ダウンフォール作戦
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ダウンフォール作戦 | |
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ダウンフォール作戦の全体図 |
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戦争:太平洋戦争/第二次世界大戦 | |
年月日:1945年11月(予定) | |
場所:日本本土及び周辺島嶼、海域 | |
結果:日本の降伏により中止。 | |
交戦勢力 | |
日本側 | 連合国 |
指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
正規軍4,335,500人[1] 国民義勇隊28,000,000人以上[2] ・第1総軍(東日本) ・第2総軍(西日本) ・第5方面軍(北海道) ・関東軍 (満州) ・海軍総隊 ・航空総軍 ・特設警備隊 ・国民義勇隊 ・満州国軍 ・航空機17,900機(うち可動機10,700機)[3] |
米軍 1,938,346人以上[4][5] 英軍 20万人以上[6] ・戦艦24隻以上 ・航空母艦60隻以上 ・駆逐艦450隻以上 ・補助艦艇3,500隻以上 ・航空機6,000機以上 ・原子爆弾の随時投下 ・生物化学兵器の常時使用 |
損害 | |
中止のため無し | 中止のため無し |
ダウンフォール作戦(ダウンフォールさくせん、英語: Operation Downfall)は、太平洋戦争時にアメリカ軍やイギリス軍、ソ連軍をはじめとする連合国軍による日本本土上陸計画の作戦名である。
概要
ダウンフォール作戦は、1945年11月実施を前提に計画された「オリンピック作戦」と、1946年春に実施を前提に計画された「コロネット作戦」に分かれており、オリンピック作戦では九州を占領し、コロネット作戦では関東平野の占領を目的としていた。仮にこの作戦が実行されていたなら、史上最大の水陸両用作戦となった[7]。ダウンフォールは「破滅、滅亡」、オリンピックは「近代オリンピック」、コロネットは「コロネット」(王冠の一種)に因んでいる。
アメリカの作戦計画
作戦構想
アメリカによる日本降伏に向けた予備計画は、ガダルカナル島の戦いが開始された1942年8月に既に協議が始まっており、1943年4月にはアメリカ統合参謀本部に「日本の無条件降伏を貫徹するには、日本本土侵攻が必要になるかもしれない」とする報告書が作成されている。しかしこの時点では、アメリカ陸海軍の代表者で構成された米国統合戦争計画委員会(JWPC)は日本本土侵攻は不可避という結論は出さず、その「JWPC15」という計画書において対日戦争を第5段階作戦とし、最後はアメリカ軍が海軍力で日本を封鎖し、本土を意のままに爆撃できる飛行基地を手に入れたときに戦争は終結できるとまとめている[8]。しかし、「JWPC15」に対しては異論も多く、1943年10月25日にはアメリカとイギリスの計画策定チームが1946年夏に北海道に進攻、続いて同年秋には東京を攻略すべきと提言している。この提言についても異論は多く活発な議論が行われ、1943年11月のカイロ会談でも協議されたが、合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング元帥など、日本本土に進攻するのであれば北海道よりは九州を先に攻略した方が合理的であるという意見が主流を占めるようになる[9]。
このように日本本土侵攻は戦争終結の選択肢のひとつに過ぎなかったが、マリアナ沖海戦とサイパンの戦いにより戦争終結への道筋が見えてくると、1944年7月11日ジョージ・マーシャルアメリカ陸軍参謀総長は日本本土侵攻を今後の戦争遂行における作戦のひとつとして認可した。その計画書となる「JCS-924」においては以下の様に定められている[10]。
- 日本の本州侵攻作戦の準備として戦略爆撃の強化とシーレーンを遮断するため、小笠原諸島、沖縄、中国南東沿岸部に侵攻する
- 日本の防衛力の漸減と前進基地確保のため九州に侵攻する
- 九州からの支援で本州の関東平野に侵攻し日本の心臓部を粉砕して無条件降伏に追い込む。
また、この計画書においては、中国大陸の日本軍が本土防衛の増援とならないように、九州侵攻と同時にソ連が対日参戦するのが望ましいとも述べている[10]。
第2回ケベック会談においてイギリス首相ウィンストン・チャーチルは日本本土侵攻作戦を承認し[10]、これまでアメリカ軍に任せきりであった太平洋戦線でのイギリス軍の貢献拡大についても協議されたが、ヨーロッパから大量の部隊を太平洋に輸送するだけの船舶はイギリスにはなく、またドイツとの戦争で国力が疲弊していたイギリスははるか遠くの日本本土の自国の部隊に補給物資を供給するのは困難であって、所詮はアメリカ頼りであった。また、イギリス軍が同じ英連邦のオーストラリア軍、ニュージーランド軍、インド軍の参加も申し出たが、陸軍の総司令官に任じられていたダグラス・マッカーサー元帥は「軍内部で同一の言語が必要とされるこの複雑な作戦では、インド人の部隊を使用するという方法の妥当性には疑問がある」「イギリス軍はアングロ・サクソン人でなければならない」と言ってインド軍の参加を拒否した。結局、英連邦軍の地上部隊の参加はイギリス、カナダ、オーストラリアの各1個師団の計3個師団の支援要員を含む75,000人に限られ、参加時期も関東平野侵攻の後期からとされた[11]。
1945年2月のヤルタ会談直前に、フランクリン・ルーズベルト大統領とチャーチルがマルタ島で協議し、1945年9月にヨーロッパの連合軍部隊の1部を太平洋に移動させると同時に九州侵攻を開始、1945年12月に本州に侵攻するといったタイムテーブルがチャーチルに提示された。そしてヤルタ会談ではルーズベルトがソ連のヨシフ・スターリン書記長に、日本本土侵攻作戦の陽動としてソ連対日参戦を促して、いわゆる「極東密約」(ヤルタの密約)が交わされた[10]。3月29日には、これまでの連合軍内の一連の合意事項や戦況の推移も含める形で統合参謀長会議が「対日攻撃戦力最終計画」を作成し、日本本土侵攻作戦全体を「ダウンフォール作戦」、九州侵攻作戦を「オリンピック作戦」、関東侵攻作戦を「コロネット作戦」と命名した[12]。アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルはマッカーサーに「コロネットは日本にとどめを刺す作戦となるが、それはオリンピックの延長として実施される運びになろう」「ヨーロッパの戦争が1945年7月までに終わるという仮定に基づけば、オリンピック作戦の開始時期は12月1日、コロネット作戦の開始時期は1946年3月1日を目標に、計画を作成することとなる」とタイムスケジュールを説明している[13]。
しかし、ドイツの敗戦が予想より早まると、オリンピック作戦も前倒しされ、5月25日に発令されたオリンピック作戦指令においては、Xデイと名付けられた九州上陸は1945年11月1日朝6時とされた[14]。投入される兵力は、アメリカ軍だけでもオリンピック作戦では上陸部隊574,730人、支援要員や航空部隊も含めると766,700人[15]、コロネット作戦では1,171,646人[16]となるが、間接的に関与する人数も含めると500万名以上に上るとみられていた。また英連邦軍も地上部隊の他に海空軍や支援要員を含めると約20万名が投入され、アメリカと同様に間接的に関与する人数を含めると100万人以上となる予定であり、第二次世界大戦で最大規模の軍事作戦となる予定であった[17]。
化学兵器・生物兵器の使用計画
第一次世界大戦で毒ガス戦を経験したアメリカ軍は戦後も化学兵器の研究と生産を継続していた。しかし、化学兵器に充てられた予算は少なく、1941年時点では500トンの備蓄しかなかったが、これは第一次世界大戦でアメリカ軍が1日に使用した量にも満たないものであった[18]。太平洋戦争が開戦すると、化学兵器の予算は30倍に増やされ、エッジウッド陸軍兵器工廠を中心として大量の毒ガスが生産された。生産された毒ガスはアメリカ軍が第一次世界大戦で使用したマスタードガス・ホスゲンが中心となったが、それを充填する化学弾薬も驚異的な速度で生産されて、1945年までには550万発の毒ガス砲弾、100万発の毒ガス爆弾、10万以上の航空機による毒ガス散布タンクが生産されていた[19]。また生物兵器の生産と研究も行われた。アメリカ軍がエッジウッド陸軍兵器工廠に生物兵器研究部隊「医療研究師団」を立ち上げたのは1941年8月であったが、これはドイツ軍と日本軍が生物兵器の研究を進めているという情報からその対抗策として設立されたものであった。生物兵器を製造するため、インディアナ州・テレホートにヴィゴ軍需工場が建設された。ヴィゴでは主に炭疽菌が製造されたが、月産100トンもの細菌が培養されて100万発の炭疽菌爆弾が生産される計画であった[20]。
日本軍に対する化学兵器の使用が本格的に検討されるようになったのは、1943年11月のタラワの戦いでアメリカ軍海兵隊が多大な損害を被ってからであった。陸軍化学戦担当の責任者ウィリアム・ポーター少将は「毒ガスを適正に使用すれば、太平洋戦争を早期に終結させ、多くのアメリカ人の損失を防げるであろう」と積極的な化学兵器の使用を提案している。アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルも「我々が即座に使え、アメリカ人の生命の損失が間違いなく低減され、物理的に戦争終結を早めるもので、我々がこれまで使用していない唯一の兵器は毒ガスである」とも述べていた[21]。やがて、日本本土空襲が開始されると、アメリカ軍は、東京市に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を初めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガス・ホスゲンなどが候補に挙がっていた[22]。また、アメリカ軍は日本の農産物に対する有毒兵器の使用も計画していた。1942年にメリーランド州ベルツビルにあるアメリカ合衆国農務省研究本部でアメリカ陸軍の要請により日本の特定の農産物を枯れ死にさせる生物兵器となる細菌の研究が開始された。しかし、日本の主要な農産物である米やサツマイモなどは細菌に対して極めて抵抗力が強いことが判明したので、細菌ではなく化学物質の散布を行うこととなり、実際に日本の耕作地帯にB-29で原油と廃油を散布したが効果はなかった。さらに検討が進められて、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸を農作物の灌漑用水に散布する計画も進められた[23]。
それでも、日中戦争で生物化学兵器を使用した日本軍がアメリカ軍相手には生物化学兵器を使用しなかったので、アメリカ軍も使用することはなかった。フランクリン・ルーズベルト大統領に強い影響力を有したウィリアム・リーヒ合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長 (Chief of Staff to the Commander in Chief, U.S. Army and Navy, the President of the United States) が「化学兵器や生物兵器の使用はキリスト教の倫理にも、一般に認められている戦争のあらゆる法律に背いていることになり、また我々が使用すれば敵も使用する」と主張しており、ルーズベルトも「日本軍がこの種の非人道的な戦争(中国軍に化学兵器を使用したこと)を続けるなら、アメリカ軍は毒ガスで報復するだろう」と警告するなど、アメリカ軍の使用方針はあくまでも日本軍が使用した場合の報復的なものに限っていたが[24]、硫黄島の戦いや沖縄戦でアメリカ軍が甚大な損害を被ると、きたるダウンフォール作戦に向けてアメリカ軍の損害を減らすためとして、積極的な生物化学兵器の使用の主張が強まった。沖縄戦でアメリカ陸軍第10軍を指揮したジョセフ・スティルウェル中将も、「毒ガスの使用が考慮に入れられるべきです。攻撃を軍事目標に限定すれば、民間人への使用という不名誉は回避できます」と主張していた[25]。アメリカ統合参謀本部が、生物化学兵器の使用を世論に認めさせるため、マスコミと協力して世論づくりをしていたことを記録した極秘資料が情報公開により明らかになっている[26]。当局の世論工作もあって、シカゴ・トリビューンは「彼ら(日本軍)をガスで片付けろ」という社説を紙上に掲載したが、「毒ガスを非人道的とする非難は誤りでもあるし、的外れでもある」「ガスの使用は数多くのアメリカ国民の命を救うと同時に、日本人の命もある程度は救う可能性がある」などと、アメリカ国民に生物化学兵器使用の罪悪感を軽減させるような主張をしていた[27]。
