校当初には落胆する者も存在した。

錬成要領の中に「外なる天業恢弘の範を明石大佐にとる」という言葉があるように、明石元二郎陸軍大将(大佐日露戦争当時の階級)の報告書『革命のしをり』を基本教材とし、神(アマテラス)の意志にもとづいて世界人類の平和を確立する諜報工作戦士を養成していた[3]

八紘一宇大東亜共栄圏といったスローガンは一顧だにされず、「戦時中で最も自由主義的ではなかったか」と回顧する出身者もいる[要出典]。また、天皇に対する見方も自由であり、学生や教官の間で天皇の是非が討論される事もしばしばだったという。敵性語たる英語使用の自粛も全く行われず、むしろ諜報能力を養成する関係から外国語の技能は必須であり、英会話することを推奨された。

教育 

午前中は諜報・謀略・防諜などの秘密戦に関連する学問の講義と実践、午後は自習となっていた。ここでいう「諜報」とは、情報を収集することで内外の情勢を正確に掌握し、いかなる事態に遭遇しても素早く的確な意思決定ができるようにすること、「謀略」とは、情報操作や宣伝で敵を孤立・混乱させたりすること、「防諜」とは、敵が仕掛けてくる諜報、謀略を探知し、それを逆利用し偽の情報を流して敵を混乱させることである。いわゆるスパイの特殊技能そのものの教育も行われたが、教育の中心は、諜報の理論や、柔軟で融通のきく能力の育成に置かれた。

中野学校の学生は「名誉や地位を求めず、日本の捨石となって朽ち果てること」を信条とした。日本軍一般の教育とは異なり、生きて虜囚の辱めを受けてもなお生き残り、二重スパイとなって敵を撹乱するなど、あくまでも任務を遂行すべきよう教育された。また、汚く卑怯ともいえる諜報活動を行うこととなるからこそ、「至誠」の心を強く持つよう教育された。

講義では、対露政治謀略工作で日露戦争の勝利に大きく貢献した明石元二郎が何度も紹介され、彼が学生の英雄となっていた。教官は、中野学校の一期生や、参謀本部陸軍省の中堅将校などであった。

2012年平成24年)に発見された1期生の卒業報告書『後方勤務要員養成所乙種長期第1期学生教育報告』[4]によると、1,361単位中1,290単位が実施された。科目は、軍事学兵器築城航空学など)、外国語英語ロシア語中国語)、武術剣術柔術)、細菌学薬物学法医学、実習(通信・自動車など)、講義(忍術法医学など)、その他(気象学交通学心理学統計学など)など多岐にわたっている。諜報・謀略・防諜・宣伝が科目の中心であったが、政治・経済・思想・宗教といった学科もあり、時には忍術の達人やスリの名人もその技を実演したという[5]柔道よりも一撃必殺の効果が高い植芝流合気道が必修科目とされ、謀略機材の研究をしていた登戸研究所から特殊爆弾や偽造紙幣の製造法等を学んでいた[6]。 また1938年昭和13年)7月に入所した1期生19人の内訳は、大卒3人、専門学校卒11人、中卒4人、中退1人となっている[7]

このような教育は1945年3月まで行われたが、同年3月10日の東京大空襲の影響により、中野学校本校は群馬県甘楽郡富岡町(現・富岡市)に移設されることとなった。これを境に教育内容も二俣分校と同じくゲリラ戦要員養成へと変更され、本土決戦を想定した遊撃戦の訓練などが行われた。二俣分校でゲリラ戦を教育され、マニラに派遣後、ルバング島に派遣されたのが小野田寛郎少尉であり、結局一人だけ生き残り、残置諜者としての命令を遵守していた[8](背景についてはフィリピンの戦い (1944-1945年)も参照)。

 

太平洋戦争 

各種遊撃、潜入、工作活動などを学習した中野学校出身者は太平洋戦争中も活発に活動した。参謀本部勤務などの他、アジア各地で各種機関を設立して義勇軍の育成や諜報活動に任じたが、戦争末期は遊撃戦要員として戦闘に加入した者も多くいた。沖縄戦においても義烈空挺隊に数名が要員として参加している。

南方での動向 

1941年12月8日に始まるマレー作戦では、中野学校出身者らで構成された藤原岩市少佐(中野学校教官)率いるF機関(藤原機関)が、英印軍の半数を占めるインド人の兵士に対する投降作戦を展開し、投降したインド人により編成されたインド国民軍が、さらなる投降誘致や軍事施設破壊などに活躍した。これは後に岩畔機関に引き継がれ、チャンドラ・ボースを首班とする自由インド仮政府シンガポールにて樹立されることになる。

ビルマの戦いでは、1940年より、中野学校出身者らで構成された南機関が、ビルマの青年志士らによって編成された独立義勇軍と行動を共にし、日本軍との共同作戦を成功させた。

蘭印作戦では、第1挺進団によるパレンバン空挺作戦に出身者が随行空挺降下、また第16軍上陸部隊によるジャワ攻略戦においては、オランダ側ラジオ局に偽装して偽の情報を流し、オランダ軍を混乱させた謀略放送に中野学校出身者が深く関与していた。

