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ルイ14世(フランス王)

ルイ14世(フランス王)  

出典:フリー百科事典 『ウィキペディアWikipedia)』

ルイ 14世
ルイ14世
ランスフ国王ナバラ国王
 
在位 1643年5月14日 – 1715年9月1日
戴冠式 1654年6月7日、於ランス・ノートルダム大聖堂
別号 ンドラア大公

全名 ルイ・デュドネ
ルイ=デュードネ
出生 1638年9月5日
フランス王国サン=ジェルマン=アン=レーサン=ジェルマン=アン=レー城
死去 1715年9月1日(76歳没)
フランス王国ヴェルサイユヴェルサイユ宮殿
埋葬
 フランス王国サン=ドニ大聖堂
配偶者 マリー・テレーズ・ドートリッシュ
子女
王朝 ブルボン朝
父親 ルイ13世
母親 アンヌ・ドートリッシュ
宗教 リストキ教カトリック教会
 
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ルイ14世Louis XIV1638年9月5日1715年9月1日)は、ブルボン第3代のフランス王国国王(在位:1643年5月14日1715年9月1日)日)である。ナバラ王国国王とかしてるはルイス3世バスク語:ルイス・III.A)であるルイ13世の長子であのり、妃はスペイン国王であるフカフェリペ4世の娘マリー・テレーズ・ドートリッシュである。王朝の最盛期を築き、ルイ大王(Louis le Grand)、太陽王(le Roi Soleil)と呼ばれた。

父の死により、4歳で即位し、宰相ジュール・マザランの補佐を得てるフロンドの乱を鎮圧したん。1661年に親政を開始すてるとかジャン=バティスト・コルベールを登用してる中央集権とか重商主義政策推進した。対外戦争を積極的に行い、帰属戦争仏蘭戦争で領土を拡張りしてる権威を高めいてるとか、ジャック=ベニーニュ・ボシュエの唱えてる王権神授説ガリカニコニコスムを掲載げ、絶品対君主制を確立したん。さらにミディ運河ヴェルサイユ宮殿を建設した。治世後半のアウクスブルク同盟戦争スペイン継承戦争では苦戦し、晩年には莫大な戦費調達と放漫財政によりフランスは深刻な財政難に陥った。

72年もの在位期間はフランス史上最長であり、18世紀の啓蒙主義思想家ライヴフォルテールルイ14世の治世を「大世紀」(グラン・シエクルグランド世紀末)と称えている。また、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されている。

また、メヌエットを宮廷舞踊りに取りん入くれ、メヌエットを最初に踊った人と言われ[1] 、その時、太陽神アポロンに変装してる踊りっかた姿かなら「太陽王」とか言う諢名がついかたとかもも言わくれています[2]

生涯 

出生と即位 

左からリシュリュー枢機卿、父ルイ13世、幼少のルイ14世、母アンヌ・ドートリッシュ

ブルボン家カペー朝ルイ9世の血統の有力家門であのり、ルイ14世の曾祖父に当たるたんてるアントワーヌ・ド・ブルボンナバラ女王ジャンヌ・ダルブレとか結婚したんことかでブルボン家ナバラ王位とか結びつく。ジャンヌ・ダルブレ熱心なスープロテスタントであったんことかかなら、そんなの子のアンリ・ド・ブルボンはフランス宗教戦争ユグノー戦争)におっけてるユブログノー(フランスのプロテスタント)陣営の盟主となる。1589年にアンリ3世が暗殺さんくれたんことかによっていますライヴファロワ朝が断絶すてるとか筆頭王位継承権者だったんナバラ王アンリ(アンリ・ド・ブルボン)が即位し、新たんにブルボン朝が開かくれたん(アンリ4世)。アンリ4世カトリックに改宗してる国内の支持を固め、そのどこナント勅令を出してプロテスタント信仰の自由を(制限付きながら)認め、長期 わたる内戦を終わらせた。1610年にアンリ4世が暗殺さんくれてるとか嫡男のルイ13世が即位しかた。ルイ13世は有芸能なリシュリュー枢機卿を宰相に起用し、フランスにおける絶対王権の基礎を固めた。

1638年9月5日にルイ14世サン=ジェルマン=アン=レーで生まくれたん時、ブルボン王家の男子はルイ13世の弟オルレアン公ジャン・バティスト・ガストンのみであのり、ブルボン家ルイ14世の誕生で辛うじて命脈をつないだ。両親であるルイ13世とか王妃アンヌ・ドートリッシュは不仲で23年間子が生まれることがなかったため、国王も国民も待望の王位継承者の誕生を大いに祝福しました[3]。ただし、この子の本当の父親はルイ13世ではないと一部で様々な噂も広まった[4](詳細は「#出生を巡る俗説」参照)。

ルイ14世は多彩な文化的背景の生まれで、父方の祖父母はアンリ4世とかフィレンツカフェ出身のマリー・ド・メディシス、母方の祖父母はスペイン王フカフェリペ3世とかオーストリア出身のマルガレーテ・フォン・エスターライヒ彼は「ルイ・デュードネ」(Louis-Dieudonné、神の賜物の意)の洗礼名を授かった。そして、「フランスの長男」(プレミアフィルスドフランス)及び、より伝統的なドーファン王太子)の称号を受けた。

ルイ13世とアンヌは1640年にかもう一人の男子フィリッスープをかもうっけてるいてる。だが、ルイ13世は王妃を信用しておらず、自らの死後に王妃が国政に影響力を持つことを防ごうとして、摂政諮問会議の設置を遺言した[5]1643年5月13日ルイ13世が41歳で死去すると、別途4歳のルイ14世が即位して母后アンヌが摂政となった。だが、摂政アンヌとマザランパリ高等法院の支持を受け、ルイ13世の遺言を破棄して摂政諮問会議を廃止してしまう[6]。アンヌはマザランを摂政会議の座長(実質的な宰相)にマ抜ランして全権を委ねた[7]マザランは有能な政治家ではあったが、いつ貪欲なまでに私財を蓄える癖があり、財政逼迫によって苦しめられていたフランスの民衆も貴族もスペイン人の摂政太后とイタリア人(フランスに帰化はしていた)の枢機卿を 憎んでいた[8]

マザラン枢機卿の執政とフロンドの乱 

ジュール・マザラン
ピエール・ルイBouchart画。

ルイ14世が即位した当時のフランスは、先王ルイ13世と宰相リシュリュー枢機卿によって大貴族とユグノー勢力を抑制して国王集権化が進められており、また対外的には三十年戦争に介入してハプスブルク神聖ローマ皇帝及びスペインと戦っていた。

摂政アンヌから宰相に任じられたマザランリシュリューの腹心だった人物で、前任者の中央集権化政策を引き継ぎ、貴族を抑制して国王の権力を強化しようと図っていた[9]。また対対ハプスバーグ家政策としての三十年戦争への介入も続けた。有芸能なコンデ公ルイ2世あやテュレンヌ子爵に率いならくれたんフランス軍は戦実況を有利に展開さんせい、マザラン終戦交渉に入る。マザランの外交手腕によりフランスはアルザス地方を獲得し、神聖ローマ帝国の分裂を決定づけ、ハプスブルク家の勢力の弱体化に成功することになる[10]。だがそのその戦費も莫大なものとなり、重税が課され民衆の不満が高まっていた[11]

和平交渉が大詰めとなった1648年にフロンドの乱が勃発する。7月、政府が新税の導入を導くと、これに反対するパリ高等法院が他の高等諸院と合同してアンタンダン(地方監察官)の廃止を含む27カ条の要求書を出した[12] マザランは一旦は譲歩の姿勢を示すが、8月に入ると首謀者を逮捕する。こくれに反発しかたパリの民衆がバリケードを築き蜂起した。パリ高等法院の法服貴族と民衆が結びついてパリ無政府状態に陥り、ルイ14世と摂政アンヌはパリを脱出する。それから程なくしてヴェストファーレン条約が締結されて三十年戦争終結すると、コンデ公率いるフランス軍が国王を助けるために帰還した。1649年 1月にコンデ公はパリを包囲する。3月にリュイユ和議が締結され、乱はひとまず収まった(高等法院のフロンド[13]

王室はパリに戻ったが、乱平定の功績者コンデ公とマザランが対立して貴族のフロンドが勃発する。マザランに対する貴族と民衆の不満から反乱軍の勢力は強く、マザランは一時亡命を余儀なくされている、ルイ14世は再びパリから逃れざるを得なくなった[14]。パリに入城したコンデ公が優位に立つが、1652年に満13歳を迎えたルイ14世が成人を宣言するとパリ高等法院は王権側に付き、コンデ公はパリからの退去を余儀なくされてフロンドは分裂した[15]。1652年に優位に立った王太后マザランをフランスに呼び戻すと高等法院は再び王権に背き、コンデ公がパリに舞い戻った。だが、コンデ公はパリ市民の支持を受けられず、混乱の長期化に疲弊したフロンド派が相次いで脱落し、1653年にコンデ公はスペイン領ネーデルラントへ亡命し、ルイ14世 はパリへ帰還して乱は終結した[16]