アメリカ軍はオリンピック作戦準備として、オーストラリアとハワイに生物化学兵器を貯蔵する大きな倉庫を大量に建設し、太平洋上の島々にも小規模な貯蔵施設が設置した。やがてルソン島と沖縄を攻略したアメリカ軍は、生物化学兵器7,500トンをルソン島に、16,000トンを沖縄に貯蔵する計画を立てた。そしてオリンピック作戦が開始されると、8,500トンの生物化学兵器を積載した輸送艦をマニラ湾に待機させて、いつでも前線に送り込めるようにする予定であった[28]。
オリンピック作戦
オリンピック作戦は九州南部への上陸作戦であり、目的は関東上陸作戦であるコロネット作戦のための飛行場確保であった。作戦予定日は「Xデー」と呼称され、1945年11月1日が予定されていた。なお、この日程は日本軍参謀本部米英課の堀栄三少佐に完全に読まれていたことが明らかとなり、後に機密漏洩を疑う騒動となった(堀栄三著作参照)。日本側は航空機を東北地方へ集結させていたが、アメリカもこれを察知しており、8月9、10日にかけて爆撃を実施した[29]。また大湊空襲や釜石艦砲射撃により艦艇や地上の施設も破壊している。
海上部隊は空前の規模であり、アメリカ軍とイギリス軍、オーストラリア軍とニュージーランド軍、カナダ軍、南アフリカ軍からなる空母42隻を始め、戦艦24隻、400隻以上の駆逐艦が投入される予定であった。陸上部隊は14個師団の参加が予定されていた。これらの部隊は占領した沖縄を経由して投入される。
事前攻撃として、アメリカ軍とイギリス軍により種子島、屋久島、甑列島などの島嶼を、日本上陸5日前に占領することも検討された。これは、沖縄戦の時と同じく、本土上陸海岸の近傍に良好な泊地を確保することが目的である。この泊地は、輸送艦やダメージを受けた艦の休息場所に使われる。
また、九州主要戦略目標地域に対して、マスタードガスを主体とする毒ガス攻撃も検討されていた。
上陸部隊はアメリカ第6軍であり、隷下の3個軍団がそれぞれ宮崎、大隅半島、薩摩半島に上陸することとなっていた。これは日本軍の3倍以上の兵力になると、アメリカ軍では見積もっていた。大隅半島には日本軍の防御施設があったものの、宮崎や薩摩半島は手薄であったということも判断材料となった。
アメリカ軍の動員される兵力は、25万2千人の歩兵と8万7千人の海兵隊から成る16個師団であり、ヨーロッパ戦線の部隊は予定されていない。上陸作戦を支援するため、アメリカ海軍はチェスター・ニミッツ提督に第3艦隊と第5艦隊を与えたが、これは太平洋で利用できるすべての艦隊に等しかった(それまで第3艦隊と第5艦隊が同一の作戦に参加することはなかった)。
第3艦隊(ウイリアム・ハルゼー提督)は、17隻の空母と8隻の高速戦艦によって機動攻撃を担当した。第5艦隊(レイモンド・スプルーアンス提督)は、10隻の空母、16隻の支援空母で上陸作戦への近接支援を行う予定であった。
イギリス連邦軍は、オーストラリア軍やニュージーランド軍 カナダ軍 南アフリカ軍のみならず、イギリス領インド帝国やビルマに展開するインド人兵士まで動員することを計画しており、同じく地上兵力だけで万単位の兵力が動員される見込みであった。またイギリス海軍もオーストラリア海軍とニュージーランド海軍、カナダ海軍、南アフリカ海軍を含めて、インド洋から南太平洋、極東方面に展開していた巡洋艦や空母からなる艦隊を派遣することとなった。
ドイツが1945年5月に降伏したこともあり、1945年の中期までにアメリカ軍、イギリス軍、フランス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍、南アフリカ軍を中心とした連合軍は1,200機の戦闘機が投入可能であり、その数は月を追うごとに増えていた。オリンピック作戦が開始されるまでにアメリカ海軍は22隻の空母、イギリス海軍は10隻の空母を用意する予定であり、計1,914機の戦闘機が運用可能で、上陸用舟艇や輸送船を含めた艦船の数は3,000隻に達した。
航空基地の確保が目的のため、南部九州のみの占領で作戦は終了し、北部九州や朝鮮半島、四国への侵攻は行わないことになっていた。この基地は、翌年3月のコロネット作戦のための前進基地であり、72万人の兵員と3,000機が収納できる巨大基地となるはずだった。この基地からは、長距離爆撃機のみならず中距離爆撃機も関東平野を爆撃することができた。 またアメリカ軍は原爆の戦術支援を検討しており九州南部への上陸前に1発、援軍に来る日本軍にもう1発、さらに山を越えて来る日本軍に3発目を投下する計画だった。
欺瞞作戦
オリンピック作戦を支援するため、兵力誘導する目的で「パステル作戦 (Pastel)」が計画されていた。パステル作戦は、連合国軍の作戦目標が日本が占領下に置いていた中華民国上海や高知県に上陸するものと見せかけ、日本軍の兵力をそちらへ誘導させるものであった。
また、直前の陽動作戦として、10月23日~30日に、アメリカ軍第9軍団(8万人)が高知県沖でもって、陽動上陸行動を行うことや、イギリス本土の爆撃機軍団やイギリス領インド帝国から引き抜かれた対日戦用に航続距離を伸ばしたアブロ・ランカスターが連邦爆撃機派遣団である「タイガー・フォース」の主力爆撃機として沖縄から出撃する予定であった。
一方中国軍も10月の後半に中国大陸での全面攻勢を計画していた
コロネット作戦
同作戦は後に最終調整が行われず複数の作戦計画が存在していた。 各案に共通するのはオリンピック作戦で得られた九州南部の航空基地を利用し、関東地方へ上陸する点であり、上陸予定日はYデーと呼ばれ、1946年3月1日が予定されていた。コロネット作戦は洋上予備も含めると25個師団が参加する作戦であり、対日作戦で最大の上陸作戦となる予定であった。上陸地点は湘南海岸(相模川沿いを中心に北進し、現相模原市・町田市域辺りより進路を東京都区部へ進行する計画予定)と九十九里浜から鹿島灘沿岸にかけての砂浜海岸が設定され、首都を挟撃することが予定されていた。相模湾には第8軍、九十九里浜には第1軍が割り当てられていた。この内主力は相模湾に上陸する第8軍でYデイ初日に投入される兵力は後方支援要員も含めて301,104人と、九十九里浜に上陸する第1軍の241,326人を上回っていた[30]。
アメリカ軍が主力を相模湾に置いたのは東京までの距離が近いというほか、九十九里浜は海岸線が長く一見は上陸に適しているように見えるが、太平洋の外洋に面しているのに荒波を緩衝するような地形が殆どなく、普段でも波が高いため上陸には困難が伴うという判断がされたためであった。これは、先の硫黄島の戦いの際にの二ツ根浜上陸の経験から、環礁などで外洋の荒波が緩和されない海岸線の上陸は非常に困難を伴うという実体験に基づくものであった。また上陸に成功しても、東京に至るまでには江戸川と荒川を渡河しなければならず、特に先にあたる江戸川においては空襲である程度焼失したとはいえ東京外縁の住宅地が広がっており、上陸軍は渡河しながらの市街戦を戦わねばならず、困難な事態に直面する可能性が大きいというのも、相模湾を主戦場にするという判断に繋がった[30]。また相模湾近辺には厚木基地などの重要な軍事拠点が多数存在していることと、また交通の要衝で、日本西部からの増援の経路になる可能性が高く、日本軍の防備が最も堅固であるはずという分析もあって相模湾が重視されることとなった[31]。
しかし、アメリカ軍はたとえ東京を占領したとしても、ドイツ軍がベルリンの戦いで崩壊したようにはいかないと考えており、戦争の終着点を見いだせていなかった[32]。また、アメリカ軍内の事情も戦争の見通しを暗くさせており、アメリカ軍は「ポイント制度」という制度によって、一定期間戦場にいて戦功を積み重ねれば帰国して軍を除隊できるという制度があったが、ヨーロッパ戦線や太平洋戦線に従軍している兵士の多くがその「ポイント」が規定に達しており、帰国して除隊できる権利を取得していた。しかし、アメリカ軍はその戦場に滞在しなければいけない期間を後出しで少しづつ延長し容易に帰国を許していなかったが、それも限界に達しており順次除隊を容認せざるを得なくなっていた。ある師団においては、コロネット作戦が開始される頃には25,000人の兵員のうちで40%以上の11,600人の将兵が除隊する予定であったが、除隊する将兵の殆どが実戦経験が深い熟練兵や下士官であって、その補充は訓練が十分でない新兵で行われる予定であった。従って関東では実戦経験のない大量の新兵が戦うという事態が予想されており、不慣れな戦闘で多大な損害が見込まれていた[33]。
そのため、Yデーの3ヶ月前からイギリス軍とアメリカ軍による艦砲射撃と1,900機の航空機による空襲によって大規模な破壊を行なう計画であった。攻撃の中にはミサイルや、対独戦に投入されて間もない最新鋭のジェット戦闘機である「グロスター ミーティア」や、この頃には実戦配備が進んでいると予想された「ロッキードP-80シューティングスター」なども含まれていた[34]。 また従来のレシプロ機の完成形となる「F8Fベアキャット」や陸上でも太平洋戦線初の重戦車「M26パーシング」なども投入される計画であったが、これら通常兵器に加えて、新兵中心のアメリカ軍の死傷者を少しでも減少させる手段として、オリンピック作戦より大規模な化学兵器の使用も計画されていた。除隊する熟練兵に代わって関東に上陸する予定の新兵には「日本の洞窟要塞を掃討する」ための「毒ガスの攻撃的使用」の訓練が行われた。さらに日本本土に飛来する爆撃機の爆弾の75%を毒ガス爆弾にするという計画もあった。このアメリカ軍の方針について、前大統領のルーズベルトは「毒ガス使用は報復の場合に限る」と明言していたが、トルーマンはそれを否定し「毒ガスの攻撃的使用」を黙認していた[35]。さらに陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥はマンハッタン計画によって完成間近であった原子爆弾を戦術使用するつもりであり「不十分な装備しかしていない兵力でも、上陸部隊に恐るべき損失を引き起こせる。日本人は依然として狂暴であり、我が方には、彼らを一人残らず抹殺する必要があった。そこで、我々は考えた。原爆は防御としても上陸準備を整えるにしても最適な兵器ではないか」と述べている[36]。
指揮権問題
太平洋戦線は陸海空3軍の緊密な連携が必要となることから、連合国遠征軍最高司令官(Supreme Commander, Allied Expeditionary Force、略称:SCAEF)のドワイト・D・アイゼンハワー元帥が統括したヨーロッパ戦線と異なり、陸軍のマッカーサーが南西太平洋方面の連合軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官(Supreme Commander of Allied Forces in the Southwest Pacific Area 略称:SWPA)、海軍のチェスター・ニミッツ元帥が太平洋中央の連合軍を指揮するアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官(Commander in Chief, United States Pacific Fleet and Commander in Chief, Pacific Ocean Areas. 略称:CINCPAC-CINCPOA)の二元統括となっていた。そして日本本土は従来の作戦区域からすればニミッツの担当であったが、マッカーサーはこれを不満に思っており「我々は現在、人為的な区分境界線及び指揮機構によって、極めて不利な状況下にあるので、対日戦争の究極の成功は、もっとも重大な危機にある」という意見書をアメリカ陸軍参謀総長に送っている。マッカーサーの要望は、太平洋戦域の全陸上兵力を自分の指揮下とし、海軍をニミッツの指揮下とすることであった。このマッカーサーの要望は海軍からの抵抗もあったが、フランクリン・ルーズベルト大統領の政治的決断によって、ほぼマッカーサーの要望通り、西太平洋方面軍と太平洋方面軍を統合し、全陸軍(海兵隊を含む)をマッカーサー、全海軍をニミッツ、戦略爆撃軍をカーチス・ルメイ少将がそれぞれ指揮し、三者間で緊密に連携を取ると決まった[37]。
