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「選民」であるという感覚は宗教に関連して、また宗教以外の事柄にも関連して起る場合がある。例えば、主にキリスト教徒である「アボリショニスト」(奴隷制廃止論者)たちは、自分たちは奴隷たちに自由と権利の平等をもたらすために神に選ばれたと考えていた。 一方で、奴隷所有者(彼らもまたキリスト教徒が大半であったが)の多くも、自分たちは神から奴隷を所有し売買する権利を与えられていると考えていた。 19世紀後半から20世紀前半にかけては、主に列強諸国において生物学的視点から自国民もしくは自民族の優位性を唱える思想が流行

選民

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選民(せんみん)とは、特定の宗教集団(民族、信者)が、自分たちはと契約した、神に選ばれたという意識と世界に対する導きの使命感を基礎とし、特別な存在と信じていること。またはそうして、自分たちが選ばれた民と標榜している思想  。もっとも代表的なものがユダヤ教におけるユダヤ人である。彼らはこの思想を信じていたために、国を失って2000年間も四散しても民族の結束を保てた 

思想の類型

「選民」であるという感覚は宗教に関連して、また宗教以外の事柄にも関連して起る場合がある。例えば、主にキリスト教徒である「アボリショニスト」(奴隷制廃止論者)たちは、自分たちは奴隷たちに自由と権利の平等をもたらすために神に選ばれたと考えていた。 一方で、奴隷所有者(彼らもまたキリスト教徒が大半であったが)の多くも、自分たちは神から奴隷を所有し売買する権利を与えられていると考えていた。

19世紀後半から20世紀前半にかけては、主に列強諸国において生物学的視点から自国民もしくは自民族の優位性を唱える思想が流行した。ドイツのナチスアーリア民族が優等であると考え(アーリアン学説#アーリア人種仮説へ参照)、より「劣等」である他人種に対し社会的に上位に立つ資格を有すると考えた。

他にも、多くの宗教組織、慈善組織が、病人や苦しんでいる人を助けるために自分たちは神に選ばれたのだと考えている。

したがって、選民であるという感覚は、しばしば特定のイデオロギー運動と関連している。選民思想とは、人々を目的の達成へとより激しく駆り立てる、自分が重要な存在であると認識する感覚なのである。

他にはいわゆるマイノリティではあるが逆選民思想ともいえる低所得層とその他の層を隔離し、低所得者層による社会を構築することによってその他の層の民度などを守るといった考えもある。

啓示を受けるために選ばれたという思想 

多くの宗教では、神はある特定の預言者メッセンジャーに啓示を下したと信じられている。これらの宗教のうちのいくつか、例えばキリスト教イスラム教のいくつかの宗派では、彼らの説く道こそが救済への唯一の道であると教える。一方、他の宗教、例えばキリスト教イスラム教の他の宗派やユダヤ教、 ヒンドゥー教シク教仏教ウイッカ、また超越主義などでは、その信仰の信者が神へと至る唯一の道を知っているわけではないと考えられている。彼らは他の宗教の信者たちも、それぞれに神へと至る道を持ち得ると考えているのである。

ユダヤ教選民思想は、まずトーラー(モーセ五書)に見ることができる。そしてより後代に成立したタナハ(ヘブライ語聖書:キリスト教旧約聖書はほぼこれを踏襲)の中により洗練された形で表現されている。「選ばれた」というこの状態は、「聖約」(聖書に記された神との契約)に示されているように、責任を負うとともに祝福を受けるというものである。この話題については、ラビ文学に多く扱われている。旧約聖書選民思想が表れているところとして、「神」が聖書の中でユダヤ人を「この世で唯一無二の民族」(goy ehad b'aretz)と宣言している 

選民思想とは、古代ヘブライユダヤ)人の独特の宗教観を指す言葉であり、出エジプトやバビロン捕囚などの民族的苦難を味わったために作りあげられた思想である。この思想において、ヘブライ人だけがヤハウェの神に選ばれた民であり、神は必ずメシア(救世主)を送って救ってくれると信じた。後にユダヤ民族からイエス・キリストが産まれ、ユダヤ教のこの思想を批判した。 非ユダヤ人向けには「ノアの戒律」と呼ばれる7つの非ユダヤ人の戒律体系があり、これらを守っていれば良いとされる 

シャブタイ・ツヴィは17世紀にスペインからトルコに移住したユダヤ人であり、メシア運動を展開したことでユダヤ教サバタイ派の始祖となった。神秘主義思想カバラに傾倒し、1665年にイズミルで自身をメシアと宣言した。ユダヤ教選民思想・終末観と結びついた運動は欧州にまで拡大したが、オスマン帝国当局に逮捕された後はイスラム教徒に改宗し、メフメト・エフェンディと改名した 

アインシュタインは、1954年に宗教・信仰について「子どもじみた迷信」、ユダヤ人が神に選ばれた民だという選民思想についても「ユダヤ教は、ほかの宗教と同じく子供じみた迷信の権化」「ユダヤ人であることを光栄に思っているし、強い親近感を抱いていているが、わたしにとっては他の民族と変わらない」と否定的見解の手紙を残している 


第二次世界大戦後においては、中東戦争及びパレスチナ問題を引き起こしたシオニズム活動の大きな要因のひとつとして、ユダヤ教徒における選民思想が機能している。これは、ユダヤ教の教理に含まれる、パレスチナは神によって約束されたユダヤ人のための土地であるという考えに基づく入植、建国活動である。ユダヤ人国家建設の地としてアフリカも候補に挙がっていたが、このシオニズム思想の影響もあって現イスラエルの地での建国を目指すべきと会議で決定した。(要出典)イスラエル建国は当初、パレスチナ人から土地を購入し入植することで進められたが、徐々に入植者とパレスチナ人との間で軋轢が生じ、パレスチナ問題に至っている 

「スーパーセッショニズム」(取替理論 en:Supersessionism)という多くのキリスト教徒が信じている考え方がある。これは、キリスト教徒がイスラエルの民に代って「神から選ばれた人々」になったという思想である。この考え方によれば、ユダヤ人の選民性はイエス・キリストの言葉によって最終段階へと到達したのだから、キリスト教徒に改宗しないユダヤ人は、キリストがメシアであり神の子であるということを否定しており、したがってもはや選民とは呼べない、ということになる。スーパーセッショニズムを信奉するキリスト教徒は、聖書の「ヨハネによる福音書」14:6の、キリストのものとされる次の言葉を引用して、キリスト教徒のみが天国へ至ることができるのだと主張する。「私が道であり、真理であり、生命である。私を通らずに父の元へ至る者はいない。」

一方で、スーパーセッショニズムを否定し、他宗教の信者も天国に至ることができると信じるキリスト教徒もいる。彼らは、例えば「ローマの信徒への手紙」2:6-11の言葉を引用する。「なぜなら神は(中略)それぞれの行いに応じて人々に接するからだ。辛抱強くよい行いをし、栄光と名誉と不滅を求める者には永遠の命を与えるであろう。しかし利己的な野心を追求し、真理に従わず不義に従う者には、怒りと憤りを示すであろう。悪を行う人には、ユダヤ人はもちろんギリシア人であろうと、必ず苦しみと悩みが訪れ、そして善を行う者には、ユダヤ人はもちろんギリシア人であろうとも、必ず栄光と名誉と平和が訪れるだろう。なぜなら神は人々を分け隔てしないからだ。」

また、イスラエルの民が引き続き選民であるとするキリスト教徒はクリスチャン・シオニズムと呼ばれて一定の勢力を持っており、キリスト教右派の支持を受けたジョージ・W・ブッシュ第43代アメリカ合衆国大統領ユダヤ人を選民と発言した際はアラブ人の反発を招いてる 

カトリック教会

カトリック教会では長きにわたり、カトリシズムを奉じる者以外(プロテスタント諸派や異教徒、無宗教)に救いはないと教えてきた。しかし第2バチカン公会議以降の多元主義の流れに沿って、現在では福音に触れる機会がなかった、あるいは洗礼を受ける機会がなかった人々であっても神による救いの機会が与えられるとしている 

末日聖徒(モルモン教)

末日聖徒イエス・キリスト教会モルモン教)においては、信者である末日聖徒は自身を選民として考えている。スーパーセッショニズムとは対照的に、末日聖徒はユダヤ人の選民性については論じない。モルモンの教義ではモルモンは「ユダヤ人の血縁である」と教えている。事実、末日聖徒は彼らが次の二つのどちらかにあてはまり、よってイスラエルの失われた10支族であるからこそ選ばれた人々であると考える。すなわち、(1) 一部のアメリカ人、ヨーロッパ人、アジア人、そしてアフリカ人については、末日聖徒は、直接に(通常はエフライム族を経由して)イスラエルの失われた10支族の血を受け継ぐと主張する。(註)(2) 他の末日聖徒はモルモンの教義を認めた際に、養子としてイスラエルの失われた10支族の一員となると考える。

(註)近年、DNA検査により、イスラエルの失われた10支族の末裔がアジアとアフリカの両方に存在すると判明した。これらの人々にはイスラエルに移住する法的権利が与えられている。

世界平和統一家庭連合(旧称:統一教会)の教祖文鮮明は、大韓民国こそが神に選ばれし国であり、神からの使命を達成するために選ばれた国であると教えている。更に文鮮明曰く、韓国・韓民族は「神によって時代の指導者の生地として選ばれ」たのであり、神の王国の先駆けとして「天上の伝統」が生まれるべき土地として選ばれたのであるとしている。

統一教会(現:世界平和統一家庭連合)の教義において、韓民族は選ばれた民であるとの選民思想が貫かれており、「第3イスラエル選民」と規定している。逆に、日本をサタン側の国であると教義にしているため、産経新聞によると日本人信者は「だから韓国に対して謝罪を続けなければならない」と自虐史観を刷り込まれた犠牲者と報道している 

元日本統一教会本部広報局長で、教団メディアである『世界日報』元編集長であった副島嘉和によると統一教会の教義は「韓民族が選民であり、他民族に優越している」「韓国語が世界共通語になる」と韓民族至上主義を教えおり、韓国が世界の中心であるとする「韓国中心主義」が説かれている 

イスラーム教においてはムスリムが選民であるとする信条とそうではないとする信条が併存する。

ムスリムキリスト教徒、ユダヤ教徒は等しく同一の神に仕えていると考えるムスリムクルアーンのうち3:64、5:5、3:199、16:125、5:82、29:46、3:113-115、2:62のような章句を引き、一方、イスラームキリスト教徒やユダヤ教徒と敵対的なものとしてとらえるムスリムは、5:51、3:71、2:75のような章句をとる(章節番号はいずれもカイロ版による)。

イスラーム選民思想では神の啓示を正しく伝える唯一の人々はムスリムだけである。これによるとユダヤ教キリスト教双方の指導者は故意に神の啓示を変質させ信徒を誤まった道に導いたとし、クルアーンではユダヤ教徒キリスト教徒といった他の啓典の民(3: 67)は「偽り」であり(3: 71)、ある者は「ゆがめてる」(4: 46)としている。

クルアーンでは、ムスリムと非ムスリムの違いを「意味の壊乱」(アラビア語: تحریف المانای taḥrīfi al-mānā)に求める部分がある。この観点においては、ユダヤ教徒への聖書、キリスト教徒への福音書は真正なものであるが、ユダヤ教徒キリスト教徒はその啓典の意味を誤って理解しており、したがって明確に神の意志を理解するためにはクルアーンが必要であることになる。またクルアーンには、多くのユダヤ教徒キリスト教徒は故意に啓典を改竄し、神の言葉を変容させて信徒を欺いている、と言う部分もある。この教義は中世イスラームユダヤ教キリスト教に対する議論を通じて深化し「文言の改悪」(アラビア語: تحریف الافزی taḥrīfi al-afzā)の教義として知られる。

しかしキリスト教徒、ユダヤ教徒に対する親近感を抱くムスリムであっても、非アブラハム系の宗教の信者に対する選民意識を持っている場合がある。この場合彼らはムスリムの視点からみると「偶像崇拝」をしており、極端な場合空虚で価値のない教えを信じているとみなされることもある。原理主義ムスリムの場合、キリスト教徒やユダヤ教徒も含めて、すべての非ムスリムは「地獄に落ちる」とされることもある。 

ムスリムの選民意識の具現化としては、非ムスリムとの婚姻に際して相手に改宗を要請すること、イスラームからの離脱の忌避などがあげられている。またイスラーム国家では、選民思想に従い非ムスリムに対するさまざまな差別が課される。

インドカースト制度は、「選ばれた」存在であるバラモンの先天的権利をある程度認めており、インドではヒンドゥー至上主義も支持を受けている。一方で、自らを「選民」と考えるいくつかのカルト新宗教も存在する。例えば、Brahma Kumari World Spiritual Organisationという団体は、世界が終末にあってまもなく滅びる運命にあり、彼らの指導者ブラフマ・ババに今従う者だけが「黄金の時代の天国」に生きることができると説く。すなわち、ブラフマ・ババのみが超越的存在、つまり神の唯一の仲介者であると考えるのだ。

Brahma Kumari World Spiritual Organisationに特徴的な歴史循環の考え方によれば、全ての他のアバター(権現)や預言者はやがて彼らの神のもとを訪れ、部分的に過ぎないもののその教えを享受し、彼ら自身の教えを再構築することになるのである。彼らのみが神の教えの全貌を知っているのであり、完全に無垢となれるのである。