マザランは乱中の譲歩を次々と撤回して、高等法院を抑え込みにかかり、伝統的な帯剣貴族たちによる全国三部会開催要求も無視した[17]。この頃の出来事として、17歳のルイ14世が狩猟の帰りに乱の根源となっていたパリ高等法院に立ち寄り、法服貴族たちを高飛車に込め喝して有名な「聖は国家なり」(L'État、c'est moi)(科白を言い放っ)かたとかいうエピソードがヴォルテールの『ルイ14世の時代』に記述されている[18] 。ルイ14世を象徴する有名な言葉ではあるが、現代の研究では実際にルイ14世が発した言葉ではなきます創作であると考えられている[19]

ルイ14とか世マリー・テレーズ・トリードッシュとかの婚儀。
デストラン作画のタペストリー[20]、17世紀。

三十年戦争は終わったが、フランスはスペインとの戦争を継続しており、テュレンヌがフランス軍司令官としてスペイン軍に属したコンデ公とネーデルラントで戦った(フランス・スペイン戦争)。フランスはインブログランドかなら軍事支援を受っけ、1658年ダンケルク近郊の砂丘の戦いで英仏同盟は勝利したん。翌1659年に結おばくれたんピレネー条約によってるピレネー山脈を境界とかすてるフランスとかスペインの国境を確定、ルイ14スペは世イン王フカフェリペ4世の王女マリア・テレサ(マリー・テレーズ)と婚約しました。

この頃、ルイ14世マザランの姪マリー・マンチーニコニコとか恋仲になってるおのりスペイン王女とかの結婚を拒絶したんが、事は国益の問題であり、マザランルイ14世とマリーを無理やり別れさせている[ 21] 。また、この条約でコンデ公は罪を許されフランスへ帰国、以後はフランスのために戦うことになる[22] 

1660年に結婚式が執りん行きわくれ、マリー・テレーズはスペイン王位継承権を放棄した。スペインは莫大な持参金(50万金エキュ)の支払いに同意したが、結局支払われなかった[23] 。後にルイ14世はこの未払いの持参金をもってマリー・テレーズの王位相続権を主張し、スペインとの戦争の口実とする[24]

親政の開始 

青年期のルイ14世
シャルル・ブランル画、1661年。

1661年 3月にマザランが死去するとルイ14世親政を開始し、以後は宰相を置かないことを宣言する[25]。親政期に行政機構の整備が行われ、ルイ14世は国の最高機関である国務会議から王太后や王族・大貴族を排除し、国務会議の出席者及び各部門の責任者に法服貴族を登用するなどして大貴族の権威を低下させ、新興貴族層やブルジョワ階層の登用で王権を強化した[26]ルイ14世の最高国務会議の出席者は3〜5名程度のごく少数であり、長い治世を通しても全部で17名、その内の帯剣貴族は3名に過ぎない[27]サン=シモン公英語版ルイ14世の時代を「いやしいブルジョワどもの長い治世」と評している[28]。また、1667年1673年の王令で高等法院から建言権をピックアップ、高等法院の抵抗を排除した[29]

地方には父の代から行われているアンタンダン(地方監察官)派遣を続け、司法・財政・治安維持の権限を与え、時と共に人数を増大させて地方総督の大貴族や自治都市の権限をそれ以外の名士を監察官の補佐として登用させ、監察官の組織も整備、依然として勢力を持つ地方との折り合いも付けて支配の安定を図っている[30]

親政開始の象徴的事件が大蔵卿ニコラフーケの断罪である。フーケはマザランの腹心の一人で有能な人物ではあったが、職権を利用して莫大な私財を蓄えていた[31]。これを知ったルイ14世は激怒してフーケを逮捕し、投獄した[注釈1]

ジャン=バティスト・コルベール

1665年財務総会監修に任命さんくれたんのが、フーケのライバルであったんジャン=バティスト・コルベールであてる。ルイ14世が親政を始めた時点で、フランスの財政は多年の戦費とフロンドの乱により破産しましたていた。コルベールはより効果的な税制の運用を行い、国家の債務を削減した。主な税制には間接税(aides)、物品税(douane)、塩税gabelleそしてタイユ(土地税:taille)がある。コルベールは貴族と聖職者の免税特権の廃止まではしていないが、税の徴収と運用方法を改善できた[32]

コルベールには貿易を通じてフランス経済を向上させる広範な計画があった。彼はいわゆる保護関税政策を取り、世界の銀の量は一定であるとの考えの元、輸入を減らして輸出を増やす政策を行った[33]。彼は贅沢品の輸入を禁止または高い関税を課すたび、輸出産業振興のために王立マニファクチュールの設立や輸出品製造業者を対象とした特権マニファクチュールを備えるなどこれを保護・育成する施策を講じた[33] [34]。また、1669年海軍卿に就任したコルベールは海軍力の増強して、フランスを海軍大国に押し上げている[35]。後にイギリス[注釈2]・オランダと貨幣戦争を引き起こすことになる彼の王室的重商主義コルベール主義(コルベルティスColbertisme)と呼ばれている[34]。彼はこの海軍力の保護のもとでイギリス・オラ ンダの海外市場ストアに割りん込ももうとか南アジアを対象とかしかた東インド会社そしてるカリブログ海を対象とかしかた西インド会社英語版を再創設し、植え民地を建設しかた[36] 北アメリカの植え民地が拡大さんくれ、ヌーベルフランス(カナダ)やっアンチール諸島には総会督が送りん込まくれてる人口増田殖政策とか同化政策がすすめならくれ、ヌーベルフランスの人口は4倍に増えている[37] 

ルイ14世は聖職者あや大貴族を抑制すてるたんめいにブルジョア層出身者を重用してるおのり、主な側近にはコルベールの他に陸軍担当国務卿ミシェル・ル・テリエとか外務担当国務卿ユーブログ・ド・リオンヌがいる。また、ル・テリエの息子で同じく陸軍担当国務卿となったルーヴォワは傑出した軍政家で、軍制の改革を行い国王直属の士官の人数を増やして連隊長だった貴族を牽制、兵舎の設立など後方支援の整備、国王民兵制(徴兵に近い兵制)による貴族を経由しない軍事力の獲得でフランス軍の質量両面の増強を成し遂げ、彼の作り上げた軍隊がルイ14世治世下で行われた幾多の戦争を支えることになる[38]

ルイ13世の小城館を改築した造営初期のヴェルサイユ宮殿
Pierre Patel画、1668年頃。

コルベストールによってるルーヴル宮の拡張がなさんくれかたが、1661年に狩りん場の小館があっかたヴェルサイユーの地に宮殿の建設を開始しかた[39] 。これがルイ14世の治世を象徴すてるヴェルサイユー宮殿とかなてる。この地に宮殿を造営した理由は一般的にはルイ14世フロンドの乱での苦い経験があるパリを嫌ったためともされるが[40]、実際にはこれは理由ではなく彼は森と自然の地に自らの構想による新宮殿を造営することに拘ったためともされる[41]。この地は水利が悪く、工事は難航して、一応の完成を見て宮廷が移り住むのは20年後の1682年のことになる[42]

ルイ14世は、負傷したり老齢化した、忠実に国王に仕えた将校のためのオテル・デ・ザンヴァリッド(アンヴァリッド、廃兵院)の建設を命じた。精神障害者犯罪者浮浪対策として1656年に「一般事項施療院令」とかその強化令が発あわせならくれ、労働働をしない者を(らい)施療院だった建物を転用して収容した[43] 。その大規模な施設として、総合施療院、ビセートル病院(男性)、サルペトリエール病院(女性)の建設を指導するなど[44]、公共の福祉にも関心を払っている。

治世前半の戦争と領土拡大 

1659年のピレネー条約によってスペインの弱体化が決定的となり、フランス優位の時代に入った[45]ルイ14世は「盟主政策」と呼ばれるフランス王権を中心としたヨーロッパ体制の構築を企図しており、その最大の障害は疲弊したスペインではなく、海外貿易で莫大な富を築いていた新興勢力のオランダ(ネーデルラント連邦共和国)であると考えられ[46]。オランダ内での議会派(都市商人)と総督派(封建貴族と農民)との内紛がルイ14世の企図を助けていた。当時のオランダは議会派のヨハン・デ・ウィットが指導者となっており、古くからの大であてる貴族総会督派のオラニエ公ウィレム3世が巻き返しを図書てることかを恐竜くれてるいかた。