沖縄での動向 

やんばるの第一と第二護郷隊 

沖縄戦に備えて1944年9月、三乙教育出身者の村上治夫岩波寿らが、沖縄へと着任した。小禄空港(現・那覇飛行場)に着くと、第三二軍司令部で牛島満中将と長勇参謀長に挨拶を行った。村上によると、「着任のあいさつを終えた後、長勇参謀長から『沖縄が玉砕した後も生き残り、遊撃戦を続けろ』と言われた」と述べている。村上は、その後遊撃隊として、沖縄北部に配置され、那覇に進行するであろう米軍の背後を襲うことを命じられる。また、同年9月、遊撃戦の下地作りとして、護郷隊を組織し、少年兵を召集した。大きな原因は、兵士不足によるものであるが、15 -16歳の少年たちが北部での遊撃戦を担う厳しい訓練を受けた[9]

1945年3月26日、米軍が上陸作戦を開始すると、護郷隊は、多野岳名護岳に配置された。4月には、交戦が始まり、米軍の真喜屋・稲嶺キャンプを焼き払う攻撃を開始、不意をつかれた米軍は奥武島へと撤退した。この後、米軍は多野岳への砲撃を開始し、村上らは山深い国頭山中へと撤退している。5月下旬に第32軍が首里の司令部を放棄し、南部へと向かう。牛島と長が6月23日に自決し、日本軍による組織的な戦闘は終結。護郷隊は、潜伏することになるが、これは事実上の解散であった(ここまでの記述は、川満彰『陸軍中野学校沖縄戦』2018による)。

離島残置諜者 

波照間島 

波照間島では、1945年2月、酒井喜代輔軍曹(中野6期戊種)は山下虎雄の名で小学校の代用教員として潜伏。全校生徒250名の4年生の担任となり、青年学校の柔剣道教師を兼任した。その後、石垣島司令部より波照間島に米軍の上陸が予想されると、「全島民を西表島疎開させ、その後建造物一切を焼却し、井戸を埋没して使用不能にせよ」との命令が出された。住民たちはマラリア発生地である西表島への疎開は困難であると何度も訴えたが、山下は一変して中尉を名乗り、疎開を受け入れない一部の住民には軍刀で脅すなどして、全島民を西表島へ強制疎開させた。その際、波照間の豊かな家畜資源2,000頭あまりの牛馬、羊や豚や鶏などを住民に命じて殺処分させ、日本軍の食料として鰹節工場で燻製にさせて持ち去った。住民はマラリアの流行る南部地域に移住させられたため、由布島に移住したもの以外はマラリアにかかることとなり多数が亡くなった(戦争マラリアの項も参照)。戦後の山下は滋賀県で工場を経営していた。生存者の中には「今でも会ったら殺してやりたい。」と述べる者がおり、山下が戦後訪れた際には各団体から正式に抗議を受けるなど恨まれている。

久米島 

1945年1月に久米島の具志川国民学校に赴任してきた元中野学校生の竹川実は「上原敏夫」と名乗り、海軍見張隊(電波探知隊)35名の小隊(35名)を率いる鹿山正曹長と連絡を取り合っていた。鹿山隊は無実の朝鮮人一家もふくめ何件かの住民虐殺事件をおこしたことで恐れられた。(久米島守備隊住民虐殺事件の項を参照)。

伊平屋島伊是名島 

伊平屋島では斉藤義夫は「宮城太郎」という名で国民学校の訓導として赴任していたが、斉藤は敗残兵らが米軍上陸への切り込みの計画をするのを、島の人たちが巻き添えになる、と言って思いとどまらせたと伝えられる。

一方、伊是名島には「西村良雄」という名で馬場正治が送り込まれていた。伊是名島では、この二人の残置工作員と、沖縄島から逃れてきた宇土部隊の敗残兵、漂着した特攻隊員、駐在らと共に住民を誘導、米軍捕虜の殺害や島民、奄美出身の少年3人を含む4人の住民虐殺がひきおこされた[10]

 

戦後 

中野学校の閉校 

二俣分校を含む卒業生の総数は2,500余名である(一説に2,131名とされる)。公式には1945年8月15日の敗戦をもって閉校したが、その一部は以降も国内外で活動を継続していたと見られ、占領軍に対するゲリラ攻撃を計画するなどしていたという。中には身分を偽装してGHQに潜入し内部撹乱を図った者もおり(後の山梨県副知事となる田中徹雄大尉など)、GHQの対日工作機関キャノン機関の破壊に成功したという説もある。また、インドネシア独立戦争や、インドシナ戦争[2](谷本喜久男少尉など)を始めとする戦後の東南アジア独立戦争に携わった卒業者も多くいた。

父親が二俣分校出身であった漫画家・竹宮惠子の回想によると、父親の葬儀に小野田ら6~7人の男性が現れ、「仲間の葬儀ではそうしていると」と説明して棺を担ぎ、中野学校で送別歌とされていた『三三壮途(さんさんわかれ)の歌』を唄ったという[11]

施設用地の変遷