ラスタファリ運動(黒人優越宗教運動)

ラスタファリ運動(ラスタファーライ、Rastafari)は、1930年にジャマイカから始まった社会宗教運動であり、エチオピアのラス・タファリ(エチオピア皇帝としての戴冠後の名は ハイレ・セラシエ帝)を救世主と信じることか由来である 。 黒人民族主義の指導者 マーカスガーベィを予言者とし、当時唯一アフリカで植民地化されていないエチオピアハイレ・セラシエ皇帝の即位される年が黒人開放してくれる時だと主張した 

6つの根本教義を持っている。なかでも最重要なものは、ジャーという名のエチオピア先祖神に根源を持つ黒人種優越思想である。彼らはジャーの眼力によって、全てのほかの民族に対して、精神的にも、肉体的にも最高度に超越出来うると信奉している。またこの信者の多くのものが、選ばれた少数者ならば、今のままの肉体を永遠に維持できるとする不死の信仰を持っている。死なないと言うのみならず、不変・不朽であると言うことが、この信仰の特長である。

この信仰はユダヤ聖書の信仰と、ケブラ・ナガスタ(Kebra Nagasta)という名のエチオピアの王列伝を基にしたエチオピア伝説を根本にすえている。彼らはソロモン王を信じ、並びにシバの女王を信仰している。そして両者の媾合による子孫がソロマニック・ライン(Solomanic Line)としてエチオピア王家を継いだと信じている。ゆえに彼らの信仰はエチオピア信仰である、またユダヤ信仰でもある。

この信仰に基づき、現実の政治行動が取られたこともあった。1985年スーダン大飢饉の時、オペレーション・モーゼという作戦名で、ベータ・イスラエル命名されているエチオピアユダヤ人共同体が、そのままイスラエルへ移送され、救出された。

オウム真理教には、ハルマゲドンは回避できず、 成就者・解脱者などの超能力を持つ新人類が生き残り、新しい王国を築くという選民思想が出現する 

脚注・参考文献

  1. 副島嘉和,井上博明「これが「統一教会」の秘部だ」『文藝春秋1984年7月号 p134~151
  2. 三訂版, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社世界史事典. 選民思想とは”. コトバンク. 2022年11月28日閲覧。
  3. サムエル記上』7章23節および『歴代志上』17章21節)
  4. 第2版,世界大百科事典内言及, 世界大百科事典. サバタイ・ツビとは”. コトバンク. 2022年11月28日閲覧。
  5. Bush hails Israel's "chosen people" as Arabs lament | Reuters, Thu May 15, 2008
  6. 真理の教え『イスラーム』を知る ここでは『最初のアーヤではアッラーのみ許にあるディーン(教え)はイスラームしかないということが伝えられ、もうひとつのアーヤではアッラーイスラーム以外誰からもディーン(教え)を受け入れられないということが伝えられています。死後幸福を得るものはムスリムだけなのです。イスラーム以外の教えで死んだものはアーヒラ(来世)において失敗者で、ナール(業火)で罰せられるのです。』とイスラーム以外のすべての宗教は地獄に落ちると主張している。また『救い(ナジャー)と幸福を望むユダヤ教徒達やキリスト教徒達が本当にムーサーやイーサー(イエス)の追従者になるためにはイスラームに入ってイスラーム使徒ムハンマド(アライヒッサラート・ワッサラーム)に追従すべきなのです。ムーサーやイーサーやムハンマドそれに他のすべての使徒達もムスリムアッラーへの追従者)で、イスラームアッラーへの服従)を説いたのでした。イスラームは既に使徒達に遣わしたアッラーの教えと同じなのです。使徒達の封印であるムハンマド(サッラッラーフ・アライヒ・ワ・サッラム)が遣わされた後、いかなる預言者もこの世の終末まで現れず、従って預言者と名乗ることは違法』として、キリスト教徒やユダヤ教徒の信仰の存在価値を否定し、更にイスラーム以降の預言者たちはすべて偽預言者であると主張している
  7. 武田道生「現代の終末予言宗教 ・オウム真理教の終末論研究の意味と課題」宗教と社会1997 年 2 巻 Suppl 号 p. 66-72

関連項目

アメリカ合衆国の政治に「文化戦争」という表現が使われるようになったのは、1991年にジェームズ・デイビッド・ハンターの『文化戦争: アメリカを定義するための争い』(Culture Wars: The Struggle to Define America)が出版されたことがきっかけだった。ハンターはこの本で、妊娠中絶、銃規制、地球温暖化、移民、政教分離、プライバシー、娯楽薬、同性愛、検閲などの問題をめぐり、アメリカ合衆国の政治と文化が分裂し、再編され、劇的に変容していると論じた。 カナダにおいては、保守主

文化戦争

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文化戦争(ぶんかせんそう、: culture war)とは、伝統主義者・保守主義者と進歩主義者・自由主義者の間における、価値観の衝突である。アメリカ合衆国では1990年代以降、公立学校の歴史および科学のカリキュラムをめぐる議論など多くの問題に、文化戦争が影響している。

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2017年8月にバージニア州シャーロッツビルで開催されたユナイト・ザ・ライト・ラリーは、オルタナ右翼による文化戦争の戦いと見なされる 

アメリカ合衆国の政治に「文化戦争」という表現が使われるようになったのは、1991年にジェームズ・デイビッド・ハンターの『文化戦争: アメリカを定義するための争い』(Culture Wars: The Struggle to Define America)が出版されたことがきっかけだった。ハンターはこの本で、妊娠中絶銃規制地球温暖化移民政教分離プライバシー、娯楽薬、同性愛検閲などの問題をめぐり、アメリカ合衆国の政治と文化が分裂し、再編され、劇的に変容していると論じた。

カナダにおいては、保守主義自由主義の対立だけでなく、カナダ国内における西部と東部の対立や、都市田舎の対立にも「文化戦争」が使われる 

語源

英語における「culture war」(文化戦争)は、ドイツ語の「Kulturkampf」(文化闘争)の翻訳借用である。ドイツ語における「Kulturkampf」(文化闘争)は、ローマ・カトリック教会の影響に対抗する政策を1871年から1878年にかけてとった宰相オットー・フォン・ビスマルクの政権下で起きた、ドイツ帝国における文化的および宗教的グループ間の衝突を指す 

アメリカ合衆国における用法と歴史

アメリカ合衆国においては、文化戦争とは一般に伝統主義者・保守主義者と進歩主義者・自由主義者の価値観の衝突を指す。

こうした衝突は、アメリカ合衆国における都市と田舎の価値観の対立が鮮明になった1920年代まで遡る 。こうした対立の背景には、ヨーロッパからの初期の移住者たちが「エイリアン」と見なした人々の移住が、数十年にわたり続いていたことがある。また、「狂騒の20年代」と呼ばれた1920年代の文化的な変動と近代化の潮流も、こうした対立の一因であった。1920年代に始まったこうした価値観の対立は、アル・スミス1928年の大統領選挙キャンペーンで頂点に達した 

1991年にジェームズ・デイビッド・ハンターの『文化戦争: アメリカを定義するための争い』(Culture Wars: The Struggle to Define America)が出版されたことで、「文化戦争」はアメリカ合衆国において再定義された。ハンターは、文化戦争の概念は1960年代まで遡ることができるとした 。以来、ハンターが焦点を当てたアメリカ的文化戦争とその定義は、さまざまな形を取り続けている 

2014年から現在

ゲーマーゲート集団嫌がらせ事件コミックスゲートサッド・パピーズなど、2010年代に発生した大衆文化の多様性に関する多くの対立は、文化戦争の例としてメディアで言及された 。ジャーナリストのケイトリン・デューイは、ゲーマーゲートを、女性やマイノリティを文化組織にもっと受け入れたいと願う人々と、そうではない反フェミニストや伝統主義者との間の、より大きな文化戦争のための「代理戦争」と表現した 。2015年に作家のジャック・メザーブは、文化戦争の対立が選挙政治だけでなく大衆文化に及んだという認識から、映画、ゲーム、作品を「文化戦争の最後の前線」と呼んだ 

大衆文化における表現に関するこれらの対立は、オルタナ右翼Alt-liteという形で選挙政治に再び現れた 。メディア学者のホイットニー・フィリップスによると、ゲーマーゲートはハラスメントや物議を醸す戦略の「プロトタイプ」を作り出し、政治戦略に役立つことが証明された。例えば、共和党の政治戦略家であるスティーブン・バノンは、ドナルド・トランプの2016年の大統領選挙期間中に大衆文化の論争を宣伝し、若年層に「ゲーマーゲートか何かを通して政治に参入し、トランプに目を向ける」ように勧めた 

脚注

  1. Buffington, Melanie L. (January 1, 2017). “Contemporary Culture Wars: Challenging the Legacy of the Confederacy”. Journal of Cultural Research in Art Education 34: 45–59. doi:10.2458/jcrae.4883. ISSN 2152-7172 2020年5月24日閲覧。.
  2. Caplan, Gerald (2012年10月20日). “Culture clash splits Canadians over basic values”. The Globe and Mail (Toronto)
  3. Spahn, Martin (1910). "Kulturkampf"The Catholic Encyclopedia. Vol. 8. New York: Robert Appleton Company. 2015年3月27日閲覧
  4. Seminar on the Culture Wars of the 1920s (Fall 2001). 2015年3月27日閲覧。
  5. Dionne, E. J.. Culture Wars: How 2004”. Octorber 13, 2015閲覧。
  6. Holt, Douglas; Cameron, Douglas (2010). Cultural Strategy. Oxford University Press. ISBN 978-0-19-958740-7
  7. Andrew Hartman, A War for the Soul of America: A History of the Culture Wars (University of Chicago Press, 2015)
  8. Hurley, Kameron (9 April 2015). "Hijacking the Hugo Awards Won't Stifle Diversity in Science Fiction"The Atlantic. 2020年5月23日閲覧
  9. Dewey, Caitlin (2014年10月14日). “The only guide to Gamergate you will ever need to read”. The Washington Post 2020年5月23日閲覧。
  10. Meserve, Jack (Spring 2015). “Last Front in the Culture War”. Democracy: A Journal of Ideas (36) 2020年5月23日閲覧。.
  11. Nagle, Angela (June 30, 2017). Kill All Normies: Online Culture Wars From 4Chan And Tumblr To Trump And The Alt-Right. Zero Books. ISBN 9781785355431
  12. Warzel, Charlie (2019年8月15日). “How an Online Mob Created a Playbook for a Culture War”. The New York Times 2020年5月24日閲覧。

関連項目

媽祖は中国の道教で信仰される女神です。彼女は海の守護神として知られており、船乗りや漁師たちから信仰を集めています。媽祖は慈悲深い存在として尊ばれ、人々に安全と幸福をもたらすと信じられています。

媽祖

中国の道教の女神 / ウィキペディア フリーな encyclopedia

 

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1. 媽祖は中国の道教の女神で、海の守護者として崇拝される。
2. 台湾では毎年4月に媽祖誕生日を祝う盛大な祭りが行われる。
3. 媽祖信仰は台湾や中国南部で特に根強い。
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最後の更新: 2024/4/6. 続きを読む

この記事を 10 歳向けに要約してください

媽祖は中国の道教で信仰される女神です。彼女は海の守護神として知られており、船乗りや漁師たちから信仰を集めています。媽祖は慈悲深い存在として尊ばれ、人々に安全と幸福をもたらすと信じられています。
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媽祖(まそ)は、航海漁業守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教女神。尊号としては、則天武后と同じ天后が付せられ、もっとも地位の高い神ともされる。その他には天妃、天上聖母、娘媽がある。台湾福建省潮州で特に強い信仰を集め、日本でもオトタチバナヒメ信仰と混淆しつつ広まった。親しみをこめて媽祖婆・阿媽などと呼ぶ場合もある。天上聖母天妃娘娘海神娘娘媽祖菩薩などともいう。また、媽祖を祭る媽祖廟という。

概要 媽祖, 各種表記 ...
媽祖
媽祖像(馬祖島南竿郷
各種表記
繁体字 媽祖
簡体字 妈祖
拼音 Māzǔ
注音符号 ㄇㄚ ㄗㄨˇ
発音: マーツー
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用字

「媽」の音は漢音「ボ」・呉音「モ」で、「マ」の音は漢和辞典にはない。「ま」と読む他の語の例としては「阿媽(あま)」がある。

媽祖伝承

媽祖は代に実在した官吏の娘、黙娘が神となったものであるとされている。黙娘は建隆元年(960年)、興化軍莆田県湄州島の都巡林愿の六女として生まれた。幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが、16歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」と呼ばれ崇められた。しかし28歳の時に父が海難に遭い行方知れずとなる。これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ神となったという伝承が伝わっている。

なお、父を探しに船を出し遭難したという伝承もある。福建連江県にある媽祖島(馬祖列島、現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている。

媽祖信仰の盛んな浙江省舟山群島舟山市)には普陀山洛迦山があり渡海祈願の神としての観音菩薩との習合現象も見られる。もともとは天竺南方にあったとされる普陀落山と同一視された。

媽祖は千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神を脇に付き従えている。この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され改心し、以降媽祖の随神となった。

