南京戦
日中戦争の一戦(1937年12月4日 - 12月13日) / ウィキペディア フリーな 百科事典
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南京戦(ナンキン せん、中国語: 南京保卫战、英語:Battle of Nanking)は、日中戦争(支那事変)における戦闘の1つで、1937年(昭和12年)8月以降の上海戦の戦線が拡大し、12月に中華民国の首都南京で展開した。日本軍は中国軍を追撃し、南京を陥落させた。日本軍からは南京攻略戦。中国側からみて上海戦と南京戦を併せて上海南京保衛戰とする研究もある 。
この戦闘の最中に南京事件(南京大虐殺)が発生したとされ、戦後南京軍事法廷や東京裁判で訴追された。ただし、事件の内実については論争がある(南京事件論争)。
上海戦から南京戦へ
1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件で日本と中国は全面衝突し、7月末から8月にかけて上海で大山事件など日本将兵が殺害される事件が相次だが、日本軍は不拡大政策を貫いていた。8月13日中国軍が攻撃を開始し 、第二次上海事変が始まった。8月14日には中国空軍による上海爆撃が実施され、日本軍陣地だけでなく租界地などの歓楽街にも被害が出た 。これを受けて日本は8月15日に「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲」すると声明を出し、第3・第11師団による上海派遣軍を編成して派遣した 。9月2日に「北支事変」から「支那事変」と改称した 。
蔣介石も8月15日に対日抗戦総動員令を発令し、自らが陸海軍総司令官につき、四つの戦区に分けて全面戦争体制を整えた 。蔣介石は華北は補給維持が困難であるとして増援せず、主力は揚子江流域都市(南京市など)での決戦に備えて温存すると計画した 。
日本が中国に対し「速戦速決戦略」を採用したのに対して 蔣介石の戦略は、華北の日本軍が南下し、武漢地区で中国が東西に分断されるのを防ぐため、中国軍が華北では後退し、 上海に主力を集中して主戦場を華北から華東へと誘致するもので 、「日本軍に上海戦場を開かせる」という「持久消耗戦略」であった 。また、アメリカやイギリス、ソ連などを日中戦争に巻き込むという政略も採用した 。
上海戦で日本軍は苦戦し、9月までの日本軍第3・第11師団だけで死傷者は12388名にのぼり、第9師団は11月の蘇州河渡河までに12360名の死傷者を出した 。日本は11月5日、第10軍を杭州湾に、第16師団は白茆口に上陸させ、戦況は一挙に好転した 。11月7日に上海派遣軍と第10軍を併せて中支那方面軍として編成した 。河辺虎四郎ら参謀本部作戦課は作戦地域を上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線以東に制限したが、武藤章参謀副長らは南京追撃を主張した 。
11月15日、第10軍は「一挙追撃を敢行し、南京を占領すべき」と積極案を出し 、独断で進撃を開始した 。松井石根中支那方面軍はこれを追認した 。制限線撤廃をめぐって激論となっていたが参謀本部も11月24日、南京攻略を容認し、蘇州-嘉興線以東の制限を廃した 。方面軍は、上海派遣軍追撃隊は、常州、丹陽、金壇に前身拠点を造り、主力は無錫〜湖州線より東部で準備すると命じた 。10軍は嘉興〜湖州〜長興へ、114師団一部は宜興・漂陽へ、18師団追撃隊および国崎支隊は広徳に進出し、主力は後方地区に終結した 。最前線の部隊は、中国軍によって徹底的に破壊された橋梁や道路を修復しながら進撃をつづけた 。
参謀本部はトラウトマン工作など政治的解決を優先する意見などがあったが 、下村定第一部長の意見具申により南京攻略が決定され、大陸命7号によって中支那方面軍の戦闘序列が、大陸命8号によって海軍との共同攻略が下令された 。
中国側は消耗持久戦へ転換させ、ゲリラ戦を発動させた 。蔣介石は11月7日の日記で「抗戦持久」が重要で、「遊撃戦を発動し、敵を疲労させる」と書いた 。これは中国軍の83個師団約40万の兵力を江北に撤退させる退却掩護作戦でもあり、南京防衛は固守して援軍を待つものでなく、敵軍の消耗を目的としたもので 、日本軍進撃を食い止めるために橋梁、道路は徹底的に破壊され、家屋は焼かれ、食料は持ち去られた 。T・ダーディン特派員によれば、南京城外15マイルの空野清野作戦は中国軍の怒りとフラストレーションであり、焼き払いは軍事目的には役に立たなかった