しかし1945年4月12日にルーズベルトが死去すると、マッカーサーは要望をエスカレートさせた。マッカーサーは海軍に対して日本本土進攻では海上援護任務のみを行い、マッカーサーに空陸全戦力の指揮権を与えるように要求してきた。当然、ジェームズ・フォレスタル海軍長官やニミッツは激しく抵抗した。マッカーサーは海軍の頑なな態度を見て「海軍が狙っているのは、戦争が終わったら陸軍に国内の防備をさせて、海軍が海外の良いところを独り占めする気だ」「海軍は陸軍の手を借りずに日本に勝とうとしている」などと疑っていた。結局、この問題はマッカーサーとニミッツが直接協議することとなって、マッカーサーはこの要求を取り下げた[38]。
ドイツが降伏し、敵がいなくなったヨーロッパ戦線の指揮官らはこぞってマッカーサーにラブコールを送り、ダウンフォール作戦の従軍を希望した。なかでもバルジの戦いなどで戦功を重ねていた第3軍司令官ジョージ・パットン大将などは「師団長に降格してもいいから作戦に参戦させてくれ」と申し出ている。しかし、彼らの上司であるアイゼンハワーと違い部下の活躍を好まなかったマッカーサーは、ヨーロッパ戦線の指揮官たちは階級が高くなりすぎているとパットンらの申し出を断り、第1軍司令官コートニー・ホッジス大将らごく一部を自分の指揮下に置くこととした[39]。ただし、部下を信頼して作戦を各軍団指揮官に一任していたアイゼンハワーと異なり、自分を軍事の天才と自負していたマッカーサーは作戦の細かいところまで介入していたため、ヨーロッパ戦線では軍団指揮官であった将軍らに「1個の部隊指揮官」としてきてほしいと告げていた。アイゼンハワーとウエストポイント陸軍士官学校の同期生で親友の第12軍集団司令官オマール・ブラッドレー大将も太平洋戦線での従軍を希望していたが、マッカーサーの「1個の部隊指揮官」条件発言を聞いたアイゼンハワーが激怒し、ブラッドレーは太平洋戦線行きを諦めざるを得なかった[40]。一方でマッカーサーも、アイゼンハワーへの対抗意識からか、太平洋戦線の自分の部下の指揮官たちがヨーロッパ戦線のアイゼンハワーの部下の指揮官よりは優秀であると匂わせる発言をしたり[41]、「ヨーロッパの戦略は愚かにも敵の最強のところに突っ込んでいった」「北アフリカ戦線に送られたアメリカ軍の戦力を自分に与えられていたら3ヶ月でフィリピンを奪還できた」などと現実を無視した批判を行うなど評価が辛辣で、うまくやっていけるかは疑問符がついていた[42]。
作戦準備
1945年に入るとオリンピック作戦の準備行動が開始され、上陸地点となった九州南部への爆撃が本格化した。沖縄に前進基地を確保したアメリカ極東航空軍は日本軍の飛行場を無力化し輸送網と都市を破壊しておくために、枕崎、宮崎、鹿児島など南九州の主要な都市を短期間で焼き払った[43]。とくに鹿児島県はオリンピック作戦の上陸地点として激しい爆撃の対象となり、単なる補給地、背後地、内地ではなくなり「戦場」と化した[44]。アメリカ軍の鹿児島市に対する攻撃は他の地方都市と比較にならない激しさで、8度にわたる空爆によって市街地の93%が消失し、死者3,329人負傷者4,633人の被害を出した[45]。 『鹿児島市戦災復興誌』では「沖縄戦が峠を越したあとは、南九州における日本空軍の迎撃、及び対空砲撃の機能はほとんど零の状況となり、完全な米空軍の制空圏下に入り、米軍機は自由に飛行、攻撃した。大牟田、熊本、鹿児島、都城などの小都市には照空隊の配備もなく、夜間の焼夷攻撃に対しては無策といってよかった」と苛烈な爆撃の様子が記述されている。これは、大本営が敵本土上陸部隊への全機特攻戦法への航空機確保を優先させて防空戦闘を局限する方針をとったことによるもので[46]、具体的な運用としては、損害が増大する敵小型機(戦闘機)への迎撃は原則抑制したため、B-29への戦闘機による迎撃はB-29に戦闘機の護衛がなく有利な状況の時に限る方針となり、戦闘機の護衛が増えた1945年6月以降は日本軍機の迎撃は極めて低調で、日本軍戦闘機からのB-29の損害は激減している[47]。また、鹿児島県の岩川基地(現曽於市)に配備されていた夜間戦闘機隊「芙蓉部隊」では、特に敵攻撃機の迎撃を制限されていなかったにも関わらず指揮官美濃部正少佐の方針で[48]、実際にはアメリカ軍に発見されていたのに[49]「敵に岩川基地を発見されないため」などという理由で迎撃を禁止するなど、一部の部隊ではアメリカ軍機迎撃に消極的な姿勢も見られるようになった[50]。
8月になると日本軍が本土決戦用に温存していた航空機を破壊するため約10日間の爆撃作戦が実施され、爆撃機や空母機動部隊の艦載機が全国各地の都市や飛行場、工場を爆撃した。しかし、巧みに隠された日本軍航空機に大きな損害はなく、終戦時においても日本軍の特攻機を含めた航空戦力は17,900機(うち可動機10,700機)であり、アメリカ軍も特攻による多大な損害を想定していた(詳細は#アメリカ海軍で後述)[51]。原爆の投下後も、空襲を含むオリンピック作戦の準備行動は、15日に戦闘中止命令が出る直前まで断続的に続けられた[52]。
作戦中止決定
知日派のアメリカ合衆国国務次官ジョセフ・グルーは、双方に甚大な損害をもたらすダウンフォール作戦には反対であり、「天皇制の容認を含む処遇を示せば、日本人は武器を置く」とトルーマンの説得を試みているが、トルーマンは一旦は軍の意見を取り上げて、オリンピック作戦を承認している[53]。グルーの意見は陸軍長官ヘンリー・スティムソンに引き継がれた。スティムソンは何度も日本を訪れたことがあり、そのときの記憶から「(日本本土は)硫黄島や沖縄で見られた最後の望みをかけた防御がやりやすく、戦車による機動戦はフィリピンやドイツより困難」との感想を抱いていたため、1945年7月にポツダム会談に向けて準備中のトルーマンに「我々が実際に侵攻を始めた場合は、ドイツよりさらに苛烈な最後の戦いを覚悟しなければならない。我々はドイツの場合より重大な損失を被ることは間違いないし、一層徹底的に日本を破壊する必要がある」として「日本の現皇室の下での合法的な君主制は排斥しない」という言葉を盛り込んだ「実質的に無条件降伏に等しい申し出を行い」「降伏のための一定の機会を与えてはどうか」と進言している[54]。
この頃になると、オリンピック計画作成時の日本軍戦力分析は過小評価であったことが判明しており[55]、損害の見積が上方修正されていた。(#被害予想) 特にドイツ軍との戦いの対比が論じられ、スティムソンの「ドイツ本土よりも戦車の運用が困難」「ドイツとの戦いよりも大損害を覚悟する必要がある」という意見の他にも[56]、ヨーロッパ戦線で連合軍と戦ったドイツ軍は、部隊が崩壊すると大量の兵士が降伏し残りは速やかに敗走するため、連合軍は先を争って急進撃し大勝利を得たのに対し、太平洋戦線で連合軍と戦った日本軍は、退却するにしてもじわじわと退き、さらにドイツ兵とは異なり日本兵はほとんど降伏することがなかったので、連合軍は延々と続く戦いを強いられることとなっていた[57]。そのため、太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の1日の兵員1,000名に対する平均死傷者は、ヨーロッパ戦域の3.5倍という高い水準となっていた[注釈 1][58]。
ヨーロッパ戦線のアメリカ陸軍(陸軍航空軍含む)は1944年6月~45年5月までに、135,576人の戦闘戦死者を含む586,628人もの死傷者を出したのに対して[59]、太平洋のアメリカ軍(海軍、海兵隊、陸海軍航空隊を含む)は1941年12月~45年8月までに111,914人の戦闘戦死者を含む426,000人から[60]、戦闘外原因を含めると死者だけでも196,265人もの甚大な人的損害を被っていた[61]。ことに大戦末期のヨーロッパ戦線の最大の激戦となったバルジの戦い(1944年12月16日 - 1945年1月25日)において[62]、アメリカ軍は戦死者8,607人から[63]19,000人、捕虜・行方不明者21,144人(うち捕虜が20,000人以上[64][65])に負傷者を加えた75,000人~[66]76,000人[67]~80,000人[68]という甚大な人的損失を被ったが、太平洋戦争の激戦地となった沖縄戦(1945年3月26日 - 9月7日)では、それに匹敵する、死者・行方不明者20,195人[69]、戦傷者 55,162人[70]、戦闘ストレス反応患者26,211人という莫大な損失を被っていた[71]。
バルジの戦いでは8個機甲師団と22個歩兵師団の計30個師団70万人のアメリカ陸軍[72]が、精鋭の武装親衛隊装甲師団を含む20個師団と予備5個師団の計25個師団40万人以上のドイツ軍大兵力を相手にしていたのに対し[73]、沖縄の日本軍はたった3個師団にも満たない陸軍50,000人、海軍3,000人の戦闘部隊と後方部隊20,000人に、沖縄現地召集兵を加えた[74]約11万6,400人の兵力で、装備、士気、練度、補給と、どの面から見ても、アメリカ軍史上最強の軍と評されていた[75]陸軍4個歩兵師団と3個海兵隊師団の計27万8000人、後方支援部隊も含めれば548,000人ものアメリカ軍地上部隊と戦った[76]。 沖縄戦での人的損失が日本の抵抗の激しさを示すものであれば、日本本土侵攻にどれほどの犠牲を伴うのかアメリカの指導部内に不安が蔓延することとなった[77]。
沖縄戦での日本軍の激しい抵抗はアメリカ軍に衝撃を与えており、歴史家ジョージ・ファイファーは、オーヴァーロード作戦におけるドイツ軍と比較して「前年の夏にノルマンディを防御した一部のドイツ軍部隊は、極めて多い死傷者にも関わらず、持ち堪え、逆襲すら行って、連合軍指揮官に強い感銘を与えた。しかし、ドイツ軍の兵器の多くは日本軍のものと違って、対抗する連合軍の兵器より優れていた。暗い見通しに関わらず、優れた戦術と忍耐で戦ったドイツ機甲師団も、沖縄で日本軍が示した離れ業には匹敵できなかった」「このような状況にくじけることなく、多くの死傷者が出るという悲劇にも耐える事ができたのが日本陸軍だけであったろう。驚くべきことは、組織や軍紀が低下せず、これほど長く保持されていたことである」と日本陸軍が夥しい損失にも関わらず、最後まで組織的な戦闘を継続したと評された[78]。
また、アメリカ国内では、オーヴァーロード作戦やバルジの戦いなどのヨーロッパ戦線の激戦は、アメリカ軍の活躍がでかでかと報道されてアメリカ国民は有頂天となっていたが、太平洋戦線においてはその苦戦ぶりと多大な人的損害がセンセーショナルに報じられてアメリカ国民に衝撃を与えている[79]。特に硫黄島の戦いにおける報道はアメリカ国内世論を沸騰させ、雑誌タイムの「硫黄島の名前はアメリカ史上、アメリカ独立戦争でのバレーフォージ、南北戦争でのゲティスバーグ、今次大戦でのタラワ島と並んで記されるであろう」という報道もあって[80]、アメリカ軍に対して批判が高まって、兵士の親からの批判の投書も殺到し、アメリカ合衆国海軍長官ジェームズ・フォレスタル自らが返信をせざるを得なくなるほどであった[81]。むろんヨーロッパ戦線も苦戦の連続でありその余りにも凄惨な現場から“ブラッディ・オマハ”と呼ばれたオマハビーチの戦いや、オマハ以上に血まみれと称され連合国から第一級の敗北[82]と呼ばれたヒュルトゲンの森の戦いなどは多くの犠牲が生じた。とくにアメリカ軍史上最大の戦死者をだしたノルマンディー上陸作戦では歩兵の85%が犠牲となり[83]、師団あたりの損耗率は絶滅戦争と呼ばれた同時期の独ソ戦よりも上だった[84]。ヨーロッパの大損害は太平洋戦争にも影響を与えた。バルジの戦いでは歩兵師団が大損害を受けた結果、アメリカ国内で訓練中の6個師団がヨーロッパ戦線に送られたが、そのうち2個師団は太平洋戦線に送られる予定であった師団であり、また、作戦での武器・弾薬の大量消費から、太平洋戦域への補給も一時的に停滞した。太平洋戦域での戦力不足が解消されるには時間を要し、1945年3月に開始された沖縄戦でアメリカ軍は死傷者最大75,753人と「バルジの戦い」に匹敵する大損害を被ったこともあって、日本本土侵攻作戦であるダウンフォール作戦の作戦計画を遅らせることとなった[85]。
これらの大きな損害と被害予測、国内世論がスティムソンら日本本土侵攻慎重派の発言力を後押しすることとなった。 トルーマンは「日本本土侵攻では、第2の沖縄が再現されないように望む」と述べ、統合参謀本部のオリンピック作戦にゴーサインを出した。一方で関東上陸作戦コロネットは保留となった。
