開けて悔しき玉手箱のブログ

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戦略国際問題研究所

戦略国際問題研究所  

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戦略国際問題研究所(せんりゃくこくさいもんだいけんきゅうじょ、英語Center for Strategic and International Studies, CSIS)は、アメリカ合衆国ワシントンD.C.に本部を置く民間のシンクタンク1962年ジョージタウン大学が設けた戦略国際問題研究所CSIS)が、後に学外組織として発展したものである[1]。現在のフルタイム常勤職員は220人[2]。議長はトーマス・プリッツカー(Thomas J. Pritzker)、所長兼CEOはジョン・ハムレ(John J. Hamre)[2]

全世界のシンクタンクをランク付けしたペンシルベニア大学によるレポート(Go to think tank indexの2014年版)によれば、CSISは防衛・国家安全保障(Table 14) で世界第1位、外交政策・国際関係論(Table 31) で第5位、革新的政策提言(Table 44) の総合では第4位(全米で3位)にランクされており[3] 。ワシントンでもシンクタンクとして認知されている[4]

公式には超党派を標榜し、民主党共和党を含む幅広い人材が関与している。USニューズ&ワールド・レポートは「中道」(centrist)と表現している[5]

沿革 

エドマンド・アロイシャス・ウォルシュ神父とダグラス・マッカーサー将軍(1948年 東京)

ジョージタウン大学戦略国際問題研究所」は、イエズス会神父エドマンド・アロイシャス・ウォルシュ(Edmund Aloysius Walsh、1885年10月10日 - 1956年10月31日)が、1919年に同大学内に創った「エドマンド・A・ウォルシュ外交学院」が改組されたものである。ウォルシュは地政学カール・ハウスホーファーの弟子であり、その学問をアメリカに移植することを目的とした組織であった。

設立にあたっては、アーレイ・バークおよびデイビッド・マンカー・アブシャイア(David Manker Abshire)[6]が主導[7]1987年ジョージタウン大学から独立した研究機関となった。設立の経緯から、アメリカ陸軍などアメリカの国家安全保障グループとの繋がりを強みとする。

組織 

理事長には、1999年よりサム・ナンが、同研究所所長最高経営責任者には、2000年4月よりジョン・ヘイムリがついている。また、ヘンリー・キッシンジャーカーラ・ヒルズリチャード・アーミテージズビグニュー・ブレジンスキーが理事を務め、顧問にはキッシンジャーと弟子のブレント・スコウクロフトがいる。彼らの多くはアメリカ国家安全保障会議国家安全保障問題担当大統領補佐官でもあった。

イラク戦争後の“復興”において、リポート「より賢い平和(A Wiser Peace)」を作成し、時のアメリカ合衆国国防長官ドナルド・ラムズフェルドに提出した。

日本人では小泉進次郎や、浜田和幸辻清人渡部恒雄などが一時籍を置いた。現在では日本から多くの将来有望な若手官僚や政治家(候補含む)がCSISに出向して学んでくる慣習が確立している。日本部には、防衛省公安調査庁内閣官房内閣情報調査室の職員の他、日本貿易振興機構や損害保険会社、日本電信電話の職員も、客員研究員として名を連ねている。また、日本の現役政治家とも縁が深く、麻生太郎安倍晋三なども度々CSISを訪れ、講演でスピーチを行っている。

CSISは日本では公益財団法人東京財団日本財団の下部組織)と協力関係にある。東京財団の他にも笹川平和財団特定非営利活動法人世界開発協力機構が、パシフィックフォーラム CSISを通じてフェローシップ・プログラムの提携を行っている[8]。また、2011年には日本経済新聞社と共同で「日経・CSISバーチャル・シンクタンク」の創設を発表し、2012年に立ち上げた。

稲盛財団理事長の稲盛和夫は国際評議員を務め、2002年4月1日には政界・経済界等の若手リーダーを養成するための設立基金500万ドルを財団から寄付し、「アブシャイア・イナモリ リーダーシップ・アカデミー」(Abshire-Inamori Leadership Academy:略称AILA)をCSIS内に共同で設立した[9]。パシフィックフォーラム CSISでは、半田晴久と稲盛の他、オリックス元会長の宮内義彦が日本在住の理事を務めている[10]