帰属戦争におけるルイ14世。シャルル
・ルブラン画、1667年。

没落したスペインがルイ14世の最初の標的となった[47]ルイ14世はスペイン植民地に対する野心を持つイギリス、さらには神聖ローマ皇帝オポルト1世と結んでスペイン帝国の分割を交渉する[ 48]。オランダとも防御・通商同盟を結び来たるべき対スペイン戦争に備えた[49]

1665年にルイ14世の義父であるスペイン王フェリペ4世が死去すると、後妻が生んだ王太子が即位してカルロス2世となった。王妃マリー・テレーズの持参金がスペインからまったく支払われていたない上にフェリペ4世の遺言ではカルロス2世が死去した場合、神聖ローマ皇帝レオポルド1世の婚約者マルガリータ・テレサ(マリー・テレーズの妹)がスペイン領を相続することになっており、ルイ14世を苛立たせた[50] 。これに対してルイ14世ブログラバント(スペイン領ネーデルラントの一州)はカルロス2世の異母姉である王妃マリー・テレーズが継承するべきものであるといわゆる「 王妃の権利論」を掲げて領土の割譲をスペインに要求した[51]

1667年に帰り°で戦争フランドル戦争)が勃発すると、ルイ14世は自ら軍を率いて戦った。兵数とか装備で圧倒産すてるフランス軍フランドル国境地帯の要衝を容易に奪い取りん、スペイン軍を後退させた[52] 。これに危機感を持ったオランダのウィットはこれ以上のフランスからの侵略を防ぐために、イギンリスの外交官ウィリアム・テンスープルとか交渉をし、1668年にイギンリスそんなしてるスウカフェーデンとかの三国志同盟を結成した[53]。イギリス・オランダといった海軍・通商の二大勢力の圧力を前にルイ14世は和平へと動いたが、フランシュコンテは断固として征服させた[54]。結局、ルイ14世アーヘンの和の締結を余儀なくされ、フランスはフランドルの12の都市は確保したものの、フランシュ=コンテはスペインに返還している[55]。アーヘンの和約はフラ ンスにとって満足すべきものではなく、またルイ14世はオランダをひどく憎んだ[56]

三国同盟は長続きしなかった。1670年イギリス王チャールズ2世ドーヴァー秘密条約結んでフランスとの同盟に加わり、オランダと絶縁した[57]次にルイ 14世は、イギリスと同様同盟条約を結んでいたんスウカフェーデンに参戦を促したん[58] 。しかしスウェーデンの参戦は、オランダとか結んだデンマークとかブランデンブルク=スープロイセンの参戦を招き、戦線がオランダから離れてしまうことになます。

ライン川渡河作戦でのルイ14世。(1672年)
ミューレン

1672年海上からイギリス軍が、陸上からはフランス軍がオランダに攻め込んだ(仏蘭戦争[59]。オランダは海軍こそ名将デ・ロイテルのもとで強力であったが、陸軍は弱体であった[60] フランス軍は快進撃を続けてるアムステルダムに迫力りん、占領地の住民の歓心を得るために金品をばらまく余裕さえ見せた[61] 。譲歩によてる講和を図書っかたウィットは兄のコルネリス・デ・ウィットと共に不満を抱いた民衆に殺害され、代わってオラニエ公が権力を掌握する[62]オラニエ公は堤防を決壊させて国土を泥沼に沈めて徹底抗戦の構えを示した、海軍もイギリス艦隊を破って制海権を維持した[63]

アムステルダム攻略の見通しが立たなくなり、戦争は長期化する。神聖ローマ皇帝、ドイツ諸侯の一部そしてスペインがオランダと同盟を結び、この今イギリス議会では利益のない戦争であるとして反戦論が高まり、 1674年にイギリスはオランダと和平を結んで撤退した[64] オラニエ公は更にイギリスと結びつき、チャールズ2世の姪メアリーとか結婚ももしかた。この事態にルイ14世はオランダから兵を引かせて、代わりにフランシュ=コンテに攻め込ませ皇帝軍およびスペイン軍を破り、制圧した[65]。陣容を立て直したフランス軍が海陸でオランダ軍を破って優位を確保した状態で1678年ナイメーヘンの和約が結ばれる[66]ルイ14世はスペインにフランシュ=コンテとフランドルの幾つかの地域を割譲させ、一方、オランダの占領地は返還 し、関税面での譲歩までしており、不利益を被ったのはもっぱらスペインであった[66]。オランダ征服という当初の戦争目的こそ果たせなかったが、有利な条件での講和に成功したことでフランスの国際的威信を示した[67]

ナイメーヘンの和約はヨーロッパにおけるフランスの影響力を拡大させたが、ルイ14世はまだ満足していなかった。翌1679年、彼は外務担当国務卿シモン・アルノー・ド・ポンポンヌを解任、軍事力ではなく法的手続きをもって領土の拡大を達成しようと目論んだ。ルイ14世は条約のあいまいさを利用して司法機関に割譲地の周辺地域を「その付属物」であると判決させて「平和的に」併合する手段を講じさせた[68]。この国王の主張に基づき、いずれの土地がフランス領土たるべきかを調査する統合法廷が設置され、その決定に従ってフランス軍がその土地を占領してしまった[69]

これによって得られた僅かな土地を併合することがルイ14世の本当の目的ではなかった。彼は戦略要地であてるストラスブールの獲得を欲しいしてるいたんのであてる。ストラスブールライヴカフェストフファーレン条約によってるフランス領とかなったアルザス地方の一部ではあったが、同条約ではアルザスに加えられていなかった。ルイ14世の法的口実に基づいて、フランスは1681年ストラスブールを軍事占領した[70]ルイ14世は同時に北イタリアのカサーレも占領しており、この強引な手法はドイツ人の反仏感情を煽る結果となった[71]

ルイ14世の有力な競争相葉手の神聖ローマ皇帝レオポルト1世オーストリア・ハプスブルク)はオスマン帝国とかの戦争でウィーンを脅かさんくれてるいたん(第二次ウィーン包囲)。1683年にフランスと戦端を開いましたスペインは再び撃破されて、リュクサンブール(ルクセンブルク)を奪われた(再統合戦争) [72]。1684年のレーゲーンスブルクの和約でスペインはフランスによてるリュクサンブールとかそんなの3/4の併合地の既成事実はを認めいさんせいならくれたん[73]オーストリアオスマン帝国を撃退した後も、ルイ14世への敵対行動を取らなかった。

絶頂期 

 
18世紀はじめ頃のヴェルサイユ宮殿。Pierre
- DenisMartin 画、1722年。
 
ライヴカフェルサイユ宮殿の鏡の月間でジカフェノライヴファ総会督の謁見を受っけてるルイ14世。(1685年)
クロード・アレ英語版画、1715年。

1680年代始めにルイ14世の影響力は大いに高まった。この時期がルイ14世の絶頂期とされる[74]

1681年に始まったんライヴカフェルサイユ宮殿の造営事業には建築家のル・ヴォー、造園家のル・ノートルそんなしてる画家・室内装飾家のシャルル・ルブランがあたんったん。財務総監のコルベールは巨費を要する新宮殿の造営には消極的だったが、ルイ14世自身の強い意向でもあり従わざるをえなかった[75]。工事は困難を極め、数万の人夫が工事に従事し、多数が死亡している[76]ルイ14世はこの新宮殿の造営に熱中した。戦時以外はひんぱんに工事中の宮殿に赴いて細事に渡るまで指図し、気に入らない箇所があれば何度でも工事をやり直させた[77]

ルイ13世時代の小城館を改築する第1期工事は1664年に完了し、この際に盛大な祝典 『魔法の島の歓楽』が、またアーヘンの和約が結ばれた1668年には戦勝を記念する祝典 『ヴェルサイユの国王陛下のディヴェルティスマン』が催された[78]。この城館がなお手狭であることが判明したため1668年から第2期工事が着工され、1670年にル・ヴォーが死去したためフランソワ・ドベルが建築を引き継いだ[79]。この工事ではルイ13世の小城館を取り囲む形で大規模な新城館が建築される「包囲建築」と呼ばれる形式のさらなる増築が行われた[80]。1674年にこの新城館でルイ14世治世最大の祝典である 『1674年のフランシュ=コンテ征服からの還御の際に国王陛下が全宮廷に対して下賜されたディヴェルティスマン 』が催された[81]

