フランス
- フランス共和国
- République française
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(国旗) (国章に準じる紋章) - 国の標語:Liberté, Égalité, Fraternité
(フランス語: 自由、平等、友愛) - 国歌:La Marseillaise(フランス語)
ラ・マルセイエーズ
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公用語 フランス語 首都 パリ 最大の都市 パリ - 政府
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大統領 エマニュエル・マクロン 首相 エリザベット・ボルヌ 元老院議長 ジェラール・ラルシェ 国民議会議長 ヤエル・ブラウン=ピヴェ - 面積
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総計 551,500km2(51位)[1] 水面積率 0.2% - 人口
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総計(2022年) 68,305,148人(21位)[1] 人口密度 123.9人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2020年) 2兆3028億6000万[2]ユーロ (€) - GDP(MER)
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合計(2020年) 2兆6244億1600万[2]ドル(5位) 1人あたり 4万298.851[2]ドル - GDP(PPP)
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合計(2020年) 3兆168億8400万[2]ドル(8位) 1人あたり 4万6325.344[2]ドル - 建国
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フランク王国(メロヴィング朝時代) 486年[1] 西フランク王国(カロリング朝時代) 843年8月10日[1] フランス王国(カペー朝成立以後) 987年 フランス第一共和政 1792年8月10日 フランス第五共和政(現行) 1958年10月4日
通貨 ユーロ (€)(EUR)[注釈 1][注釈 2] 時間帯 UTC+1 (DST:+2) ISO 3166-1 FR / FRA ccTLD .fr 国際電話番号 33 -
- ^ a b c d “France” (英語). ザ・ワールド・ファクトブック. 2022年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2021”. IMF (2020年10月). 2021年10月29日閲覧。
この表のデータは本土のみで、海外県・属領を含まない。
フランス共和国(フランスきょうわこく、フランス語: République française、通称:フランス、France)は、西ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はパリ[1]。フランス・メトロポリテーヌ(本土)のほか、フランス植民地帝国の名残で世界各地にフランスの海外県・海外領土が点在する。独立した旧フランス領諸国とはフランコフォニー国際機関を構成している[2]。
フランス本土は、北は北海、イギリス海峡、大西洋(ビスケー湾)に、南は地中海に面する。陸上では、東はベルギー、ルクセンブルク、ドイツ、スイス、イタリアと、西ではピレネー山脈でスペイン及びアンドラと国境を接するほか、地中海沿岸にミニ国家のモナコがある。
国際政治や安全保障、経済、文化において世界的な影響力を持つ民主主義の大国、先進国の一つである。国際連合安全保障理事会常任理事国のほか、G7やG20、欧州連合(EU)、経済協力開発機構(OECD)、北大西洋条約機構(NATO)、パリクラブなどの主要なメンバーである。イギリス、ドイツ、イタリアとともに欧州四大国の一つにも数えられる。
核拡散防止条約により核兵器の保有を認められた5つの公式核保有国の一つであり、その他にアメリカ合衆国を除けば世界で唯一の原子力空母「シャルル・ド・ゴール」や原子力潜水艦を保有しており、強力な軍事力を持っている。
国内総生産(GDP)は名目GDP世界第7位かつ購買力平価で世界第10位・ユーロ圏ではドイツに次ぐ第2位の経済力を有する国であり、先進国である。数多くの世界遺産を抱えており、世界で最も観光客の多い国の一つである。
歴史的にはデカルト、モンテスキュー、ルソー、サルトルといった哲学者やマリ・キュリー、パストゥールといった科学者、モネ、セザンヌ、ゴーギャン、クールベ、ドラクロワといった芸術家の故国もしくは活躍の舞台であり、また百年戦争やフランス革命、ナポレオン戦争といった歴史的事象の主要な舞台であった。
国名
正式名称はフランス語で、République française(レピュブリク・フランセーズ)。通称、France(フランス)。略称はFR。
日本語の表記はフランス共和国[1]で、通称フランス。政体の第五共和政にちなんでフランス第五共和国と呼ばれる場合もある。また、漢字による当て字で仏蘭西(旧字体:佛蘭西)、法蘭西(中国語表記由来)などと表記することもあり、仏(佛)と略されることが多い。英語表記はFrance、国民・形容詞はFrench。
国名の France は、11世紀の『ローランの歌』までは遡って存在が資料的に確認できるが、そこで意味されている France はフランク王国のことである。一方で987年に始まるフランス王国[3] に、France という名前が用いられているが、これは後代がそのように名づけているのであって、その時代に France という国名の存在を認定できるわけではない。また中世のフランス王は REX FRANCUS と署名している。France は中世ヨーロッパに存在したフランク王国に由来すると言われる。その証左に、歴代フランス王の代数もフランク王国の王から数えている(「ルイ1世」「ルイ16世」を参照)。作家の佐藤賢一は、ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク、中フランク、東フランクに3分割され、中フランクは消滅し、東フランクは神聖ローマ皇帝を称したため、フランク王を名乗るものは西フランク王のみとなり、フランクだけで西フランクを指すようになった、と説明している[4]。ドイツ語では、直訳すればフランク王国となる「
歴史
フランスの歴史 | |
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ブルボン朝最盛期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治・経済・文化に絶大な影響力を持った。フランス語は外交の舞台での共通語となった。現在は国連事務局作業言語である。フランスは17世紀以降1960年代まで、大英帝国に次ぐ広大な海外植民地帝国を有した。1919年から1939年、フランスの面積は最大となり(12,347,000km2)、世界の陸地の8.6%を占めた。
ローマ帝国の支配