CSIS子宮頸がんワクチンの接種、推進に関する日本政府への提言[11]なども行ってきている。

関連項目 

脚注 

  1. ^ CSISとはコトバンク
  2. a b CSIS About Us
  3. ^ Global Go To Think Tanks Report”. University of Pennsylvania. February 2, 2014. P51, P80, P99. 閲覧。
  4. ^ Many D.C. Think Tanks Now Players in Partisan Wars”. The Boston Globe. 2013年10月2日閲覧。
  5. ^ Think Tank Employees”. U.S. News & World Report. 2013年10月2日閲覧。
  6. ^ 1926年、テネシー州生まれ。大統領学研究センター代表。戦略国際問題研究所共同創設者で副理事長。1951年、ウエスト・ポイント陸軍士官学校卒業。1959年、ジョージタウン大学にて歴史学博士号取得。同大学にて長年助教授を務める。1980年の政権移行期にロナルド・レーガン大統領により国務省国防総省、米軍情報庁およびCIAを含む国家安全保障グループの統括役に任命。
  7. ^ CIA情報担当次官レイ・クラインも創設者に名を連ねていた。
  8. ^ パシフィック・フォーラムCSISとWSD半田フェローシップ・プログラム”. 特定非営利活動法人 世界開発協力機構. 2017年11月13日閲覧。
  9. ^ 稲盛財団沿革”. 公益財団法人稲盛財団2017年11月13日閲覧。
  10. ^ Who We Are”. Center for Strategic and International Studies. 2017年11月13日閲覧。
  11. ^ 日本におけるHPVワクチン接種状況 問題と選択肢 (PDF)”. CSIS (May,2014). 2014年8月18日閲覧。

外部リンク 

 

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知日派

知日派  

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知日派(ちにちは)あるいは知日家(ちにちか)とは、日本の社会・文化などに対して深い理解を持つ言動を行う外国人を指す言葉である。日本文化を愛好する「親日」とは一般に区別され、対日強硬派の知日家もありうる。

また、特に国際政治において、日本政府の手法を知り尽くした政権スタッフやタフ・ネゴシエーター(手強い交渉人)、ジャパンハンドラー(日本を飼い馴らした人物。特にアメリカでの用法)を指すことが多い。この意味での知日派の代表としてリチャード・アーミテージマイケル・グリーンジョセフ・ナイカート・キャンベルらがあげられる。

中国や韓国でも用いられる語句であるが、特に韓国の場合には「親日派(チニルパ)」が売国奴と同義になるため、「知日派」が用いられる(詳しくは当該ページを参照のこと)。政治とは無関係に日本文化に熱中する人々は中国・台湾では「哈日族」、韓国ではやや軽蔑的に「イルパ」と呼ばれる。

このページでは「親日」もまとめて記載する。

知日派として知られる著名人 

欧州 

フランス 

ジャック・シラク
フランス第五共和政の第5代大統領。大の日本贔屓で、公務以外にプライベートで何回も来日している。大の好角家でもあり、愛犬に「スモウ」と命名している。また、本場所開催中には執務を執るエリゼ宮に、駐日フランス大使館から連日大相撲の結果を詳細に報告させているほか、時にはわざわざ来日して枡席から観戦する。大統領就任前のパリ市長時代には、日本テレビ系クイズ番組『第9回アメリカ横断ウルトラクイズ』の決勝地として積極的にパリ市への誘致を行ったほか、1986年、大相撲のパリ公演に際しても自ら主催し、1995年に再度行われたパリ公演に際しては、今度はパリ市長を押しのけフランス大統領として自ら主催者になった。また、土偶埴輪の相違点について専門家並の説明ができる。
アンドレ・マルロー
フランスの作家政治家
エドモン・ド・ゴンクール
フランスの研究家。日本美術の研究家で、フランスの芥川賞に相当するゴンクール賞を創設。自らジャポニスムの先駆者を自任した。
クロード・レヴィ=ストロース
フランスの社会人類学者。幼少時にジャポニスムに触れてから晩年まで、日本の工芸品や美術品を愛好した。日本文化に深い関心を寄せ、日本を世界の中で強い独自性を持つ文化圏として「日本文明」と位置づけた。日本の仏教の受容のあり方(神道との共存)を高く評価し、自らも仏教を受け入れていた。数度訪日し、1993年には勲二等旭日重光章が授与されている。

ドイツ 

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
ドイツの医師博物学者。長崎に私塾鳴滝塾をつくった人物。オランダ商館医の身分で赴任したため、オランダ人のふりをしていた。