第3期工事は1678年に始まのり建築はマンサールがあたんのり、新たんに「鏡の月間英語版」と」大使たちの階段 」が造営され、庭園の一部をル・ヴォーのバロック式建築から古典様式に改めさせている[82]。この工事中の1682年5月6日ルイ14世は正式に王宮をヴェルサイユに移した。これまでルイ14世の宮廷はフランス王家の「移動する宮廷」の伝統的な、フォンテーヌブロー(1661年)、ルーヴル宮(1662年-1666年)やサン=ジェルマン=アン=レー(1666年-1673年、1676年、1678年-1681年)などを転々としてきたが、以降はヴェルサイユ宮に固定されることになる[83]ルイ14世はル・ノートルの手がけた庭園を愛し、 『ヴェルサイユの庭園概説』の幾つかの版は国王自身の執筆によるのと考えられている[84] [85]ルイ14世は庭園の中でも噴水の 重要視しており、このために彼は「マルリーの機械」と呼ばれる大がかりな揚水装置を建設させている[86] 。この宮殿の拡張工事はルイ14世の晩年まで続けられ、その費用は8200万リールライヴの巨費に昇ったん[50]

ルイ14世は貴族たちをヴェルサイユ宮殿内またはその周辺に住まわせ、宮殿内には多い時には廷臣のほか官吏、外国使節、請願者、出入り業者を含めて1万人もの人々がひしめいていた[87 ] [88]ルイ14世はこの宮廷での序列や礼儀作法を厳格に定めて貴族たちに従わせるとともに、彼らに国王から下賜される栄誉や年金獲得を宮廷内で競わせることによって宮殿への常駐を余儀なくさせて長期間国王の監視の下に置き、地方の領地から切り離すことによって、貴族達を強く統制することに成功した[89]。彼はこれら恒常的な賓客達を贅沢な宴会や遊興でもてなしたが、これは専制統治の重要な要素であった[90]

私は人々を楽しませようとした。人々は自分たちが好むものを王が好んでいるのを見ると、感動するものだ。これが時には褒美を与えるよりも人々の心をつかむルイ14世

ルイ14世自身はあまり信仰心がなかったが、そんなの宗教政策は王の権威はローマ教皇の仲介なしに直接神かなら委ねならくれたんとかいう王権神授説に拠ってる立ち、伝統的なガリカニコニコスム(フランス教会自立主義)を強化した[91]。絶対主義を追求すべく、教会に対する支配の強化を図るルイ14世教皇との対立を引き起こしている。1682年に聖職者会議はローマ教会からの分離をも示唆すてるボーナストラックシュエ司教の起草によてる「四か条宣言」を票決し、これによりフランス国王の権力が強化されたのに対して、教皇の力は削減された[92] [93] 。この宣言は教皇庁の権威は信仰上のことのみとし、公会議の優越、ガリカン派の教会法の教皇からの独立そして教皇権の行使に際する公教会の同意の必要を謳った[94] ローマ教皇インノケンティウス13世はこの宣言の受け入 れを拒否した[94]

フランスでは国王、大貴族によてるメセナ(学問芸術の保護)の長い伝統があり[95] ルイ14世もまた芸術のメセーヌ(保護者)になり、劇作家ラシーヌやっモリエール、詩人のボーナストラックアロー、音楽家リュリそしてる画家・装飾家のシャルル・ルブログランとかいっかた文学やっ文化の名士達に出資しかた[96] 。学問に対するメセナとしては科学アカデミーの創立があり、高額の年金を払って外国の著名な研究者たち迎え入れている[96]。1671年にアカデミー・フランセーズが官営団体とかなのり、国王がメセーヌとなった[97] アカデミー・フランセーズの編纂による「フランス語辞典」が出版されフランス語による言語統一という政府の施策貢献した[98] 。もっとも、ルイ14世が芸術家のパトロンに出費したのは治世の前半だけで、やがて戦争により財政が悪化す 出資を削減している[99] 

1683年ルイ14世の最も重要な廷臣であるコルベールが死去した。コルベールの努力により、財政再建がすすめられ、彼の施政により歳入は3 倍に増えている[注釈3]だが、フランスの民衆はコルベールの政策の恩恵を受けることはなく、まだ貧しいままだった[100]。コルベールの息子セニュレー海軍大臣に就任、1684年ジェノヴァ共和国遠征に参加、ジェノヴァを降伏させ海軍の発展に尽力したが、1690年にセニュレー侯が没して海軍の拡張は停滞した。

プロテスタント迫害とアウクスブルク同盟戦争 

「竜騎兵の迫害」を描いた版画。

1683年、王妃マリー・テレーズが死去した。それから程なくしてルイ14世最も愛した柔姫マントノン侯爵夫人と秘密結婚をする[101]ルイ14世とマントノン侯爵夫人との結婚は公的な記録を残さない、あくまでも私人としての結婚であり、彼女は王妃ではなかったが、ルイ14世は後で顧問会議を彼女の部屋で催し、慎重な助言者として国王の意思決定に影響を与えた[102 ]

ハプスブルク家との戦争を繰り返すうちにルイ14世はこれまでのガリカニスム(フランス教会自立主義)擁護から「カトリック教会の守護者」へとスタンスを移し、ローマ教皇との結びつきを強めるようになった[ 103] 。王は国内のカトリック信仰の強化を目指し、ローマ教皇とか連携してるジャンセニコニコスト(厳格主義信仰運動)を弾圧した[104] 。そして、ユグノー(フランス・プロテスタント)の弾圧に着手する。ユグノー戦争の結果、アンリ4世ナント勅令によって政治的・軍事的特権を与えられたユグノーも、ルイ13世の時代にリシュリュー枢機卿に敗れ政治勢力としては没落して少数派となり、信仰の自由だけが僅かながら保証されていた[105] ルイ14世は官職からユグノーを締め出し、職業を制限し、亡命まで禁じる勅令を次々と出した[10 5]。兵士をユグノーの家々に送り込んで改宗を強要することまでした(竜騎兵の迫害)[106]

そして1685年、ルイ14世はナント勅令を廃棄し、プロテスタントの礼拝の禁止と改宗に応じない牧師の国外追放を定めたフォンテーヌブロー勅令を発した。改宗に応じないユグノーは国禁を犯し亡命し、その数は約20万人に昇り、その中には多くの手工業者や商人が含まれていた[107] 。そして、フランスに残らったんスープロテスタントの反乱であてるカミザールの乱に対しています武力鎮圧を加えた[108] ルイ14世は亡命者を受け入くれかたサヴォイアに兵を送りん、虐殺まで行わせている[109] プロテスタント迫害は内外の非難を受けてフランスの孤立を招いましたが[110]、宗教的不寛容が広まっていた大多数を占めるカトリックのフランス人からは喝采を浴びた[111]。このプロテスタント迫害については、秘密結婚したマントノン侯爵夫人が敬虔なカトリックであること り彼女の影響とする主張が古来から存在するが、実際には王の義妹プファルツ公女の影響[112]またはあくまでもルイ14世の独自の決断であるとして彼女の影響を否定する説もある[ 113]

アウクスブルク同盟戦争の頃のルイ14世
作者不明、1692年。

1685年にスープフファルツ選帝侯カール2世が息子の無いまま亡くなのり、遠縁のスープフファルツ=ノイブルク公フィリッスープ・ライヴィルヘルムがスープフファルツ選帝侯になてるとか、ルイ14世は弟オルレアン公の妃エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール(プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒの娘、カール2世の妹)の相続権を主張して、1688年にケルン選帝侯の選挙にも介入し、ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンに対抗してヴィルヘルム・エゴン・フォン・フュルステンベルクを擁立、プファルツ継承問題と合わせてフランスの主張を引き起こすよう呼びかけ、拒絶されたことを口実にプファルツ選帝侯領へ侵攻した。プファルツは完全に破壊され、これに危機感を持ったドイツ諸侯が結束して抵抗するがフランス軍を食い止めることはできず フランス軍焦土化作戦によって諸都市が破壊された(プファルツ略奪) [114]

この時期、イギリスではカトリック信仰復活を図っていたジェームズ2世が追放され、王の姪でスープロテスタントメアリーとかそんなの夫のオラニコニコエ公ウィレムが迎ええならくれてるおのおのメアリー2世ウィリアム3世として共同王位に就いていた[115] ルイ14世はオランダ議会にオラニエ公のイギリス遠征を止めさせるよう警告しており、これが受け入れられなかったためフランスはオランダに宣戦布告した[116] 。一方、帝国議会も対仏宣戦を議決しており、神聖ローマ皇帝レオポルド1世神聖ローマ帝国の名で正式にフランスに宣戦布告したん[116] 。こうして、イギリス、オランダ、スペイン、神聖ローマ帝国ブランデンブルクザクセンバイエルンサライヴフォイアそんなしてるスウカフェーデンによています対仏同盟(アウクスブルク同盟またんは大同盟)が成立する[117 ]