現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリア(現・マルセイユ)などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くとケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリア(ゴール)と呼んでいた。ゴールに住むケルト人はドルイドを軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的には統一されていなかった[5]。
紀元前219年に始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバルが南フランスを抜けてローマ共和国の本拠地だったイタリア半島へ侵攻したが、ゴールには大きな影響を及ぼさなかった。
その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた[6]。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍であったカエサルが紀元前58年にゴール北部に侵攻した(ガリア戦争)。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州とした。1世紀にはガリア属州はガリア・アクィタニア、ガリア・ルグドゥネンシス、ガリア・ベルギカの3つに分割され、ナルボネンシスを含め4つの属州が存在することとなった。ローマの統治下ではローマの平和の下で経済が成長し、穀物やブドウ酒の生産が盛んとなって、ガリアはその豊穣で知られるようになった。またこの時期にはケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化が成立した[7]。
フランク王国とフランスの成立
5世紀の民族移動時代になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、476年に西ローマ帝国が滅びると、ゲルマン人の一部族であるフランク族のクローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。クローヴィスは496年にカトリックに改宗し、フランク族はキリスト教を受け入れた[8]。やがてメロヴィング朝の宮宰であったカロリング家の勢力が拡大し、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエ間の戦いで破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。その子であるピピン3世は751年にメロヴィング朝のキルデリク3世を退位させて即位し、カロリング朝を開いた[9]。
フランク王国はピピンの子であるシャルルマーニュ(カール大帝)の時代に最盛期を迎える。彼はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ね、現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部、パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュのもとでヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。シャルルマーニュの没後、その子であるルイ1世が840年に没すると、フランク王国は西フランク王国、中フランク王国、東フランク王国の3つに分裂し、このうち西フランク王国が現在のフランスの基礎となった[10]。また、この時期に古フランス語の形成が始まった。
987年、西フランク王国の王統が断絶し、パリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選出されてカペー朝が成立した[11]。カペー朝の王権は当初非常に弱体で、パリを中心とするわずかな領土を直接支配するのにすぎなかったが、1180年にフィリップ2世が即位すると国内の所領を次々と獲得して王領を拡大し、1223年に彼が退位する頃にはフランスはヨーロッパの大国の一つとなっていた[12]。
1209年にアルビジョア十字軍が開始され、キリスト教における異端とされたオクシタニア(現・南フランス)のカタリ派を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた[13]。また12世紀にはフランス全土で「大開墾時代」と呼ばれるほどの農地拡大が起き、13世紀には人口が激増した[14]。カペー朝はその後も ルイ9世やフィリップ4世といった有能な国王の下で勢力を拡大していったものの、1328年に王統が断絶してフィリップ6世が即位し、ヴァロワ朝が成立した[15]。
しかしこの即位を巡ってカペー家の血を引いているイングランド国王エドワード3世との対立が深まり、1337年から、フランスはイングランドとの百年戦争(1337年 - 1453年)を戦っている[16]。この戦争の後半にはフランスは一時国土の北半を奪われるまでになったものの、ジャンヌ・ダルクの活躍をきっかけとして攻勢に転じ、1453年にはシャルル7世のもとでカレーを除く全てのフランス領を奪回して勝利を収めた[17]。その子であるルイ11世は国内統治の充実を図るとともにブルゴーニュ戦争で有力諸侯であったブルゴーニュ公の領国を崩壊させ、充実した国力の元でその子であるシャルル8世は1494年にイタリア戦争を起こした[18]。
絶対王政
16世紀前半のフランスは、ハプスブルク家との抗争を繰り返しながら中央集権化を進め[19]、また1534年からはジャック・カルティエがアメリカ大陸に向かいセントローレンス川流域を探検するなど対外進出の動きも見られたが[20]、宗教改革の影響でユグノー(カルヴァン派)が増加し、新旧両教の対立から1562年にユグノー戦争が勃発し、30年以上も続いた。1589年にはヴァロワ朝が断絶し、アンリ4世が即位してブルボン朝が成立した。アンリ4世はカトリックに改宗し、1598年、ナントの勅令を発して内戦に終止符を打った[21]。続くルイ13世の統治下では宰相リシュリューが中央集権化と王権の強化を推進し、次いで1643年に即位したルイ14世は幼少だったために宰相マザランが実権を握ったものの、マザランが1661年に死去すると親政を開始した。ルイ14世の統治下では絶対王政が確立され、財務総監ジャン=バティスト・コルベールが重商主義的政策を推進して産業を振興。またヴェルサイユ宮殿を建設するなど王の権威は非常に高まったものの、対外戦争では必ずしも成果を上げることができず、また1685年にフォンテーヌブローの勅令によってナントの勅令を廃止したため、産業の中核を担っていたユグノーが海外へと移民して経済の停滞を招いた[22]。またこの時期、フランスはヨーロッパ外への進出を盛んに行い、アメリカ大陸、アフリカ、アジアに広大な海外領土を獲得してフランス植民地帝国を形成することとなった[23]。
1715年に即位したルイ15世の統治下では啓蒙思想が発展し、1748年にはシャルル・ド・モンテスキューが『法の精神』を発表、1751年からは『百科全書』の刊行が始まり、1762年にはジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』を発表した。一方で1756年からの七年戦争でフランスは孤立し、1763年のパリ条約で多くの植民地を失い、また経済の不振や財政危機、啓蒙思想の普及によって旧来のアンシャン・レジームは動揺を始め、1774年に即位したルイ16世の時代に社会の緊張は頂点に達した[24]。
