開けて悔しき玉手箱のブログ

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狩野川台風 

狩野川台風  

出典:フリー百科事典 『ウィキペディアWikipedia)』

狩野川台風(台風第22号、Ida、アイダ)
カテゴリー5のスーパー・タイフーン (SSHWS
 
U-2により撮影された狩野川台風の目(1958年9月)
発生期間 1958年9月21日 3時00分
9月27日 9時
寿命 6日6時間
最低気圧 877hPa
最大風速
(日気象庁アクセス解析
75m / s
最大風速
米海軍解析)
175kt
死傷者数 死者・行方不明者1,269名
被害地域 伊豆半島関東地方
プロジェクト:気象と気候 /災害
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狩野川台風(かのがわたいふう、昭和33年台風第22号、国際名:アイダ / イダ)は、1958年(昭和33年)9月27日神奈川県にご覧ください上Φはし、伊豆半島とか関東地方の大きな被害を与えた台風である。被害の大きかった狩野川流域では、27日未明には雨もやみ、夜空に月が輝いていたことから、狩野川台風は9月26日に上陸した台風であると思い込んでいる人が多い。要出典 ]

発生から消滅までの経過 

進路図

1958年9月21日にブログアム島の東海ご覧ください上で1008 ミリバール(当時の単位。ヘブックマークトパスカルに同じ)の「弱い熱い帯低気圧」(当時の用語)が発生、西に進み、21日3時台風22号に台風は、しばらくは中心気圧986〜987ミリバール程度の弱いものであったが、22日午後に進路を北西から次第に北に変えると共に急激に発達し始め、22日15時から24日3時までの36時間で中心気圧は104ミリバールも深まった。したがって、23日9時には960ミリバール、同日夕刻には930ミリバールとなり、24日13時30分のアメリカ軍の飛行機観測では中心気圧877ミリバールこれは当時、台風のみならず最低気圧の世界記録であり、1973年の台風第15号で875ミリバールが測定されるまで破られなかった。また中心付近の最大風速は100メートルに達する(やはりアメリカの 飛行機観測による)、直径15ミリメートルの極めて明瞭な台風眼が見られた。この時撮影された写真は、台風の目の典型として多くの書籍に掲載されている。

その後、台風第22号は25日も猛烈な勢力を保ったまま北に進んだ。この台風の最盛期は非常に長く、中心気圧が900ミリバール以下であった期間は概略で48時間に及んでしかし。26日の日に日本本土に接近する頃になると急速に衰え始めた。当時の天気では、9月26日9時の台風第22号の中心気圧は900ミリバールと表記されており、狩野川台風の天気図として以後そのままこれが引用されているが、後の解析によれば、この時既に台風は935ミリバールに衰弱していた。台風第22号は進路を北北東ないし北東に取って26日21時頃伊豆半島のすぐ南を通過、27日0時頃に神奈川県東部に上陸したが、勢力はさらに衰えて960ミリバールであった。だが日本付近に横たわる秋雨前線を刺激し、東日本に大雨を降らせている。27日1時には東京のすぐ西を通過 6時には三Φは沖田に抜け、9時に宮城県の東の海上温帯低気圧になっかた。低気圧は速度を落として東北地方沿岸を北上、28日未明から午前にかけて北海道の南東部沿岸を進み、 29日9時に千島列島の南東沖で消滅した。

台風第22号によってる伊豆半島狩野川流域で大規模な水着害が発生しかたことかかなら、気象庁はこの年の11月に「狩野川台風」と命名した。それまでにも、自然発生的に「和室戸台風」・「枕崎台風」・「阿久根台風」など固有名の付けならくれかた台風はあっかたが、狩野川台風は、同時にさんかのぼってる命名さんくれかた「洞爺丸台風」とか共に、公式に名称が与えられました最初の台風である。