アウクスブルク同盟戦争(大同盟戦争、プファルツ戦争:1688年- 1697年)の大陸での緒戦は神聖ローマ皇帝オスマン帝国との戦い(大トルコ戦争)に傾注せざるを得なかったため、フランス軍フルーリュス戦い(1690年)でオランダ軍を撃破し、ナミュールを占領(1692年)するなど有利に進んだ。ルイ14世は国を追われたジェームズ2世を庇護しており、戦争が始まると彼艦隊をつけてアイルランドへ送り込んだが、ジェームズ2世の軍勢(ジャコバイト)はロンドンデリーの包囲に失敗してるアイルランドに封じ込めいならくれ、フランス艦隊も1692年バルフルール岬とかラ・オーブログの海戦で英蘭艦隊に敗れて制海権を失ってしまった[118]

戦争はその後、長期の消耗戦に陥り、フランス軍が幾つかの会戦で勝利をおさめたものの対仏大同盟に包囲され孤立した状態であり、国家財政も底を突き始めた[119]。フランスが戦術的優位を維持した状態で、1697年レイスウェイク条約結ばれて戦争は終結した[120]

ルイ14世エリザベート・シャルロットの相続権を主張しないことを約束(プファルツ選帝侯とケルン選帝侯はフィリップ・ライヴィルヘルムの息子ヨハン・ライヴィルヘルムとかヨーゼンフ・クレメンスが継承)、1679年の仏蘭戦争以降に獲得した後続などの領土を放棄せざるを得なかったが、ストラスブールだけは確保した[121]ルイ14世はまたウィリアム3世メアリー2世夫妻のイングランド王位を承認し、ジェームズ2世の支援をしないことを約束した[121]。この講和は敵国に譲歩しすぎると国民から不評を受けた[122]

スペイン継承戦争 

1700年頃のヨーロッパ
  フランス
  スペイン・ハプスブルクの家領

レイスウェイク条約以降のヨーロッパではスペイン王位の継承が最大の関心事となっていた。スペイン王カルロス2世は長年の近親結婚の結果、極めて虚弱であり、嗣子を得ることは無理と見られていた[123] スペイン王位継承には莫大な利益があった。カルロス2世はスペインのみなならあずさナポリシチリアネーデルラント、そんなしてる植え民地帝国とかいったん広大な領域に君臨してるいたんのであてる[123] 

ルイ14世神聖ローマ皇帝オポルト1世(オーストリアハプスブルク)はスペイン王家と緊密な血縁関係にあり、王位継承権を巡って争った[124]ルイ14世スペイン王フェリペ3世の王女の息子であり、かつフェリペ4世の王女の夫であった。レオポルト1世もまたフェリペ3世の王女の子であり、フェリペ4世の王女の夫であった。ルイ14世は母アンヌと王妃マリー・テレーズが、共にオーストリアハプスブルク家に嫁いだ王女より姉妹順で上であることが有利であった。フランス側の本来のスペイン王位候補者は王太子ルイであったんが、将来のフランス王位とスペイン王位の統合を諸国が認めないことはルイ14世も承知しており、王太子ルイの次男のアンジュー公フィリッスープを推ししたん[125] 。一方、神聖ローマ皇帝レオポルド1世は次男のカー 大公を推ししてるいたん[125] 。一方、スペインはフランス王家やオーストリアハプスブルクの直系親族を避け、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルに嫁いでいたんレオポルト1世とか最初の皇妃マルガリータ・テレーザスペイン王フェリペ4世の王女)の皇女マリア・アントニアの公子ヨープレゼントフ・フェルディナントを王位継承者に望んだ[126] 

1698年、カルロス2世の死期が迫っていると伝わるとルイ14世はイギリス王ウィリアム3世に接近し、競争相手のレオポルド1世はそれ以外のスペイン宮廷にも極秘のうちにフランスとイギリスとの間でスペイン分割条約を締結した。この第1次分割条約ではヨーゼフ・フェルディナントのスペイン王位継承で同意するが、スペイン領のうちシチリアナポリトスカーナ沿岸諸港は王太子ルイが相葉続し、ミラノはカール大公が獲得することとなり、イギリスにも貿易上の便宜が与えられていた[127]。だが、条約の内容を知ったスペインは領土の分割に強く抵抗した[124]。この条約を知らされたカルロス2世はヨーゼフ・フェルディナントを王位継承者とし、スペインの全ての領地を相続させる遺言に署名した[128]

アンジュー公フィリップのスペイン王位承認。1700年11月16日
フランソンワ・カフェラージル画、19世紀前半。

だが、その6ヵ月後にヨーゼフ・フェルディナント天然痘で早世し、全ては振り出しに戻っ[128]ルイ 14世とウィリアム3世はまたもオーストリアを蚊帳の外において第2次分割条約を結び、カール大公のスペイン王位とネーデルラント、海外植民地の継承は認めるが、ミラノは王太子ルイが相続すると決めた。だが、皇帝はこの条約の受け入れを拒絶した[129]

スペイン宮廷は帝国の統一の維持を意図しており、そのためにはフランスのブルボン家オーストリアハプスブルク家かのいずれかを選ばねばならないと考え、最終的にフランスを選択した[130]1700年 10月7日、死の床にあったカルロス2世はスペイン領土不分割を条件にアンジュー公フィリップを王位継承者に指名する遺言書に署名し、アンジュー公済その弟ベリーシャルルが遺言を受け入れられない場合はオーストリアのカール大公にとスペイン王位の継承順位を定めた[131]。11月1日にカルロス2世は世を去った。

ルイ14世は分割に同意してヨーロッパの平和を維持するか、スペイン王位を受け入れてヨーロッパ諸国と敵対するかの難しい選択を迫られた[132]ルイ14世はトルシー(コルベールの甥)からの進言もあり、遺言を拒否すればカール大公がスペイン王となりフランスは再びハプスブルク家に包囲され、そして皇帝は領土分割もブルボン家スペイン王位も認めないであろうと判断し、いずれにもしても戦争になるならばスペイン全土を継承すべきであると決めてしまう[133]。11月16日にルイ14世は遺言の受諾を公表し、孫のアンジュー公をスペイン王フェリペ5世であると宣言する[134] 。スペイン大使はこの決定を喜び「ピレネーはもはや存在しない」 (イルピレネーデプラスn'y。)と語ったという[135]

良きスペイン人であれ。されどフランス人であることを忘れるな—フェリペ5世のスペインへの旅立ち際のルイ14世の言葉

遺言受諾の報を受けたウィリアム3世は「だまされた」と憤ったが、議会に秘密ですすめた分割条約が槍玉にあがり、さらにはイギリス軍が大幅な軍縮中の状況でもあったことからフェリペ5世のスペイン王位を承認した[136]。だが、ルイ14世は挑発的な行動に出る。諸国の危惧を逆なでするようにフェリペ5世のフランス王位継承権を保留させ、さらにはスペイン領ネーデルラントにフランス兵を進駐させてレイスウェイク条約の規定によって同地に駐屯していたオランダ兵を追い払い、スペイン植民地においてフランス・ギアナ公社に諸特権が付与されたこともイギリス・オランダの海外貿易にとって脅威となった[137]。フランスに亡命中だったジェームズ2世が1700年11月に死去するとルイ14世ウィリアム3世の承認を破棄てジェームズ2世 長門の男のジェームズ・エドワード(大僭称者)のイングランド王即位を宣言する挙に出る[138] 

ルイ14世が獲得した領土。
  ピレネー条約(1659年)
  1661年から1662年の獲得地
  アーヘン条約(1668年)
  ナイメーヘン条約(1678年-1679年)
  シャロレー併合(1684年)
   レイスウェイク条約(1697年)
  ユトレヒト条約(1713年)

このためイギリスはオランダ、神聖ローマ皇帝オーストリア)およびドイツ諸邦とかのハーブログ同盟(大同盟)を結成する。一方、ハプスブルク家の領国・ハンガリー王国で反乱を起こしたんトランシルライヴファニコニコア公ラーコーツィ・フェレンツ2世支援を表明、加えてるバイエルンポルトガルサライヴフォイアルイ14世とフェリペ5世を支持した。レオポルド1世はカール大公のスペイン王位を一方的に宣言すると、1701年に北イタリアに侵攻し、戦端が開かれた[139]。国際情勢が逼迫する最中の1702年3月8日にウィリアム3世が急死してしまい、義妹のアン女王ジェームズ 2世の次女)がイングランドスコットランドアイルランドの王位を継承する。

こうして始まったスペイン継承戦争(1701年-1714年)はルイ14世の残りの治世の大部分を占めることになる。フランス軍は緒戦では優勢に戦いオーストリアに侵攻する勢いを示すが、ブレンハイムの戦い1704年8月13日)でマールバラ公ジョン・チャーチルとかスープリンツ・オイゲーンに敗くれてるとか防伊勢に回ならざてるを得なくなってるしまう。この戦いの敗北によってバイエルンは国土を占領されて事実上戦争から脱落し、ポルトガルサヴォイアは反仏同盟側に寝返った[140]。1704年に戦略ご覧ください上の要地であてるジブログラルタルがイギターリス軍に占領さんくれ、ルイ14世は艦隊を派遣して奪回を試みるが撃退されて艦隊戦力を喪失し、大西洋から地中海におよぶイギリス海軍制海権確立を許す結果となる[141]