各地の信仰

中国大陸

媽祖は当初福建省の媽祖の故郷にある媽祖祖廟で祀られて、航海など海に携わる事柄に利益があるとされ、泉州潮州など中国南部の沿岸地方で特に信仰を集めていたが、時代が下るにつれ、次第に万物に利益がある神と考えられるようになった。歴代の皇帝からも媽祖は信奉され、南宋紹興26年(1156年)には霊恵夫人に、世祖の代(1281年)には護国明著天妃に、康熙23年(1684年)には天后に封じられた。媽祖を祀った廟が「天妃宮」、「天后宮」などとも呼ばれるのはこれが由縁である。 また、明代には鄭和の遠征により、インドネシアにも信仰が伝わり、現地の女神「ラトゥ・キドル」にもなった。 媽祖信仰は、福建省・潮州の商人が活動した沿海部一帯に広まり、東北の瀋陽や、華北天津煙台青島をはじめとする多くの港町に媽祖廟が建てられた。

こうして広まった媽祖信仰であるが、中華人民共和国政府は「迷信的・非科学的な活動の温床」ととらえ、厳しく規制した。特に文化大革命期にはほぼすべての廟祠が破壊され、信者も迫害されたが、改革開放の進展とともにこうした規制は次第に曖昧になり、80年代終わり頃から廟祠の復興が黙認されるようになった。

香港・マカオ

マカオの媽閣廟
マカオの媽閣廟

香港マカオでは文化大革命の影響をほとんど受けなかったこともあり、一貫して民間信仰が盛んである。各地に媽祖を祀った天后廟あるいは媽閣廟があるが、中でも香港の赤柱(スタンレイ)の天后廟、マカオの媽閣廟は有名で、観光名所ともなっている。マカオの地名の由来は、この媽閣廟(広東語 マーコッミウ)近くで「ここはどこか」と尋ねたポルトガル人が地名と勘違いしたことによると言われている。

香港では他に、地下鉄の駅名になっている銅鑼湾の天后廟や、盛んな生誕祭を行う元朗の天后廟も有名である。香港の市街地にある天后廟は、埋め立てによって、海岸からかなり離れた位置になってしまったものが多いが、佛堂門天后廟のように、いまだに船で行かないと容易に近づけない海辺にあるものもある。佛堂門天后廟は、俗に大廟とも呼ばれ、1970年代までは、ビクトリア湾で生活していた蛋民の参詣で賑わい、車公廟、文武廟、黄大仙廟と並んで香港の四大廟とされた時代もあったが、現在は訪れる人も少なくなっている。

台湾

台湾には福建南部から移住した開拓民が多数存在した。これらの移民は媽祖を祀って航海中の安全を祈り、無事に台湾島へ到着した事を感謝し台湾島内に媽祖の廟祠を建てた。このため台湾では媽祖が広く信奉され、もっとも台湾で親しまれている神と評される事も多い。

台湾最初の官建の「天后宮」は台南市にある大天后宮であり、国家一級古蹟に指定された。

台湾の媽祖廟は、規模の大きなものが多く、祭りも、台湾全土で最大級とされるものがある。例えば、鹿港の天后宮、鹿耳門の天后宮、北港の朝天宮があり、大甲鎮から新港までの巡礼活動の規模が大きい 

この媽祖信仰は日本統治時代末期に台湾総督府の方針によって一時規制された。なお台北最大規模だった「天后宮」は1908年に台湾総督府により撤去され、かわりに博物館(現 国立台湾博物館)が建てられた。

日本統治の終了後は再び活発な信仰を呼び、新しい廟祠も数多く建立されるようになった。なお、毎年旧暦の3月23日は媽祖の誕生日とされ、台湾全土の媽祖廟で盛大な祭りが開催されている。近年とくに巡行が盛大になっており、とくに台中の大甲媽祖と苗栗県通宵の白沙屯媽祖の数百キロを9日間かけて移動する巡行が大きな祭りとして知られる 

日本

横浜媽祖廟
横浜媽祖廟
東京媽祖廟
東京媽祖廟

媽祖は日本在来の船玉信仰神火霊験譚と結び付くなどして 、各地で信仰されるようになった。江戸時代以前に伝来・作成された媽祖像は、南薩摩地域を中心に現在30例以上確認されている 

江戸時代前期により来日し、水戸藩二代藩主徳川光圀の知遇を得た東皐心越が伝えたとされる天妃神の像が、茨城県水戸市祇園寺に祀られている。また、それを模したとされる像が、北茨城市天妃山の弟橘姫神大洗町弟橘比売神天妃神社)、小美玉市天聖寺にも祀られている。江戸時代、那珂湊港は米運送の拠点で、航海安全を願う信仰が関わっているとみられる。

青森県大間町大間稲荷神社には、天妃媽祖大権現が祀られている。元禄9年に大間村の名主伊藤五左衛門水戸藩から天妃(媽祖)を大間に遷座してから300周年を迎えた1996年平成8年)以降、毎年海の日に「天妃祭」が行われている。この大間稲荷神社台湾の媽祖信仰の総本山である雲林県北港朝天宮姉妹宮である。

平戸市鄭成功記念館には、鄭芝龍鄭成功の父)が平戸川内浦の山肌に祠を設け随神である千里眼・順風耳と共に祀ったとされる物、さらに台湾の台南市鹿耳門天后宮と彰化県鹿港天后宮から寄贈された物を展示している。 長崎市では2000年(平成12年)以降、長崎ランタンフェスティバルにおいて、長崎ネットワーク市民の会の企画運営で「媽祖行列」が行われている。興福寺に媽祖をお迎えすることで祭りが始まる。

また、沖縄県八重瀬町港川にあるうたき、唐の船うたき(とうのふにうたき)は、かつてその地に難破した中国の貿易船の船員が建てた祠であり、媽祖が祀られている。

なお、天母教日本統治時代の台湾に生まれた神道系新宗教の一つである。その教義は、日本の天照大御神と媽姐が同一のものであるとするもので、台湾における民間宗教を取り込み、その教化を図ったものである

2006年(平成18年)3月17日、横浜市横浜媽祖廟 落慶2013年10月13日、東京都新宿区大久保東京媽祖廟が安座式典 

ベトナム

チョロン地区のティエンハウ廟
チョロン地区のティエンハウ廟

歴史的に中華文明の影響が強く、また華人も多く住むベトナムでも媽祖はThiên Hậu(天后、ティエンハウ)の名で親しまれている。19世紀には、広東系移民の多いチョロン(現在はホーチミン市の一部)に有名な「ティエンハウ廟英語版Chùa Bà Thiên Hậu、񣘠婆天后)」が建てられた。同じくチョロンにはHội quán Ôn Lăng (溫陵會館)、またの名をChùa Quan Âm(㕑觀音)があり、これも媽祖信仰の寺院である。

アンザン省チャウドックでは Bà Chúa Xứ が有名である。

 

脚注

関連項目

ゾロアスター教は、古代ペルシャで生まれた宗教です。この宗教では、善と悪の二つの力が存在し、人々は善を選ぶことが大切だと考えられています。また、火を神聖なものとして崇めることも特徴的です。今でもイランやインドなどで信仰されている宗教の一つです。

ゾロアスター教

古代ペルシア起源の宗教 / ウィキペディア フリーな encyclopedia

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トップの事実と統計を挙げていただけますか ゾロアスター教?

1. ゾロアスター教は古代ペルシア起源の宗教であり、紀元前6世紀に創始されました。
2. アフラ・マズダ最高神とし、善悪二元論を信じます。
3. 火を神聖視し、火儀式が重要な要素です。
4. ファルヴァルダエ(四大祭)が年間行われます。
5. ゾロアスター教徒は「善行」の実践を重視します。
6. 古代ペルシャ帝国では公式宗教として広まりました。
7. 現在でもイランやインドなど一部地域で信仰されています。
8. 聖典『アヴェスター』には詩篇や法典が含まれています。
9. 人々の
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ゾロアスター教は、古代ペルシャで生まれた宗教です。この宗教では、善と悪の二つの力が存在し、人々は善を選ぶことが大切だと考えられています。また、火を神聖なものとして崇めることも特徴的です。今でもイランやインドなどで信仰されている宗教の一つです。
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ゾロアスター教ゾロアスターきょう、ペルシア語: دین زردشت Dîn-e Zardoštドイツ語: die Lehre des Zoroaster/Zarathustra英語: Zoroastrianism)、祆教(けんきょう、拼音xiān jiào シェンジャオ)または拝火教(はいかきょう)は、古代ペルシアが起源の、ネオペイガニズムを除く現存する宗教の中では最長の歴史を持つとされる宗教である。聖典は『アヴェスター』。

概要

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聖火台跡(イラン)
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チャクチャク (ヤズド州)

イラン高原に住んでいた古代アーリア人ミスラヴァーユなど様々な信仰する多神教(原イラン多神教 )であった 。この原イラン多神教を基に、ザラスシュトラゾロアスターツァラトゥストラ)がアフラ・マズダーを信仰対象として創設したのがゾロアスター教のルーツである 

紀元前6世紀アケメネス朝ペルシア成立時、既に王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であったとも言われている 。これに対し、3世紀のサーサーン朝成立まで、長らくアーリア人の諸宗教の一派に過ぎなかったとする見方もある。このため21世紀初頭のゾロアスター研究では、古代アーリア人の諸宗教を記述することでアーリア人民族宗教研究に奥行きを持たせようとする傾向がある 紀元前3世紀に成立したアルサケス朝パルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアーリア人の信仰は守られた。3世紀初頭に成立したサーサーン朝ペルシアでは国教とされ、王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた 。サーサーン朝期には聖典アヴェスター』が整備された。また、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジア中国へも伝播していった。

7世紀後半以降、アラブ人イスラム教徒の支配でゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移った。17世紀以降、イギリスアジア進出のなかで、イギリス東インド会社とインドのゾロアスター教徒の関係が深まり、現在も少数派ながらインド経済社会で少なからぬ影響力を持つ 。聖地はイラン、ヤズド近郊に位置するチャクチャク 

ゾロアスター教(善)の象徴としての純粋な「」(アータルアヴェスター語: ātar)を尊ぶため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれる。ゾロアスター教の全神殿には、ザラスシュトラが点火したとされる火が絶えることなく燃え続け、神殿内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝する 。中国では祆教(けんきょう)とも筆写され、代には「三夷教」の一つとして隆盛した。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。ただし、アケメネス朝の宗教を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。また、この宗教がペルシア起源であることから、インド亜大陸では「ペルシア」を意味する「パールシー(パースィー、パーシー)」の語を用いて、パールシー教ないしパーシー教とも称される。

今日、世界におけるゾロアスター教の信者は約10万人と推計されている 。インド・イラン・欧米圏などにも信者が存在するが、それぞれの地域で少数派にとどまっている。

その来世観・終末論セム的一神教仏教などに影響を与えたという説もある 二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている。「世界最古の一神教」とも言われることもある。

教義

ザラスシュトラの教え(原ゾロアスター教)がどのようなものだったのか、聖典アヴェスター』が極めて難解なことから、今日では正確には分かっていない。様々な宗教の影響を受けて、6~9世紀にようやく教義が確立したとする向きもある。

ここではゾロアスター教の主な教義を記述したのち、その教義史について概観する。

儀式

ゾロアスター教で最重要の儀式とされるのがジャシャンである。これは、「感謝の儀式」とも呼ばれ、物質界・精神界に平和秩序をもたらすと考えられている ゾロアスター教徒は、この儀式に参加することで生きていることの感謝の意を表し、儀式のなかでも感謝の念を捧げる ゾロアスター教祭司は、白衣をまとい、伝統的な帽子をかぶり聖火を汚さぬよう白いマスクをして儀式に臨む 。ここでは清浄さが求められる。

7歳から12歳ころまでにかけてゾロアスター教入信の儀式「ナオジョテ(ナヴヨテ)」が行われる。儀式で入信者は純潔と新生の象徴である白い(クスティ)と神聖な肌着(スドラ)を身につけ、教義・道徳とを守ることを誓願する 

守護霊

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ペルセポリスにのこされたゾロアスター教守護霊フラワシ像

ゾロアスター教守護霊は、を表し、善のために働く「フラワシ」である 。フラワシはこの世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在として神の神髄を表し、助けを求める人を救うであろうと信じられている 

礼拝

ゾロアスター教礼拝は、「拝火神殿」と称される礼拝所で行われる。神殿は信者以外は立入禁止で、信者は礼拝所に入る前、手・顔を清め、クスティと呼ばれる祈りの儀式をおこなう。クスティののち履物を脱いで建物に入り聖火の前に進んで、その灰を自分の顔に塗って聖なる火に対して礼拝を捧げる 

葬送

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ヤズド(イラン)の「沈黙の塔」

ゾロアスター教の葬送は、今日では珍しい鳥葬風葬である 。この葬送は、遺体を埋納せず野原などに放置し、風化ないし、鳥がついばむなど自然に任せるもので、そのための施設が設けられることもある 。この施設は一般に「沈黙の塔(ダフマ)」と呼ばれ、屋根を設けず、石板の上に死者の遺体を置き、上空から鳥が降下して死体をついばむ構造となっている ゾロアスター教の教義上、人間はその肉体もアフラ・マズダーなど善神群の守護のもとにあるため、清浄な創造物である遺体に対して不浄がもたらされないよう、鳥葬・風葬がされると説明されている 