共和制と帝政
1789年にフランス革命が勃発し、三部会に代わって形成された憲法制定国民議会は封建制の廃止や人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)の採択など重要な決定を行った。特に人権宣言は、自由と平等、国民主権など近代民主社会の基本原則を確立した[25]。しかし革命は急進化していき、1793年には国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となった[26]。
1794年7月に起きたテルミドール9日のクーデターによって、恐怖政治の中心であったマクシミリアン・ロベスピエールを中心とする山岳派の主立ったメンバーが逮捕・処刑されたものの、総裁政府の統治は安定せず、1799年にブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握り、第1統領となった[27]。1804年にはナポレオンは皇帝に即位して第一帝政を開き、ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパを圧倒し、この戦争で数百万人が犠牲となった[28]。一方でナポレオン法典の発布に見られるように、ナポレオンはフランス革命の成果を継承する姿勢を明確に示した[29]。しかしこうしたナポレオンの覇権は1812年ロシア戦役の失敗によって水泡に帰し、蜂起した諸国軍によって1814年にパリが陥落、ナポレオンはエルバ島に流された。1815年、エルバ島から脱出したナポレオンが一時フランスに復帰したものの、ワーテルローの戦いに敗れナポレオン時代は終わった[30]。
ナポレオン敗北後、フランスはブルボン朝のルイ18世が即位して王政復古したが絶対王政ではなく、王の権力が憲法に制約された外見的立憲君主制となった。しかしこの政権の実権を握った亡命貴族たちは極端な保守反動政治を行い、反発した自由派によって1830年に七月革命が勃発してシャルル10世が追放され、代わってルイ=フィリップが即位し七月王政が始まった[31]。七月王政はブルジョワ層を中心とした政権だったが政情は安定せず、1848年に勃発した2月革命によって王政は崩壊し、第二共和政が成立した。第二共和政は男子普通選挙を導入したものの政情を安定させることはできず、ルイ・ナポレオン大統領は1851年12月2日のクーデターを起こして実権を握り、1852年12月2日にはナポレオン3世として即位し第二帝政を開いた[32]。ナポレオン3世は政治を安定させるとともに産業革命を急速に進展させ、経済を大きく成長させた[33]。また、この時期にはアロー戦争やコーチシナ戦争、メキシコ出兵などのように積極的な海外出兵を行い、広大な植民地を獲得したものの、対プロイセン政策を誤り、1870年の普仏戦争に敗北してルイ・ナポレオンは退位した[34]。1871年にはプロイセンにアルザス・ロレーヌを割譲することで和議が成立し、パリで蜂起していたパリ・コミューンも鎮圧されて、第三共和政が打ち立てられた[35]。
第三共和政は当初は安定しなかったものの、1880年代に入ると穏健共和派の指導の下で政情が安定し、繁栄の時代に入った。ただし国内ではその後も1889年のブーランジェ将軍事件や1894年のドレフュス事件といった政治事件が相次いで起こっていた。普仏戦争による国家の威信の減退を補うため第三共和政政府は積極的な海外進出を行い[36]、アフリカ分割にも積極的に参加して植民地をさらに拡大させた。文化的にはベル・エポックと呼ばれる華やかな時代を迎え、芸術家が集まるパリでは印象派などの芸術運動が花開いた[37]。
二度の世界大戦と植民地戦争
フランスは第一次世界大戦と第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦ではドイツ帝国を中心とする中央同盟国と戦い、140万人が犠牲となった[38]。西部戦線 (第一次世界大戦)はフランス東部で4年にわたり膠着し、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの戦死者を出した。
1939年9月に始まった第二次世界大戦では、1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻に敗北して第三共和政は崩壊し、第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタンを国家元首とするヴィシー政権が成立した。フランス本国はドイツによって北部、のちに全土が占領された[39]。一方でシャルル・ド・ゴール率いる自由フランスは連合国につき、連合国軍による北仏ノルマンディー上陸作戦の成功により、1944年にフランス共和国臨時政府が帰還して全土を奪還した。
戦後、1946年にフランス第四共和政が成立した。フランスは冷戦構造のなかで自由主義陣営(西側)に属し、北大西洋条約機構(NATO)の原加盟国となる一方、1951年に欧州石炭鉄鋼共同体を西ドイツやイタリア、ベネルクス三国と結成。1957年には欧州経済共同体が発足するなど欧州統合に参加した。一方で植民地帝国は崩壊しつつあった。インドシナの支配権を回復するため臨んだ第一次インドシナ戦争では、1954年にディエンビエンフーの戦いでベトミンに大敗を喫し、同年7月にはジュネーヴ協定によってインドシナからの撤退を余儀なくされた。さらにアルジェリア戦争が泥沼化し、アルジェリア植民地の維持の是非と、植民者の帰還[40]をめぐって国論が割れ、内戦になりかけた。これを収拾するため、1958年、ド・ゴールが首相に就任し、1959年には強力な大統領権限を含んだ第五共和政が成立した[41]。
第五共和政の初代大統領となったド・ゴールは、国内の統一を維持しながら戦争終結へ踏み出した。1958年10月2日のギニア独立を嚆矢として、「アフリカの年」と呼ばれた1960年にほぼ全てのアフリカ植民地が独立した。1962年にアルジェリア戦争の和平交渉を妥結し、アルジェリアは独立した[42]。外交面では、ド・ゴールはヨーロッパの自主性を主張してアメリカと距離を置いた独自路線をとった。その米ソと並ぶ第三極を目指した政治姿勢はド・ゴール主義と呼ばれ、核兵器保有もその一環である。1960年にはトゥアレグが居住するサハラ砂漠で核実験を強行した。1966年、フランスは北大西洋条約機構(NATO)を正式脱退した[43]。2009年、フランスはNATOに再加盟し[7][8][9]、NATO全体では英語とフランス語が公用語となっている[3][4][44]。
政治
1958年10月にフランスの憲法が制定され、半大統領制の共和制となった。
直接選挙で選ばれる大統領(任期5年、2002年以前は7年)には、シャルル・ド・ゴールの時から首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられている。これは、立法府である議会より行政権の方が強い体制である。
また、大統領が任命するフランスの首相は、大統領にも議会にも責任を負っており、ともに行政権を持つ(半大統領制)。このため、大統領の所属政党と議会の多数派勢力が異なる場合、大統領自身が所属していない議会多数派の人物を首相に任命することがある。この状態をコアビタシオンと呼ぶ。こうした場合、大統領が外交を、首相が内政を担当するのが慣例となっているが、両者が対立し政権が不安定になることもある。