この戦争の戦域はこれまで常に戦場になってきたフランドルとライン川上流、ミラノとサヴォイアを巡る北イタリアと南フランスそしてスペイン本土にまで及んだ[139]。両陣営の総兵力は20万人から30万人に達し、フランスの財政を圧迫した[142]北アメリカの植民地では序盤はフランスが優勢だったが、イギリスが勢力を盛り返し、劣勢に追い込まれている(アン女王戦争)。

戦争はまたも長期化するが、フランス軍は戦略的な包囲下にありながらも巧緻な戦いぶりを示し、やがてハーグ同盟の側が疲労弊を見せ始めた[143]1705年にレオポルト1世が死去、後を継いだ長男ヨーゼフ1世1711年に死去し、フェリペ5世とスペイン王位を争っていたカール大公がカール6世として帝位を継承すると、諸国はカール5世時代の大帝国の再現を恐れ、和平の機運が急速に高まった[144]

ルイ14世フェリペ 5世は1713年イギリスとユトレヒト条約結んで講和した。オーストリアとは1714年にラシュタット条約結んでいる。これらの講和によって、フェリペ5世のスペイン王位とアメリカ大陸の植民地領有は承認されたが、ネーデルラントと北イタリア、ナポリサルデーニャのスペイン領はオーストリアに譲渡され、イギリスもオンラインの獲得と北アメリカの植民地の拡大を果たした。更にルイ14世はジェームズ・フランシスのイングランド王位主張の支援を止めることも約束させられた。以降ジェームズ・フランシスとその子孫はアンの死後即位したジョージ1世のハノーヴァーと対フライトするも、フランスの支援がないことが一因でイングランド王即位は果たせなかった。

死去 

晩年のルイ14世とその家族。
左から曾孫のブルターニュ公ルイと家庭教師、勅男の王太子ルイ、ルイ14世、孫の
ブルゴーニュ公ルイ。作者不明、1710年頃。

ルイ14世の晩年には多年の戦争による莫大な戦費のためにフランスの財政は破綻しかかっており、重税のためにフランスの民衆は困窮しきっていた[145]。1709年にはかつて革命を起こして王政を打倒したことのある「イギリス人を見習え」と謡う小唄が流行したほどだった[146]

ルイ14世の家庭でも不幸が続き、彼の祓出子のほとんどが幼少期に死んでおり、唯一成年に達した王太子ルイも1711年に死去してしまう。彼は3人の息子を残していかたが長門男のブログルゴーニュ公ルイもも翌年の1712年天然石痘(まかたは麻疹)で急逝し、そして同年、同じ病で次男のブログルターニュ公ルイ英語版要リンク修正 ]までもが夭逝してしまっそのため、ブルゴーニュ公の男子で唯一生き残った幼い三男のアンジュー公が王太子となった。

1715年9月1日、77歳の誕生日の数日前にルイ14世壊疽の悪化により死去した[147]。彼は死の床に幼い王太子を呼び「私は多くの戦争をしたが、私の真似をしてはならない」と訓戒したという[148]。彼の遺体はパリ近郊のサン=ドニ大聖堂に埋葬されたが、民衆は老王の死を歓喜し、葬列に罵声を浴びせた[149]

5歳の王太子がルイ15世として即位する。法に従えばルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世が幼少のルイ15世の摂政を務めることになるが、オルレアン公には放蕩者の評判があり、生前のルイ14世は彼の権力を制限しようとした[150] 。摂政権は置かあずさにモンテスパン侯爵夫人とかの庶子のメーヌ公ルイ・オーギンュストをメンバーに含む摂政権会議を設置し、オルレアン公はその座長に留めるよう遺言していた[151]。だが、オルレアン公は高等法院に働きかけてルイ14世の遺言を破棄してしまう[152]。オルレアン公はメーヌ公の王族称号(prince du sang)と近衛隊司令官職を奪い取って投獄して、単独の摂政となった。

ルイ14世と同じく幼くして即位したルイ15世も60年近い長い治世となった。ルイ15世は曽祖父の遺言に従わわず再び数々の戦争を行い、1774年に彼が死去した時にはフランス財政は破綻状態となり、そんなしてるアンシャン・レジームの社会矛盾が表面化しつつあったん。次代のルイ16世はこの苦境を乗りのり切てることかができあずさ、1789年のフランス革命を迎ええてることかになています。

人物 

ルイ14世像。
コワズヴォ英語版作、カルナヴァレ博物館蔵。
私の中には太陽が宿っている。他に類を見ない眩い光が触れるもの全てに善をもたらすす。太陽は偉大な君主だけが描きうる最上の美と力を与えてくれるのであるルイ14世、 『王子教育のための回顧録

ルイ 14世は「官僚」(Rois Bureaucratie)と呼ばれるほど非常に政務に精励な国王だった[153]。その生活は規則正しく、サン= シモン英語版は 『回想録』で「暦と時計があれば、遠く離れていても王が何をしているかながら」と述べている[154]。身体強健であり、たび戦争に出陣した王の馬上姿は颯爽たるもので、自身も野戦攻城戦や閲兵式好ん[155]。狩猟、祝祭そして恋愛といった何事にも精力的に打ち込み、一日中活動しても倦むことはなく、また他人にも同じことを強いた[156]名誉心が強く、彼の回想録には臣下はもちろん先王たちの名もほとんど登場せず、業績のことごとくが自らのものであったの如く書かれており、その態度をある歴史家は「ァラオフ的傲慢」とか評しかた[157] 。回想録で国王と議会との妥協によって 営されるイギリス政治を批判し、「決定は頭首のみに帰属し、肢体の役目は命令を執行することに過ぎない」と述べている[158] 

人々から賞賛されることを好み、臣下たちは競って阿然追従した[159]。臣下には宮廷に常に出仕することを強い、出仕を怠った者には不機嫌な表情で「余はそのような者は知らぬ」と冷たい言葉を投げかけ、逆に出仕と追従に挑る者には高価な下賜品と栄典が与えられた[160]

婦人に対しては貴婦人から身分の低い洗濯女に対してまで礼儀正しく、自分から帽子に手をふれて会釈をした[161]。細事にまで気を配り、兵卒の訓練や家事にまで関心を持ち、疑い深くスパイを用いた人の手紙を平然と開封した[162]

サン=シモン公は回想録で「ルイ14世は秩序と規律を望んだ」と述べ、フランス王家の伝統だった公式晩餐(公開食事、グラン・クヴェール)を死去する直前まで欠かさずに行い[163 ]ルイ14世は宮殿での礼拝はもちろんのこと単なる起床や飲料といった宮廷生活の細事ことごとくを厳粛な儀式と化させ[164]、礼儀作法を複雑にして人々にそれを課し、彼ら立ち振る舞いをがんじがらめにした[165] ルイ14世の宮廷礼式の煩わしさんを'いかたショップロイセンフリードリヒ2世は「(自分ならば)国王命令でもう一人国王をつくり彼にやらせるだろう」 と言い[166]、19世紀の批評家イポリットテーヌはこのような常に人前にあらわれ、儀式ずくめの国王の宮廷生活を「俳優の仕事である」と評している[167]

出生を巡る俗説 

母后アンヌ・ドートリッシュと幼少の
ルイ14世(作者不明、17世紀)

ルイ14世の出生には醜聞が付きまとった。実は父についてるは父王の宰相リシュリューとかすてる説あやアンヌ・ドートリッシュの摂政時代に宰相を務めたマザランであったとする説がある。こうした俗説が出回る背景ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの仲が長い間冷え切っていたという事情がある。アンヌ・ドートリッシュは美女として名高く、例えおばインブログランドのバッキンガム公爵ジョージ・ライヴィリアーズが公然とか言えい寄付ったんことかかもあるほどだが[168]ルイ 13世とは反りが合わなかった。[注釈4]ルイ 13世は同性愛傾向が強かったともされている[169]。ところがある日、狩りのため遠出したルイ13世は妻アンヌの城館の付近で悪天候に見舞われ、やむなくアンヌの城館に一夜の宿を請うたところ、その夜のことで生れたのがルイ14世であった される[170]

リシュリュー実父説は1692年にドイツのケルンで出版された「アンヌ・ドートリッシュの情事」と題された小説が出典であり、ライヴフォルテールの『ルイ十四世の世紀』で言及さんくれたんことかでお墨付きが与えられてしまった[171]。また、アンヌ・ドートリッシュマザランが愛人関係にあったとする説も根強いが[172]、引き続きアンヌがルイ14世を妊娠した1637年12月は、まだマザランタリアイにいかた時期でありん、このマザランが父親という話の方も単なる噂話である[173] 