さらに敗残兵は後方地域に潜入してゲリラ化して日本軍を襲撃した 。
国民政府は11月19日に重慶遷都を決定した 。首都南京からの撤退に蔣介石が反対し、唐生智も南京固守方針を定めた 。しかし唐は「わが血肉をもって南京城と生死を共にする」と誓っていながら、徹底抗戦を叫んで逃亡する。
参加兵力
日本軍
戦闘序列概略 。旅団以下、各連隊の詳細は南京攻略戦の戦闘序列へ。
中国軍
- 南京(首都)衛戍軍 (司令官唐生智)
- 東北部配備:第2軍団(司令官徐源泉)
- 東部配備:第66軍
- 南部配備:第71軍、第72軍、第83軍
- 西南部:第74軍
- 北部配備:第78軍
- 江岸配備:江防軍
- 教導総隊、憲兵部隊(2団)、装甲兵団 (2連)等
- ソ連空軍志願隊 。
いわゆる南京師団とよばれた防衛軍は、広東軍、広西軍、湖南軍によって編成され、南京城内の防衛はそのうち第36師団、第88師団であった 。広東軍は追撃戦で打撃を受けており、南京に撤退後、未熟な新兵を補充していた 。なお蘇州-句容間の前線で抗戦してきた四川軍は蕪湖方面に撤退し長江を渡河し首都攻防戦には加わらなかった 。
南京防衛軍の総兵力に関する諸説
- 国民党や日本側の資料など
国民党の資料によれば、将緯国将軍は約14個師 、また作戦経過概要等では12月初に約15師強とする 。
- 孫宅巍がまとめた中国の戦闘詳報によれば、第2軍、第83軍は不明で、第66軍は9000、第36師は11968 、第74軍は17000 、第87師は1万、第88師は6000、教導総隊は35000 、103師は2000、憲兵5490で、合計96,458 。
- 撤退時には、10余万の大軍が長江岸に雲集し、邑江門から10余万が退出した 。
- 国民政府軍令部第一庁長の劉斐は南京防衛軍は合計10余万人とした 。杜聿明も同値 。
- 第78軍・第36師長宗希濂は当初は7万前後で、さらに3個軍の4万人が増加し合計約11万余人となったという 。
- 南京防衛司令長官部参謀処第一科科長の譚道平は、12月8日に10万に達したという 。
- 第78軍第36師第108旅第216団第一営長の欧陽午は、南京外囲陣地と南京複廓陣地に合計約11万が配備され、20万人と公称したという 。
日本側の資料によれば、上海派遣軍参謀長飯沼守は約20コ師10万人で日本軍が撃滅したのは約5万、海軍と第10軍の撃滅したのは約3万、約2万は散乱したと記した 。第十六師団参謀長・中沢三夫によれば、基本部隊計8~9師で当初一師5000だったが1万に増加し8~9万となり、また以前の上海派遣軍第二課調査で20師推定から、総計10〜13万の兵力と推定した 。
アメリカ側の資料によれば、12月10日後のアメリカ大使館報告では、陥落前に人口の8割が市を脱出し、主要部隊は撤退し、防衛軍は5万人とされた 。
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は中国軍は16個師団約5万人が参加したが、3万3000が殲滅されこのうち2万名が処刑されたと報道した 。偕行社『南京戦史』は、このダーディン記者の推定は概ね妥当とし、さらに中国軍戦闘詳報での78軍が二個団補充、2軍団(10軍)の二個師、74軍の二個師はいずれも7000兵力で、これを加算すれば6-7万 、鎮江-丹陽-東昌街付近をのぞく南京付近の総兵力は65,500〜70,500人と推定する 。
1937年12月17日のマンチェスター・ガーディアン・ウィークリーは、上海から退却した中国軍30万のうち、「7万5000強の兵が実際に南京付近に駐屯したとするのは疑わしい」として、南京にいた主力部隊は陥落前に重慶へ退却しており、戦闘中も逃亡する兵士は膨大におり、南京陥落を戦った中国軍は2万程度とした 。
- 戦後の裁判と南京防衛軍の総兵力に関する諸説
東京裁判判決では、「中国軍はこの市を防衛するために約五万の兵を残して撤退した。1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国軍のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を捨て国際安全地帯に避難した」とあり、中国軍を約5万とする 。