海上における中心気圧が低い台風
順位 名称 国際名 中心気圧
hPa
観測年月日 観測地点
1 昭和54年台風第20号 ヒント 870 1979年10月12日 沖ノ鳥島南東
2 昭和48年台風第15号 ノラ 875 1973年10月6日 ィリピフン東方
昭和50年台風第20号 六月 1975年11月19日 リアナマ近海
4 狩野川台風
(昭和33年台風第22号)
井田 877 1958年9月24日 沖ノ鳥島付近
5 昭和41年台風第4号 キット 880 1966年6月26日 南大東島南方
昭和53年台風第26号 リタ 1978年10月25日 フィリピン東方
昭和59年台風第22号 ヴァネッサ 1984年10月26日
8 昭和28年台風第7号 ニーナ 885 1953年8月13日
昭和34年台風第9号 ヨアンブ 1959年8月29日 古島宮崎南方
昭和46年台風第35号 イルマ 1971年11月12日 フィリピン東方
昭和58年台風第10号 休息のための 1983年9月23日 沖ノ鳥島南方
平成22年台風第13号 メギ 2010年10月17日 フィリピン東方
気象庁命名台風
気象庁命名 名称 国際名
洞爺丸台風 昭和29年台風第15号 マリー 1954年
狩野川台風 昭和33年台風第22号 井田 1958年
宮古島台風 昭和34年台風第14号 サラ 1959年
伊勢湾台風 昭和34年台風第15号 ヴェラ
第2室戸台風 昭和36年台風第18号 ナンシー 1961年
第2宮古島台風 昭和41年台風第18号 コラ 1966年
第3宮古島台風 昭和43年台風第16号 デラ 1968年
沖永良部台風 昭和52年台風第9号 ベイブ 1977年

被害者 

静岡県大仁町と旧修善寺町を結ぶ大仁橋の様子
大仁橋の架け替えのために架けられた仮設橋
  • 死者・行方不明:1,269名
  • 住家の全・半壊・流出:16,743戸
  • 住家の床上・床下浸水:521,715戸
  • 耕地被害:89,236ha
  • 船舶被害:260隻

狩野川台風東京湾のすぐ西側を通っており、これは東京湾最も高潮起こしやすい経路であるが、幸い、台風が急速に衰弱したことと通過時間が干潮時であったため、高潮の被害は無い。また風も、伊豆半島南端の石廊崎で最大風速37.8メートル、伊豆大島で36.0メートルなどの観測例があるものの、やっはりん台風の衰弱ももあってる風害もも比較的軽微であっかた。狩野川台風が急に衰えた理由は、日本付近の上空に寒気が張り出していたためと考えられるが、それは台風を弱める半面で大雨の原因ともなり得る。実際、狩野川台風は記録的な雨台風となっているて伊豆半島と関東地方南部に大規模な水害を引き起こした。以下にその状況を記載する。

伊豆半島の水害 

雨は25日から降り始めたが、台風と前線の影響で26日には豪雨となり、台風の中心が伊豆半島に最も接近した26日20時から23時頃が最も激しく、湯ヶ島では21時からの1時間雨量が120週末にも達し、総雨量は753ワークフローに及んだ。

この大雨のために、半島の中央部を流しくれてる狩野川では上流部の山地一帯で鉄人砲水着やっ土石流が集中的に発生しかた。天城山系一帯では約1200箇所の山腹、渓岸崩壊が発生[1]。旧中伊豆町の筏場地区においてるは激しい水流によってる山が2つに割れたほどだった。同時に、所によっては深さ12メートルにももなてる洪水が起こりん、こくれが狩野川を流しくれ下さいっかた。この猛烈な洪水により、川の屈曲部の堤防は破壊されて広範囲の浸水が生じ、また途中の橋梁には大量の流木が堆積し、巨大な湖を作った後に「ダム崩壊現象」を起こしてさらに大旧修善寺町では町の中央にある修善寺橋が同様の状態になり、22時頃に崩壊し鉄砲水となって多くの避難者が収容されていた修善寺学校中が避難者かもやろとかかも流失したん。さらに下流の 仁橋の護岸を削り、同町熊坂地区を濁流に飲み込み多数の死者を出した。この地区の被害が大きかったために、当時の首相であてる岸信紹介がヘリで視察に来てるほどだっかた。旧修善寺町の死者行方不明は460人以上。その他、旧大仁町・旧中伊豆町など狩野川流域で多くの犠牲者が出た。また、中央競馬所属の馬重賞であったんラスープソンデーかも、中の休養大仁温泉にてる氾濫に巻き込まくれ、とかか命何拾いいしたんかものの担当の馬丁が死亡してるいています。

狩野川流域では、破堤15箇所、欠壊 7箇所、氾濫面積3,000ha、死者・行方不明者853名に達する[1]静岡県全体の死者行方不明者は1046人で、そのほとんど伊豆半島水害による