イギリス 

ジェレミー・ハント
イギリスの政治家。日本で2年間英語教師を務めた経験があり、日本語にも堪能である。モダン日本文化愛好家でもある。

北米 

アメリ 

エドウィン・O・ライシャワー
アメリカの東洋史研究における第一人者。東京都(当時東京府)生まれ、後妻は日本人。1961年から1966年まで、駐日大使を務め、退官後も日本及びアジア研究者として日米間を緊密に往復しつつ活躍した。上記の経歴のため、公の場では英語で通したが、非公式な会見などでは時折日本語も話したという。
カート・キャンベル
外交官クリントン政権時代に国防総省でアジア・太平洋担当副次官補、オバマ政権(第1期)に国務省で東アジア・太平洋担当次官補と、一貫して対日問題を扱った。
ジョセフ・グルー
アメリカの外交官。1932年から1941年(日米開戦時)の駐日大使。終戦の際、国務次官国務長官代理)として日本本土決戦回避、天皇制維持に尽力。占領期も米国対日評議会 (American Council on Japan, ACJ) などでの活動を通じて日本の復興路線を支持した。知日派外交官のゴッドファーザー的存在としても知られた。
ジョセフ・ナイ
アメリカの国際政治学者政治家民主党系であるが共和党系のアーミテージとともに「アーミテージ・レポート」を作成。一時、新任の駐日アメリカ大使として名が挙がった。
マイケル・グリーン
アメリカの政治学者、外交官。日米同盟関係に精通した研究者兼実務家として1990年代より活躍している。
ケビン・メア
弁護士、外交官。妻は日本人。歯に衣着せぬ発言がたびたび問題視される。沖縄で総領事を務めていた当時からたびたび舌禍事件を起こし、2010年には国務省内でアメリカン大学の学生を対象に講義した際の発言が問題視されて日本部部長を解任され、国務省を依願退官した。

南米 

アジア・ユーラシア 

韓国 

朴正煕
韓国の軍人・政治家、第5〜9代大韓民国大統領として軍事独裁政権を主導。日本の陸軍士官学校を卒業し、満州国軍人になった経歴がある(日本陸軍の経歴はない)。当時の通名は“高木正雄”。大統領としては、日韓基本条約を結び、日本との国交を回復。韓国が「日本に学び、強国になる」ことを目指した。プライベートでは日本統治時代を評価するなど、韓国の要人としては異例な発言も伝わる。一方で反日的な愛国教育を推進するなどもしており、自身が在日韓国人に襲撃され陸英修夫人が殺害された際(文世光事件)には「日本は赤化工作の基地となっている」と怒りを露わにした。
金大中
韓国の政治家、第15代韓国大統領。朴正煕の政敵であったが、彼もまた日本との関係が深く、朴政権によるテロを逃れて、1972年から1985年まで日本やアメリカで活動を行った。朴政権下のKCIAにより、日本のホテルから拉致監禁されたこともある。大統領としては日本文化の自由化を進め、日本の常任理事国入りに対する韓国の支持を求めたこともある。
金玉均
朴鉄柱
「日本上代文化の研究」「帰化文化の研究」「日本の信仰、道徳等精神文化の研究」を研究主題とするシンクタンク機関韓日文化研究協会を設立。
池明観
日本女子大学で20年教鞭を執り、日韓文化交流会議韓国側座長を務めた。韓国における軍事独裁政権批判でも知られ、「T・K生」の名で『韓国からの通信』を書いたことを告白。
金鍾泌
韓国元首相。長く日韓議員連盟役員をつとめ日韓ロビーの韓国側ロビーを務めるなど対日融和に努めた。学生時代に日本留学を希望し読書家で菊池寛等日本文学にも造詣があった、韓国の政治家としては稀有な知日派であった。引退後には「日本が好きな私」と発言した事もある。非公式な日本関係者との懇談では流暢な日本語を披露したという。
全斗煥
韓国10、11代元大統領。軍事独裁政権の権力者として民主化運動を弾圧したため、韓国国民、特に左派からの評判は悪かったが光復節の演説では「日本を責めるべきではなく、我々の責任を顧みるべきだ」と発言するなど行き過ぎた反日運動に歯止めを呼びかけた。また1983年に韓国大統領として初めて公式来日し、昭和天皇と会談した。日本の政財界とのパイプも深く、特に瀬島龍三とは若手将校時代から親しく、ソウルオリンピック開催を巡り援助があったという説もある。1985年に中曽根康弘靖国神社参拝をした際には、強い抗議をせず、韓国内部から弱腰と批判されている。

中華民國(臺灣/台湾) 