最近親婚

ゾロアスター教聖典アヴェスター』のヴェンディダード(除魔の書)などでは、自分の親・子・兄弟姉妹と交わる最近親婚を「フヴァエトヴァダタ」と呼び、最大の善徳と説いた。アケメネス朝期の伝承を綴った『アルダー・ウィーラーフの書』では、ニーシャープールの聖職者ウィーラーフの高徳の中で、最も称賛されるのが7人の姉妹と近親婚したこととされる 。また、彼は冥界の旅の中で天国で光り輝く者達を見たが、その中に住まう者として近親婚を行った者の姿があった。反対に、近親婚を破算にした女が地獄で蛇に苛まれている記述があり、その苦痛は永遠に続くという。ゾロアスター教の影響下にあった古代ペルシャでは、王族、僧侶、平民など階級の区別なく親子・兄弟姉妹間の近親婚が行われていた。

善悪二元論ゾロアスター教の神々

ゾロアスター教の教義の最大の特色は、善悪二元論終末論である 。世界は至高神アフラ・マズダー率いるスプンタ・マンユと悪の霊アンラ・マンユ(アフリマン)、およびそれに率いられる善神群(アムシャ・スプンタ)と悪神群(ダエーワ)の両勢力が互いに争う場で、生命との闘争とされる  

最初に2つの対立するがあり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は・虚偽を選んだ アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手として天・水・大地・植物・動物・人間・火の7段階からなるこの世界を創造した。各被造物はアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された 。対してアンラ・マンユは大地を砂漠に、大海を塩水にし、植物を枯らして人間や動物を殺し、火を汚すという攻撃を加えた。しかしアフラ・マズダーは世界を浄化し、動物や人間を増やすなど、不断の努力でアンラ・マンユのまき散らす衰亡・邪悪・汚染などの害悪を、善きものに変えていった。このように、歴史を創造された「この世界」を舞台とした2大勢力の戦いと理解した。

アフラ・マズダーと善神群

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アフラ・マズダー(右)より王権の象徴を授受されるサーサーン朝のアルダシール1世(左)のレリーフナクシェ・ロスタム

アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神。みずからの属性を7つのアムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、天空大地植物動物の順番で創成した、世界の創造者である 

アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては、次の7神がある。

アンラ・マンユと悪神群


悪神アエーシュマの影響で成立したと考えられる。 善神と対峙する悪魔は、以下の通り。

終末論と三徳

ゾロアスター教歴史観では、宇宙の始まりから終わりまでの期間は1万2000年とされ、3000年ずつ4つに区切られ、「(霊的+物質的)創造(ブンダヒシュン)」「混合(グメーズィシュン)」「分離(ウィザーリシュン)」の3期に分けられ、現在は「混合の時代」とされる。アフラ・マズダーによる「創造」によって始まった「創造の時代」は完璧な世界だったが、アンラ・マンユの攻撃後は「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。全人類は人生においてこの戦いに否応なく参加することになり、アフラ・マズダーやアムシャ・スプンタを崇拝して悪徳を自らの中から追い出し、善が勝つよう神々とともに悪に打ち克つ努力をしなければならない。死後、楽土へ向かう「チンワト橋(選別者の橋)」でミスラの審判を受けて善行を積んできた者は、自分自身の意識が形となった美しい少女ダエーナーに導かれて 楽土(天国)へ渡り、悪を選んだ者は橋から落ちて地獄に向かう。そして将来的には「治癒」(フラショー・クルティ、フラシェギルド)と呼ばれる善の勝利と歴史の終末が起こり、それ以後の「分離の時代」には善悪は完全に分離し、アンラ・マンユと悪を選んだ者たちは消滅し、世界は再び完璧で理想的なものとなって、「分離の時代」は永遠に続くと考えられた。

ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争後、最後の審判で善の勢力が勝利すると考えられ、その後、新しい理想世界への転生が説かれる 。そして、そのなかで人は、生涯において善思・善語・善行の3つの(三徳)の実践を求められる。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は天国地獄のいずれかへか旅立つと信じられた 。世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる 

自然崇拝的要素

ゾロアスター教自然崇拝の原イラン多神教を母体とし、ザラスシュトラがそれを体系化したと考えられる 。原イラン多神教の天の神ヴァルナの信仰は、ザラスシュトラらによって道徳的意味を付与されアフラ・マズダーという宇宙創造の至高神の地位をあたえられた ゾロアスター教においては、火のみならず、水、空気、土もまた神聖なものととらえられている 

教義史

ゾロアスター教の教義 
ザラスシュトラアヴェスター語の口伝『アヴェスター』の『ガーサー』部分を遺しているが、その正確な意味は現在では失われている。また『ガーサー』は世界に秩序をもたらす呪文に過ぎず、まとまった思想内容を見出すのは困難である。以下にザラスシュトラが説いたと思われる思想を記述するが、これがどこまでザラスシュトラ本人によるものかは分からない。紀元前500年ごろ(アヴェスター語が口語として機能していたと考えられる最後の時期)、神官たちによって口伝アヴェスターが一貫したストーリーとして編集され、以下のストーリーを成立させたとする説もある
最高神アフラ・マズダーから善の霊スプンタ・マンユと悪の霊アンラ・マンユが生まれ、相争う。アフラ・マズダーは、混沌とした宇宙に秩序をもたらそうと苦労する存在として描かれ、スペンタとアンラの争いも傍観しているだけである。原イラン多神教の神々は善側と悪側に再編され、それぞれスペンタとアンラに仕える存在とさせられた。人間はそのどちらかにつく自由意志であり、善につけば天国、悪に就けば地獄へ死後向かうと定められた。
なお、ザラスシュトラアフラ・マズダーのみを崇める拝一神教的な教えを説いたが、弟子たちによって原イラン多神教の神々が取り入れられたとする説もある 
マゴス神官団の影響(後述
イラン高原に住んでいたメディア王国では、マゴス族(マゴス神官団)が祭儀を担っていた。ヘロドトスストラボンによるとマゴスは鳥葬、清浄儀礼、悪なる生物の殺害、最近親婚など独自の儀式を持っていた。これらの教義がゾロアスター教に混入した可能性が指摘されている
ズルワーン教の教義(参照
サーサーン朝時代には狭義のゾロアスター教ザラスシュトラの教え)が国教となるが、外国語資料ではズルワーン最高神として描かれる。アフラ・マズダーはスペンタ・マンユと混同し、善神オフルマズドとして悪神アフレマン(アンラ・マンユ)と同格になった。ズルワーン教にはヘレニズムやインド思想の影響が指摘されている。
二元論的ゾロアスター教の教義 
6~9世紀、ゾロアスター教から中立な最高神が消滅し、善なる最高神オフルマズドと悪の最高神アフレマンが並立する純粋な二元論が成立する。この教義は豊富なパフレヴィー語資料によって現代まで詳細が伝わっており、善悪二元論として一般的にイメージされるゾロアスター教もこれに近いと思われる。
また、近年ではマニ教から二元論を取り入れたとする説もある 

ゾロアスター教聖典は『アヴェスター』である。ザラスシュトラの言葉と彼の死後に叙述された部分で構成され、サーサーン朝期に編纂されたと考えられる。全21巻とされ、そのうち約4分の1が現存する  。書籍化にあたり、古代アヴェスター語パフラヴィー文字に書き換えるとき、表記できない音が合ったため、キリスト教パフラヴィー文字やギリシア文字を借用して、新たにアヴェスター文字が作られた。アヴェスター語の方が遥かに古いものの、表記用の文字が発明されたのはパフラヴィー語の後塵を拝した 。しかし、『聖書』や『クルアーン』のように当初から教徒の間で広くその権威が認められたわけではなかった。『アヴェスター』が書かれたペルシア州の遠方では、8世紀になっても一般信徒の間で『アヴェスター』の存在が知られておらず(または理性的に語る聖典とは見られておらず)、ザラスシュトラも(少なくとも預言者としては)認識されていなかった。さらに神官でも『アヴェスター』を知らず、それとかなり異なる教義を信じていた節がある 

メソポタミア神話エジプト神話ギリシア神話の信仰が失われた今日、ゾロアスター教ヒンドゥー教と並び現存する世界最古の体系的宗教・経典宗教とも言われる 。ただし、聖典の確立と明確な教義の整備という点では、後発のキリスト教・仏教・マニ教などに数世紀の遅れをとった 

歴史

資料

ゾロアスター教に関する資料は以下の3時代に偏って存在する 

このうち原ゾロアスター教研究は未だ安定段階に達しておらず、『アヴェスター』その中でも特にザラスシュトラ直伝と思われる「ガーザー」の解釈については決定的な説が存在しない。ズルワーン主義についても内部資料が少ないため正確なことは分かっていないが、現代にまで伝わる二元論的ゾロアスター教とはかなり差があると考えられる 

分類

アーリア人の宗教には様々な形態があり、時代によって大きな変化を遂げ、また地域差も大きかったと考えられている   。ここでは、アーリア人の諸宗教について想定される宗派を一覧化する。

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崇拝対象による分類
名称 崇拝対象 備考 出典
原イラン多神教 アフラ・マズダー
ミスラ
ヴァルナなど
古代アーリア人によって信仰された宗教
マズダー教・原ゾロアスター教などの源流として想定されている
後述
マズダー教 アフラ・マズダー アーリア人の宗教のうち、特にアフラ・マズダーを崇拝した宗教
ゾロアスター教の源流としても想定される
アケメネス朝の国教とする説もある
 
ミスラ教 ミスラ アーリア人の宗教のうち、特にミスラを崇拝した宗教
パルティア・アルメニアなどの国教とする説もある
後述
ズルワーン教 ズルワーン アーリア人の宗教のうち、特にズルワーン最高神として崇拝した宗教
サーサーン朝の国教とする説もある
 
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地理・時代・民族による分類
名称 崇拝対象 備考 出典
ゾロアスター教 アフラ・マズダー ザラスシュトラによって開かれたゾロアスター教のルーツ
ナオラタ部族国家の国教
狭義のゾロアスター教はこの流れを汲む宗派のみを指す
後述
アケメネス朝の国教 アフラ・マズダー アケメネス家に信仰されたマズダー教
狭義のゾロアスター教であるかは議論がある
後述
インドのイラン系宗教 ミヒラ(ミスラ?)など インドのイラン系アーリア人によって信仰された宗教
パールシー以前2、3の集団について記録が残っている
後述
パルティアの国教
パルティア的ゾロアスター教
ミスラなど? アルサケス家に信仰されたアーリア人の宗教
アルメニアの国教と近縁とされる
狭義のゾロアスター教であるかは議論がある
後述
アルメニアの国教
アルメニアゾロアスター教
ミスラなど 前1世紀 - 後4世紀にアルメニアの王族達に信仰されたアーリア人の宗教
ミスラの地位が高いため、ミスラ教ともされる
アルメニアキリスト教化に伴い衰退
ミヒラ教 ミヒラ(ミスラ?) アーリア系遊牧国家エフタルの王ミヒラクラが信仰した宗教
太陽崇拝を伴うミスラ崇拝と思われる
インドに残った集団はガンダーラ・ブラーフマガと呼ばれた
 
サーサーン朝の国教
ペルシア的ゾロアスター教
アフラ・マズダー サーサーン家に信仰された狭義のゾロアスター教
ペルシアのイスラム化に伴い衰退
後述
二元論的ゾロアスター教 オフルマズド 一神教的要素を排除したゾロアスター教
善の最高神オフルマズド(アフラ・マズダー)を崇める
サーサーン朝後期に成立したと思われる
後述
メソポタミアゾロアスター教 ズール(ズルワーン?) サーサーン朝期にメソポタミアで信仰されたと思われるゾロアスター教ズルワーン教?)
ズールなる神に生贄を捧げる
 
ホラーサーン的ゾロアスター教   イスラム統治時代初期にホラーサーンで信仰されたと思われるゾロアスター教
預言者も啓典もないとされるため、二元論的ゾロアスター教とは異なる
 
パールシー アフラ・マズダー イスラムの支配を逃れインドに移ったゾロアスター教徒のグループ
狭義のゾロアスター教の国教の流れを汲む
後述
ソグド的ゾロアスター教   ソグド人に信仰されたアーリア人の宗教
中国では祆教と呼ばれた
中央アジアから唐代の中国まで広がった
中央アジアイスラム化により衰退
後述
宋代漢民族ゾロアスター教   ソグド的ゾロアスター教が宋代までに漢化したもの
引き続き祆教と呼ばれた
後述
クルド人ゾロアスター教   クルド人に信仰されていたアーリア人の宗教
詳細不明
後にイスラム教と混濁してヤズィーディーに変化する
後述
閉じる

原イラン多神教

ザラスシュトラは全く新しい宗教を創設したわけではなく、既存宗教(原イラン多神教)の祭司として『アヴェスター』で描かれる。この宗教は、「インド・イラン人の宗教」や「アーリア人の宗教」、「ヴェーダ型の多神教」、「先ガーサーの宗教(pre-Gathic religion)」などとも呼ばれ、多神教で太陽・火・水・雷・嵐などを崇拝していた。インド古代宗教との類似点も指摘される 。そして「三大アフラ」として叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた  

メアリー・ボイスによれば、アフラ・マズダー(アスラ)、ミスラ、ヴァルナの3柱の「主」は、極めて倫理的な存在で、「自然法則」(イランではアシャ、インドではリタ、と称する)を擁護しつつ、自らもこれに従う。こういった高度な観念は、原インド・イラン語族が早くも石器時代に発展させたものと考えられ、その末裔の宗教に深く織り込まれていると考えられる 。そのため、単にアフラ・マズダーやミスラを信仰するだけでは、厳密にはゾロアスター教徒と言えない。