やがてポツダムで会議に臨んだトルーマンの元にトリニティ実験の成功の報がもたらされた。陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥ら日本本土侵攻推進派は、原爆を日本本土侵攻作戦での戦術使用を考えていたが、スティムソンら慎重派は日本に最終的な決断を促す一つの手段とみており、慎重派、推進派ともに日本に対する原爆の使用を提唱した[86]。ポツダム宣言草案には、スティムソンらが提唱した「天皇制の保障」は明記されていなかったが、トルーマンは外交チャンネルを通じて口頭では天皇制の保障を匂わすことをスティムソンに約束、慎重派の進言通り、降伏を促す手段として原爆の使用を決定した[87]。日本政府がポツダム宣言をいったん“黙殺”したため、8月6日には広島市への原子爆弾投下、8月9日には長崎市への原子爆弾投下が行われ、またソ連の対日参戦もあって、トルーマンらの目論見通り、日本がポツダム宣言を受諾したため、ダウンフォール作戦は中止となった。
日本側の対応
日本軍は絶対国防圏の一角であったサイパン島がサイパン島の戦いによって陥落すると、連合軍の侵攻に備えて本土決戦の準備を開始した。しかし日本陸軍の総兵力400万人のうち、日本内地所在兵力は沖縄や小笠原諸島を含めても86万人に過ぎず、早急な戦力増強が求められた[88]。1944年7月時点で内地にあったのは一般の歩兵師団8個、戦車師団1個と高射砲師団に過ぎなかったが、大本営は本土決戦に必要な兵力は40個師団と22個の混成旅団と軍直轄の砲兵部隊など150万人と算定し、外地からの兵力の移送と、根こそぎ動員による新設師団の編成を進めていった[89]。しかし、陸軍省は国力の限界から4個師団の増員が限界と決定したばかりであり40個師団もの大動員に即応できる態勢になかった。大本営機密日誌では「12、3歳の少女に子供を産めといっているに等しい計画」と評されている。柴山陸軍次官が統帥部の要求に対して「一体、兵備は数が多いのがいいのか、少数でも充実したのがよいのか」と質問すると、宮崎周一参謀本部作戦部長は顔真っ赤にして「この場合は数だ。数を第一とする」と答えている。作戦次長秦彦三郎中将も「本土上陸はあらゆる手段を講じてでも、その第一波を撃砕するにある。もしこれに失敗すればその後の作戦は不可能である。あとのことは考えない。全軍を投入して敵第一波を完全撃砕することが最重要なのである」と述べ宮崎を擁護した。 戦力増強に加えて大本営は軍の組織の大幅な変更を行ったが、最も大きな変更点は本土防衛を主眼にして軍の命令系統を2つに分割したことである。東日本を第一総軍、西日本を第二総軍に振り分け、それぞれの司令部を市谷と広島においた。これは、それぞれ連合国軍の2つの作戦にも対応している。なお、第二総軍司令部は広島市への原子爆弾投下で壊滅したが、指揮下にある九州と四国の軍は健在で、戦闘に支障はなかった。
日本軍は連合国軍の侵攻方向に頭を悩ませていた。宮崎周一作戦部長は「敵の侵攻方向は戦局の推移に伴い修正する必要があるが、関東九州東海の順と概定できる」と発言している(実際は九州関東の順だった)。第二総軍は4月の演習で侵攻の可能性が最も高い地域を南九州としながらも、太平洋に面した四国南部も公算が大きいとし、上陸開始を1945年6月だと予測した。宮崎作戦部長は6月の第16方面軍視察の際にようやく連合軍の第一目標は南九州だとしたが北九州方面の脅威も捨てきれず、南九州への上陸は6月、北九州への上陸は7月だと予測した。陸軍参謀次長の河辺虎四郎も6月の御前会議で上陸開始予測を7月~8月とし、このタイムスケジュールにあわせるため関東の兵備を犠牲にした九州への緊急配送を始めた。 陸軍省の軍事課や参謀本部第2部第6課(米英担当)の堀栄三少佐は連合軍の上陸時期を秋とし、兵力規模、作戦構想を極めて正確に予測していたが、彼らの予測が前線部隊や上層部に共有されることはなかった。
夏季の侵攻が杞憂と判明すると日本軍は秋季の上陸を想定し計画をたて始めた。 第二総軍第十六方面軍の予想では11月1日に上陸を開始、上陸地点は九州では宮崎海岸・志布志湾・吹上浜を挙げ、これらに基づいて宮崎・大隅半島・屋久島・種子島を担当する第五十七軍に加え、第四十軍を新設し吹上浜付近を担当させる事とした。四国では第五十五軍を新設した。
根こそぎ動員によって、兵員こそ大幅に増強したものの装備の調達に苦慮していた。昭和天皇は1945年6月9日に中国大陸の視察から帰ってきた参謀総長梅津から「在満州と在中国の戦力はアメリカ陸軍師団に換算して4個師団程度の戦力しかなく、弾薬も近代戦であれば1会戦分ぐらいしかない」という報告を受け、この報告で昭和天皇は「日本内地の部隊は在満部隊より遙かに戦力が劣ると効いているのに、在満部隊がその程度の戦力であれば、統帥部のいう本土決戦など成らぬではないか」と認識した。1945年8月時点で日本には65個の師団が存在したが40個師団分の装備と30個師団分の弾薬しか存在しなかった[90]。日本陸軍は乏しい物資を集中するため九州方面に全弾薬の40%を与えており[91]、アメリカ軍主力が上陸すると予想されていた南九州東正面の部隊は2.45会戦分、西正面にも1.2会戦分の弾薬を蓄積していた。日本軍が1会戦以上の弾薬を保有して作戦に臨むことは少なく、南九州の弾薬量は日本軍としては潤沢であったと言える[92]。一方で九州方面の増強を優先した結果として他の方面に配備予定だった装備資源を使い果たすことになった[93]。とくに東京防衛を担う九十九里浜の陣地構築の遅れは政治的にも影響を与え、昭和天皇は「本土決戦本土決戦と云ふけれど一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、又決戦師団の武装すら不十分にて、之が充実は九月中旬以後となると云ふ。……いつも計画と実行とは伴わない。之でどうして戦争に勝つことが出来るのか」と語りポツダム宣言受諾の意向を示す大きな要因ともなった[94]。
日本軍の戦力配置
方面軍 | 軍管区 | 軍団数 | 師団数 |
---|---|---|---|
第11方面軍 | 東北軍管区(東北地方) | 1 | 6個歩兵師団 |
第12方面軍 | 東部軍管区(関東・甲信越地方) | 4 | 18個歩兵師団、2個戦車師団、1個高射師団 |
第13方面軍 | 東海軍管区(東海・北陸地方) | 1 | 6個歩兵師団、1個高射師団 |
第15方面軍 | 中部軍管区(関西・中国・四国地方) | 2 | 8個歩兵師団、1個高射師団 |
第16方面軍 | 西部軍管区(九州地方) | 3 | 14個歩兵師団、1個高射師団 |
兵器名 | 総数 |
---|---|
火砲 (口径40mm以下) | 375,141 |
火砲 (口径40–50mm) | 2,606 |
火砲 (口径60–79mm) | 4,216 |
火砲 (口径80–99mm) | 4,693 |
火砲 (口径100mm以上) | 4,742 |
火砲 (その他) | 38,262 |
重機関銃と軽機関銃 | 178,097–186,680 |
拳銃 | 247,125 |
小銃と自動小銃 | 2,232,505–2,468,665 |
その他小火器 | 15,461 |
装甲車 | 98 |
豆戦車 | 633 |
戦車 | 5,286 |
※接収された兵器のみであり、その前に処分や散逸されたものは含まれない。
場所 | 戦闘機 | 爆撃機 | 偵察機 | 輸送機 | 練習機 | その他 | 合計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
本州 | 2,906 | 1,259 | 707 | 1,626 | 2,180 | 284 | 8,962 |
四国 | 199 | 31 | 13 | 214 | 142 | 32 | 631 |
九州 | 668 | 187 | 153 | 923 | 630 | 76 | 2,637 |
北海道 | 101 | 35 | 131 | 151 | 36 | 0 | 454 |
日本軍の戦略
対上陸部隊
日本軍は対上陸部隊への戦術としてタラワの戦いなど、上陸部隊の弱点である海上もしくは水際付近にいるときに戦力を集中して叩くという「水際配置・水際撃滅主義」を採用していた。タラワ島ではこの方針によってアメリカ軍海兵隊に大打撃を与えたが、サイパンの戦いにおいては、想定以上の激しい艦砲射撃に加え、日本軍の陣地構築が不十分であったことから、水際陣地の大部分が撃破され、その後の反撃も戦力の逐次投入という失敗を侵して、短期間のうちに大きな損害を被ることとなった。このサイパン島の敗戦は日本軍に大きな衝撃を与えて、のちの島嶼防衛の方針を大きく変更させた。その後に作成されたのが1944年8月19日に参謀総長名で示達された「島嶼守備要領」であり、この要領によって日本軍の対上陸防衛は、従来の「水際配置・水際撃滅主義」から、海岸線から後退した要地に堅固な陣地を構築し、上陸軍を引き込んでから叩くという「後退配備・沿岸撃滅主義」へと大きく変更されることとなった[96][97]。
本土決戦についても、この方針は基本的に維持されて、1945年3月に示達された「対上陸作戦に関する統帥の参考書」や「国土築城実施要領」において、陣地を海岸線に構築するのではなく、後退した要地に可能な限り堅固に設置し、その陣地に籠る部隊が激しい抵抗で可能な限り上陸軍の橋頭保構築を妨害し、そこを機動力を持った部隊が攻撃をかけて上陸軍を殲滅するという「後退配備・沿岸撃滅主義」が採用された[98]。 その作戦方針に基づき第一次兵備で陣地で防衛戦を戦う沿岸配備師団(師団名100番台の師団)と第二次兵備で戦車師団や常備師団と反撃を行う機動打撃師団(師団名200番台の師団)が根こそぎ動員で編成された。
歩兵連隊(守備任務) | 歩兵連隊(反撃任務) | 師団砲兵隊 | 師団速射砲 | |
---|---|---|---|---|
兵員 | 3,850 | 3,207 | ||
重擲弾筒 | 158 | 111 | ||
軽機関銃 | 81 | 54 | ||
重機関銃 | 54 | 24 | ||
短機関銃 | 72 | 12 | ||
歩兵砲 | 18 | |||
速射砲 | 4 | 12 | ||
山砲 | 8 | |||
野砲 | 10 | |||
噴進砲 | 36 | |||
迫撃砲 | 12 |
※歩兵連隊(守備任務)は3個連隊、歩兵連隊(反撃任務)と併せて1個師団を歩兵4個連隊で編成
歩兵連隊 | 迫撃連隊 | 砲兵連隊 | 師団速射砲 | 師団機関砲隊 | |
---|---|---|---|---|---|
兵員 | 4,368 | ||||
重擲弾筒 | 112 | ||||
軽機関銃 | 108 | ||||
重機関銃 | 48 | ||||
短機関銃 | 96 | ||||
速射砲 | 12 | ||||
山砲 | 4 | ||||
野砲 | 60 | ||||
迫撃砲 | 16 | 36 | |||
高射機関砲 | 9 |
※歩兵連隊は3個連隊で編成
沿岸配備師団は装備が貧弱であり、また、これまでに二十代から三十代の健常な男子の多くは既に徴兵されており、動員されるのは四十代の老兵や、徴兵で何らかの身体的問題を抱えている者も多かったので、その戦闘力は常備師団と比較すると低く、水際で上陸軍の足止めをするという役割と相まって「はりつけ師団」や「かかし師団」などと呼ばれていた。同じ根こそぎ動員師団でも、常備師団や戦車師団と上陸軍への反撃を行う機動打撃師団は、沿岸配備師団と比較すると装備は充実していた[99]。なりふり構わない戦力増強策で日本本土には54個の師団が展開することとなったが、大半はこの根こそぎ動員で編成された師団であり、既設の師団はこのうちの12個師団に過ぎなかった[100]。