蒋介石(蒋中正)
日本の陸軍士官学校の出で、日本語にも堪能であった。戦後処理の相談をフランクリン・ルーズベルトに持ちかけられるなど、連合国軍首脳随一の知日派として知られた。日中戦争では当初は国共内戦での勝利を優先していたが、中途から徹底抗戦に転じ、対日協力者の粛清など強硬戦略を敷いて、連合国の一員として日本に対し勝利した。戦後は「徳を以って恨みに報ず」という声明を出し、復員を円滑に進め、日本における親中・親台湾派の形成に寄与した。台湾での独裁政権時では、知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止するなど日本色の一掃を図ったため台湾の本省人には評価が低いが、総統代理として息子の蒋経国明治神宮公式参拝させるなど、日本と良い関係を維持した。
李登輝
日本統治時代に教育を受けた世代(日本語世代)の代表格といえる人物。太平洋戦争では高射砲を扱っていた。彼は4つの言語に堪能であり、日本語、台湾語、英語、北京語(國語)の順に得意とされる。自らを「半日本人」と言ってはばからず、新渡戸稲造の武士道の研究、靖国神社参拝の全面支持や台湾における日本の植民地政策を高く評価するなどし、日本の保守系のメディアに登場することが多い。一方、前総統という立場にありながら過度に親日であるとして、台湾や中国では売国奴と罵られることがある。
謝長廷
李登輝と同じく京都大学への留学歴があり、対日関係を重視していることから知日派といわれる[1][2]

中国 

周恩来
明治大学に留学した。日中国交回復の際、田中角栄らをもてなし、後の日本の政界に影響力を持つ親中派を作り上げることに一役買った。
胡耀邦
改革開放の一環として日本との関係を深めることに腐心した。靖国神社公式参拝していた中曽根康弘は、「向こうの親日派(胡を指す)が失脚されるのはごめんだ」という理由でとりやめたことがある。
趙紫陽
胡耀邦の後継者として日本では親日家のイメージがあり、日本への友好的な態度が失脚の一因と考えられている。
鄧小平
1978年日中平和友好条約締結時に来日し工業地帯等を視察した際に日本の技術水準、生活水準の高さに驚愕し「日本は世界史上で最も成功した社会主義国だ」と述べ、その事が後の改革開放路線に繋がったと言われる。ただし実権を握っていた後期は南京事件資料館をオープンさせるなど次第に反日路線にシフトし自らの後継者にも対日強硬派江沢民を指名した。
胡啓立
曽慶紅
李克強
北京大学の学生時代から日本を数回訪問し、複数の政治家の自宅にホームステイをした経験も持つ。
唐家璇
王毅
武大偉
程永華
劉洪才
孫平化
王暁雲
蕭向前
張香山
郭沫若
孫文
康有為
愛新覚羅善耆
愛新覚羅溥傑
愛新覚羅憲奎(金壁東)
愛新覚羅顯㺭(川島芳子)
梁啓超
宋教仁
汪兆銘

日本側の動き 

日本では知日派と交流を持つなどして国益に繋げようとする動きも見られる。

2015年安倍晋三首相は訪米先のマサチューセッツ工科大学 (MIT) で、MIT・コロンビア大学ジョージタウン大学の3大学にそれぞれ500万ドルの支援をすることを表明した。日本の政治外交の研究を支援することで知日派の育成に繋げる狙いがあるとされる[3][4]

同年9月、日本政府は「知日派親日派リスト」を作成し省庁横断で共有することを決定した[5]

参考文献 

脚注 

関連項目 

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国体 

国体   

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国体(こくたい、旧字体: 國體)とは、八木秀次によれば“あるの基礎的な政治原則[1]。事実上、日本の事象に特化した政治思想用語であり、特に「天皇を中心とした秩序(政体)」[2]を意味するとされている。そのため、外国語においても固有名詞扱いで "Kokutai" と表記される。

概要 

】とは政体の下に属する土地人民地理上の区画首都、封土、ふるさとの意。【】とは典型または規範などの意[3]

一般に国体とは、日本神話の、皇室万世一系天照大神の子孫であり、によって日本の永遠の統治権が与えられている(神勅[4]天皇により統治された、人民や古里の決まりといった意義。国体論では、とりわけ他国との対比において、王朝交代・易姓革命近代においては市民革命が起きなかったことを、日本の国体の表れとして重視する。論者の大部分は天皇による国家統治を国体の不可欠の要素として主張する。

不変の国体の存在を措定する限りにおいて、国体論は概して民族主義的・保守主義的立場といってよいが、その範囲内で、具体的に何を日本の国体の本質とみなすかは、時代や論者によって差異がある。

国体論の視座は大別して「徳」と「智」があり[5]、徳川封建社会以来のイデオロギーとしての朱子学儒家的な思惟を重視すれば、国体とは個人の内面や実践に深く関わっており、親兄弟、家族や地域とのかかわりといった儒教的全体としての側面が強調され(徳)、それは西洋近代の先進文明が象徴する(智)に優先する。智を優越させた立場は福沢諭吉の「文明論之概略」であり、近代主義的な西欧文明論による日本社会の改造を意味する。「建國の體」を重視する君権学派は前者であり、「海外各國ノ成法」を重視する立憲学派は後者となる[6]