異教時代」と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教信仰告白フラワラーネ」にあらわれる。そこでは5条件が挙げられた 。すなわち、

  1. アフラ・マズダーを礼拝すること
  2. ゾロアスターの信奉者であること
  3. 好戦的で不道徳な神ダエーワと敵対すること
  4. アフラ・マズダーが創造した偉大な7つ(ないし6つ)の存在アムシャ・スプンタ(「聖なる不死者」)を礼拝すること
  5. すべての善をアフラ・マズダーに帰すること

である。

この5つに加え、アフラ・マズダー創造主と捉えたことが、原イラン多神教と著しく異なる。 

原イラン多神教がいつどのようにザラスシュトラの創設した「原ゾロアスター教」へ引き継がれたのかは学説が分かれている。「2段階説」では、原イラン多神教ザラスシュトラに直接引き継がれたことになっている。これに対してザラスシュトラ以前からアフラ・マズダーを崇拝したマズダー教が存在したとして、原イラン多神教→マズダー教→原ゾロアスター教の順に成立したと見る「3段階説」もある。この説に従えば、ザラスシュトラ以降、3者が並存した時期がある可能性もある 

ゾロアスター教

ゾロアスター教最高神と二元論 

 

 
 
 
 
 
善の霊スプンタ・マンユ
 
 
 
叡智の神アフラ・マズダー
 
 
 
 
 
 
悪の霊アンラ・マンユ
 
 


太字最高神

中立的なアフラ・マズダーが宇宙を秩序化
その下で善の霊と悪の霊が争う
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ザラスシュトラの肖像(3世紀)。「ゾロアスター教」の呼称も彼の名に由来するが、その生涯は今となっては不明な部分も多い  

ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ・スピターマゾロアスター教の成立に関しては、不明な部分が少なくない ザラスシュトラの誕生地は、アゼルバイジャン説・スィースターン説・中央アジア説などがある。活動時期は言語学的見地から紀元前1000年以前とする説と伝承などから紀元前1000年-前6世紀とする説がある。ザラスシュトラは、原イラン多神教を改革し、倫理的要素を付加した二元論・終末論を軸とする新宗教(原ゾロアスター教)を創設した 

ハエーチャスパ族の神官一家に生まれたザラスシュトラは、20歳で放浪の旅に出た 。彼は、唯一神アフラ・マズダーの啓示を伝える使者を名乗り、この世界は善悪二神の争いの場であると説いた 。このような世界観は、一神教二元論とも言われる 

ザラスシュトラが42歳の時、ナオラタ族の王カウィ・ウィーシュタースパに登用され、宰相とも婚姻関係を結び権力の後ろ盾を得た。ザラスシュトラの死後、娘婿(宰相)のジャーマースパ・フウォーグワが教団を引き継いだ。教祖が死んでも国家権力を背景としていた教団が揺らぐことは無かったと見られている ゾロアスター教発祥の地と信じられているアフガニスタン北部の古代バルフ(Balkh、ダリー語ペルシア語بلخ)に、ザラスシュトラが埋葬されたと伝えられている。この地はゾロアスター教徒から神聖視されてきた。

ジャーマースパ以降、教団指導部は教勢拡大のためにザラスシュトラの急進的な教えを軟化させ、原イラン多神教の神々に独自の機能とそれに捧げる伝統的呪文を認めた。これにより原イラン多神教と原ゾロアスター教の融和を図ったが、両者の区別はあいまいになった 

その後、ナオラタ部族国家は歴史から姿を消した。ゾロアスター教団は権力基盤を失い、弱い立場に立たされたと見られている。歴史資料にザラスシュトラが登場するのは、前5世紀のギリシア語文献に「偉人ゾロアストレス」として言及されるまで待たなければならない 

アーリア人の諸宗教の展開

他宗教への影響と同様、ゾロアスター教政治への影響力の大きさも、研究者によって意見が分かれる。一般に古代の政治-宗教関係は密接であったため、他宗教への影響が大きいと考える研究者ほど、その政治的影響も強かったと考える傾向にある。歴代王朝下でゾロアスター教は常に国教的役割を担ったと考える者もいるが、見解は統一されていない。青木健は、古代アーリア人の諸宗教とゾロアスター教の境界は曖昧で、サーサーン朝成立まで、そのどちらとも取れるような諸宗教が人々に幅広く受容されていたとしか言えないと指摘している 

マゴス神官団の台頭

ギリシアの歴史家ヘロドトスによるとアーリア系のメディア王国(前715年頃 - 前550年頃)にはマゴス族とよばれる神官たちがいた。彼らは拝火儀礼、鳥葬、清浄儀礼、悪なる生物(カエルサソリヘビなど)の殺害、最近親婚、の犠牲獣祭といったメディア人の宗教行為を担っていたが、拝火儀礼・犠牲獣祭以外は原イラン多神教に見られない独自の風習であるとされる。非インド・ヨーロッパ語族的な名称を持ち、独特な風習を持つことから、マゴスはアゼルバイジャン付近の土着民族であったとする説もある。東方からメディアに来たと思われるゾロアスター教団はマゴス神官団の権勢に圧倒され、爬虫類殺害や最近親婚を取り入れ、葬式は土葬から鳥葬、犠牲獣祭もから牛に転換したとみられている 

メディア王家の血を引くペルシア王キュロス2世(大王、在位前550年 - 前529年)は紀元前550年にメディアを滅ぼし、アケメネス朝ペルシア(前550年-前330年)を建国した。キュロスは小アジアから中央アジアに至る空前の大帝国を建設し、史上初めてイラン高原メソポタミア平原の両方を支配した 

キュロス王家の信仰は不明なところが多い。ボイスはキュロスがゾロアスター教徒であったと主張している。また、考古学的な見地からはキュロスの建造した拝火壇やキュロスの墓バビロニア的要素が含まれているとされる。一方、キュロスの息子カンビュセス2世(在位前529年頃 - 前522年)は実姉アトッサ実妹ロクサーナと近親婚しており、マゴス神官団の影響がうかがえる。また「マゴス神官団ガウマータ」が王族スメルディスに成りすましたとされていることから、キュロス王家ではマゴス神官団が重用されていたとみる向きもある 

ただしキュロス王家は臣民たちに改宗を強制せず、キュロスがバビロンを征服した紀元前536年には、バビロン捕囚にあっていたユダヤ人たちを解放している。また、進んだ文明を持つメソポタミアエジプトの信仰を尊重し、政治的な中央集権と文化的な地方分権を敷いたとされる 。このようなことから、キュロス王家がゾロアスター教徒だったとしても「支配者の宗教」という意味に限定される。この結果、シンクレティズムが促されてユダヤ教エッセネ派が隆盛し、キリスト教に継承されたとも言われる 。アケメネス朝期のギリシアにおけるピタゴラス教団オルフェウス教、さらにペルシャ高原東部では大乗仏教伝播にともなう弥勒菩薩信仰と結びつき、マニ教ゾロアスター教の影響を強く受けたとされる イスラム教もまたマニ教と並んでゾロアスター教の影響も受けており、啓典クルアーン』(コーラン)にもゾロアスター教徒の名が登場する。

マズダー崇拝の台頭

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ダレイオス1世によるベヒストゥン碑文。自らの即位の経緯と正当性を主張する文章とレリーフが刻まれている

キュロスの後継者カンビュセス2世は妹で妻のロクサーナを「殺害」、その後「自殺」した。後継者として王の弟スメルディス(にそっくりの神官ガウマータ)が即位するも、カンビュセスの元親衛隊長ダレイオスに「偽物と見破られ」、殺害される。その後、アケメネス朝傍流を名乗るダレイオスは、9人のライバルを倒し、ダレイオス1世(在位前522年 - 前486年)として大王(皇帝、諸王の王)に即位した。これによりアケメネス朝直系のキュロス王家は途絶え、ダレイオス家に王位が移った 

ダレイオス王家の大王たちはアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に帰依していたかどうかには議論がある。なお、アケメネス朝の碑文にはアフラ・マズダー(正確にはアウラマズダー)のほか、ミスラやエラムメソポタミアの神々の名が登場し、諸民族の多様な宗教に配慮していたことがうかがえる。仮にザラスシュトラの教えがその中に含まれていても、数ある中の一つに過ぎなかったと考えられる 


ダレイオス王家の歴代大王たちが、狭義のゾロアスター教に帰依していたとする根拠には以下のものがある。

これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。

ダレイオス1世の孫・アルタクセルクセス1世(在位前465年‐前424年)はダエーワ崇拝を禁止した。これについてはペルシア人の崇拝対象をアフラ・マズダーに限定したと解釈できる 。この政策はアルタクセルクセス2世(在位前404年 - 前358年)の頃に変更され、アナーヒターやミスラへの崇拝も奨励されるようになった アルタクセルクセス3世(在位前359年‐前338年)の代にはアナーヒター崇拝が省略され、アフラ・マズダーとミスラへの崇拝が奨励された 

なお、歴史家ヘロドトスは、「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」「ペルシア人偶像をはじめ、神殿や祭壇を建てるという風習をもたない」と記している 。しかし、古代メソポタミアイシュタル信仰がペルシアにも影響してアナーヒター信仰と同一視されたのもこの時期である。アナーヒター像を置いた神殿が築かれ、それまでの火を日々の儀式に使い、祭礼では野外に集まっていたペルシア人も、メソポタミアの偶像・神殿を伴う信仰に対抗して、火を燃やす常設の祭壇を設けた特別な建物を造るようになった。やがて、こうした火・建物が神聖視されるのである(ただし、ゾロアスター教で寺院・偶像崇拝が認められたのは、ギリシア文明インド文明の影響とする説もある )。

ミスラ崇拝の台頭

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名前にミスラを含むパルティア大王、ミトラダテス1世のコイン

紀元前4世紀後半、マケドニア王国アレクサンドロス3世(大王、在位前336年 - 前323年)によってアケメネス朝が滅ぼされた。後世の資料ではアレクサンドロスによって『アヴェスター』と『ザンド』の写本が焼かれたとされているが、アケメネス朝では文字の使用が一般化していなかったため、創作と思われる。またギリシア神話アーリア人の宗教が混濁し、ゼウスアフラ・マズダーアポロンとミスラなどが同一視された。大王の死後、その王国は四分五裂し、セレウコス1世によって小アジアからペルシアに至るヘレニズム国家セレウコス朝シリア(前312年-前63年)が建国された。セレウコス朝の歴史は、東方におけるギリシア政治勢力の後退の歴史でもあった。なお、ギリシア人によると、この頃のマゴス神官団はゾーロアストレース(ザラスシュトラ)、ヒュスタスペオス(カウィ・ウィーシュタースパ)、オスタネス(正体不明)の教えを奉じていたという 

紀元前3世紀ペルシア人と同系であるパルティア人の族長アルサケス1世セレウコス朝の支配から自立し、ミフルダートキルト周辺にアルサケス朝パルティア紀元前247年-紀元後226年)を建国した。5代目ミトラダテス1世のときに東西に領土を拡げ、共和政ローマの侵攻やマカバイ戦争に忙殺されていたセレウコス朝からメディアとメソポタミアを奪った。そしてセレウコス朝の中核都市だったセレウキアの対岸に新首都クテシフォンを建設した 

パルティアの君主たちはアーリア人の宗教を信仰していた。しかしパルティアの宗教資料は乏しく、「ゾロアスター教」と称しうる宗教が信仰されていたかは、なおも見解が分かれる アルサケス朝にはティリダテス、ミトラダデス、アルタバノスなど、それぞれ「水星」、「ミフル(ミスラ神)」、「天則」の意味を持つ、原イラン多神教的な名がみられる。また、アレクサンドロスの影響でアルサケス朝の君主たちは神を自称するようになり、後世のサーサーン朝にも影響を与えた。ただし、アルサケス朝は自らの信仰を住民たちに強制せず、その影響は王族の私的領域に留まったと考えられている 

紀元前1世紀以降、アナトリアカッパドキアティアナなどで諸言語によってミスラ神に捧げた碑文が残されている。古典的な説によれば、アナトリアに侵攻したローマ兵たちがミスラ神を持ち込みミトラス教に発展した 

アルメニアゾロアスター教の神々

すべての父アラマズド
アフラ・マズダー
 
貴婦人アナヒット
アナーヒター
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ナナイ
(ナネー)
 
ミフル
ミスラ

太字最高神

神々の家族関係が強調
特にミフルが崇められた

パルティアの宗教が隣国アルメニア王国では神々の一族関係が重視され、「すべての父」と称されていたアラマズドアフラ・マズダー)とアナヒット(アナーヒター)が夫婦、ミフル(ミスラ)とナナイ(ナネー)はその息子・娘とされた。ミフルは特に重要な地位を占めていた。アルサケス家のアルメニア国王ティリダテス1世(在位52年 – 58年、62年 - 82年)は、3000人のパルティア兵に護衛されながらローマ皇帝ネロ(在位54年 - 68年)と謁見したとき、跪いてギリシア語でミフルを崇めるようにローマ皇帝を崇めると演説した。また、終末にはヴァン湖に潜むミフルが救世主として表れると信じられていた。ヴァハグンウルスラグナ)にはミフルと同じ太陽神の役割が与えられたため、混同が生じてしまった 