1984年、中国側公式資料集「証言・南京大虐殺」は、南京防衛軍は「退却時五万」とした 。
1988年、「南京防衛軍当初15万、虐殺8万説」(孫宅魏)説。
秦郁彦は台湾公刊戦史から「当初は10万、落城時は3.5万~5万」とする 。また「兵力計算を困難にする理由に、民兵の存在があった。正規兵はカーキ色のラシャ制軍服を着ていたが、戦闘直前にかき集めた予後備兵、少年兵をふくむ民兵は濃緑色の綿製軍服を着用、なかには私服のままの者もいた。局面によっては、正規兵よりも民兵のほうが多く、とくに難民区に逃げ込んだ者は民兵が主体だったようだ、という参戦者の証言もあるが、中国側が主張する兵力数に、この種の民兵が含まれているかはたしかでない。」と述べている 。
孫宅巍は、南京衛戍軍参謀第一科長譚道平の証言から、総兵力は81000人(戦闘兵49000、雑兵32000)で、犠牲は36,500人とする 。南京戦史はこの「雑兵」は後方支援兵力か、民兵隊を指すのか判然としない、また71軍(87師)6500、83軍5500という兵力は、鎮江戦当時はともかく12月7日以降の南京に到達した推定としては過大と指摘 。
笠原十九司は、「最高時の南京防衛軍の編制は約15師相当の部隊よりなり、総兵力は10万以上と言う事である。数としては、11~13万という数字があげられている。ここではひとまず10数万という言い方をしておく。ここで問題になるのは、この防衛軍総数に中国で、雑兵、民夫、民工と呼んだ後方(勤務)部隊の兵数がカウントされているかどうかである。南京防衛に参加した第71軍第87師所轄の第261旅旅長・陳頤県から筆者が直接聞き取りをしたときの話では、当時国民党軍の一旅は7000の兵員からなり、戦闘兵が5000人、運送などにあたる後勤部隊が2000人とのことであった。そして中国では一般に(日本軍と違って)後勤部隊を兵数に数えないとのことだった。上記(国民党)の資料で「総兵力数」と兵力を明記している場合はおそらく(武器をもって敵と交戦できないという意味で直接の戦闘力にならない)雑兵の類をカウントしていない。したがって正規、非正規の後勤部隊の兵数を含めれば、南京防衛に動員された者の数は上記の数をさらに上回ることになる。(略)先の総兵力と次に述べた正規・非正規の軍務要員とされた軍夫・民夫を総計して、(孫宅魏の推定)約15万という数が、いまのところ妥当」とした 。また笠原は、「総数15万人の防衛軍のうち、約4万人が南京を脱出して再結集し、約2万人が戦闘中に死傷、約1万人が撤退中に逃亡ないし行方不明になり、残り8万人が捕虜・投降兵・敗残兵の状態で虐殺された」と推定する(撤退5万、戦死2万、虐殺8万) 。
ただし、上述した譚道平、宗希濂の回想によれば、当初の防衛軍に支援部隊が到着したとあり、雑兵が含まれている 。また孫宅魏も「一方中国軍は、唐生智の率いる守城部隊が十五個師、およそ十余万人であったが、雑兵が多く、敵軍と直に戦闘できる兵隊は六割にすぎなかった。防衛軍全体の中で、まだ入隊したばかりの新兵が四割近くもしめていた」と、雑兵、新兵が多いと明記しており、雑兵を含めている 。
なお、孫宅魏によれば、中国軍編成は、1個師団が二個旅(87師は3個旅)、四個団(連隊)と各一個営の砲兵、工兵、輜重兵よりなり、合計13個師団であった 。孫宅魏は一個旅団を平均約4400人、1個師団を1万923人とし、13個師団の合計14万1999人と推計する 。また一個団(連隊)2200人で、17個団の合計は3万7400人とする 。この編成で計算すると、陳頤県旅長の一個旅団7000人 では、一ケ師は二個旅団と一個連隊(砲兵、工兵、輜重兵など)の合計1万7500人となり、13個師団の合計が22万7500人になる。
森山康平は、中国軍の1個師団は5000人から1万で、日本軍の1個師団より小規模で員数もバラバラのケースが多かったとしている 。
栄維木は、編成師団13個と連隊15個の総兵力は計15万 とした。
経過
南京進撃
- 1937年(昭和12年)
- 11月7日
- 臨参命第百三十八号「中支那方面軍」(第10軍と上海派遣軍を隷下に置く)編合(戦闘序列ではない)の下令 が出され、臨命600号により作戦地域は「蘇州・嘉興ヲ連ネル線以東」に制限された。
- 11月9日
- 上海戦線の中国軍は退却を開始した。
- 11月10日
- 11月11日
- 南京追撃戦が発起した 。
- 11月13日
- 16師団、白茆口に上陸し、同地を占領 。歩兵30旅団を佐々木支隊とし、揚子江岸に上陸、敵の退路を遮断した 。