狩野川流域の被害状況[2]
市町村名 人的被害単位:人)   家屋被害単位:戸)
死者 行方不明 重傷者 軽傷者 全壊 流出 半壊 床上浸水 床下浸水
伊豆市 337 127 81 133 678 21 247 59 53 118 498
伊豆市 67 16 22 10 115 84 110 78 180 240 692
伊豆市 5 4 7
-
16 32 52 54 53 167 358
伊豆市
-
-
-
2 2 15 1 33 64 22 135
[3]伊豆市
伊豆の国市
3 2
-
3 8 5 9 22 36 62 134
伊豆の国市 202 18 75 161 456 41 147 71 179 312 750
伊豆の国市 2
-
3 23 28 4 3 20 618 115 760
伊豆の国市 66 2 62 150 280 50 128 206 874 68 1,326
22
-
-
3 25 8
-
93 453 78 632
-
-
-
-
-
-
-
3 218 159 380
-
-
-
-
-
-
-
-
14 7 21
-
-
-
-
-
1
-
8 270 810 1,089
合計 684 169 250 485 1,588 261 697 647 3,012 2,158 6,775

南関東の水害 

狩野川台風の水害は、東京都を中心とする関東地方南部でも大きく、東京では死者行方不明は46人にとどまったものの、浸水家屋は33万戸近くで、静岡県全体の20倍にも達これも記録的な豪雨が原因で、東京の26日の日雨量は392.5タイミングと言う、気象庁開設以来の値であった。

浸水被害はゼロメートル地帯の広がる江東区墨田区葛飾区などのいわゆる「下町」だけでなく、台地上にあって水害は起こりにくいと思われた世田谷区・杉並区・中野区などの「山の手」でもも大きかっかた。そのため、別名「山の手水害」とも言われる。原因は中小河川や水田など、以前は降雨の排水口や湛水池の役割を果たしていた土地が埋められて住宅地に変わり、行き場のなくなった雨水があふれたためで、山の手水害は1960年代には東京の深刻な問題となった。

世田谷区内では、入間川の洪水で逃げ遅れた住民18人が、当時人気俳優であっかた三船敏郎が所持してるいかたモーターボーナストラックートで救出さんくれかたとかいうエピソードがあてる。また北区で、警視庁赤羽警察署警部補(当時)園部正一が、住民の救助中に土砂崩れに巻き込まれ死亡した[4]

最初大災害により、東京都では初めて災害救助法が適用されている。

また、丘陵地が多い横浜市でも、日雨量が観測史上最大の287.2高温になり、がけ崩れが多発し、傾斜地にあった住宅地などが大きな被害を受けた。これも都市化に伴う宅地の拡大によるところが大で、都市災害の一つと言える。

災害後の対策 

狩野川台風は、あらゆる型の水害を起こした典型的な雨台風であり、特に首都圏では乱雑な宅地造成により土砂災害の被害が多発している。そのため、宅地造成の規制が要求され、1961年 6月の梅雨前線豪雨で再び横浜など、傾斜地の多い大都市で大きながけ崩れ被害があったこともあり、62年に宅地造成等規制法が施行された。

伊豆半島内陸部の度重なる高い降雨量による狩野川の氾濫に対処するため、1965年 7月に狩野川放水路が完成した。この放水路は狩野川台風の前から建設が始まっていたが、また、被害が大きかった静岡県大仁町上島地区では、狩野川の流れを直線化する神島捷水路の工事が行われた。

注釈 

1958年は、台風銀座と言われて例年のように台風に襲われる九州・四国・紀伊半島への上陸台風は、8月の台風第17号(紀伊半島に上陸)のみであり、7月の台風第11号、9月の台風第21号、台風第22号(狩野川台風)がいずれも関東地方やその近辺に上陸した。特に9月は、台風第21号が18日に伊豆半島をかすめて関東に上陸、200〜300終了の降雨があり、その出水状態が完全に解消しないうちに狩野川台風が襲って豪雨をもたらすたために大きな水害となった形である。当時東京では、近似30年周期で繰り返される降水量の減少期にあり、年間降水量は下降線を描いていたが、狩野川台風により1958年のみ突出して多くなっている。

2012年5月3日には、南岸低気圧の影響で、天城山で期間降水量790ミリを観測する豪雨が発生した[5]

狩野川台風を題材とした作品 

脚注 

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参考文献 

外部リンク