青木健は、パルティアの宗教がアルメニア王国の宗教と非常に近いものであったと指摘している。アルメニアの宗教にはパルティア語の借用が多用され、66年以降はアルサケス家がアルメニア王位を占めていたからである。また両国では、後のゾロアスター教では避けられる偶像礼拝や土葬が行われていたと見られている 。青木はアルメニアの宗教を分析し、アフラ・マズダーが尊崇対象となっている点ではゾロアスター教のようにもみえると前置きしつつ、ヤシュトの段階でやっと復権したヴァハグン(ウルスラグナ)やミフル(ミスラ)も崇拝対象になっていると指摘した。特に宗主国ローマの皇帝をミスラになぞらえた点を重視し、アルメニアゾロアスター教≒パルティア的ゾロアスター教の主神はミスラであり、厳密には「ゾロアスター教」でなく「ミスラ教」と称すべき信仰であったと論じている 

4世紀にアルメニアキリスト教合性論派(アルメニア使徒教会)を国教化して、アルメニアゾロアスター教は衰退したが、近親婚などの風習は20世紀まで残っていたと言われている 

ゾロアスター教の国教化

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ナクシェ・ロスタム(イラン)に所在する「ゾロアスターカアバ英語版」と称される遺構。建物の用途は不明だが、下部の壁面にカルティールによって書かれた長大なパフラヴィー語(中世ペルシア語)碑文がある

ペルシア州エスタフルの拝火神殿神官であったサーサーンは、ペルシス王国の有力豪族バーズランギー家と婚姻関係を結び、興隆の基礎を得た。その息子パーパクはパルティアに反乱を起こし、さらにその息子のアルダシール1世(在位226年 - 242年)はクテシフォンを征服してサーサーン朝ペルシア226年-651年)を建国した 。。

サーサーン朝はアケメネス朝の後継者という地位とゾロアスター教正統性を求めた。そして非ペルシア的な異邦人王朝パルティアを倒して伝統的信仰を復興したと主張した。実際にはパルティアの貴族階級・政治機構・文化・社会は多くの点でサーサーン朝に引き継がれていたが、このアケメネス朝-サーサーン朝を正統とする歴史観は後世のイラン世界にも大きな影響を与えた。なお、この時代の口語はパフラヴィー語に変質し、古代ペルシア語の口伝『アヴェスター』「ガーサー」は既に解読困難だったと考えられる。この時代、隊商などペルシア商人の活発な活動で、中央アジア中国ゾロアスター教が伝播し、西方に対してはローマ帝国など地中海世界との交流・抗争により、教義面などで互いの影響を受けたと考えられる。

サーサーン朝では実際に機能したかは定かではないが、神官たちは上から順に「神官」「軍人貴族」「農民」「商人・職人」の階級を想定していた。この中で神官は官僚層である上級のモウベド神官、神殿の管理や庶民の宗教教育に携わる下級のヘールベド神官に分けられた。農民たちは大地を耕すとして称賛されていた一方で、商人・職人たちは神官から蔑視されていた。そのためアーリア人ゾロアスター教徒からあまり商人・職人が輩出されず、セム系やローマ人、ソグド人などに頼っていた。また、このことが商人・職人層のキリスト教改宗を促進した面もある 。260年、サーサーン朝はローマ帝国からキリスト教文化の中心都市エデッサを奪い取り、国内に多くのキリスト教徒を抱えた。キリスト教会は長い歳月をかけて培われたセム人の書籍文化とギリシア人の活発な知的活動の成果を受け継いでおり、聖典の書籍化、神学の発展、知的水準などの面でゾロアスター教神官団は劣勢に立たされ、ゾロアスター教徒キリスト教改宗が相次いだ(逆にローマでキリスト教徒がゾロアスター教徒に改宗したという記録は存在しない)。 。このことが国教であるゾロアスター教にとって大きな脅威であり、4世紀(ローマでのキリスト教公認)以降、国家権力を背景とした迫害(339年-379年、420年-484年)やゾロアスター教の改革などが行われた。

皇帝崇拝の台頭

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ナクシェ・ラジャブ磨崖レリーフのカルティールの肖像
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70年に渡り君臨したシャープール2世の胸像

サーサーン朝はアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に一貫して帰依していたかはなおも異論がある。少なくとも初期においてはザラスシュトラに関する記録が残されていないが、アルダシールが「マズダー崇拝者の神なるアルダシール、アーリア民族のシャーハンシャー、神々の末裔」と刻んだコインを発行した ことから、マズダー崇拝者(詳細不明)のシャーハンシャー(皇帝、諸王の王)を神としていたことは分かっている 

アルダシール1世と大神官タンサールの元、ゾロアスター教は体系化されたとされる。サーサーン朝君主が発行する貨幣の裏面に拝火壇が刻印され、ゾロアスター教が世俗支配でも重要な役割を担っていたと推測される 

アルダシールの息子・シャープール1世(在位242年 - 270年)はアルサケス朝と同じく首都をメソポタミアのクテシフォンに定めた。しかしメソポタミアではセム系が多数を占め、ユダヤ教キリスト教マンダ教グノーシス主義といった様々な宗教団体が乱立していた(結局メソポタミアセム系庶民にゾロアスター教が定着することなかったと思われる)。穀倉地帯で政治的経済的重要性も高いメソポタミアを安定的に統治するため、シャープールは穏当な宗教政策をとった。そしてニシビスのユダヤ人指導者や新興宗教(後にマニ教と呼ばれる)の教祖マニを招き、彼らの宗教活動を容認した 

サーサーン朝シャーハンシャーたちは先祖伝来の地ペルシア州に磨崖レリーフを造り、叙任の儀式を行っていた バハラーム1世のリレーフにはオフルマズド(アフラ・マズダー)から支配権を委ねられた姿が描かれている。バハラーム2世の造ったリレーフには、叔父のアルメニア国王ナルセ(ナルセ1世)らサーサーン家の面々と並び、神官に過ぎないカルティールが、それもかなり高い席次で描かれていた。このことからシャープールの死後、カルティール率いる神官団が台頭していたことがうかがえる。権勢を増し加えたカルティールは「バハラームの霊魂を救済するオフルマズド・モウベド神官」「エスタフルのアナーヒター拝火神殿の神官」の称号を得た。シャーハンシャーの霊魂を左右し、サーサーン朝の祖先が務めていた神殿の神官職を名乗るようになったのである。また、彼はマニを処刑するなど異教弾圧に熱心で「ユダヤ教徒仏教徒ヒンドゥー教徒・シリア系キリスト教ギリシアキリスト教徒・洗礼教徒・マニ教徒」を駆逐したとする碑文を帝国各地に建てた。そして帝国各地に聖火と神官たちを派遣したと書き記しているが、具体的にどのような教えを信じていたのかは記録がない 

ナルセがシャーハンシャーになるとカルティールは失脚したとみられる。「エスタフルのアナーヒター拝火神殿の神官」の称号はナルセに引き継がれた 

カルティールの死後もゾロアスター国教化路線は維持された。9代目シャープール2世(在位309年 - 379年)の時代には、大神官アードゥルバードのもと、口伝アヴェスターの結集と教義の確立が行われた 。また、シャープールは見る人が限られるレリーフを造るよりも、自身の描かれた銀食器や胸像を帝国各地にばらまくことに積極的だった。これによりサーサーン家とペルシアの関係性は薄れ、シャーハンシャーの神秘性はかえって失われたと考えられている 

ズルワーン崇拝の台頭

ゾロアスター教ズルワーン主義の最高神と二元論 

 

 
 
 
 
 
善神オフルマズド
アフラ・マズダー
 
 
 
 
時間の神ズルワーン
 
 
 
 
 
 
悪神アフレマン
アンラ・マンユ
 
 


太字最高神

アフラ・マズダーが善神に降格
中立的な最高神ズルワーンのもと善神と悪神が争う

ただし国教化によっても、古来から続く帝国内の多様なアーリア人の諸宗教は均一化されなかった。周辺の外国語文献によれば、サーサーン朝初期~5世紀頃まで、時間の神ズルワーンが崇拝されていた。このズルワーン教と呼ばれるアーリア人の宗教の一派は、9~10世紀のゾロアスター教文献に記述がなく、両者の関係は分かっていない。インド思想カーラギリシア思想アイオーンの影響も指摘される。完全に独立した宗教であるという説から、サーサーン朝初期~中期の国教であったという説まで様々な見解が存在する 

ジャーヒリーヤ時代以降に書かれたアラビア語古詩には、バタバタと独特な歩き方をしながら、ズーンなる偶像神に牛を捧げ、熱心に祈るメソポタミアゾロアスター教神官の姿が描写されている。ズーンとはアラビアで信仰されたの神、またはズルワーンアラビア語で省略された形であるとみられる。いずれにしろペルシア的ゾロアスター教とはかなり異なる「メソポタミアゾロアスター教」が信仰されていたと思われる。その他の地域にも独自の宗教が存在したと考えられ、ペルシア州の官団を頂点にアーリア人の諸宗教をゾロアスター教の名で緩やかに統合していたとする説もある 

「幽霊 死者の霊が現れたもの」は、死んだ人々の霊が現れることに関する話です。幽霊は通常、亡くなった人々や未解決の問題を抱えている場合に出現します。このテーマはミステリアスで興味深いものであり、物語ではしばしば怖い要素や謎解きが含まれます。読むと不思議な気持ちになりますよ!

幽霊

死者の霊が現れたもの / ウィキペディア フリーな encyclopedia

親愛なるWIKIWAND AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:

 

トップの事実と統計を挙げていただけますか 幽霊?

1. 幽霊は死者の霊であり、生前の人物が姿を現す。
2. 多くの文化で幽霊信仰が存在し、様々な形態がある。
3. 幽霊は通常、未解決の問題や遺された感情に関連して出現する。
あなたが考えていることを私に伝えてください
最後の更新: 2024/3/18. 続きを読む

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「幽霊 死者の霊が現れたもの」は、死んだ人々の霊が現れることに関する話です。幽霊は通常、亡くなった人々や未解決の問題を抱えている場合に出現します。このテーマはミステリアスで興味深いものであり、物語ではしばしば怖い要素や謎解きが含まれます。読むと不思議な気持ちになりますよ!
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幽霊(ゆうれい)とは、以下を指す概念。

  • 死んだ者が成仏できず姿を現したもの 
  • 死者のが現れたもの 

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月岡芳年新形三十六怪撰』の内「皿やしき於菊乃霊」(1890年明治23年 
皿屋敷に登場するお菊の亡霊を描いた作品。浮世絵で亡霊を描く場合は薄墨摺りとするもので 枝垂柳の下に古い井戸を配した構図も定石通りだが 、本図のお菊の姿は江戸時代からのイメージを打破し  美しく澄んだ空気の中に描かれている 

概要

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月岡芳年月百姿』の内「源氏夕顔巻」(1886年[明治19年] 
源氏物語』「夕顔」の巻を下敷きとした謡曲「半蔀」「夕顔」を素材とした作品   。夕顔が六条御息所生霊に憑り殺された屋敷を訪れた僧の前に、ユウガオの花の中から現れた夕顔の霊は、最後には僧の供養によって成仏を遂げる  

幽霊というのは、小学館日本大百科全書』でも、平凡社世界大百科事典』でも「幽霊」の項目に、日本の幽霊と西洋の幽霊が並置する形で扱われている  。このように、洋の東西を問わず世界に広く類似の記載はあり、中世ヨーロッパにも 中国にも 、また、陸域のみならず世界の水域にもいるとする記述がある  。

西洋でも、(日本同様に)人間の肉体が死んでもが死なずに現世でうろついたり、家宝を守ったり、現世への未練から現世にとどまったりする話は多くあり、霊が他人や動物にのりうつることもあるといわれる 

こういった伝承は東洋,西洋世界各地にある。

日本

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幽霊図(お雪の幻)』(円山応挙

幽霊は何かを告知したり要求するために出現するとされていた 。しかし、次第に怨恨にもとづく復讐執着のために出現していると考えられるようになり、「幽霊は凄惨なもの」という印象が強められていった 。「いくさ死には化けて出ない」との言い伝えもあるが、凄惨な最期の姿を留めて出没する戦死者の亡霊の話は多く、平家武者の亡霊 はその典型であろう。幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者の霊であるのだから、その望みや思いを真摯に聴いてやり、執着を解消して安心させてやれば、姿を消すという 。なお、仏教的見地でこういった状態になった幽霊を「成仏した」と称するが、日本の幽霊は仏教の伝来以前から“居た”のであり、そもそもは古神道ないし神道の影響下にあって、成仏ではなく鎮魂されていた。

日本の仏式葬儀(仏教葬儀)で、願戻し、死後の口寄せ施餓鬼供養などを行うのは、ある意味で、死者が幽霊と化すのを防ぎつつ、成仏しやすいように促す整といえる 

 

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男女の船幽霊/『諸国因果物語』の1図。 

昔話には「子育て幽霊」や「幽霊女房」、「幽霊松」(切られるとを流す)などの話がある 

日本は島国であるためか、船幽霊などの幽霊の話も多い。その内容とは例えば、幽霊船が現れて、幽霊が「柄杓を貸してくれ」というが、それを渡すとその柄杓で水を汲んで水(水してゆく船)にされてしまうといい、幽霊には柄杓の底を抜いてから渡さなければならない、とする 紀伊国(現・和歌山県)に伝わる話では、幽霊船が出たら、かまわずぶつかってゆけば消えてしまうとされる 