議会は二院制を採用し、上院にあたる元老院と、下院にあたる国民議会がある。元老院は間接選挙で選出され、任期は6年で3年ごとに半数を改選される。国民議会は直接選挙で選出され、投票に際して小選挙区制と二回投票制が定められている。優先権は国民議会にあり、元老院は諮問機関としての色彩が強い。
主要なフランスの政党としては、共和国前進(中道)、共和党(中道右派)、国民連合(極右)、社会党(中道左派)、労働者の闘争(極左)がある。
歴史ある中央集権と官僚主義はフランスの政治体制を代表してきた。スウェーデンには遠く及ばないが、労働人口に対する公務員の比率は21.6%に達する[45]。世界でも屈指の強固さを持つ官僚主義に裏打ちされたその社会構造は、しばしば批判的な意味をこめて「官僚天国」「役人王国」などと形容される[46]。
地方政治の現場においては、市町村長職こそフランス国籍保有者に限定されているが、市町村議員に関しては欧州連合諸国の出身者に地方議員の被選挙権を認めている。2020年1月時点で、約50万人いる地方議員うち外国人議員数は2500人近くとなっていた。しかし一方で2020年2月にイギリスの欧州連合離脱があり、フランス国内で活動してきたイギリス人議員が被選挙権を喪失。その数は約3分の1に相当する757人にのぼった[47]。
国際関係
フランスは国際連合の原加盟国であり、国際連合安全保障理事会常任理事国の一国である。多くの国際機関の加盟国でもあり、G7、北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)、フランコフォニー国際機関がこれに該当する。また、欧州連合原加盟国かつ指導国でもある。
第二次世界大戦でフランスは本国を一時喪失し、自由フランスは英米の庇護・支援を得て母国を奪還したが、当時から独自の外交を志向する傾向があった。第五共和制成立後も冷戦構造のなかでフランスの影響力を保つため、ソビエト連邦と提携したり、NATOの軍事機構から脱退したり、1973年から フランス・アフリカ首脳会議 を主催したりしている。フランスは2003年、アメリカが主導するイラク戦争に終始反対した。
近隣諸国では、ベルギーと密接な関係があり、ベルギー南部はフランス語共同体となっている。
ナチス・ドイツの崩壊後に成立した西ドイツとは戦後和解し、ともに欧州統合の旗手となった。冷戦終結後は欧州統合を深化し、欧州連合(EU)の主要国として存在感を高めている。ドイツとは1999年1月の通貨ユーロ導入を含む欧州統合に中心的役割を果たしてきた。しかし、2005年の欧州憲法批准は国民投票で拒否された。2008年2月にこれを継承するリスボン条約を議会が承認した。
フランスは旧植民地との間にフランス共同体を結成している。アフリカの旧植民地に対しては、暴動や内戦の際に親仏政権を維持するため軍事介入することもある。現在もセネガルやジブチにはフランス軍の軍事基地がある。実際に、1994年のルワンダ紛争や、2002年のコートジボワール内戦にも介入している。1970年代以降の軍事介入の件数は30件以上にも及ぶ[48]。2012年からマリ北部紛争に介入している。こうしたフランスの姿勢を新植民地主義であると批判する声もある。またケベック州の仲介により、フランス語地域のある国とはフランコフォニー国際機関を結成した。
EU各国は北朝鮮と国交がある。しかし、フランスは2016年8月時点でも日本やアメリカ合衆国と同様に北朝鮮と国交がない。ただしパリには国際連合教育科学文化機関 (UNESCO ユネスコ) 総代表部が存在する。
2015年1月、パリでシャルリーエブド本社やユダヤ教徒向け食料品店が襲撃され、11月には大規模な同時多発テロで仏全土に非常事態宣言がなされるなど、イスラム過激派との間で緊張が高まっている[49]。
イギリスとの関係
フランスとイギリスは歴史上錯綜した関係を持ってきた。近現代のイギリスの中核をなすイングランドは、ノルマン・コンクエストを通じてフランス語を母語とし、フランス王国の公爵を兼ねる王に統治されることとなった。こうして、中世のイングランド王は同時にフランス王国の大貴族であり、その立場においてはフランス王の臣下であるという関係が長く続いた。なおかつアンジュー帝国とも呼ばれたプランタジネット朝のイングランド王は、王権の確立が遅れていたカペー朝のフランス王をしのぐ巨大な所領をフランス王国内に所持し、フランス王の勢力を圧倒した。またイングランド王家とフランス王家の姻戚関係も深かった。
こうした経緯から、中世のイングランド王家とフランス王家は、フランス王国における覇権をめぐって幾度となく抗争を繰り返すこととなった。ジャンヌ・ダルクが活躍したことで有名な百年戦争は特に長引いた抗争であり、イングランド王家が最終的にフランス王国内の基盤を喪失するにまで至った。この長期の戦争を通じてフランス人とイギリス人の間に、のちの国民国家の創生につながる近代的な国民意識の母体となるものが胚胎したともいわれる。またナポレオンによるフランス第一帝政時代の対仏大同盟は、イギリスが盟主的存在であった。
だがドイツ帝国の台頭を受けた1904年の英仏協商締結以来、基本的には友好関係にある。第一次世界大戦をともに戦い、第二次世界大戦では敗北寸前となったフランスに対し、イギリスから連合国家形成の提案がなされたこともある。戦後はともに西側陣営に属し、スエズ危機のように両国が協調した行動を取ることもあるが、イラク戦争に対する対応のように両国の対応が分かれることもある。
日本との関係
歴史
日本とフランスの公式な関係が始まったのは19世紀後半の幕末期以降である。1858年10月9日に、フランスから日本に外交使節団長として派遣されたジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵によって、日本と最初の修好通商条約が当時の日本の幕府があった江戸で調印された。
明治維新後には西園寺公望をはじめとする政治家、大山巌らの軍人、黒田清輝らといった芸術家らが続々とフランスに留学している。1872年(明治5年)から翌年にかけては、岩倉使節団がフランスを訪問しており、当時のパリの様子が『米欧回覧実記』に詳しく記されている(一部スケッチ入り)[50]。日本は民法・刑法改正にギュスターヴ・エミール・ボアソナード、陸軍にフランス陸軍の教官を招聘し、強い影響を受けた。
義和団の乱では共同歩調を取ったが、日清戦争後にフランスは、日本に遼東半島を返還するよう働きかける三国干渉を行っている。第一次世界大戦においては連合国として戦った。フランス軍航空隊の一員として戦った日本人もおり、バロン滋野や磯部鈇吉など10名を数える[51]。1919年のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成している。その後の第二次世界大戦においては、ヴィシー政権成立前後の時期に、日本はフランス領インドシナへの進駐を要求し、北部インドシナは日本の占領下に置かれた(仏印進駐)。ヴィシー政権は植民地に対する支配力を失い、1940年のタイ・フランス領インドシナ紛争では日本の仲介により東京条約を締結し、タイとの戦争を終結させた。1941年には南部仏印への進駐も行われたが、これは日米交渉において決定的な破局点となった。真珠湾攻撃後、自由フランスは連合国の一員として日本に宣戦したが、日本軍とは交戦していない。1945年、インドシナで明号作戦によって、仏印軍は日本軍に攻撃され、フランスの植民地政府機構は日本軍の支配下に置かれた。日本側はフランスとは戦争関係にないという建前をとり続けたが、降伏文書には臨時政府のフランス代表も署名している。