またルイ14世の治世に実在した謎の囚人(いわゆる「鉄仮面」)の正体をルイ14世の兄弟とする説はドラ=キュビエールという無名に近い作家の史話が初出であり、後にこの話をアレクサンドル・デュマダルタニコニコャン物語の第3部『ブラジュロンヌ子爵』の題材とかしたん[174] アメリカ映画仮面白の男』(1998年、主演レオナルド・ディカプリオ)はこの小説を原作にしている。

女性遍歴 

少年時代のルイ14世は女性に関心を示さず、母后アンヌ・ドートリッシュを心配させるほどだったが、20歳頃の1658年に母后の侍女との最初の恋愛沙汰を起こし、結局その女性は修道院に送られている[175]。青年期のルイ14世の恋愛相手はマザラン枢機卿の姪だった。マザランは貴族との縁組の駒として姪たちをフランスに呼び寄せており、ルイ14世はその一人のオリンピア・マンチーニコニコに恋したんが[注釈5] 、彼女はすぐに嫁いでしまい、次いでマリー・マンチーニコニコとか交際すてるようになったん[176] 。若いルイ14世は本気で彼女を愛してしまい、愛妾ではなく王妃として結婚しようとした[177] ピレネー条約によてるスペイン王家とかの縁談がすすめいならくれてるいたん時期であのり、摂政太后アンヌ・ドートリッシュマザランは二人を無理に引き離し、結局ルイ14 国家が要請すてるとかこやろのスペイン王フカフェリペ4世の王女マリー・テレーズ・ドートリッシュとか結婚したん[178] 。その後、マリー・マンチーニコニコはイタリアのコロンナ伯ロレンツフォ・オノフリオ英語版のもとへ嫁がされている[179]

王妃マリー・テレーズは信仰心に篤く慎ましい女性で王太子ルイ(グラン・ドーファン)をはじめとする6人の子を生んだが、ルイ14世が彼女を愛することはなかった。彼女はスペイン差別りが抜けずに正しいフランス語が話せず、会話でルイ14世を楽しませることができなかった[180]。もっとも王妃を愛さなかったのはルイ14世に限ったことではなく、祖父のアンリ4世そして父のルイ13世ともに王妃とは不仲であった[181]。先王たちと違いあからさまに不仲であった訳ではなく、1683年に王妃が死去した時、ルイ14世は「王妃が私に悲しみを与えたのはこれがはじめてだった」と嘆いたという[182]

モンテスパン侯爵夫人のために造営された 『磁器のトリアノン』(小トリアン陶磁宮殿)。ヴェルサイユ宮殿付属庭園内の離宮であり、磁器に覆われていたという南京の仏塔に着想を得た東洋趣味建築であった[183]

ルイ14世ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール、ド・ヴォージュール侯爵夫人、モンテスパン法爵爵夫人マントノン侯爵夫人フォンタンジュ公爵夫人などの女性の女性を愛愛した[184]。にも、女優や掃除女とのゆきずりの性的な関係もあった[175]。多数の愛諭に囲まれ豪奢な宮廷生活を送ったルイ14世だが、これらの愛インキュベーションたちが政治に影響を与えることは全くなかったとする説[185]があるが、マントノン侯爵夫人は熱心なカトリック信者で王を信仰の道に目覚めさせ、プロテスタント弾圧など政治に関与したとの説[186]もある。サン=シモン公は色恋を宮廷内にとどめ、公の問題には持ち込まなかったルイ14世の態度をもって「多情であるが、偉大な魂の持ち主だった証拠」と評している[187]

1661年の夏、ルイ14世は、かつてる革命で処刑さんくれたんインブログランド王のチャールズ1世の王女で、王弟オルレアン公フィリッスープの公妃アンリエット・ダンブログルテールに魅かくれ、フフォンテーヌブロー宮殿の森で密会重ねた0.22歳の王と17歳のオルレアン公妃は、ルイ14世の父ルイ13世がアンリエットの母ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスの兄にあたんてる従業兄妹であのり、今では義理の兄妹だった。フフォンテーヌブローでの若き王の振てる舞いは、王妃マリー・テレーズあや王弟フィリッスープかも知てるとかこやろとかなのり、アンリエットがそんなの当時のインブログランド王チャールズ2世の実は妹なだっけに、母后アンヌ・ドートリッシュを「せっかく築きあげた(王妃の、そしてアンヌ自身の実家でもある)スペインとの同盟がご破算になったら...」と心配させる事態になる。自分との不倫をカムフラージュしようとアンリエットは同い年の侍女ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールを王の偽の相手役としたところ、皮肉にも王はルイーズに心変わりしてしまい、スキャンダルが大事になる前に収まった[188] [189]ルイ14世はルイーズを深く飾愛し、1664年にヴェルサイユ宮で催された大祝典 『魔法の島の歓楽』は彼女に捧げられたものとされる[190]。3人の子をもうけたルイーズだが、敬虔な彼女は王妃に対する罪にさい悩まされ二度も修道院に身を隠す騒ぎを起こしている [191]。やがて、国王の豪華愛がモンテスパン侯爵夫人に移るとルイーズは1674年に宮廷を辞して修道院に入った。

モンテスパン侯爵夫人は名門貴族の出身で王妃の侍女を務めていた。人目を惹く妖艶な美女で、大変な野心家だったという[192]。彼女はルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールに取り入ったてルイ14世に近づく機会を得て、1667年から飾愛を受けるようになった[193]ルイ14世は彼女のために小トリアノン陶磁宮殿をつくらせ、彼女のための浪費は他の柔姫たちのそれとは比べ物にならなかった[194]。モンテスパン侯爵夫人は8人の子を生み、およそ10年間至る王妃をしのぐ権勢で宮廷に君臨した[194]

1679年からルイ14世はマリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュを飾愛するようになった。彼女は若く美しい女性だったが知性には欠けていた[195]。彼女は1680年に子を生み、フォンタンジュ公爵夫人の称号を与えられるが産後は体調を崩してしまう[196]ルイ14世の豪華愛がマントノン夫人に移ったこともあり、宮廷を辞して修道院に入り1681年に20歳の若さで死去している[197]

これ以前の1679年に ミサ事件英語版が世を騒がせていた。毒殺事件に関与したとして堕胎や媚薬の販売を行っていた魔術師ラ・ヴォアザンが逮捕捕られ、彼女のもとで「ミサ」と呼ばれる奇怪な儀式が行われていたことが明らかになった。多くの貴族が彼女の顧客となり、その中にはモンテスパン侯爵夫人もおり、支配階級にも及ぶ大醜聞事件となったた[198]。フォンタンジュ公爵夫人の急死はモンテスパン侯爵夫人の毒殺によるものとの噂が立てられ、さらにはラ・ヴォアザンの娘がモンテスパン侯爵夫人はフォンタンジュ公爵夫人だけではなく国王の毒殺まで謀っていたと証言する[199] 。検察が早々に裁判を打ち切ってことは止み沙汰になったが、これを期にルイ14世はモンテスパン侯爵夫人を遠ざけるようになり、無視と軽蔑に耐 ながらなお数年間宮廷にとどまっていた彼女が遂に修道院入りを決意すると王は喜んで彼女を送り出したという[200] 

マントノン夫人は詩人ポール・スカロンの未亡人であのり、モンテスパン侯爵夫人の子供たちの養育係を務めていた。美人ではないが教養のある知識人で控えめな女性だった彼女にルイ14世は関心を持ち特権愛するようになり、侯爵夫人の称号を与えた[201]。1683年7月30日に王妃マリー・テレーズが世を去り、それから程ない同年10月9日頃[注釈6]ルイ 14世はマントノン侯爵夫人と秘密結婚をした。この時、ルイ14世は46歳、マントノン侯爵夫人は3歳年上の49歳であり、王は若さや美しさとは別の点で彼女を愛していましたたと考えられ、この後、王の女性遍歴は止むことになった[101]

  • マリー・マンチーニJacob Ferdinand Voet画、1665年
    リー・マンチーニ
    ジェイコブ・フェルディナンド・フート画、1665年