前述の通り、当時の日本軍は装備調達に苦慮していたため、根こそぎ動員で動員された師団の装備は不十分であった。例えば沿岸配備師団の静岡の第143師団は老兵と若年兵がほとんどで、兵器はおろか軍靴さえも行きわたらず、銃剣は全兵力の50%、火砲70%、小銃80%、通信機類30%、機銃30%強、弾薬糧食は半会戦分に過ぎなかった[要出典]。装備が可能な限り補充されるはずの第2次兵備の機動打撃師団(第214師団)でさえ連隊砲、大隊砲に欠け小銃は二人であった[要出典]。特に第三次兵備で編成された師団の装備が不足しており、第53軍の第316師団にように、1個小隊に重機関銃2丁に小銃15~16丁しか配備されないなど、小火器の充足率は約40%、重機関銃や迫撃砲の充足率は約50%、火砲も未充足というものであった[101]。本土決戦の日本軍の装備で象徴的に語られるのは、この第3次兵備で編成された師団で、兵器の不足に対応するため、木製の突撃棒やなかには中世の弩を自作する兵士もいたが、これはあくまでも戦力不足の第3次兵備師団の話が中心で、本土決戦時点の日本軍の平均的な状況ではない。昭和天皇も東久邇盛厚王から「海岸の防備のみならず、決戦師団も武器が十分に 補給されず、敵の落した爆弾の鉄を利用してシャベルを作る有様である」との報告を受けて「これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した」と語っており、決戦師団の装備充足率も決して十分ではなかった[102]。 本土決戦前にあらゆる兵器を戦場に投入しようとするのは、第二次世界大戦で全世界的に見られた状況であり、ナチスドイツの上陸の危機が迫ったイギリスにおいても、チャーチル自らが考案したとされるホームガードパイクという鉄槍も戦場に投入される予定であった[103]
戦力増強と並行して詳細な作戦の検討も進められた。ペリリューの戦いや硫黄島の戦いなどでは有効であった「後退配備・沿岸撃滅主義」方針が、レイテ島の戦いにおいてはアメリカ軍に容易く上陸を許してしまうなど、かえって作戦方針の変更が混乱をもたらした戦訓も報告された[104]。また、作戦方針変更での成功例と言われる硫黄島の戦いの戦訓を分析したり、また沖縄戦から生還した第32軍作戦参謀森脇弘二中尉からの報告より、「水際陣地による水際撃滅主義は艦砲射撃により成立しない」とする分析は必ずしも正しくなく、徹底して陣地構築した硫黄島や沖縄では艦砲射撃による損害は、サイパン島に比較すると軽微であったことや[105]、逆にペリリュー島や硫黄島では艦砲射撃を耐えた水際陣地が「砲兵火力をもって果敢な反撃を加え、敵に上陸初動に相当の打撃を与えた」という事実もあり、対策が不十分であったサイパンにおける戦訓を重視するあまり、「水際に於ける敵の必然的弱点」を見逃してしまうといった愚を避けて、上陸軍が最も弱いときに最大限の打撃を与えるとする、「水際撃滅」方式が復活することとなった。これは、サイパン島で失敗した水際撃滅と大きく異なり、常に数倍の大兵力を相手に戦わざる得ない孤島の防衛戦とは違って、本土決戦においては、敵に匹敵する大兵力をもって「連続不断の反撃」を行うことができるという利点もあった。方針変更を主導した大本営第1部長宮崎周一中将は「従来どんなに切望しても達成しえなかった「敵上陸直後の連続不断の反撃」が今度こそ成熟できる」と意気込んでいた[98]。
この方針転換は上記の通りの戦訓の分析という理由のほかに、現実的な問題として、沖縄戦における反撃の失敗の様に、火力が圧倒的に劣る日本軍では上陸軍が戦力を整える内陸部での反撃の成功はおぼつかないということと、根こそぎ動員でかき集めた兵士に複雑な防御戦闘は困難であり、ひたすら上陸直後の敵に対して突撃するという単純明快な戦術の方がまだ成功の確率が高いというという判断もあったとされる。また、今までの上陸軍を足止めし大きな出血を強いて時間稼ぎをするといった島嶼防衛とはそもそも作戦目的が異なり、アメリカ軍に一大決戦を挑んで、局地的にも勝利して有利な条件の講和に持ち込むという「一撃講和」が作戦目的であって、守っているだけではその作戦目的を達成できないという日本側の事情もあった[106]。
しかし、アメリカ軍侵攻直前の作戦方針の大転換は、防衛準備を進めていた日本軍に少なからず混乱をもたらせ、既に陣地構築を完成させつつあった九州方面の部隊は作戦変更を拒否し、従来の「後退配備・沿岸撃滅主義」で作戦準備を続けているなど、全軍の統一方針とはならなかった[107]。参謀本部も本土決戦に備えて現地視察を頻繁に行ったが、その報告は概ね築城、物資、訓練、後方補給などいずれも不十分であるのみならず、決戦の気風にも欠けているというもので、参謀本部も実際には厳しい現状を認識していた[108]。軍の報告を受けた昭和天皇も「従来勝利獲得の自信ありと聞くも、計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器 の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げられる」との認識を示した[109]。
対洋上艦船
海軍大臣の米内光政は決号作戦の準備として、全海軍部隊を指揮できる海軍総隊を新設し、その司令長官に連合艦隊司令長官豊田副武大将を兼務させ強力な権限を与えて本土決戦準備を進めた。また5月29日には豊田は軍令部総長に任じられ、軍令部次長には「特攻生みの親」大西滝次郎中将が任命された[110]。沖縄戦の大勢も決した1945年6月8日に、本土決戦の方針を定めた「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が昭和天皇より裁可されたが[111]、その御前会議の席で参謀本部次長河辺虎四郎中将が「皇国独特の空中及び水上特攻攻撃はレイテ作戦以来敵に痛烈なる打撃を與えて来たのでありますが累次の経験と研究を重ねました諸点もあり今後の作戦に於きまして愈々其の成果を期待致して居る次第であります。」と、特攻を主戦術として本土決戦を戦う方針を示した。軍令部総長豊田は「敵全滅は不能とするも約半数に近きものは、水際到達前に撃破し得るの算ありと信ず」と本土に侵攻してくる連合軍を半減できるとの見通しを示したが、これは豊田自身も過大と自覚しており、隣席していた昭和天皇が一言も発さなかったのを見て、相当不満であったと感じている[112]。
この豊田の御前会議での上陸部隊半数を洋上で撃破という言葉がそのまま決号作戦における海軍の方針となり、6月12日には軍令部で「敵予想戦力、13個師団、輸送船1,500隻。その半数である750隻を海上で撃滅する。」という「決号作戦に於ける海軍作戦計画大綱」が定められたが[113]、その手段は、7月13日の海軍総司令長官名で出された指示「敵の本土来攻の初動においてなるべく至短期間に努めて多くの敵を撃砕し陸上作戦と相俟って敵上陸軍を撃滅す。航空作戦指導の主眼は特攻攻撃に依り敵上陸船団を撃滅するに在り」の通り、特攻であった[114]。海軍総隊参謀長兼連合艦隊参謀長であった草鹿龍之介によれば、本土決戦では九州に上陸してくる連合軍に対し、「六分の一が命中すれば上々」として、約1,000機を一波とし、これを10派、10,000機の特攻機で攻撃をかける目算であった。内命された時点ですでに九州南部に、訓練中のものを含めて5,000機が用意されていたという[115]。
大本営の目論見では、フィリピンでも沖縄でもできなかった、連合軍の迎撃を無力化するほどの十分な数の特攻機を集め、陸海軍交互に300機 - 400機の特攻機が1時間ごとに連合軍艦隊に襲い掛かる情景を描いていた。その為に稼働機は練習機であろうが旧式機であろうがかき集めて全て特攻機に改造するつもりであった[116]。
水中・水上特攻兵器も大量に投入される計画であった。生産が容易な特攻艇震洋は1945年7月までに2,500隻を整備する計画であったが、物資の不足や空襲の激化により計画通りの生産はできなかった。また、地上基地から発射される基地回天や特殊潜航艇海龍や蛟竜の生産も並行してこちらは計画の41%であった[117]。それでも連合軍のオリンピック作戦に備えて整備された水上・水中特攻兵器は、特殊潜航艇100隻、回天120基、特攻艇4,000隻(陸軍マルレを含む)にもなり、連合軍の上陸が予想される南九州から四国にかけての各基地に配備された。主なものでは、鹿児島には海龍20隻、震洋500隻、宮崎の油津には海龍20隻、回天12基、震洋325隻、大分佐伯には海龍20隻、高知宿毛には海龍12隻、回天14基、震洋50隻、高知須崎には海龍12隻、回天24基、震洋175隻などである。またコロネット作戦に備えて、海龍180隻、回天36隻、震洋775隻が東京を中心とする関東一円に配備されていた[118]。また、潜水服を着用した兵士が、柄の付いた爆雷で敵上陸用舟艇を攻撃する特攻兵器伏龍も準備され、650名からなる伏龍部隊が編制された。海軍は連合軍が侵攻してくるまでに4,000名の伏龍部隊を訓練しておく計画であった[119]。
九州の状況
九州においては、大本営など軍中央が本土決戦準備に入るもっと前の1944年7月から西部軍司令官下村定中将が「敵は早ければ、来年の春以降には、本格的な上陸作戦を企画して、南九州を襲う可能性が十分にある」「上陸地点は志布志湾正面の16㎞にわたる長い砂浜」と予想し、翌8月には早速「内之浦臨時要塞」と呼ばれる沿岸防備工事を命じた。この一台土木工事は「チ号演習」という暗号名が付けられた[120]。陣地の構築は硫黄島や沖縄で効果のあった「後退配備・沿岸撃滅主義」主義に基づき、海岸線から4~8km後方に構築されることとなったが、これにはコンクリート等の資材が不足しており、天然の洞窟などを最大限活用せざるを得ないという事情もあった[121]。南九州特有のシラス台地はもろく堅固な陣地を構築するのは困難と思われていたが、工夫を重ねて工事は進んでいった[122]。南九州への侵攻・上陸は緊急性が高いと判断した日本軍は関東の兵備を犠牲にしてでも九州方面の増強を優先、結果として他の方面に配備予定だった装備資源を使い果たすことになった[123]。
アメリカ軍の上陸予測地点の防衛を担当する第16方面軍司令官横山勇中将は、常徳殲滅作戦を指揮するなど実戦経験豊かな指揮官であったが、アメリカ軍の上陸地点を正確に予想し、有刺鉄線とコンクリートの障害物をびっしりと構築し、機関銃座と速射砲のトーチカや掩体壕も大量に構築させていた。隷下の火砲は沿岸の崖や丘陵地の地中深く埋め込んであらかじめ射程を定め、激しいアメリカ軍の砲爆撃のなかでも照準を計算する必要もなく正確な砲撃をできるようにさせており、大量の特攻機や特攻兵器による輸送艦の撃沈と、砲撃や自爆攻撃により上陸してくる大量のLVTを叩き潰せば、侵攻軍の勢いは鈍るはずと自信を深めている[124]。一方で、司令官横山の自信に対して、「第16方面軍会戦指導構想」によれば陸、空、海にわたるアメリカ軍の強大な侵攻兵力と随時四周からの同時攻撃に対して日本軍は兵力装備面で多くの問題点を有しており、対上陸防御という受動的態勢が作戦準備を困難にしていたと指摘している[125]。
九州方面の視察に赴いた参謀本部第1部長の真田穣一郎少将は第2総軍総司令官の畑元帥に対して「十二分な装備、海軍の戦略、そして好ましい地形を鑑みれば、敵軍の第一派を確実に海へ押しのけることが出来ると思います。しかしながら、敵軍が第二第三の上陸を試みた場合それを完全に撃退できるかはきわめて疑わしいと思います」と語り畑も「我が方に第二・第三の防衛線が欠けている以上、敵の第二波・第三波を防ぐのは難しい」と返答している[126]。
戦力比の日本軍側の分析としては、第2総軍作戦課長だった井本熊男大佐が「九州の第16方面軍は、師団14・混成旅団8・戦車旅団3で重点は南九州。米軍は第二次輸送を含めて約14個師団で、師団数はほぼ同数であるが、日米の師団の戦力比は1対10くらいである。すなわち日本の140個師団に相当する。また、我が方の航空機は特攻機を含めて約1万機。米軍の海・空軍は絶対優勢で、その比はやはり日本の10倍くらいである。このように両軍の戦力比から観察すると、上陸後の侵攻を挫折させたり大打撃を与えることは、非常に困難ではないか。結局、我が方は決死敢闘、玉砕戦法あるのみ。それで敵にある程度の打撃を与える事ができるであろう」と戦力において連合軍が10倍以上優勢であったと証言している[要出典]。しかし、横山は南九州の陣地構築状況については「ある程度散兵壕はできており、終戦までにはかなり進捗していたように思う」と相応の陣地構築は進んでいたと述べており、横山と同時期に九州を視察した陸軍士官学校第55期の近藤新治も、特に志布志方面の陣地は堅固に構築されてかなり有効な戦闘ができたのではないかとの印象を抱いたという[127]。 第2総軍は連合軍が上陸した際に第1総軍と第15方面軍から3~5個師団をもって九州を増強することを企図していたが、増援部隊が爆撃と砲撃の中で長距離移動するのは確実な方法ではなかった。そこで第2総軍司令部は関東で最も有力な第36軍麾下の4個師団(2個機甲師団、2個決戦師団)の増援を大本営に要請した。しかし大本営は東京防衛の中核たる第36軍の派遣に消極的で第2総軍の要請を黙殺している。