1951年、日本国との平和条約締結により日仏関係は正常化した。以降の関係はおおむね良好である。
日本におけるフランス
日本では、フランスはファッションや美術、料理など、文化的に高い評価を受ける国である。毎年多数の日本人観光客が高級ブランドや美術館巡り、グルメツアーなどを目的にフランスを訪れている。また、音楽、美術、料理などを学ぶためにフランスに渡る日本人も多く、2018年時点で在仏日本人は44,000人におよび[52]、これはヨーロッパ圏ではイギリス、ドイツに次ぐ多さである[52]。 経済面では、1992年から2000年にかけてフランス側が対日輸出促進キャンペーンとして「ル・ジャポン・セ・ポシーブル」を展開したものの、2000年代の現在まで貿易額は漸増傾向を示すに留まり、2004年時点で貿易額は相互に60億ドル台から80億ドル台で推移している[53][54]。日本から見た場合、対仏輸出の構成比は1.5%(各国中15位)であり、一方でフランスからの輸入も1.8%(同13位)と貿易における重要度、依存度はほかの先進国や中進国と比較してさほど高くない[55]。これをフランスから見た場合、対日輸出が輸出全体に占める割合は1.6%であり、これはドイツ(14.5%)、スペイン(10.2%)、イタリア(9.2%)、イギリス(8.8%)、ベルギー(7.6%)といったEU諸国、アメリカ合衆国(7.2%)、中華人民共和国(1.7%)に次ぐものとなっている[56]。
しかし、直接投資においては、1999年のルノーによる日産自動車の買収に伴い、日産の最高経営責任者となったカルロス・ゴーンは一般の日本人にも知名度がある。これにプジョーを加え、フランス車はドイツ車などと並んで日本では人気のある海外車種の一つである。他方、日本側もトヨタ自動車がほぼ同時期に北部ノール県ヴァランシエンヌに工場を建設しているほか、NTNなど自動車部品メーカーの工場進出も行われており、近年では1990年代後半にかけて自動車業界を中心に相互に大きな投資が行われている。
古くは江戸幕府の幕府陸軍、および明治以降の日本陸海軍もフランス軍の影響を相当受けていた(第一次・第二次・第三次フランス軍事顧問団)。陸軍はその建軍にあたってフランス陸軍を師とし、鎮台制などのフランスの兵式を採用し強い影響を受けている。なお、旧陸軍および現在の陸上自衛隊の制式行進曲である『陸軍分列行進曲(観兵式分列行進曲)』は、明治初期に御雇外国人としてフランスから派遣されたシャルル・ルルー陸軍軍楽大尉相当官によって作曲されたものである。1880年代中後半には普仏戦争の影響もあり、1888年(明治21年)に全体的にプロイセン(ドイツ)式に転換したもののフランス色は完全に排除されたわけではなく(明治38年・45年制式の軍服にフランス式の肩章を採用)、また第一次大戦から1930年代までは、銃火器、火砲、戦車および航空機(後述)などの開発においてはフランスの影響が再度強くなっている。海軍は建軍当初から兵式はイギリス式を採用していたが、当時のフランスはイギリスに次ぐ海軍大国でもありその存在は無視出来るものではなく、1880年代の第三次フランス軍事顧問団において海軍技術者ルイ=エミール・ベルタンなどを御雇外国人として招き主力艦を含む多数の軍艦を設計させている。そのため19世紀末まではフランス海軍の影響も大きかった。
航空分野においては、1910年(明治43年)に徳川好敏・日野熊蔵両陸軍大尉がフランスの飛行機の操縦技術を学び、フランス製のアンリ・ファルマン複葉機を持ち帰り、同年12月19日に代々木練兵場で初飛行した。なお徳川好敏は、日本人として日本の空を飛んだ初めてのパイロットである。第一次大戦時の1914年(大正3年)に編成された日本発の実戦飛行部隊たる陸軍の臨時航空隊は、フランス製の軍用機と技術をもって青島の戦いに参戦しドイツ軍と交戦した。大戦末期の1918年(大正8年)1月、陸軍はフランス側より航空部隊の無償技術指導の提案を受け、フォール陸軍大佐(Jacques-Paul Faure)を団長にした61名のフランス航空教育団(Mission militaire française au Japon(1918-1919))を迎え、所沢陸軍飛行場(現・所沢航空記念公園)など各地で教育を受けている(少数ではあるが海軍軍人も聴講員として参加)。このように、のちの陸軍航空部隊、ひいては日本の航空・航空戦力の原点はフランスであった。
アルジェリアとの関係
1830年からのアルジェリア侵略で同地をオスマン帝国から奪い、1834年に併合した。フランス本土から植民を行いまた海外県としてアルジェリアをフランスに組み込んだ、この支配は1962年の分離独立まで続いた。
植民地を本国に組み込む統治手法は、日本統治時代の台湾、日本統治時代の朝鮮でも参考にされた[57]。
フランス側はアルジェリアの支配は近代化をもたらしたと肯定的に評価する、一方でアルジェリア側はフランスが行った虐殺など歴史を巡って対立している[58]。
またフランスはアルジェリア戦争の悲惨さは博物館などで語り継いでいるがアルジェリアに行った抑圧は口を開かないなどタブーとなっている[59]。
軍事
フランスの国防政策は1959年にシャルル・ド・ゴール政権が制定した「国防組織法」によって運営されている。大統領が最高司令官であり、その指導のもとに内閣委員会が国防政策、将官の任免、総動員令や戒厳の宣布などの意思決定機関として機能する。フランス革命からの徴兵制を廃止して志願制を採用した。2011年の軍事支出は625億ドルと、標準的な軍事費を維持している。
フランス軍は陸軍、空軍、海軍および憲兵、国民衛兵からなり、2002年の総兵力は44万人のうち、陸軍17万人、空軍7万人、海軍5.6万人、憲兵9.8万人、その他機関4万人であった。国外駐在兵力は約3万人で、うち太平洋地区の海外県(植民地)に約2万人、アフリカに6,500人、国際連合など国際組織の指揮下に9,000人がいる。また核兵器を保有しており、海軍の潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)搭載原子力潜水艦により運用される。現在もフランス外人部隊8個連隊を保有する。南仏オーバニュに司令部を置き、南仏各地も駐屯、コルシカやポリネシアにも一部が駐屯する。2002年12月から西アフリカのコートジボワールに外人部隊2,500人が派遣され、戦闘状態にある。
2013年に開始されたマリ共和国への軍事介入において、進展の遅れから軍の兵站が不十分である指摘する報道が行われた。国防予算の50%が軍人への給与や退職金などに費やされ、残りの予算も空軍機や空母など主力兵器の運用・導入が優先される予算配分に原因があると見られている[60]。徴兵制廃止によって兵員の不足も発生しており、常備軍23万名の中で即時派兵が可能な戦力は3万名に留まっている。
フランス陸軍は地上作戦司令部、補給司令部、9個作戦旅団、2個補給旅団からなる。主要装備は戦車834輌、装甲車4,950輌、各種火砲802門、ヘリコプター498機である。
フランス海軍は戦略作戦司令部と海上、対潜、掃海、潜水艦などの専門作戦司令部からなる。主要装備はSLBM搭載原子力潜水艦4隻、攻撃型原子力潜水艦6隻、原子力空母1隻、ヘリ空母1隻、ミサイル駆逐艦3隻、駆逐艦9隻、フリゲート20隻などである。