- 11月15日
- 日本軍第10軍は「独断追撃」を敢行し、南京進撃を開始し、松井大将も容認した 。
- 11月16日
- 中国、第一次防衛会議で劉斐作戰組長は、12〜18師団を南京に置き主力は撤退することを提案した。南京無防備都市宣言を建議していた白崇禧もこれに賛成し、何応欽、徐永昌も賛成した。しかし第二次会議では李宗仁は南京は孤絶しており守備は困難で放棄を建議した。ドイツ軍事顧問団アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンは不必要な犠牲であると放棄に賛成した。しかし唐生智は南京は死守すると主張したため、何応欽は唐個人の責任にしてはどうかと発言し、蔣介石もそれを認め、南京を1年3ヶ月固守することになった 。
- 11月19日
- 中支那方面軍は無錫・湖州の攻撃を準備した。
- 11月20日
- 皇居内に大本営設置。参謀本部に第十軍より南京追撃命令の報が届き、これに対して中支那方面軍参謀長に臨命600号の指示範囲を逸脱すると打電した。
- 中国国民政府は重慶への遷都を宣言した 。この日の朝、波止場の下関は船を待つ人の山であった 。蔣介石は唐生智を南京衛戍司令官に任命した。
- 11月21日
- 日本陸軍参謀本部第一部第二課より対支那中央政権方策提示。現下時局解決のため現状に於ては尚中央政権をして翻意我に提携せしめ全支の問題を統一処理するの方針を堅持す。(蔣政権の)面子を保持して講和に移行する如く我諸般の措置を講ずるを要するものとす。
- 蔣介石は日記に「老人学者、軍事敗北、将軍は落胆し和平を望む、革命精神の欠落。日本と戦争している理由も分からない」と書いた 。
- 11月22日
- 中支那方面軍が「南京攻略の必要性」を上申した。
- 11月23日
- 日本軍が無錫にいたり、中国では南京防衛線が突破された 。
- 11月24日
- 第1回大本営御前会議で中支那方面軍の作戦地域の制限が解除される。ただし多田駿参謀次長より南京方面への進撃はしないよう打電された。
- 11月25日
- 独立軽装甲車第二中隊は激戦の末、湖州に入城したが、市内はすでに掠奪されていた 。16師団歩兵19旅団は無錫を突破したが、中国軍による掠奪は凄まじいものであったと犬飼総一朗同旅団司令部通信班長は述べている 。
- 11月26日
- 唐生智が南京守衛部隊司令長官(防衛司令長官)に任命され、編成師団13個と連隊15個計15万の兵力を指揮下においた 。午後2時30分、16師団は無錫の占領を完了した 。
- 11月27日
- 蔣介石は南京城防工事を巡視した。
- 11月28日
- 11月29日
- 16師団歩兵19旅団は常州へ進出したが、ここでも中国軍による掠奪は凄まじいものであった 。
- 12月1日
- 大本営は大陸命第七号を発令し中支那方面軍戦闘序列を編成、大陸命第8号「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」を発令し南京攻略を命令した 。1日夜間、兵站自動車の亀谷部隊が下関を前進中、敗残兵400名に襲撃され、小隊長以下10名戦死、10数名負傷、自動車24輌が焼かれた 。
- 12月3日
- 日本の上海派遣軍と第10軍計10万人余は、飛行機、戦車と海軍艦隊の援護で、兵力を三つのルートに分けて南京包囲作戦計画を実施した 。
- 南京市内の水道が故障し、数日前より下関には常に3万〜5万の難民、退却軍であふれた 。
- 12月4日
- 松井方面軍司令官は、南京郊外の陣地奪取を決定した 。
- 12月5日
- 二ヶ月後にソ連が中国支援のために軍を派遣することを決定したと中国側に伝えた 。
- 南京安全区国際委員会のジョン・ラーベは、安全区から中国兵が引き上げるなら攻撃しないとの日本からの回答を得たので、マイナー・シール・ベイツ、シュペアリングと唐司令長官に中国兵撤退を要請したが「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」と唐は回答した 。ラーベは日記で「そんなばかなことがあるか」と唐将軍への不満を日記に記し、またドイツ大使館書記官ローゼンも中国軍が安全区のなかに隠れていることに怒っていると書いている 。
- 12月6日(月曜)