四国の状況
太平洋に面し航空兵力の展開が容易な四国南部は当初から連合軍の主要な上陸目標だと考えられていた。四国防衛を受け持つ第55軍は正規師団である第11師団を中核に根こそぎ動員で編成された第155師団、第205師団、第344師団、独立混成第121旅団を加えた4個師団と1個独立混成旅団を指揮下に置いた[128]。第55軍は内陸における持久作戦は一切考慮せず、南四国の水際を含む沿岸地域での決戦を想定[129]。連合軍の上陸公算の最も多い高知平野物部川から須崎にかけて第11師団を配置、高知県西部に第155師団と独立混成第121旅団を、徳島県南部に第344師団をそれぞれ配置した。また機動打撃師団である第205師団が高知県東部の北方高地に布陣し、上陸してくる連合軍を追い落とす役目を担った。他にも軍直轄の戦車第45連隊が陸軍補充隊や海軍陸戦隊と合同で対空挺作戦に従事する予定だった。第一線陣地の強度は爆撃及び艦砲射撃に耐えるよう洞窟陣地とすることを目標として進められたが、作業に習熟しない兵士が多く予定通り進捗しない箇所も多かった[130]。愛媛・高知両県は四国中央部を南北に貫く予土連絡道路(現国道一九四号)に大量の民間人・学徒を動員し工事を進めたが、終戦までに完成することはなかった。四国の日本軍も他方面の部隊同様に未教育兵や老兵が大量に召集され、装備についても歩兵全員に小銃や鉄帽が行き渡らず、竹製の銃剣や水筒などが支給されるという部隊もあった[131]。一方で参謀本部が四国防衛を重視したこともあって装備の充足率は比較的高く、1㎞における部隊密度・火力密度は関東・九州の部隊よりもはるかに高かった[132]。アメリカ軍が主攻撃を想定していた相模湾の第53軍と比べると火砲は2倍、臼砲・ロケット砲は3倍の密度で配置されていた[133]。ただし連合軍は四国を日本軍の兵力を分散させるための囮としかみておらず、日本軍を四国にひきつけるための欺瞞作戦パステル作戦を計画していた。
関東の状況
関東地区では日本軍の作戦方針の大転換によって、「水際配置・水際撃滅主義」の方針で陣地や作戦の再構築がアメリカ軍侵攻直前になって開始されるという事態となっていた。しかし、日本軍のこの方針はアメリカ軍も想定しており「人的資源は極めて軽んじられ」「最強部隊を比較的犠牲の少ない内陸部の防衛に使用して戦力の温存をはかるので」「水際の防衛には正規兵の増援で補強された予備の大集団が当たるであろう」と水際の沿岸配備師団が捨て石となって、上陸軍の足止めをはかるであろうと予想していた[134]。そして上陸した部隊はその捨て石部隊との近接戦闘に巻き込まれて、敵味方が近接するなかで「アメリカ軍の空爆、重火器攻撃、海軍の艦砲射撃はターゲットの選定に重大な制限を受ける」と懸念していた[135]。これがまさに日本軍が方針変更で目指しているものであり、強化した海岸陣地で沿岸配備師団が徹底抗戦し、上陸部隊と敵味方入り交じりアメリカ軍が砲爆撃を控えている中で、日本軍は砲兵隊が支援砲撃を友軍がいるのにも構わずに撃ち込んで大損害を与えて、そこに反撃部隊が48時間以内に駆けつけて、上陸軍を攻撃し水際での撃滅をはかるというものであった[107]。
日本軍は九十九里浜に主力が上陸するものと想定して(実際にアメリカ軍が主力を投じる予定だったのは相模湾)、長い海岸線に第52軍の「はりつけ師団」の沿岸配備師団2個と、機動打撃のために、近衛第3師団、機動打撃師団1個の合計4個師団が配置された。そしてこの4個師団が上陸軍を足止めしている間に、第36軍の戦車第1師団、戦車第4師団、第81師団、第93師団と機動打撃師団4個の合計8個師団が決戦を挑むという作戦であった[101]。第36軍は戦況に応じて、二次的戦線とされた相模湾に対する反撃にも対応できるよう、九十九里浜と相模湾の中間地点あたりに展開していた[136]。しかし、砂地への陣地構築は想定以上に困難であり、いくら掘っても、次から次へと砂が崩れ落ちてせっかく掘った穴が埋まってしまった。そこで木材で箱型の陣地を作って砂地に埋没させようとしたが、重さが完全に平均していないと、箱は砂地のなかで傾いてしまい、一部が地上に露出してしまうなど、なかなか陣地構築が進まなかった[137]。昭和天皇は御前会議において、本土決戦を諦めポツダム宣言受諾を支持する理由として、九十九里浜の陣地構築も出来てないことを指摘し、従来の例からしても計画に則った防衛体制は望めないであろうとの見通しを示唆している。関東の防衛を受け持つ第12方面軍及び東部軍管区司令部の参謀長であった高島辰彦少将もこの天皇の発言に対して「本土決戦は、結局九十九里浜の陣地に象徴される “ 砂上の楼閣 ” であった」とのちに回想している[138]。
二次的戦線とされた相模湾に配置されていたのは第53軍であり司令官は徐州会戦などでの勇猛果敢な作戦指揮で「鬼赤柴」の異名を持つ赤柴八重蔵中将であったが、戦力は2個歩兵師団と1個戦車旅団と不十分なものであった。しかし、主力の第84師団は根こそぎ動員で編成された急造師団ではなく、廃止された陸軍教導学校の学校幹部を中心に留守第54師団の兵力で編成された師団で、ことに将校の質が非常に高く、1個中隊が他の1個大隊に匹敵すると評されるぐらいの精鋭師団であり、第32軍から引き抜かれた第9師団の代わりに沖縄に派遣が検討されたほどであった。その際は、本土防衛の貴重な戦力として大本営第1作戦部長宮崎周一中将の猛反対で沖縄行きは中止されて、この重要な相模湾の防衛に配置されたものであった[139]。もう1個の第140師団はいわゆる沿岸配備師団であったが、近衛師団の留守師団を中心として編成された精鋭師団であった[140]。同師団は相模湾に配置されてからは、精力的に陣地構築を行い、終戦までに1個連隊ごとに約100,000Mの長大な坑道を掘削しており[141]、構築された陣地には海軍の要塞砲も含めた、二十八糎砲、四五式二十四糎榴弾砲、九六式十五糎榴弾砲、八九式十五糎加農砲、八九式十五糎加農砲、九二式十糎加農砲などの大口径砲と山砲、野砲、四式四〇糎噴進砲など多数の火砲が多数配置された。特に大磯の海岸に対しては濃密な火線を形成しており、上陸部隊に痛撃を与えられると考えられていた[142][141]。
相模湾に上陸するアメリカ第8軍がコロネット作戦での主力であり、上陸初日のYデイにはアメリカ4個師団と支援部隊の203,434人が相模湾に殺到する計画であった[30]。それに対して第53軍司令官の赤柴中将は「敵、我が正面に殺到すべしと判断する兵力,此は10対1と考へて施策を考ふべし」と将兵に訓令するなど、兵力の圧倒的劣勢を自覚しており、大本営に戦力増強を求めていたが、1945年7月に京都で編成された第三次兵備の第316師団が増援として送られてきた[105]。赤柴は上陸軍の主力が平地で障害物のない茅ヶ崎から藤沢に至る地帯に上陸してくるものと予想していたが、陣地構築が順調に進んでいる大磯と比較すると、沿岸一帯に強固な陣地を構築できる地形が少なくその対策に苦慮していた。そこで、赤柴は対上陸の基本方針である「後退配備・沿岸撃滅主義」は困難と判断し、陣地を海岸線にまで前進させて「水際配置・水際撃滅主義」に方針転換をした。その方針転換に基づき、増援として送られてきた第316師団を茅ヶ崎から藤沢に至る地帯の水際に配備することとした。しかし、砂浜への陣地構築は困難で、また装備が不十分な第三次兵備の第316師団ではまともな戦闘は困難であったため、散兵壕を大量に掘削し、そこから敵戦車に対して爆雷を背負って肉弾攻撃するといった特攻作戦の訓練が連日行われた[143]。奇しくもこの「水際配置・水際撃滅主義」への回帰は日本軍全体の方針転換とも一致しており、茅ヶ崎を視察した陸軍大臣の阿南惟幾大将も赤柴の作戦方針を了承している[144]。
日本の戦争遂行能力
輸送路の断絶と食料危機
アメリカ軍内においては、多大な損害が予想される上陸作戦に代わる代替戦略として日本の海上・陸上輸送路を標的にした爆撃作戦が本格化した[145]。1945年8月11日に新たに発せられた一連の爆撃命令にはドイツでの戦略爆撃の予備的分析が反映されており、輸送機関と石油が最も効果的な標的とされた[146]。この新たな命令は都市(都市工業地区)よりも輸送機関、特に鉄道網の破壊を優先していた[147]。その他の標的には航空産業、軍需品倉庫、軍需工場、石油貯蔵施設、化学工場などがあげられた。 先進工業国の中で日本は唯一、国外の貨物輸送と国内運輸の両方を海上輸送に依存しており、1945年8月には壊滅的な商船損失に機雷敷設と厳重な海上封鎖による締めつけが重なり、統制のとれた国内海上輸送網が機能しなくなっていた[148]。その結果大量の食料を余剰地域から不足地域に配送する手段としては、ごく限られた鉄道網が生命線となっていた[149]。 戦略爆撃調査団の分析によればB29と輸送機による作戦を2日間ほど行えば、関門トンネルでの本州と九州、および鉄道連絡船による本州と北海道の鉄道接続 を遮断しさらに本州の鉄道を約6カ所で分断できるとされた[150]。これにより「経済資産としての日本の鉄道網は事実上破綻し」日本人口のほぼ半数が餓死の危険に陥ると考えられた[151]。 実際に爆撃や水害、海上封鎖の影響で日本の食料事情は急速に悪化しており、日本の米生産量は1942年の1002万7474トンから1944年の878万3827トンまで減少し、1945年11月の政府の予測によれば翌年用のコメはわずか635万5000トンとされた[152]。 さらにカロリー摂取量の約10% を供給する漁獲量が急減、海運業の潰滅によって輸入食料も入らなくなり、1日当たりのカロリー摂取量も激減、1941年には約2000カロリーだったが1945年には1640カロリーに下向、飢餓とビタミン欠乏に関連する疾病の発生率が急激に上昇していた[153]。日本陸軍は「1945年から46年の冬の間におそらく広範な飢餓が起き人口のかなりの部分が命の危険にさらされること」を明らかに理解していた[154]。緊急国会の特別会で柴山陸軍次官は日本が戦争を継続できるのは食料事情により最大1年だと認めている[155]。米内光政海軍大臣は「もし敵が侵攻をせずに、空軍および海軍による圧迫をジワジワとくわえてきたならば、大本営はもっと危険な局面に当面するであろう」と幕僚に語っており、航空総軍司令官の河辺大将と参謀本部の情報部長の有米精三中将は「大本営の幕僚の大多数は、米軍が一九四五年の終りまでに本土に侵攻することを、実際に待ちのぞんでいた」と語り連合軍の侵攻が遅れれば遅れるほど日本が弱体化し飢えていく現状を理解していた。
燃料備蓄の枯渇
燃料についても備蓄量は乏しく、日本海軍の資料によれば終戦時の燃料備蓄量は陸海軍・民間を合わせても37万kℓ、満州、朝鮮、台湾の備蓄を合わせても48万kℓ(開戦時に保有していた石油備蓄の4%)にすぎず、そのうち航空機用揮発油は10万kℓであった(1945年1月から終戦までの陸海軍の石油消費量は84万kℓ)[156]。 航空機用ガソリンの低質化も進みオクタン値は92から87へ低下、他にも訓練期間の短縮、技量の低下、非熟練工員の動員等により、1944年には新造機の空輸中の喪失率は短距離飛行で10パーセント、海上飛行では30パーセントに達し、製造した航空機が途中で墜落し基地に届かない状況が多発していた[157]。
しかし、戦後にアメリカの米国戦略爆撃調査団が日本軍の燃料備蓄について調査したところ、特攻用の航空燃料については優先的に確保されており、終戦時点でも100万バレル(16万kℓ)のストックがあった。これは1945年7~8月1か月間の日本軍の航空燃料使用量実績で換算するとおよそ7か月分の備蓄量であり、20万機の特攻機を一度に出撃させられる量にあたっていた。従って特攻機に限れば燃料は十分に確保できていたと米国戦略爆撃調査団は結論づけている[158]。
被害予想
アメリカ陸軍
1945年6月14日、レーヒはマッカーサーに、オリンピック作戦の上陸90日目までの連合軍の人的損失の試算を要求した。これは、トルーマンが「沖縄戦の二の舞いになるような本土攻略はしたくない」と考えているのを知ったレーヒが、「大統領は沖縄での損失にひどく心を痛めておられる」と考えて「貴官が立てている推定に基づき、オリンピックでの戦闘で上陸時から最大90日までに発生する推定死傷者数を回答されたし」とマッカーサーに要求したものであった[159]。 マッカーサーは、アメリカ軍の情報機関から、日本軍が南九州に歩兵師団3個師団、北部九州に歩兵師団3個師団、戦車2個連隊の合計30万人の兵力を配置しているという情報を得ており、連合軍投入予定の兵力が14個師団68万人であることから、連合軍兵力が圧倒しているという前提での試算であった[160]。