フランス空軍は6個攻撃戦闘機中隊、7個戦闘機中隊、2個偵察中隊、14個輸送機中隊、5個ヘリコプター中隊、2個電子戦中隊からなり、主要装備は作戦機433機、早期警戒管制機4機、偵察機4機、空中給油機45機、輸送機131機などである。
フランス国家憲兵隊は以前は国防省に属していたが、現在は軍籍は国防省に残置したうえで内務省に属し、警察業務を担当する。
フランス国民衛兵は2015年のパリ同時多発テロを受け、145年ぶりに復活した軍事組織で警察や軍隊のサポートをする役割を担う。
アメリカ軍の駐留
1951年から1966年の15年間、フランス国内に在仏アメリカ空軍が駐留していた。
情報機関
- 対外治安総局 (DGSE)(Direction Générale de la Sécurité Extérieure) -SDECE―防諜・外国資料局より改称。
- 軍事偵察局 (DRM)(Direction du Renseignement Militaire) - 軍事偵察局 (国防省に属する機関)
- 国内治安総局(DGSI) (Direction centrale du renseignement intérieur;)(内務省に属する機関)
地理
フランス本国(メトロポリテーヌ)は、北が海を挟んでイギリスと向かい合い、北東がベルギーとルクセンブルク、東をドイツとスイス、南東でイタリア、南西にスペインと国境を接している。フランスの強い影響下にあるミニ国家として、スペインとの間にアンドラ、仏伊国境近くにモナコがある。
フランスの国土は西ヨーロッパに位置する本土のほか、地中海に浮かぶコルシカ島、南アメリカ大陸北東のフランス領ギアナ、カリブ海のマルティニーク、グアドループ、インド洋のレユニオンといった4海外県、さらにはニューカレドニアやフランス領ポリネシアなどオセアニアの属領をも含む。その面積は西ヨーロッパ最大であり、フランス本土だけで日本の1.5倍あり[61]、可住地の広さは日本のおよそ3.5倍にも達する。
地形
本土の形状はだいたい六角形の形を成しており、これはフランスの公用語であるフランス語にも影響し、六角形を意味する"l'Hexagone(レグザゴーヌ)"が「フランス本土」を意味する。その6辺の国境のうち、1辺は平野と川(ライン川)、2辺は山脈(ピレネーとアルプス)、3辺は海(地中海、大西洋、北海)である[62]。
フランスの地形の主な特色は、東から南にかけて山地や山脈という自然の国境があるほかは、ところどころに高原や丘陵がみられるものの、国土の大半は概して緩やかな丘陵地や平野で可住地に恵まれていることにある(国土の60%が海抜250m以下の平地であり、2000mを超える山岳地帯は東部と南西部の国境付近のみ[63])。
北西部に広がる、フランスでも最も広い領域を占める比較的平らな地域は、東ヨーロッパから続くヨーロッパ中央平原の西端部にあたる。緩やかな起伏の平野で、高所でも標高200m程度の土地が広がっており、温暖な気候とあわせて西欧最大の農業国フランスの基礎となっている。東部ドイツ国境にはヴォージュ山脈、スイス国境にはジュラ山脈が延びる。ヴォージュ山脈はライン川の西岸に沿って流れ、ライン川がフランスとドイツとの国境となっている。南東部は中央高地が広がり、北から南へ流れ下るローヌ川を越えると、アルプス山脈につながっていく。南部イタリアとの国境をなすアルプスの山々は、多くが標高4,000m以上で、その最高峰がモンブランである。アルプス越えには古代ローマの時代からいくつかの道があるが、なかでも有名なのがサンベルナール峠である。南西部のスペイン国境にはピレネー山脈が延びる。峠がほとんどないピレネー山脈は、フランスとスペインとの交易を困難なものにした。サントラル高地の最高峰はドール山(1,866m)。ピレネー山脈の最高峰アネト山(3,404m)はスペイン側にそびえる。フランス全土の最高峰はイタリア国境に位置するモンブラン(4,810m)。
おもな河川は北から反時計回りに、セーヌ川(776km)、ロワール川(1012km)、ガロンヌ川(647km)、ローヌ川(812km)。
気候
フランスの気候は大陸性、西岸海洋性、地中海性の気候区に分割される。西岸海洋性気候は大西洋側の国土の西部で見られる。気温の年較差、日較差とも小さい。気候は冷涼であるが、寒くなることはない。国土を東に移動するにつれて気候は大陸性となっていき、気温の年較差、日較差が拡大していくと同時に降水量が上昇していく。本来の大陸性気候は東ヨーロッパ、つまりポーランドやルーマニアが西の限界であるが、フランス東部の高地、特にアルプス山脈の影響によって、大陸性気候が生じている。地中海性気候は国土の南岸で際立つ。気温の年間における変動は3種類の気候区のうちもっとも大きい。降水量は年間を通じて少ない。このように3種類の気候が共存している例は、ヨーロッパの中でフランスだけである[64]。
地方行政区分
フランスは26の地域圏に分かれる。フランス本土(メトロポリタン・フランス)の位置するヨーロッパの領土は22の地域圏(レジオン région)に区分され、その下に100の県(デパルトマン département)が存在する(各レジオンが2 - 8のデパルトマンに区分されている)。地域圏はメトロポリタン・フランスに21、コルシカに1つに分かれる。さらに海外のアメリカ大陸やインド洋などには、4つの海外県と、複数の海外領土がある。各県はさらにコミューンに分かれる。2009年3月29日、アフリカ東部沖のコモロ諸島にあるマヨット(人口約20万人)を特別自治体から海外県への地位変更の是非を問う選挙が行われ、賛成95.2%で海外県となることが決まった。フランスの県としては101番目、海外県としては5番目である。
フランス・メトロポリテーヌの地域圏再編が行われ、2016年1月1日より地域圏の数は26から18となった。
主要都市
都市人口
都市 | 行政区分 | 人口(人) | 都市 | 行政区分 | 人口(人) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | パリ |
|
2,165,423 | 11 | レンヌ |
|
220,488 | |||
2 | マルセイユ |
|
870 731 | 12 | ランス |
|
181,194 | |||
3 | リヨン |
|
522,969 | 13 | トゥーロン |
|
178,745 | |||
4 | トゥールーズ |
|
493,465 | 14 | サンテティエンヌ |
|
173,821 | |||
5 | ニース |
|
342,669 | 15 | ル・アーヴル |
|
168,290 | |||
6 | ナント |
|
318,808 | 16 | グルノーブル |
|
158,198 | |||
7 | モンペリエ |
|
295,542 | 17 | ディジョン |
|
158,002 | |||
8 | ストラスブール |
|
287,228 | 18 | アンジェ |
|
155,850 | |||
9 | ボルドー |
|
260,958 | 19 | サン=ドニ |
|
153,810 | |||
10 | リール |
|
234,475 | 20 | ヴィルールバンヌ |
|
152,212 | |||
2019年国勢調査 |
都市圏人口
フランスの人口は、パリへの一極集中が目立つ。フランスの交通において結節点となるパリは主要な文化および商業の中心地である。同市に次ぐ都市は規模が小さい。