室町時代以降、幽霊は歌謡歌舞伎のテーマとしても扱われるようになった 

江戸時代後期の国学者津村淙庵寛政7年(1795年)に語ったところでは、7月13日 にかならず、難破船船乗りの幽霊が、相模国(現・神奈川県)にある灯明台に参集したという 

出遭った時点では幽霊と気づかず、実はすでに亡くなった人物であったと後になって気づくという話も、古今の別なく様々に語られている。古代においては『日本書紀雄略天皇9年条(西暦465年の条)の記述を、近世においては『耳嚢』巻之五(寛政7年〈1795年〉)に記載されている亡くなった小侍の話がある。

伝承される文化・芸術として

幽霊は、江戸時代以前から怪談という形で伝承され、江戸時代には怪談噺などが大流行した。「雨月物語」「牡丹燈籠」「四谷怪談」などといった名作が創られ、また、講談落語草双紙水墨画浮世絵などで盛んに描かれた。現在も題材として新作から古典の笑話小説などに用いられ、その他の様々な媒体で登場し紹介される。

文政8年6月11日 1825年7月26日)に江戸芝居小屋中村座」で『東海道四谷怪談』が初公演されたことに因んで、7月26日は「幽霊の日」となっている。

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鳥山石燕画図百鬼夜行』「幽霊」/安永5年(1776年)の作。描かれているのは、夜の墓場の枝垂柳の間から現れ出た女の幽霊で、額烏帽子を額に着け、白装束を纏っている。誰かを呼び止めているのであろうか、その腕は生者のごとく力強く掲げられている。つまりこの幽霊は、定型化される前の過渡期にある造形と言える。

幽霊の姿かたち、現れる場所、時刻

日本では幽霊は古くは生前の姿で現れ 、歌謡などの中でもそのように表現されていた 江戸時代ごろになると、納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の額烏帽子(ぬかえぼし)を着け、白装束をまとっているとされることが多くなった (■右の画像を参照)。

元禄年間(1688-1704年間)に刊行された『お伽はなし』では、幽霊はみな二本足があることになっていた 。しかし、享保17年(1732年)刊行の『太平百物語』では、幽霊の腰から下が細く描かれている。享保年間(1716-36年間)のうちに下半身を朦朧とした姿で描くようになっており、さらに時代を経ると肘を曲げつつ手先を力なく垂れる姿で描くようになってゆく 。こうように、江戸時代前期から中期を迎えるまでの間に、今日定型化されている日本の幽霊の造形(ステレオタイプ)が形成されていったと考えられる。もっとも、大田南畝編纂した横井也有の俳文集『鶉衣』(天明7-8年〈1787-88年〉刊行)に「腰から下のあるものもないものもある」と書かれている ことから窺えるように、江戸時代後期に差し掛かってもまだ完全には定着しきっていなかったと思われる。

また、日本の幽霊は、墓地や川べりの柳の木の下などといった場所に現れるとすることが多く 、丑三つ時(午前2時ごろ)といった特定の時刻に出現するともいわれている 。古くは物の怪の類は真夜中ではなく、日暮れ時(逢魔時、昼と夜の境界)によく現れ、場所も町はずれの(町と荒野の境界)など「境界」を意味する領域で現れるとされていた。

しかし、現代の目撃談では、かつての「生前の姿で現れる」話も数多く語られており、ほぼ存命者と変わらぬ普段着姿で娑婆を彷徨い、一般人と一見見間違うという報告も少なくない。東北学院大学准教授(当時)・金菱清とゼミ生の調査研究による、宮城県石巻市タクシードライバーが語った東日本大震災の話では、震災が発生した2011年、以下の目撃談が挙げられた 

  • 被災日から約3ヶ月後の深夜、初夏にもかかわらず、真冬のコートを羽織った30代と思しき女性が駅から乗車し、既に津波で更地となってしまった場所を目的地に指定したため、それを確認すると「私は死んだのですか」と返し、座席から姿を消した。
  • 8月、厚手のコートを着た20代男性客が、到着時に姿を消した。
  • 8月深夜、マフラーとコート姿の小学生が手を振っていたため、迷子かと思い自宅まで送迎すると、「ありがとう」と言った途端に姿を消した 

定型化した"死装束の幽霊"、"足のない幽霊"

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月岡芳年の中判錦絵揃物『芳年略画』の内「応挙の幽霊」/1882年明治15年)の作。写生に重きを置く天才絵師円山応挙の描く幽霊は、真に迫ること極まりて絵から飛び出したという。幕末明治の人気浮世絵師月岡芳年は、有名なこの逸話「応挙の幽霊」を、芳年一流のユーモアでもって視覚化してみせた。描いていた応挙自身が、今まさに紙から抜け出して迫り来る女の幽霊に気付くや、腰を抜かさんばかりに吃驚仰天しているのが、面白おかしい。

「乱れ髪に天冠(三角頭巾)、死装束の足がない女性」という、芝居お化け屋敷などでもおなじみの定型化した姿、いわば「日本型の幽霊」は、演劇文芸の影響が大きいと言われている 河出書房から出版された『渡る世間は「間違い」だらけ』(1995年〈平成7年〉刊)によると、歌舞伎の舞台「四谷怪談」の演出で幽霊の足を隠して登場したものが起源であるとしている。江戸時代に浮世絵の題材として描かれてから定着したものであるともいう。『番町皿屋敷』の影響があるともいう 天才絵師円山応挙(1733-1795年)の幽霊画の影響もあったとされる。応挙の幽霊画は当時から有名であったらしく、多くの絵師に影響を与えたといわれている(■左に示した一図の場合は、パロディ感覚で描かれた作例と言える)。ただし、「足の無い幽霊を最初に描いたのは円山応挙である」とする説については、俗説あるいは不正確な説との指摘がある。実際には、応挙が生まれる60年前の延宝元年(1673年)に同じ京都で刊行された井上播磨掾 浄瑠璃本『花山院后諍(かざんのいん きさきあらそひ)』(別名:花山院きさきあらそひ)に、足の無い幽霊の挿絵が掲載されており、この時代の、少なくとも京都にはすでに、「幽霊には足が無いもの」という概念があったようである。なお、係る日本の定型化した幽霊と対比する形で、「海外の幽霊は足があるものが多い」と解説されることがある。

幽霊の中でも「牡丹灯篭」のお露のように、下駄の音を響かせて現れる者もいるが、これは明治時代になって中国の怪異譚を参考に創作されたものである。近年[いつ?]も死者の霊が登場する都市伝説が多く語られているが、外見上生きている人間と区別がつかない幽霊も多く、「死に装束を着た足の無い幽霊」が「出現」することはほとんど無い。

心霊主義における日本の幽霊

20世紀および21世紀の日本の心霊主義者(スピリチュアリスト)の中には、性質別に「守護霊」「背後霊」「自然霊」「動物霊」「浮遊霊」「地縛霊」などといった用語で説明する人がいて、幽霊を、特定の場所に現れる"地縛霊"と、そうでない浮遊霊に分けて説明することがある 

季語

季語としての幽霊(ゆうれい。歴史的仮名遣:いうれい)は、の季語である。現代俳句協会が『現代俳句歳時記』でこの語を採録しているが 、他の歳時記採録しているものは少ないということを、協会会員が公式ブログで語っている 

同じく、『現代俳句歳時記』は「百物語(ひゃくものがたり)」も夏の季語として採録しているが、これも他の歳時記で採録しているものは少ない。

関連項目

西洋

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『海賊の本』(1903)において描かれた、海賊の幽霊

西洋の原語では、英語ではghost ゴーストあるいはphantom ファントムフランス語ではfantôme ファントーム などと言う。

やはり死者の魂が現世に未練や遺恨があり、現世に残り、生前の姿で可視化したもの、と考えている  のであり、希望を実現しないまま死んだ人、責任を果たしきれないままに死んだ人などが幽霊になって出ると考えられる 。婚約したまま死んでしまった女性は幽霊になって花婿のもとを訪れ 、出産時に死んでしまった女性の幽霊は乳児のベッドの横に立つ 。生前自分が行った行為が良心に咎めて死にきれない者も生者のもとに現れるとされる 。 殺された人、処刑された人、望みを果たさないまま無念に死んだ人たちの幽霊は、生者が慰め、その願いを代わりに叶えてやることで消え去るものともされている  

幽霊の姿、現れる場所、時刻

幽霊の現れる時の姿は、生前の姿のままや、殺された時の姿、あるいは骸骨、首なし、透明な幻、あるいは白い服を着た姿で現れる 。また火の玉や動物の姿でも現れるとされる 。現れる場所としては、墓場、殺された場所、刑場城館の跡、教会堂、街の四つ辻などが多い 。現れる時刻は、基本的には真夜中の0時から1時あたりが多く 、この時間帯が幽霊時などと呼ばれるくらいであり 、夜明けを告げるが鳴くと姿を消すとされる  。ただし、日中に現れるという記述もある 。例えば、降霊術師霊媒によって呼び出された霊である 。特定の場所に現れる特定の幽霊は迷える魂などではなく、過去の出来事が空間に情報として記録されたものの断片が、何らかの条件によって見えてしまう現象とする説もある 

ドイツでは11月2日の万霊節には、幽霊たちが列をなして現れ、Frau Holle(ホレばあさん)に引率され、さびしい教会堂寺院の供養に参加する。その夜になると墓場に鬼火が見えるのは、彼らが来ているしるしなのだと言われている  

村上計二郎は著書『幽霊の実在と冥土通信』にて、幽霊が夜現れ、昼間に現れないのは、彼らが光線を受けて溶解するためだという。また、幽霊が赤子や犬など特定の生き物に見えることや、幽霊固体が勝手に移動すること、固体重量が変化すること、固体が浮揚すること、楽器の弾奏が行われることを心霊現象として紹介している 

歴史

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ハムレットとその父の幽霊(1780年の絵画)。父の幽霊は17世紀風の鎧を身に着けている。

古代ローマでは、街の地下に死者の霊が住んでいると信じられ、地下にその住居をつくったり住居の出入り口をふさぐ幽霊石を祭りの日にだけあけて自由に出入りさせる、ということが行われていた。人々は生者を守る霊の力は借りようとし、反対に危害を加えるような霊については警戒したり、祈祷文によって遠ざけようとした 

アイスランドサガの1つ『エイルの人々のサガ』第50章には、アイルランドからアイスランドへ船で渡ったソルグンナという名の女性が、死後に幽霊となった話がある」が、「ヨーロッパの神話伝承やフォークロアに詳しい中世フランス文学の専門家」フィリップ・ヴァルテールは、「この謎めいた女性を、彼女が死後に残した寝具を手掛かりにしながら、アザラシと胞衣(えな;胎児を包んでいた膜や胎盤)の神話から解明しようと試みている」(渡邉浩司・渡邉裕美子) 

18世紀後半には幽霊物語が発展し、その草分けとしてホレス・ウォルポールの『オトラントの城』(1764)が知られている。その後、E.T.A.ホフマンルートヴィヒ・ティークエドガー・アラン・ポーらの作品が多くの人々に読まれた。これらの作品は、単なる架空の話として読まれたわけではなく、人々は幽霊が実在していると見なして読んでいたのである 

西洋の心霊主義では、降霊術も行われていた 。 20世紀においても、交霊術は都会においても行われている 。 心霊主義では、ポルターガイスト事件も(個々の事件によりはするが)心霊のしわざだと見なしている例も多々ある 。(それに対して、超心理学者たちは、ポルターガイストは若者の偶発的な超能力によるのだと説明していることがある 

今日でも、イギリスなどでは幽霊が現れる住宅も存在している。ただ日本と異なるのは、イギリス人たちは無類の幽霊好きで自分の家に幽霊が出ることを自慢しあう 。 「幽霊ファン」のような層がいて、幽霊見学ツアーなどが行われている 。 全国世論調査会社(NOP)が2000年に行った調査では、イギリス人の約42パーセントは幽霊や亡霊の存在を信じており、中でもスコットランドや北イングランドの回答者の3分の2は実際に幽霊を見た、もしくは気配を感じた事があると回答している 

イギリスの歴史的に由緒がある住宅などでは、歴史上の人物が幽霊として現れる建物も知られている 。例えば、イギリスで「最も多く幽霊が出る街」とも呼ばれるヨークにある、トレジャラーズ・ハウスに出没するローマ軍人の幽霊は「最も寿命の長い幽霊」としてギネスブックに登録されている 

近代の心霊研究はイギリスを中心に発展した が、その理由は、ひとつにはイギリス人の気質が知的な探究心が旺盛なため、幽霊が現れるとされればそれを怖がったりせず積極的に知的に調べてみたがるためとも言われている  

幽霊が出没することを英語では「haunted ホーンテッド」と言い、幽霊が出没する建物は「ホーンテッド・マンション 」「ホーンテッド・ハウス」などと言う(日本語では幽霊屋敷)。幽霊を自分の目で見てみたいと思っているイギリス人も多いので、イギリスでは幽霊が出るとの評判が高い住宅・物件は、通常の物件よりもむしろ高価で取引されていることもある 。日本では、幽霊が出る建物となると、悪い噂が立つ、事故物件とみなされるなどにより資産価値が下がると考えて、隠蔽しようと策を弄する のとは対照的である 