経過日 | 戦闘死傷者数 | 非戦闘死傷者数 |
---|---|---|
上陸日から30日 | 58,000名 | 4,200名 |
上陸日から60日 | 27,150名 | 4,200名 |
上陸日から90日 | 10,170名 | 4,200名 |
合計 | 95,320名 | 12,600名 |
しかし、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥がこの推定値に懸念を示したことから、マッカーサーはこの推定を撤回した。あまりに大きい推定は、沖縄での損害で日本本土進攻作戦に難色を示しているトルーマンの態度をさらに硬化させかねないと理解したマッカーサーは、なるべく楽観的な推定を行うこととした。そこでマッカーサーは「これまで提案されてきたほかのどの作戦と比べても、今回の作戦では大きな損失が生じる可能性は低い」とし、一転してルソン島の戦いにおける実績を参考に、上陸日から30日で死傷者31,000名とする報告書を作成した[161]。
マッカーサーは同時に「経験に基づいた推測」として、ダウンフォール作戦全体の損害推定も行ない、トルーマンに報告書を提出した[162]。
戦死者・行方不明者 | 戦傷者 | 合計 | |
---|---|---|---|
南九州と関東平野を攻略する場合 | 43,500名 | 150,000名 | 193,500名 |
九州全域を攻略した場合 | 27,500名 | 105,000名 | 132,500名 |
九州全域と関東平野を攻略した場合 | 50,000名 | 170,000名 | 220,000名 |
※非戦闘での死傷者約30,000名を加え、全死傷者25万人
6月18日にトルーマンがホワイトハウスにレーヒ、マーシャル、キング、陸軍長官ヘンリー・スティムソンといった戦争指導者を招集して戦略会議が開催され、オリンピック作戦について議論が交わされたが、その席でもアメリカ軍の死傷者推定が話し合われた。ダウンフォール作戦遂行派はトルーマンの懸念を和らげるべく、なるべく楽観的な指標を取り上げた。レイテ島の戦い以降、沖縄戦までのアメリカ軍と日本軍のキルレシオを一覧表を作成し、マッカーサーが指揮したレイテ島の戦いやルソン島の戦いでは、補給が途絶した日本軍に大量の餓死者、病死者が出たことによって、キルレシオはアメリカ軍が圧倒していたが、その数値を基にアメリカ軍の死傷者はあまり多くはならないと主張した[163]。 しかし、日本本土に近づくにつれて日本軍の抵抗は激烈となり、太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の兵員の死傷率は、ヨーロッパ戦域の3.5倍という高い水準となっており[164]、沖縄戦では投入兵力の39%が死傷するという大損害を被っていた。レーヒはその沖縄戦での実績を基に、オリンピック作戦での投入兵力約68万人~76万人の35%が死傷するとすると推定、マッカーサーのルソン島での実績を考えればもっと低下すると反論する者もあったが、会議に出席したメンバーの多くはレーヒの推定である、投入兵力の35%約25万人以上がオリンピック作戦だけで死傷するという印象を持ち、トルーマンもこの25万人という推定値をよく引用するようになった[165]。
その後に、オリンピック作戦の準備が進んでいくと、6月に行った推定は、日本軍の戦力を過小評価していたということが明らかになった[55]。アメリカ軍は1945年8月までにマジックによる暗号解読によって、56万人の日本軍が既に九州に集結しており、さらに12万人の国民義勇隊が南九州に配置されているという情報を掴んでいた。「強襲軍は3対1の割合で防衛軍より兵力が勝っていなければならない」という上陸戦の公式に従えば戦力不足は明らかであり、公式報告書では「我々が攻撃する時点までには戦力比は1対1まで増加するであろう。これは勝利のための公式ではない」と危機感を強めていた[135]。この分析に基づき、オリンピック作戦での上陸戦闘を担う予定であった第6軍は、九州の攻略だけで394,859名の戦死者もしくは復帰不可能な重篤な戦傷者が発生するものと推定し、マーシャルはこの推定を危惧してマッカーサーに上陸地点の再検討を求めたほどであった[166]。軍人以外でも ハーバート・フーバー元大統領が「50万人から100万人」の人的損害が生じるという推定を示して、トルーマンにダウンフォール作戦の撤回と講和による戦争終結を求めている[167]。
さらに、トルーマンがポツダム会談に向かう前に、アメリカ統合参謀本部によって、ダウンフォール作戦全体の現実的な損害の再見積が行われたが[168]、そのなかで、戦争協力を行っていた物理学者ウィリアム・ショックレー(のちにノーベル物理学賞受賞)にも意見を求めたところ、下記の回答があっている。
日本に関する歴史的事例において、国家の行動が、実際の戦闘中の軍の行動と常に一致していたことが明らかになれば、敗戦時の日本人の死傷者数は、ドイツ人の死傷者数を上回ることになる。
言い換えれば、我々は少なくとも500万から1,000万人の日本人を殺さなければならないでしょう。
その結果、我々に170万人から400万人の死傷者が出る可能性があり、そのうち40万人から80万人が死亡するでしょう[169]。
この推定値はスティムソンやマーシャルにも伝えられて、のちの戦争遂行方針の決定に大きな影響を及ぼした[170]。7月22日、ポツダムでマーシャルからこれらの推定値の報告を受けたトルーマンは以下の発言を行っている。
以上のようにアメリカ軍の人的損害推定は、当初のマッカーサーらによる楽観論から一転してかなり悲観的となっていった。マッカーサー自身も「ダウンフォール作戦では、アメリカ軍だけで100万人の死傷者が出るだろう」と認識を改めている[42]。 マッカーサーのスタッフは日本人とアメリカ人の死亡比率を22:1と推定し、上陸開始から二週間で30万人の日本人が死亡し、戦闘が四か月続いた場合の日本人犠牲者は300万人に達すると結論ずけられた[172]。 マーシャルはアメリカ軍の被害を抑えるため原子爆弾の戦術的使用を検討した。原爆計画の中枢にいたライル・E・シーマン大佐は、X-Dayまでに少なくとも7発のファットマン型プルトニウム爆縮爆弾が入手可能になるとマーシャルに報告している。マーシャルはオリンピック作戦までに9つの原子爆弾を確保し、九州南部への上陸前に1発、援軍に来る日本軍にもう1発、さらに山を越えて来る日本軍に3発目を投下する計画をたてた。 ダウンフォール作戦の損害予想は原子爆弾投下の正当化にも巧みに利用された。陸軍長官のスティムソンが「ハーパーズ・マガジン」194号(1947年2月刊)に投稿した論文では、日本本土への上陸作戦「ダウンフォール作戦」によるアメリカ兵の新たな犠牲は100万人と推定され、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であったとの説明がなされており、この論文は原爆投下を妥当であったとするアメリカ政府の公式解釈を形成する上で重要な役割を果たしている[173]。しかし、こうした見解はアメリカ国内の学者間でも批判が根強く「原爆投下によって回避されたとされる犠牲者の公式解釈での推定数『50万人』あるいは『100万人』には根拠がない」と指摘もある[174]。原爆投下に否定的な見解を示したスタンフォード大学の歴史学者バートン・バーンスタインは日本本土作戦によるアメリカ軍犠牲者を2万人~4万6000人と推定している[175]。同様に、アメリカにおけるアジア史の権威イアン・ガウのように「沖縄戦はアメリカ軍と日本軍の交戦の中でもっとも苛烈なものであった、沖縄の占領に莫大な人的、物的代価を払ったことが、原子爆弾の使用に関する決定に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない事である。アメリカの指導者たちは、アメリカ軍が日本本土に接近するにつれて人的損失が激増する事に疑問をもってはいなかった。沖縄での経験から、アメリカの指導者たちは日本本土侵攻の代価は高すぎて払えない事を確信していたのである。」沖縄戦の大損害とそれに伴うダウンフォール作戦の大損害の予想が、トルーマンに原爆投下を決断させたという指摘もある[176]。
アメリカ軍はダウンフォール作戦での大損害を想定し、パープルハート章を大量に製造しており、第二次世界大戦中に製造した同勲章は合計で150万個に達した。結局、ダウンフォール作戦は実施されず、終戦時には495,000個の同勲章が残ることになったが、その後の朝鮮戦争やベトナム戦争などでも使い切ることはできなかった[177]。この在庫は2003年時点でも総数12万個程あり、底をついたのは2010年頃である。
アメリカ陸軍航空隊
アメリカ陸軍航空隊司令官アーノルドは「大規模な日本上陸侵攻になれば、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れない」と予測していた[178]。これはアメリカが第二次世界大戦の4年間で太平洋とヨーロッパで失った416,800人を上回る甚大な損害予測であり[179]、アーノルドは甚大な損害が予想される日本本土上陸を回避するため、日本本土空襲を指揮していた第21爆撃集団司令官のカーチス・ルメイ少将を「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」と叱咤した。ルメイはアーノルドの期待に応えるため、従来の工場などの生産拠点を高空から精密爆撃するという戦術から、大都市を低空から焼夷弾で無差別爆撃するといった戦術に変更し、東京大空襲などで着実に成果を挙げていた[180]。 アーノルドはルメイの挙げてきた成果を見て、爆撃と海上封鎖のみで日本を降伏に追い込めると考えていたが、B-29の損失が485機にものぼったことから[181]「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」という考えを抱くようになり[182]、1945年6月18日のホワイトハウスで開催された戦略会議で、自分が入院中のために代理出席させた副司令官アイラ・エーカー中将に以下の見解を代読させて、当初の考えを改めてオリンピック作戦を了承している[183]。
日本に対して航空戦力のみを主張する者はきわめて重大な事実を見過ごしています。航空機のみが敵と対決するときは、航空兵の死傷数は常に激増し地上軍が投入されるまで死傷者数は決して低下しないという事実です。
現在の航空兵の死傷率は1度の任務ごとにつきおよそ2%であり、1月あたりでは30%です。
時期を逸すれば、敵が有利になるだけです。
アメリカ海軍
フィリピンと沖縄で主に日本軍の特攻によって多数の艦船を失っていたアメリカ海軍のレーヒやニミッツといった高官は、ダウンフォール作戦の損害推定については悲観的となっていた。ニミッツは海軍作戦本部長のキングに対して「日本を侵攻する場合は、我々は甚大な被害を受け入れる覚悟が必要である」「食料状態が悪く、ろくに補給も受けていない日本軍を我々の圧倒的な空と海からの攻撃で打ちのめしたが、その成功も、敵の物資がより豊富な日本本土で直面する抵抗を推し量る基準としては使えない」と警鐘を鳴らしている[184]。 ニミッツはダウンフォール作戦最初の30日の犠牲を海軍死傷者5000人を含む4万9000人と推定している。 アーネスト・J・キング元帥ら海軍指導部は日本は米国が太平洋全体に投入できるよりはるかに多勢の地上部隊を召集でき、 さらに日本の地勢によって米軍の持つ火力と機動力の優位がなくなると計算し、これらの評価から海上封鎖と爆撃による戦争終結を主張した。 アメリカ戦略爆撃調査団は戦後に、ダウンフォール作戦で出撃してきた日本軍の特攻機を5,350機と認定して、以下の様に分析している。
戦争全期を通じての平均成功率を達成すれば、特攻機は約90隻を撃沈し、さらに900隻に損傷を与えたであろう。
ろくな訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が艦船にとって非常に危険なことが、沖縄で立証された。
終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対して、日本軍が特攻機で重大な打撃を与える能力があったことは明白である[185]。