- 句容陥落。そこから日本軍は三方向から進撃し、句容から孟塘を通過し、北の部隊が東流鎮を攻撃。深水から別部隊が秣陵関を攻撃。天王寺からの主力縦隊は淳化鎮へ進撃した 。日本軍、浦口を空襲、死傷者300余 。
蔣介石ら中国首脳部の南京脱出と日本軍南京城攻略要領(12月7日)
- 1937年12月7日(火曜)
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- 夜明け直前、総統蔣介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦する大型単葉機で南京を脱出した 。またファルケンハウゼンらドイツ軍事顧問団や、南京市長ら政府高官もすべて一両日のうちに脱出した 。中国軍は防衛司令長官唐生智を残して中国政府高官が南京を脱出した為、無政府状態となり市民は混乱状態に陥り、安全区(難民区)に避難した 。中国軍は撤退する際に、日本軍に利用されないために多くの建物を焼き払う清野作戦を実施した 。ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は「湯山と南京の間、公路沿いにだいたい一マイルおきに堡塁が設けられている。首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。 ある谷では一村が丸々焼けていた。木々や竹林は切り倒され、竹の切り株は日本軍歩兵を妨害するべく鋭い刃物状にされた」と報道 。中国軍の南京周辺の焼き払いによって焼け出された市民が難民となって城内に流入し、食料難と暴動が市内で発生し、中国軍は治安維持と称して漢奸として少しでも怪しいものは手当たり次第に100名が銃殺された 。なお11月までの漢奸狩りで嫌疑をかけられた市民2000名、12月初旬には連日殺害された 。
國民軍軍事委員會第一軍令部徐永昌は下関碼頭一帯で渡河待機避難民は3日も待っているが、まだ渡れぬ者があると日記に書いた 。
- 12月8日(水曜)
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- 日本軍は烏龍山、幕府山、紫禁山、雨花台に迫り、南京城を包囲した 。
- 上海派遣軍16師団は湯水鎮・淳化鎮に進出、天谷支隊(第11師団の歩兵第10旅団を基幹とする)は鎮江砲台を占領した 。中国軍は鎮江から退却する時、焼き払いに熱中した 。
- 第9師団は淳化鎮を突破し、夜間追撃 。23時頃には馬鞍山陣地を突破した 。
- 第6師団は114師団左翼に進出した 。
- 中国軍は市民の暴動を恐れて少しでも怪しいところがあれば銃殺し、処刑されたものは100名を超えたと中国紙が報じた 。N.Y.Timesのダーディン記者は、中山陵園の中国高官邸宅、半径一〇マイル以内の建物や障害物、中山門外・中山陵東南の谷全体、中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村が中国軍によって焼かれたと報じた 。
総攻撃
- 12月9日(木曜)
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- 午後、中国軍は南京市内の銃撃の邪魔になるものや日本軍に役立つ物を取り除くために放火し、北西以外の方角から煙がのぼった(ヴォートリン日記) 。マクダニエル特派員は中国兵が灯油を家にかけて火をつけている所を目撃した 。焼け出された人が城内に避難した 。ダーディン記者は、中国軍は防衛作業として城内の建物の全面的焼却作戦を開始し、南門近くの住民を安全区に追い立て、地区がまるごと燃やされ、同様に下関駅近くの新村も焼却され、湯山の軍事施設、政府高官の宏壮な邸宅も放火されたと報道した 。南京は北部と東部が火に囲まれた 。
- 夜、淳化鎮の日本軍は、スパイから守備兵交代があると教えられた大校場軍事飛行場(光華門側)を襲撃し占領したが、中国軍が反撃、便衣兵が大校場の兵舎に放火し、炎の中で猛反撃に遭った 。
- アメリカ大使館のアチソンらは下関からボートに乗り、アメリカ砲艦パナイ号に乗船した 。
- 唐生智は「各部隊が保有しているすべての船は、これを本部運輸司令部に移管し、司令部が責任を持って保有する。第七十八軍長宋希濂は長江沿岸警備を担当し、他の部隊将兵などの勝手な乗船、渡河を厳禁する。この命令に背く者があれば即刻逮捕し厳罰に処する。」との命令を下した 。
- 12月10日(金曜)
- 12月11日
- 12月12日(日曜)