都市 | 行政区分 | 人口(人) | 都市圏人口(人) | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | パリ | イル=ド=フランス | 2,148,271 | 12,532,901 | ||||||
2 | リヨン | メトロポール・ド・リヨン | 496,343 | 2,214,068 | ||||||
3 | マルセイユ | プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール | 852,516 | 1,727,070 | ||||||
4 | トゥールーズ | オクシタニー地域圏 | 453,317 | 1,270,760 | ||||||
5 | リール | オー=ド=フランス地域圏 | 228,652 | 1,166,452 | ||||||
6 | ボルドー | ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏 | 241,287 | 1,158,431 | ||||||
7 | ニース | プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール | 343,629 | 1,004,914 | ||||||
8 | ナント | ペイ・ド・ラ・ロワール | 291,604 | 897,713 | ||||||
9 | ストラスブール | グラン・テスト地域圏 | 274,394 | 768,868 | ||||||
10 | レンヌ | ブルターニュ地域圏 | 209,860 | 690,467 | ||||||
2012年国勢調査 |
経済
フランスは名目GDPで世界第6位および購買力平価で世界第8位の先進国である[66]。家計資産の総計の観点から、フランスはヨーロッパで最高かつ世界で第4位の経済大国である[67]。同国は世界第2位の排他的経済水域(EEZ)をも有し、その規模は11,035,000 km2に及ぶ[68]。
フランス国民は高い生活水準を享受し、同国は教育、医療、平均寿命、人権、人間開発指数の国際ランキングにおいて上位に位置する[69][70]。フランスは世界第4位の世界文化遺産数を有し、世界最多の年間約8,300万人の外国からの観光客を迎え入れている[71]。
2014年のフランスのGDPは2兆8,468億ドルであり、アメリカ、中国、日本、ドイツ、イギリスに次ぐ世界第6位である[72]。また、同年の1人当たりのGDPは42,999ドルであり世界水準のおよそ4倍、日本と比較してもわずかに多くヨーロッパ屈指の経済大国であることが分かる。観光客入国数では世界一、農産物輸出額では世界第2位を占める[73]。農業は生産額世界第6位と依然としてフランスにおける重要な産業であり、EU諸国中最大の規模を誇っている。高負担国家であり、GDPに占める税収比は45.5%とOECD諸国においてデンマークに次いで2位である(2014年[74])。
第二次世界大戦後は鉄道・航空・銀行・炭田が国有化された。マーシャル・プランを原資としたモネ・プラン、次いでイルシュ・プランで経済復興が行われた。自動車・電子・航空機産業についても国が主要株主となり、政府は石油と天然ガスにも投資した。1981年のフランソワ・ミッテラン大統領の社会党政権は産業国有化をさらに推進したが頓挫した。1986年に保守派のシラクが首相になって国家の役割が縮小された(第1次コアビタシオン)。しかし金融・保険・電力・運輸・国防産業などそれぞれのグローバル市場でフランスは隠然たる影響力を保持した。
1990年代後半は、ヨーロッパ通貨統合に参加するために強硬な財政赤字削減策が実施されたが、国民の強い反発を招き、消費拡大による景気刺激策に方針が転換された。しかし、2000年を境にGDPの実質経済成長率は大きく低下し、財政赤字は2002年以降、連続して対GDP比3%以内というEUの財政協定の基準(収斂基準)を大きく超えていた。1990年代の大きな問題だった12%を超える失業率も、90年代末から改善されて2001年には8%台になったが、その後はふたたび悪化して2005年はじめには10%を突破した[注釈 4]。しかし2005年以降、世界経済の好調に助けられる形で経済は持ち直し、財政赤字は3%を切り、失業率も8%台にまで改善されたものの、世界金融危機で財政出動を余儀なくされたことから、GDP比3%の財政赤字の基準は守れておらず、EUの欧州委員会から財政赤字の立て直しの勧告が出されている[75]。デクシアの救済劇は、資本輸出先であるベルギーとで両国政府が大株主も伴い64億ユーロも注入する有様となった[76]。
2008年度版フォーチュン・グローバル500によると、総収入を指標とした全世界の企業ランキングリストのうち上位100位に含まれるフランス企業は、国際石油資本のトタル(本社パリ、8位)、保険のアクサ(パリ、15位)、金融のBNPパリバ(パリ、21位)、金融のクレディ・アグリコル(パリ、23位)、小売のカルフール(パリ、33位)、金融のソシエテ・ジェネラル(パリ、43位)、自動車メーカーのプジョー(パリ、66位)、電力会社のフランス電力(パリ、68位)、電気通信事業者のフランステレコム(パリ、84位、現・Orange)、水道や電力、ガス事業などを行うスエズ(パリ、97位、現・エンジー)が並ぶ。
2009年3月、「経済危機のつけを労働者に回すな」をスローガンに、1月の前回100万 - 250万人を上回り、全国で300万人が統一行動を行った。サルコジ政権は、昨年12月260億ユーロ規模の経済活性化対策を発表した。さらに所得税減税など14億ユーロ規模の低所得者向け支援策を提案し、その後26億ユーロ規模に増額した。2010年に未来のための投資プログラムをスタートし、パリ=サクレー学研都市などへ投資をするようになった。
2012年5月からフランソワ・オランドが政権をとり、翌年に公的投資銀行を設けて中小企業を支援するようになった。公的投資銀行に国家出資庁が出資する程度はごくわずかである。公的投資銀行は公営である本部と加盟企業に分かれている。本部へは国が出資庁を介さずに直接資金を提供する。加盟企業はその本部から、または預金供託公庫から資金を調達して、これを原資に中小企業の債権や株式を引き受ける。
農業
EU最大の農業国であり「ヨーロッパのパン籠」と言われる。穀物、根菜、畜産などすべての農業部門において世界の上位10位以内の生産高を誇る。地形が概して平坦なため、国土面積の53.6%が農業用地と比率的には日本の約4.5倍に達し、国土の36%が耕作地で、18%が酪農用地である(国連FAO)。農業従事者は労働力の約3%。1955 - 2000年で農家の数は3分の1に減少し、相対的に1農家当たりの農地面積、経営規模が拡大した。穀物は、小麦、大麦、トウモロコシ、根菜はじゃがいも、テンサイ、畜産ではブタ、鶏卵、牛乳の生産が際立つ。このほか、亜麻やなたねの生産高も多い。テンサイの生産高は世界一である。政府は農業を重要輸出産業とし国際競争力の強化を図るほか、農業経営の近代化、若年層の就農促進などの政策を実施している。
フランスの鉄道は作物の流通に不可欠である。昔は路線自体が必要だった。北部鉄道で知られるフランスの鉄道史において、19世紀のハブがパリしかないような状態だった。そのときまで穀物価格には地域格差がしばしば生じた。20世紀に路線網が充実し、土地の権利関係も制度レベルから整理されていったため、それからは重量貨物の輸送手段として活躍している。1960年「基本法」農政がスタートした。そこでアグリビジネスが促進され土地バブルを引き起こした。輸出作物に補助金が積まれ、それが貿易摩擦も引き起こした。