他の西側諸国にも幽霊が出没する建物の例は多い。 スペインでは、カタリナ・レルカロの幽霊に会うために、多くの人がテネリフェ島の歴史博物館を訪れる  

文化

怪談幽霊画ホラー映画お化け屋敷など幽霊を題材とする文化的な作品は数多い。多くの作品では、助言などを与える存在、もしくは危害や恐怖を与えるもの(幽霊恐怖症)として登場する。

文化財・資料
偉人や聖人が助けるために現れるもの
  • 聖母の出現(英語:Marian apparition)
  • 中国語では神仏や英雄が現れて助言や助力してくれることを顯聖という 
幽霊の付く言葉・人

幽霊に直接係わる若しくは模したもの。

  • 幽霊船 - 日本やヨーロッパに伝承される、幽霊が乗船している船。
  • 幽霊屋敷 - 幽霊が出没するとされる建物。
  • 幽霊電車
  • 幽霊の日:7月26日鶴屋南北東海道四谷怪談が初演された文政8年(1825年)7月26日を記念する日。
  • 幽霊坂 - 坂の地名。由来は諸説あるが、「幽霊が出た、出そうだ」とされ命名された。
  • 子育て幽霊 - 日本で伝承される民話。
  • 幽霊塔 - 日本で幾つか翻訳された塔を舞台とした外国の推理小説
  • 内弁慶外幽霊 - 内弁慶の外幽霊ともいい、外面と内面の差が激しい性格のたとえ。
  • 幽霊インバータ - 初期のVVVF制御電車など、歌舞伎や時代劇における幽霊の効果音のような走行音(励磁音)を出す電車を指した俗称。幽霊電車とは無関係。

幽霊の名が付くもの

生物

実体のないことの例え(幽霊は肉体がないので)

人名

事件

小説

脚注

注釈

  1. ここでいう「平家武者」は、落武者に限らない。また、平家の落人は武者とは限らない。ここで言及しているのは、戦死した平家武者のみである。
  2. 元資料は言及していないが、「7月13日」は旧暦に基づく日付であると常識的に解釈し、そのように記載した。ただ、旧暦と新暦の混用は専門家の文にさえ散見する誤表記であり、新暦に換算された日付である可能性が、非常識ながら存在する。
  3. 「幽霊の日」の根拠となっている日付(和暦グレゴリオ暦換算した日付)「1825年7月26日」から旧暦の日付を逆算した。
  4. 一般的には思い込みと混同されるが、タクシーの場合は無賃乗車としてドライバーが運賃を肩代わりする形となるため、具体的な記録として残される。
  5. 1632-85年(※ただし、生没年に不確かな所あり)。京都の人で、大坂で活躍した古浄瑠璃太夫
  6. フランス語版ウィキペディア "Fantôme" の定義文の周辺にもフランス語でそうだと簡潔に書いてある。
  7. <注> 日本で言うところの浄霊などに相当することになる。
  8. 放送大学の英語の講座でも、イギリスのある一般市民夫婦がたまたま古い民家に住むようになったところ、奥さんが二階の階段のところに男性の幽霊が立っているのが見えて驚いたが、後日旅行していたところ(偶然あるいは何らかの必然で)あるギャラリーでその男性(幽霊)と顔がまったく同じ肖像画を見つけたことでその人物の名を知り、後日歴史を調べてみたところまさにその男性が数百年前にその民家に住んでいたことが判り、「それまで幽霊を信じていなかったが、その出来事以降は信じるようになった」と、放送大学のカメラに対してその夫婦らが誇らしげに語っていた回がある。
  9. この場合の「マンション」は「豪邸・邸宅」を意味する本来の用法であり、日本でのみ定着している「大規模な共同住宅」を意味する誤用ではない。
  10. ただし、米国では、ある人が幽霊が現れる物件を販売しようとした時に、購入希望者に幽霊が出るという事実を説明せず、新しい所有者がそれを知らないまま購入したものの後で幽霊が出ることに気づき納得がゆかず裁判に訴え、裁判所がそれを事実と認定し、物件の値下げを命ずる判決を出した事例は1件ある(それは公式の裁判記録として残っている)。

出典

  1. 吉田漱(監修)・悳俊彦(編著)『月岡芳年の世界』東京書籍、1993年、111頁。
  2. 悳俊彦『芳年妖怪百景』国書刊行会、2001年、83-84頁。
  3. 広辞苑第五版「死者が成仏し得ないで、この世に姿を現したもの。」
  4. 岩切友里子(監修)『別冊太陽196 月岡芳年 幕末・明治を生きた奇才浮世絵師』平凡社、2012年、138-139頁。
  5. 岩切友里子芳年 月百姿』東京堂出版、2010年、52-53頁。
  6. 日野原健司(著)・太田記念美術館(監修)『月岡芳年 月百姿』青幻舎、2017年、42頁。
  7. 日本大百科全書【幽霊】』小学館、1994年、391頁。
  8. 『世界大百科事典【幽霊】』(初版)平凡社、1988年、623頁。
  9. ジャン=クロード・シュミット英語版『中世の幽霊――西欧社会における生者と死者』みすず書房、2010、 ISBN 4622075164
  10. 竹田晃『中国の幽霊―怪異を語る伝統』東京大学出版会、1980、ISBN 4130830139
  11. クリエイティブ・スイート『世界の海賊 伝説と謎』PHP文庫、2010
  12. 『人はなぜ生まれいかに生きるのか』、ハート出版 2001年10月25日、 ISBN 978-4892954979
    『あの世の話』(佐藤愛子との共著、青春出版社1998年11月、[文春文庫] 文藝春秋2001年12月10日)ISBN 978-4167450052
    など。
  13. 小林 夏冬 (2011年5月22日). 季語の背景(12・幽霊)-超弩級季語探究”. 現代俳句協会ブログ. 現代俳句協会. 2018年2月15日閲覧。
  14. シャーン・エヴァンズ 『英国の幽霊伝説:ナショナル・トラストの建物と怪奇現象』 田口未和訳 原書房 2015年初版第1刷 ISBN 9784562051250 pp.11-17,256-260..
  15. 村上計二郎「幽霊の実在と冥土通信」日本書院出版部1927年11月18日
  16. フィリップ・ヴァルテール『ユーラシアの女性神話-ユーラシア神話試論Ⅱ』(渡邉浩司・渡邉裕美子訳)中央大学出版部 2021年、ISBN 978-4-8057-5183-1、81-93頁(第4章 ソルグンナ―アイルランドから来たアザラシ女)
  17. 『近代スピリチュアリズムの歴史』講談社、1994年。
  18. ウィリアム・ロル『恐怖のポルターガイスト』坂斉新治訳 ボーダーランド文庫、角川春樹事務所(1998年)ISBN 9784894563780
  19. 『世界怪異現象百科』原書房、1999、p.406
  20. 石原孝哉『幽霊(ゴースト)のいる英国史集英社新書、2003、ISBN 4087201961

参考文献

関連文献

関連項目

アドバトリアル (Advertorial、Advertisement(広告)とEditorial(記事)のかばん語)と呼ばれることもある。一目でそれとわかる純広告とは異なり、見掛け上記事の体裁をとることであたかも新聞社や出版社が内容に対し協賛・保証しているかのような印象を与えるなど、“消費者の警戒心が薄れ”注目を集めやすいとされる(ステルスマーケティングも参照のこと)。

記事広告

一般に新聞・雑誌などにおいてPR内容が通常の編集記事とよく似た体裁で編集されたペイドパブリシティ / ウィキペディア フリーな encyclopedia

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1. PR内容と編集記事が似た体裁で掲載される広告形態。
2. 新聞や雑誌などで一般的に利用される。
3. ペイドパブリシティの一種として位置づけられる。
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記事広告は、新聞や雑誌などに掲載されるPR(宣伝)の内容が、通常の記事とよく似た形で編集されたものです。つまり、読者が広告だと気づかずに記事を読んでいるような感覚を作り出すことが目的です。
あなたが考えていることを私に伝えてください
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記事広告(きじこうこく)とは、一般に新聞雑誌などにおいてPR内容が通常の編集記事とよく似た体裁で編集されたペイドパブリシティ(paid publicity)の一種  。広告記事(こうこくきじ)と呼ばれることもあるが、あくまでも広告であり記事の一種ではない。

「記事広」と略称されており、アドバトリアル (Advertorial、Advertisement(広告)とEditorial記事)のかばん語)と呼ばれることもある。一目でそれとわかる純広告とは異なり、見掛け上記事の体裁をとることであたかも新聞社や出版社が内容に対し協賛・保証しているかのような印象を与えるなど、“消費者の警戒心が薄れ”注目を集めやすいとされる(ステルスマーケティングも参照のこと)。

報道に属する新聞や雑誌の記事を作る場合は、通常はクライアント企業・広告代理店が持ち寄った情報をもとに媒体編集者(出版社・放送局など)が"公共性を勘案しながら"制作をおこなうが、広告代理店が記事を制作する場合もある。この場合、広告・商品の宣伝を主な収入源においている広告代理店は、ある程度公共性を犠牲にしてPR内容を盛り込む傾向がある。

記事広告は費用的には広告に準じた水準(追加費用発生の場合もある)となる。マスメディアにおいて広告収入が減少傾向にある中、記事広告は重要な収入源となっている。

通常、掲載枠の隅に「広告」「PR」「AD」「協力○○(企業名)」等と広告である旨が小さく書かれているが、記載していないメディアも存在しその数も増加している。そのために広告を通常の記事と誤認させる行為(ステルスマーケティング)が問題になったり、逆に通常の記事が記事広告ではないかと疑われるなどの記事内容の信頼性が損なわれる問題が発生している  

雑誌では広告枠に掲載されていることもあり、ページ番号が記入されないことが一般的である。なお、雑誌・テレビ番組など各媒体に合わせたフォーマットでつくられているものは、タイアップと呼ばれることが多い。

各メディアにおける導入

雑誌およびラジオにとっては広告収入の減少は深刻であり、一部を除けば記事広告による収入は生命線とも言える。ペイドパブリシティの案件にあわせて記事や番組が構成されるタイアップも見受けられる。

テレビにおいてもペイドパブリシティは広く導入されている。情報番組などにおける紹介のほか、ドラマ(特にトレンディドラマ)などで商品をさりげなく露出させる手法(プロダクトプレイスメント)も定番となっている。また明確な分類は難しいものの、テレビショッピングも記事広告の一形態と考えることができる。主に音楽番組でアーティストの歌唱中に表示される1970年代中盤まで行われていたテロップCMも、ペイドパブリシティの一種である。

民間放送ノンフィクションテレビ番組において、洋画作品を扱う場合、映像の利用ならまだしも、タイトルの発言やテレビ受像機の映り込みのみに留まる場合も含めてビデオグラム版のパッケージ宣伝テロップを載せるため、それら全てがビデオグラム版のペイドパブリシティ となっていることから、それらのVOD版でも配信の許可を受けている。

新聞においても記事広告は多いが、有力紙では「記事の隅に『PR』『企画広告』といった文字を載せる」「編集協力者として企業名を明示する」など、一目で広告とわかるような注意書きがなされるのが普通である。

またインターネット利用者の増加に伴い、この分野でのペイドパブリシティが注目されている。ブログメールマガジンに記事広告を出す手法が広まりつつある。インターネット上で記事広告を掲載する場合、大規模なサイトやオピニオンリーダーに依頼して情報の普及を図る方法と、多数の小規模媒体に直接依頼して情報を仕掛ける方法がある。他の媒体と比べると、広告審査がない(あるいは緩い)ため幅広い表現方法が使えるメリットがあるが、執筆内容が記事広告であることが露見した場合は激しい拒否反応が起きる傾向がある。

提灯記事との違い

提灯記事があくまで(少なくとも表向きには)記者やメディアの自発的な意思によって取材対象を持ち上げるものであり、金銭のやり取りやその金額についても不透明であるのに対し、記事広告は依頼主が正式に広告料を負担して掲載してもらうものである。

問題点

記事広告の場合、企業側の情報に基づいて記事が作られ、たいていは独自取材は行なわれないので一方的な内容になる。ジャーナリズムの観点からは中立性・正確性を損なう可能性がある。記事に広告としての明記がされていない「ノンクレジット記事広告」の場合は、広告主のお金によって書いている記事にもかかわらず広告とわからない普通の記事に見えるため読者からすると単なる「やらせ記事」として捉えられる 。代表的な例としては、2000年から2001年にかけて朝日新聞社が『週刊朝日』誌上における連載企画について、武富士から「編集協力費」名目で5000万円を受け取っていたにもかかわらず、誌上では「武富士」のクレジットが一回も出されなかったケースが挙げられる。一部業界では慣習化しており、急には変えられないのではないかとの見方がある 広告主が「広告と分からないように記事を書いてほしい」と依頼し続ける可能性もある 。その一方で、広告表記のない記事広告を是正して再発防止に取り組む企業もある  

また放送メディアの場合、放送法との兼ね合いが問題になる。第51条の2において「対価を得て広告放送を行う場合には、その放送を受信する者がその放送が広告放送であることを明らかに識別することができるようにしなければならない」と規定されており、一部のペイドパブリシティはこれに抵触しているのではという指摘もある。

ジャーナリズムにおいて記事広告の取扱には細心の注意が求められ、一般消費者側ではメディア・リテラシーが求められる。

脚注

関連項目

外部リンク

DuckDuckGoが過去24時間以内にブロックした追跡試行回数

308,652 件の追跡試行を阻止

630件 - DuckDuckGoが過去24時間以内にブロックした追跡試行回数

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