連合軍の空軍がカミカゼ機を空中から一掃し、少なくとも連合軍の橋頭保や、沖合の艦船に近づかないようにできたかどうかの質問には、永遠に答えはでないだろう。
連合軍空軍は最大規模の上陸支援作戦を計画していたが、連合軍空軍の仕事はやさしいものではなかった。
上陸作戦時の連合軍艦船が、連合軍空軍が計画した多様な効果的対策にもかかわらず、大きな損害を受けたであろうことは疑問の余地はない[186]。
参加兵力
全て作戦開始前の予定であり、状況によっては追加・削減などもありうる。
オリンピック作戦
アメリカ
- 総司令官ダグラス・マッカーサー元帥
陸軍
-
- 串木野
- 志布志
- 宮崎
-
- 甑島列島
-
- 予備戦力及び陽動作戦
-
- 後続部隊
-
- 兵力[187]
海軍
- 太平洋艦隊(司令官チェスター・ニミッツ元帥)
- 第3艦隊(司令官ウィリアム・ハルゼー・ジュニア大将)
- 第5艦隊(司令官レイモンド・スプルーアンス大将)
- 第7艦隊(司令官トーマス・C・キンケイド大将)
- 戦力未定
陸軍航空隊
- 太平洋戦略空軍(司令官カール・スパーツ大将・カーチス・ルメイ中将)
- 第20空軍(司令官ネーサン・ファラガット・トワイニング少将)兵員77,000名 B-29 1,000機以上
- 第8空軍(司令官ジミー・ドーリットル少将)
- 極東空軍(司令官ジョージ・ケニー中将)兵員119,000名
イギリス
- 英国太平洋艦隊(司令官ブルース・フレーザー大将・バーナード・ローリングス中将)
- 戦略爆撃隊タイガーフォース アブロ・ランカスター爆撃機580機
コロネット作戦
アメリカ
- 総司令官ダグラス・マッカーサー元帥
陸軍
-
- 九十九里浜
-
- 相模湾
- 兵力[188][189]
- 上陸部隊兵員 575,000名
- 支援要員を含めた合計 1,171,646名
- 車両195,000輌
- 航空機6,000機以上
陸軍再配備計画ではヨーロッパ戦線から部隊を移動させて、後続部隊や予備部隊を編成し、順次日本本土に投入する予定であった[190]。
イギリス
イギリス軍は上陸後40日以降にさらに2個師団を追加派遣する予定であった[192]。
関連作品
小説
- 『日本本土決戦』(檜山良昭/光文社) - 日本が降伏せず、本土侵攻作戦が実行されていたらという想定で書かれた架空戦記。
- 『地には平和を』(小松左京) - 昭和20年10月末、学徒で編成された本土防衛特別隊の少年兵を描く短編SF小説。
ボードゲーム
- Ty Bomba, "DownFall: If the US Invaded Japan, 1945", Strategy & Tactics No.230, Decision Games, 2005
- Christopher Cummins, Jim Dunnigan, Redmond A. Simonsen, Joe Youst, "Operations Olympic & Coronet", World at War No.27, Decision Games, 2012
- ふゅーらー中村 ,『本土決戦1945 ~オリンピック作戦からコロネット作戦へ~』,ゲームジャーナル 60号, シミュレーションジャーナル,2016[193]
- Donald Booth "Race to Tokyo",Command Magazine No.102,XTR社;『日本本土決戦』,Drum Games(中国), 2019 - 翻訳ルール
テレビゲーム
- RING of RED - 本作は日本がポツダム宣言を受け入れず、連合国軍との本土決戦に敗れた末に分断された設定。
- ワールドアドバンスド大戦略 〜鋼鉄の戦風〜
資料
- 『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡』米国戦略爆撃調査団 編纂、大谷内和夫(訳)、光人社、1996年。ISBN 4769807686。
- アメリカ陸軍省(編)『沖縄:日米最後の戦闘』外間正四郎(訳)、光人社、1997年。ISBN 4769821522。
- 森山康平、太平洋戦争研究会(編)『図説 特攻 太平洋戦争の戦場』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2003年。ISBN 4309760341。
- トーマス・アレン、ノーマン・ボーマー『日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌』栗山洋児(訳)、光人社、1995年。ISBN 4769807236。
- 『幻の本土決戦 房総半島の防衛』(千葉日報社) - コロネット作戦実行―米軍上陸の場合は最前線になる事が予想された、房総半島東岸の防衛体制の跡をルポ。
- ウィリアム・マンチェスター; 鈴木主税, 高山圭 訳 『ダグラス・マッカーサー 上』 河出書房新社、1985年。ISBN 4309221157。
- ウィリアム・マンチェスター; 鈴木主税, 高山圭 訳 『ダグラス・マッカーサー 下』 河出書房新社、1985年。ISBN 4309221165。
- デニス・ウォーナー『ドキュメント神風』上、時事通信社、1982a。ASIN B000J7NKMO。
- デニス・ウォーナー『ドキュメント神風』下、時事通信社、1982b。ASIN B000J7NKMO。
- ハンソン・ボールドウィン『勝利と敗北 第二次世界大戦の記録』木村忠雄(訳)、朝日新聞社、1967年。ASIN B000JA83Y6。
- デイヴィッド・ハルバースタム; 山田耕介, 山田侑平 訳 『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』 上巻(Kindle版) 文藝春秋〈文春文庫〉、2012年。ASIN B01C6ZB0V4
- デイヴィッド・ハルバースタム; 山田耕介, 山田侑平 訳 『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』 下巻(Kindle版) 文藝春秋〈文春文庫〉、2012年。ASIN B01C6ZB0UU
- リチャード・F.ニューカム『硫黄島』田中 至(訳)、弘文堂、1966年。ASIN B000JAB852。
- B.M.フランク『沖縄―陸・海・空の血戦』加登川幸太郎(訳)、サンケイ新聞社出版局、1971年。ASIN B000J9HB0Y。
- 『決定版 太平洋戦争⑧「一億総特攻」〜「本土決戦」への道 (歴史群像シリーズ) 完本・太平洋戦争』学習研究社 編、学研パブリッシング、2010年。ISBN 978-4056060577。
- 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年。ISBN 4875380399。
- 五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』講談社〈講談社学術文庫〉、2005年。ISBN 978-4061597075。
- ジョージ・ファイファー『天王山―沖縄戦と原子爆弾』上、小城正(訳)、早川書房、1995年。ISBN 978-4152079206。
- ジョージ・ファイファー『天王山―沖縄戦と原子爆弾』下、小城正(訳)、早川書房、1995年。ISBN 978-4152079213。
- 大島隆之『特攻 なぜ拡大したのか』幻冬舎、2016年。ISBN 978-4344029699。
- リチャード オネール『特別攻撃隊―神風SUICIDE SQUADS』益田 善雄(訳)、霞出版社、1988年。ISBN 978-4876022045。
- アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦1939-45(下)』平賀秀明(訳)、白水社、2015年。ISBN 978-4560084373。
- 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年。ISBN 4809901785。
- 木俣滋郎『陸軍航空隊全史―その誕生から終焉まで』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年。ISBN 4769828578。
- 木俣滋郎『日本特攻艇戦史 震洋・四式肉薄攻撃艇の開発と戦歴』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2014年。ISBN 4769828578。
- 八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫プレミアムisbn=4122061180、2015年。
- カール・バーガー『B29―日本本土の大爆撃』中野 五郎(訳)、サンケイ新聞社出版局〈第二次世界大戦ブックス 4〉、1971年。ASIN B000J9GF8I。
- リンリ・オードリッジ『原爆投下』広島大学学術情報リポジトリ、1997年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土防空作戦』第19巻、朝雲新聞社、1968年10月。
- 渡辺洋二『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』光人社〈光人社NF文庫〉、2003年。ISBN 4769824041。
- Giangreco, D. M. (1997). “Casualty Projections for the U.S. Invasions of Japan, 1945-1946: Planning and Policy Implications”. Journal of Military History 61 (3). doi:10.2307/2954035. ISSN 0899-3718. JSTOR 2954035.
- Supreme Commander for the Allied Powers (1946). Final Report Progress of Demobilization of the Japanese Armed Forces, 30 December 1946. Bibliogov. ISBN 978-1288576678
- Haruko Taya Cook (1992). Japan at War: an Oral History. New Press. ISBN 978-1-56584-039-3
- Vic Flintham (2009). High Stakes: Britain's Air Arms in Action 1945-1990. Pen and Sword. ISBN 1844158152
脚注
注釈
- ^ 1日の兵員1,000名に対する平均死傷者数 ○太平洋戦域 戦死、行方不明1.95名 戦傷 5.50名 総死傷7.45名 ○ヨーロッパ戦域 戦死、行方不明0.42名 戦傷1.74名 総死傷2.16名
出典
- ^ Cook (1992). Japan at War: an Oral History. New Press. ISBN 978-1-56584-039-3 p. 403. Japanese strength is given at 4,335,500 in the Home Islands and 3,527,000 abroad.
- ^ 「本土決戦」計画と静岡における準備状況 Retrieved 2021.8.15
- ^ 米国戦略爆撃調査団 1996, p. 189
- ^ アレン・ボーマー 1995, p. 297
- ^ Staff Study Operations "Coronet" 15 August 1945 Retrieved 2021.8.15
- ^ アレン・ボーマー 1995, p. 204
- ^ Richard B. Frank (1999). Downfall: The End of the Imperial Japanese Empire. New York: Random House. p. 340
- ^ アレン・ボーマー 1995, p. 176
- ^ アレン・ボーマー 1995, p. 180
- ^ a b c d 太平洋戦争⑧ 2010, p. 58.
- ^ アレン・ボーマー 1995, p. 199
- ^ 太平洋戦争⑧ 2010, p. 59.
- ^