鉱業
鉄鉱石がロレーヌ地域圏で産出される。戦後は国土の北東部に偏っていた鉱業が南東部でも営まれるようになった。21世紀初頭においてはすでに鉄鉱石の採掘は行われておらず、金属鉱物資源は鉱業の対象となっていない。アフリカなどに十分な利権を維持しており、世界金融危機において著しく増産した。もっとも規模が大きい鉱物資源は世界シェア8位(3.3%)の塩(700万トン、2002年時点)である。塩の食用需要は限られ、大部分は化学工業需要である。
有機鉱物資源では、石炭、石油、天然ガスとも産出するが、いずれもエネルギー需要の数%を満たす水準である。たとえば石油の自給率は1.6%にとどまる。金属資源では、金、銀、その他の地下資源ではカリ塩、硫黄を採掘している。
工業
フランスの工業は食品産業、製材(en:Sawmill)、製紙業、運輸業、機械産業、電気機械、金属、石油化学産業、自動車産業が中心である。世界一の生産高を誇るワイン、世界第2位のチーズのほか、バター、食肉も5本の指に入り、製糖業も盛んである。製材、製紙はいずれもヨーロッパ随一である。石油化学工業は燃料製造、合成樹脂(プラスチック)、合成ゴム、タイヤと全部門にわたる。特に合成ゴムとタイヤ製造が著しい。たとえば旧フランス領インドシナで採取したゴムの樹液が、接収したヒュルス社のライセンスで加工され、ミシュランのタイヤが作られる[注釈 5]。
自動車製造業は世界7位の規模である。自動車の生産は古くから行われており、常に生産台数が世界で10番目に入る自動車大国でもある。おもなメーカーとしてルノー(日本の日産自動車を傘下に収めている)や、PSA・プジョーシトロエンなどがある。国防産業では、タレス、ナバル、サフランなどの大企業が存在し、これらによる造船業も盛んである。
フランスのフラッグ・キャリアは、エールフランスであり、スカイチームに設立時から所属している。エアバスやマトラ、ダッソーなどの企業が代表するように航空宇宙産業も発達しており、ロシアを除きヨーロッパではフランスだけが宇宙船発射能力を持つ。
エネルギーでは原子力発電への依存率が世界でもっとも高い。電力のおよそ78%が原子力発電でまかなわれているのに対し、火力発電は約11%、水力発電は約10%にすぎない[77]。発電用原子炉の数はアメリカ合衆国に次ぐ59基。2001年時点の総発電量5,627億kW時のうち、74.8%(4,211億kW時)を原子力が占める。原子力による発電量自体もアメリカ合衆国の7,688億kW時に次いで2位である。フランスの発電は原子力以下、水力14.7%、火力10.4%、地熱0.1%が続く。総発電量では世界第8位を占めていて、近隣諸国にも多くの電力を供給しており、EUで最大の電力輸出国となっている。おもな原子力発電所は、グラブリン原子力発電所(5,706千kW、ノール県)、パリュエル原子力発電所(5,528千kW、セーヌ=マリティーム県)、カットノン原子力発電所(5,448千kW、モゼル県)。2001年現在で発電規模世界第4位、5位、6位を占める。
貿易
フランスは伝統的に西ヨーロッパにおけるもっとも重要な農産品輸出国である。さらに、第二次世界大戦後に工業関連企業を国有化することによって合理化が進み、EC域内でドイツに次ぐ重要な工業国ともなった。2003年における全工業製品の輸出額はドイツの約40%であった[78]。フランス工業(EC域内工業)の特徴は域内分業である。各産業は国内市場よりもEC域内市場を対象としており、フランスにおいても2004年における貿易依存度は輸出20.7%、輸入21.6%まで高まっている。2003年における輸出額は3,660億ドル、輸入額は3,696億ドルである。
- 輸出
輸出を金額ベースで見ると、工業製品が大半を占める。品目別では、自動車14.3%、電気機械11.2%、機械類10.4%、航空機5.4%、医薬品5.0%である。工業製品が80.4%、食料品が11.2%という比率になっている。おもな輸出相手国は金額が多い順に、ドイツ、スペイン、イギリス、イタリア、ベルギーであった。
フランスは2004年時点の小麦の世界貿易(輸出)において、第4位(12.5%、1,489万トン)を占めていた。さらにとうもろこしの世界貿易では第3位(7.4%、616万トン)、砂糖では第4位(5.2%、234万トン)、チーズでは第2位(14.3%、58.3万トン)を占めている。しかしながら、農産物は工業製品に比べて単価が安いことから輸出全体に占める比率は高くない。同じことが工業製品である鉄鋼の貿易にも当てはまる。フランスは2005年の世界貿易(輸出)において、第4位(1,800万トン)を占めているが、フランスの総輸出額に占める割合は5%未満である。一方、単価の高い自動車は2004年における輸出シェアが世界第2位(426.9万台)であることを反映し、もっとも重要な輸出品目となっている。
- 輸入
輸入は工業製品が77.4%、原材料と燃料が13.8%、食料品が8.4%という構成である。輸出入とも工業製品が約8割を占める。品目別では、電気機械13.1%、自動車11.0%、機械類10.0%、原油5.1%、衣類4.1%。おもな輸入国は金額順に、ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーであった。
- 過去の収支とその後の傾向
1986年時点の貿易は、輸出1,191億ドル、輸入1,279億ドルであった。輸出に占める工業製品の比率は77.2%、食糧品は15.4%であることから、その後次第に輸出品に占める工業製品の割合が拡大してきたことが分かる。輸入品についてはこの傾向がより顕著である。
高失業率
オイルショック以降、フランスは慢性的な高失業率に悩まされている[注釈 4]。特に西アフリカや中東、北アフリカなどの元植民地からの移民とその子孫の失業率が高いため、不満が鬱積したこれらの失業者による暴動がたびたび起きている。とりわけ2005年10月27日に発生した移民の死傷事件は、これをきっかけに、パリをはじめとしたフランス全土、さらに隣国のドイツやベルギーにも暴動が広がった(2005年パリ郊外暴動事件を参照)。
就業者を上げるため、2006年3月に26歳以下の若者を2年以内の雇用なら理由なく解雇できるという、青年雇用対策「初期雇用契約」(CPE)を制定したが、逆に「安易な首切りを横行させる」と若者を怒らせる結果となり、フランス国内の大学でのCPE反対の抗議活動が激化、若者が暴徒化し警官隊と衝突する事態に陥った。CPE反対に際しては労働組合も同調しており、抗議行動への参加や、3月28日には全国でTGVをはじめとする鉄道やバスなど公共交通機関の運休のほか、郵便局や公立学校などの公的機関、銀行や電力会社など幅広い業種でゼネラルストライキが行われ、交通機関などで麻痺状態に陥った。ド・ビルパン首相は撤回に応じないと表明したが、4月10日になり、シラク大統領がCPEの撤回を表明した。
交通
現在フランスは世界で最も緻密な交通網が整備された国のひとつである。100km²あたり146kmの道路と6.2kmの鉄道が整備されており、これらは首都でありまた国内最大都市であるパリを中心とした交通網を形成している。
科学技術
フランスの科学技術は17世紀から続く長い歴史を持っている。その始まりは当時の国内における科学研究の精神を奨励し保護する目的から、為政者であったルイ14世がジャン=バティスト・コルベールの提案で1666年に設立した科学アカデミーの存在にまで遡る。