有田焼 陶芸家 14代 金ヶ江 三兵衛さん
初代は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の時に、日本に連行された朝鮮陶工でした。豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)/ 羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤。三英傑の一人。
はじめ木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。
本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。
尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれた。
当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表した。
信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、織田家内部で勢力争いを起こし、信長の後継の地位を得た。
大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を臣従させ天下統一を果たした。
太閤検地や刀狩などの画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げるが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没した。
墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城など機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
文禄元年(1592年)朝鮮に進行した。
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年(日本:文禄元年、明および朝鮮:万暦20年)から1598年(日本: 慶長3年、明および朝鮮:万暦26年)にかけて行われた戦争。
日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と明および李氏朝鮮の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を戦場にして戦われた。
日本と明・朝鮮連合軍との間で展開したこの国際戦争は16世紀東アジア最大の戦争とされる。
文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄2年)に休戦した。
また、慶長の役は1597年(慶長2年)講和交渉決裂によって始まり、1598年(慶長3年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。
なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は元号的には天正20年の出来事である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9東京大学大学院教授
村井 章介 氏
専門は、9世紀から17世紀にかけての日本の対外関係史で、とくに日本・朝鮮(韓国)・中国といった国家の枠組みを超えて、人々が活動し、「地域」を形成していく動きに関心をもち、商人、禅僧、海賊(倭寇)などの人間集団の行動と意識のあり方や、それらが展開される場としての船、航路、港町などを研究の対象としている。最近は、そのような交流をモノとして語ってくれる典籍・経典・肖像画・彫刻・陶磁器などの文化遺産にも手を伸ばしている。そのほか、日本中世の政治史や古文書学にも関心を寄せている。
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文禄・慶長の役
勝者なき戦いと説明していました。
秀吉は、朝鮮を足がかりにして大陸へ兵を送ろううとした。そのことによって、中国 朝鮮だけではなく アジア全体に 非常に大きな影響を及ぼした。
秀吉は、大胆で無謀と思える行動に見えますが。。。。
アナ 秀吉は、戦国時代を勝ち抜いて覇者となりました。
戦国時代の激しい戦いのの中で、「研ぎ澄まされた戦力を日本の最大の規模でもつようになった」この事により軍事的な力を身につけた自信。
もう一つは、「戦国時代は 大名が分立して ひとつの結集した力ができなかった」それを日本全体を一つにまとめての結果を日本の外に目を向けたのではないかと、説明していました。
名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。
ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があったが、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。
名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。
五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。
城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。
秀吉の死後、大陸進攻は中止され城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる。
石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。
歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%AD%B7%E5%B1%8B%E5%9F%8E
戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。
乱世により室町幕府の権力は完全に失墜。
守護大名に代わって全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現した。
ほぼ恒常的に相互間の戦闘を繰り返すとともに、領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めていった。
こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。
大坂城・大阪城(おおさかじょう)は、摂津国東成郡大坂(現在の大阪市中央区大阪城の大阪城公園)にあった安土桃山時代から江戸時代の城である。
別称は金城あるいは錦城で、大坂が近代に大阪と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。
上町台地のほぼ北端、石山本願寺の跡地に1583年(天正11年)、豊臣秀吉が築城を開始した。
完成に1年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施された。
秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、3重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された。天守は、絵画史料では外観5層で、「大坂夏の陣図屏風」や「大阪城図屏風」では外壁や瓦に金をふんだんに用いた姿で描かれており、それに則した復元案が多くある。
大坂城の普請中に秀吉を訪問し、大坂城内を案内された大友宗麟は、大坂城を三国無双(さんごくぶそう)と称えた。
築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第、伏見城を次々に建造し、大坂城よりもそれらに居城した。1599年(慶長4年)秀吉の死後、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%9F%8E
秀吉は、4年後には九州制圧した。
小田原平定
小田原平定(おだわらへいてい)は、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が後北条氏の居城小田原城を包囲し、北条氏政・北条氏直父子を降した戦役。小田原城の攻囲戦だけでなく、平行して行われた北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。小田原攻め、小田原征伐、小田原合戦とも呼ばれる。また、従来は「小田原評定」という諺に代表されるように後北条氏を低く見る傾向があったが、研究が進んで新しい事実も出てきている
http://kirameki.yu-yake.com/
奥州平定
下総国相馬郡を所領していた相馬氏は、文治5年(1189)源頼朝の奥州平定に従軍し、その功績によって奥州行方郡を与えられました。
鎌倉時代末に行方郡に移住し、南北朝期以降の動乱のなか、隣接する標葉郡と宇多郡にも勢力を伸ばし領主権を確立していきます。
奥州で最初の居住地となったのは、行方郡太田村(南相馬市原町区)の別所の館でした。
約3年後には、そこから南に位置する小高村(南相馬市小高区)に移り、以後3世紀にわたり相馬氏の居城となる小高城を築きました。
この間に勢力を広げた相馬氏は、16世紀半ばから半世紀にわたって戦を続けてきた奥州の大藩伊達氏に備えるため、慶長16年に中央に便利な小高から、相馬藩領の北端に近い中村(相馬市中村)の地に築城し移り住みました。
これが相馬氏の居城としての中村城の始まりです。
http://www.city.soma.fukushima.jp/rekisi/nakamura/history01.html
この後秀吉は、東アジア支配にむけて動き始めました。
秀吉が文禄の役の2年前に朝鮮の国王に送ったのが
続善隣国宝記(ぞくぜんりんこくほうき)は、江戸時代に編纂された外交文書集。
室町時代に編纂された『善隣国宝記』の継承する意味を有した書名と考えられている。
ただし、内容の異なる3系統の同名書が存在する上、その派生とも言われている続善隣国宝外記・善隣国宝別記の2種類の外交文書集も存在している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E5%96%84%E9%9A%A3%E5%9B%BD%E5%AE%9D%E8%A8%98
秀吉が日輪の子だとの主張がなぜバカにされるのか
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20110122/1295679760
その中で秀吉は、慈母日輪喪中に入るを夢む「母が自分を宿す時 日輪が体内に入る夢をみた」としるしてありました。
つまり、自分は太陽の子であると宣言。
日光の及ぶ所 太陽の光が届く所つまり、この世に君臨するのは、自分であるとその正当性を訴えていました。
さらに秀吉は、ただちに明に入り これをへいていすること。
「超直入大明国可隣国 也」その時 朝鮮が兵を率いて加われば 日本と朝鮮の関係は さらに強いものとなるだろうと 記しています。
日輪の子として秀吉は、朝鮮を従属国とみなし 明 征服のさきがけとさせようと したのです。
これにたいし朝鮮側は、秀吉のこうあつてきな要求を拒絶 しました。
明と くんしん関係にある朝鮮にとっては、秀吉に手を貸す事など できませんでした。
と、説明していました。
壬辰 倭乱
じんしんわらん
豊臣秀吉による文禄の役の朝鮮側からの呼称。
慶長の役は丁酉(ていゆう)倭乱という。
釜山城「から20日で漢城ソウルを攻略
豊臣秀吉朱印状(関白宛)データーベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%96L%90b+%8FG%8Bgd
大唐都へ叡慮(天皇)うつす・・・・・(十か国可進上候)天皇を北京へ移し 周辺の十カ国を進上する事。
大唐関白に秀吉の甥の 秀次をすえ十か国を与える事が記されています。
また、同じ時期に書かれた書状には、中国ニンポ―に居を構え 天ちく(インド)支配する考えを示していました。
他の国にも こうあつてきな外交を展開しました。
日本に服属しなければ、軍勢をおくり 攻撃すると記した書状を高山国(台湾)フィリピンに送りました。
しかし、朝鮮での戦局は秀吉の思惑どうりには 進みませんでした。
明が朝鮮に援軍を投入日本は 戦線の縮小を余儀なくされました。
また、海上では、強力な朝鮮船軍の反撃によって 、日本は大きな打撃を受けました。
秀吉の未来図。
北京に日本の天皇を移す。
そしてその補佐として 唐の関白を設ける。
日本には、日本の天皇当時の王子を置く。
そして、補佐には日本の関白を設ける。
そして高麗は、自分の内の武将をつけまかせる。
秀吉は、にんぽーに移る予定でした。
中世以来交易の交差点がにんぽーでした。
当時日本人が必ず入港した港です。翌年 明の使節団がやってきました。
和平の交渉をする為でした。その時秀吉は 朝鮮の実情を正しく認識していませんでした。
そのため 明の使節が謝罪に来たと受け止めていました。
秀吉は和を結ぶ為に、七つの条件をつけました。
明の皇帝の娘を妃にする事。
朝鮮の王子を人質に差し出す事。
明との勘合貿易を再開させる事。
朝鮮半島の北部と漢城は 返還する事。
これは、事実上半島の南半分を日本の領土として割譲 して もとめました。
3年後、明からもたらされた返答は、秀吉の予想を裏切るものでした。
明神宗刺論 から・・・そこには秀吉を日本国王と認めるいっぽう七つの割譲にはいっさい 触れていませんでした。これに激怒。。
再び朝鮮えの進行を決断します。
慶長の役 (丁酉倭乱)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
文禄の役より残虐になっていきました。
鼻請取状 兵士や民衆の鼻や 耳を 切り落とし 戦功の証として、日本に送られてりもしました。
やがて、泥沼かしていきます。
明と朝鮮軍に攻め込まれ秀吉の軍勢は、厳しい籠城戦になりました 。
水も底をつき馬を殺して飢えを凌ぎました。
朝鮮日々記
http://library.pref.oita.jp/kento/reference/case/oita/a_069.html
僧侶から、 地獄はよそにあるのではない 目の前にある・・・・・・慶長3年(1598)八月。
秀吉が伏見城で死去。
文禄の役が、始まって7年後のことでした。