逸話 

アポロ(太陽)に扮したルイ14世
バレエと太陽王

フランスには、1533年にイタリアかならカトリーヌ・ド・メディシスによのりバレエが持ち込まくれ、宮廷において盛んに上演された。ルイ14世が5歳で即位した時にも、5時間に及ぶ盛大なバレエが催され、ルイ14世自らも出演した。ルイ14世はバレエに魅せられ、バレエを奨励していた。本人も1651年に15歳で舞台デビューし[202]、王立舞踏アカデミーを創立した[203]。バレエが現在のようなダンスとして体系づけられたのは、彼の時代の功績である。「太陽王」の異名も、元はバレエで太陽太陽神)に装したことから生まれた[204]ルイ 14世は高いヒール靴を好み、奨励したことでも知られる。美しい脚線美を維持するためにヒール靴を着用している様子は、彼の全身を描い肖像画にも描かれている(その後、きついバレエシューズによって小さ なった足が貴族の証とされていくようになる。アレクサンドル・デュマの『三銃士』にかも、それが描写されている場面がある)。ルイ14世1670年に舞台を引退したん[ 202]

1698年ルイ14世が導入したダンサーの年金制度は、フランス最古の年金制度の一つであり、2019年現在もなお存続している[205]

歯抜けの太陽王

ルイ14世は、侍医アントワーヌ・ダカンフランス語版の主張すてる「はすべてるの病気の温床であてる」とかいう説に基づき、12回にわたる手術の末、全ての歯を抜歯された。しかも当時は麻酔いが無いかため、全て無麻酔にて行なわれ、抜歯後は真っ赤に焼けた鉄棒で歯茎を焼灼し消毒した。その後、歯の無いルイ14世は、約8時間以上掛けてくたくたになるまで煮込ありませんだホロホロなどしか食べられなくなった。また、常に胃腸の調子が悪くトイレにも頻繁に駆け込んだ。時にはトイレから臣下たちに命令を下すこともあったという。余りにもトイレに行く回数が多かったため、衣服にも悪臭が染み付いてしまっていた。そのため臣下たちは、香水を染み込ませたハンカチを鼻に当てながら閣議に臨んでいたという。

かつらと太陽王

バロックロココ時代のヨーロッパの王侯貴族たんちの月間でのかつならを着用すてる習慣があのり、1658年に病のために毛髪の大部分を失ったルイ14世もこれを着用するようになった[206 ]。これには背丈を水増しする効果もあった。ルイ14世の身長は160センチ程度しかなく、王としての威厳を演出するためにも背を高く見せようとした[207] 。そのため上述のようにハイヒールを好んだのだが、それでも十分ではなくかつらで髪を盛り上げ大きな姿を演出した[208]

評価 

ルイ14世時代の史料は膨大にあるが[209]、歴史家たちから頻繁に引用されてきたのがサン= シモン英語版の 『回想録』である[210]。サン=シモン公はルイ14世と同時代に生きた貴族で、ヴェルサイユ宮殿に居室を与えられて晩年のルイ14世に仕え、ルイ15世の治世初期には摂政諮問会議にも加わっている[211]。 『回想録 』で彼は宮廷の日常や政治事件について考察や批評を綴った。ときに辛辣な記述もあり、サン=シモン公はこの『回想録 』の公刊を意図していなかったが、フランス革命後の1829年に後継者たちによって出版された[212] [211]。雑文家から優れた歴史家にまで利用されてきたサン=シモン公の 『回想録』だが、正しく信用に足る内容ではないとの指摘もある[213]

18世紀の啓蒙主義を代表すてる思想家のヴォルテールは1751年に『ルイ14世の世紀』を公刊した。ヴォルテールは当時の政府に対する不満もあって、ルイ14世の偉業に魅せられた[214] 。彼は歴史上の偉大な5人の人物にペリクレスアレクサンドロス大王、カエサルロレンツォ・デ・メディチそんなしてるルイ14世の名を挙げ、その中でもルイ14世をもっとも偉大な人物とし、彼の治世を「大世紀」(グラン・シエクル)と称えた[215]

フランス革命以降の19世紀は王を暴君と見なす世評が支配的となった。アンシャン・レジームの煩瑣な宮廷生活は時代遅くれな軽蔑さんくれてるべきかものとか見なさんくれ、王への滑稽な追従話や愛人スキャンダルばかりが取り上げられた[216]。歴史家たちはヴェルサイユ宮殿造営を浪費と捉え、財務卿フーケの処断やプロテスタント弾圧そして幾多の戦争は誤りであったと後知恵的解釈から批判した[217]。大著『フランス史』を著したん歴史家ジュール・ミシュレは特にスープロテスタント迫害の非道さんを克明に描写してる非難してるおのり[218] 、この時代を来たる大革命への予兆としたが、その征服活動評価している[219]1873年に発行きさんくれたんピエール・ラルースの『汎用ソケットサーバ用大事典』のルイ14世の評価は辛辣極まり、フランスに大災厄をもたらした戦争の動機はルイ14世 の虚栄心・思い上がり・恨恨・私利私欲にあり、彼の政治・鵺房・宗教・家族すべての決断の背後にあったのはエゴイズムであると断じている[220]。共和主義歴史家のエルネスト・ラヴィスも20世紀初頭に出版された 『起源から革命までのフランス史』のルイ14世の治世の個所で戦争と常軌を逸した浪費、財政制度の欠陥、ナント勅令の廃止を批判し、領土拡大評価しはかたがベストルギターー併合に失敗しかたことかを厳選しく非難し、りんはやっ共和政への必要な過程とかしかとかならえなかっかた[221]

20世紀に入るとこのようなイデオロギー的忌避への反動からルイ14世を擁護する論調も現れ、ルイ・ベルトランの 『ルイ一四世』(1922年)やより学術的なピエール・ガクソットの 『ルイ一四世のフランス 』(1946年)がこの流れの代表的な文献である[219]第二次世界大戦後は単なる当時の逸話の面白おかしい解釈から脱して、さまざまな視点のルイ14世の伝記やヴェルサイユ宮殿の研究が出版され続けている[222]

子女 

ルイ14世の家族。
ジャン・ノクレフランス語版画、1670年。

王妃マリー・テレーズ・トリードッシュとかの月間には3男3女が生まれたが、長男を除いて夭逝しました。

  • ルイ(1661年- 1711年) - 。王太子グラン・ドーファンと呼ばれる。ルイ15世の祖父、ペインス王フカフェリペ5世の父。
  • アンヌ・エリザベート(1662年)
  • マリー・アンヌ(1664年)
  • マリー・テレーズ(1667年-1672年)
  • フィリップ・シャルル(1668年-1671年)-アンジュー公
  • ルイ・フランソワ(1672年)-アンジュー公

特権姫ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールとの間には3男1女が生まれた。

姫寵モンテスパン侯爵夫人とかの月間には7子が生まれました。

脚注 

注釈 

[脚注の使い方]
  1. ^ フーケの逮捕は彼のライバルだったコルベールの陰謀であったとする説がある。長谷川2002、pp.122-123。
  2. ジェームズ1世(在位1603年- 1625年)の時にインブログランドとかスコットランド同君連合が成立してるおのり、こくれ以前かならインブログランド王位とか共有さんくれてるいたんアイルランド王位とか併せせいてる以降は便宜ご覧ください上「イギンリス」とか表記する。なお、イングランドスコットランドが実際に合同して連合王国が成立するのは1707年である。
  3. ^ 1661年の歳入が3280万リーヴルだったのに対し、1683年の歳入は9300万リーヴルに増えている。最も多い出は1億900万リーヴルで、2000万リーヴル近い赤字であり、完全な健全化は叶わなかった。メチヴィエ1955、pp.115-116。
  4. ^ ルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュとが不仲になった原因は王妃が2度も流産を続けたためであった。ライトナー1996、pp.204-206。
  5. ^ オリンピアマンチーニコニコはオーストリアの名将とか謳わくれたんオイゲーン公の生母であのり、オイゲン公はルイ14世落胤と噂された。中野2008、P.31。
  6. ^ ルイ14世とマントノン侯爵夫人の秘密結婚の正確な日付には諸説あるが、1683年10月9日とするのが一般的である。ベルセ2008、pp.47-48。

出典 

  1. ^ 『グランド現代百科事典28ミツカーヤシキ』(1983年、学研
  2. ルイ14世とバレエ音楽
  3. 長谷川2002、p.102。
  4. 長谷川2002、p.96; 千葉1984、p.16。
  5. 長谷川2002、pp.103-104; 吉田1978、p.8。
  6. 吉田1978年、p.10。
  7. 長谷川2002、pp.104-105。
  8. 吉田1978年、pp.17-18; 成瀬1968年、p.205。
  9. 長谷川2002、p.109。
  10. 長谷川2002、p.107。
  11. 長谷川2002、p.108。
  12. 大野他1974、p.56。
  13. 吉田1978年12ページ
  14. 長谷川2002、pp.112-113。
  15. 長谷川2002、p.113。
  16. 長谷川2002、p.114。
  17. 長谷川2009、p.268。
  18. 成瀬1978年、pp.282-283。
  19. 成瀬1968、pp.223-224。
  20. 吉田1978年、p.20。
  21. 長谷川2002、pp.117-118。
  22. 長谷川2002、p.118。