「国体思想」の要素は

  • 神国思想:日本の国家と皇統は神々に由来し、日本は神々に守護されているという信仰。特にファシズム時代には天皇現人神と仰いだ(『国体の本義』・修身の教科書など)。神国思想は、大東亜戦争で敗北した為崩壊したとする論者もある。
  • 皇国史観天皇を中心とする日本の国の歴史を称揚する歴史観
  • 国民道徳論:忠君報国や親孝行などを日本の古来からの道徳として称揚する(教育勅語など)。
  • 家族国家論:日本の国家を一大家族に擬制し、皇室を国民の宗家とし、天皇を家長にたとえる。
  • 君主国体説:諸国家を「主権」の所在により君主国体と民主国体に分類し、日本を君主国体とする憲法学説(穂積八束上杉慎吉)。
  • 立憲主義民本主義天皇による統治は国民のために行われるべきと主張する(美濃部達吉吉野作造など)。

などが挙げられる。

「国体」は旧字体では「國體」と書き、古くから漢籍に見える。「国体」の文字は『管子』君子篇では「国を組織する骨子」の意味で、『春秋穀梁伝』では「国を支える器」の意味で用いられている。古代日本でも『出雲国造神賀詞』に「国体」と書いて「クニカタ」と読む言葉があり「国の様子」を意味している。

国家観の意味で「国体」の語が用いられるようになったのは江戸後期以降であるが、それ以前にも国体の萌芽となる思想は現われていた。そのひとつは、日本を神々の国であるとする神国思想、もうひとつは皇位の血統性を強調する皇国思想である。

前史 

記紀 

古事記』・『日本書紀』は、日本の国家と皇室の由来を語りおこしており、それ自体が神国思想といえる。『日本書紀』の一書(別伝)に天壌無窮の神勅には、天皇の先祖が高天原から降下したという天孫降臨において、天降りする孫に天照大神が与えたとされる言葉である。皇位の栄えは天地とともに無限であろう、と言祝(ことほ)ぐ。明治以降特に強調された言葉ではあるが、『日本書紀』の本文では採用されておらず、編纂時に強調されていなかったようである。ただし、『古事記』・『日本書紀』はその全体が、皇統の系譜を叙述の規範としており、皇位の血統的連続性いわゆる万世一系を前提とした史書である。

古代 

一説には、雄略天皇は、中華皇帝から倭王に封じられた最後の天皇であり、これ以降、歴代天皇は中華皇帝に臣下の礼をとらなくなる。雄略天皇はまた国内では「治天下大王」を名乗り、自己より上位の権威を認めない姿勢を示した。

武烈天皇崩御に伴って、大和の有力豪族たちは皇族を遠く北陸からむかえ皇位に推戴した。これが継体天皇である。こうした有力豪族たちの行動は、皇位には何よりも血統性が重要であるという一種の信仰を背景としたものであり、日本独自の国体観の始まりといえる。

中世 

中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの権門勢家が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に、元寇など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された。

朱子学が鎌倉後期に日本に伝来すると、その正統主義、尊王斥覇の思想が日本の国体観に加わった。

後醍醐天皇鎌倉幕府を打倒し天皇親政を試みた。鎌倉幕府の倒壊から南北朝時代を物語る『太平記』は、楠木正成などの南朝方武将を好意的に描き、後の歴史観に大きな影響を残した。また南朝方の有力公家北畠親房南朝の正統性を主張するために歴史書神皇正統記』を著し、皇国史観の元祖となった。又、戦国時代末期には、豊臣秀吉が外国宛書簡で神国思想を表明した。これは、江戸幕府を樹立した徳川家康にも継承された。

徳川時代 

徳川時代に入ると学者による論説が登場した。これには儒学者の流れと国学者の流れがある。

儒学者流では、山崎闇斎とその学統が有名である。山崎闇斎は神儒一致(神道儒教との一体化)の垂加神道を唱え、その弟子浅見絅斎は『靖献遺言』を著し尊皇思想の源流となった。闇斎は、皇統はそれ自体が道の存在を示しており、さらには天皇こそが儒教的な人倫の道の体現者であるとした。一説には、孫弟子の栗山潜峰(1671年(寛文11年) - 1706年(宝永3年))は、国体の語を日本独自の国家観の意味で初めて用いたといわれている。 水戸藩作成の史書大日本史』には、孫弟子の三宅観瀾栗山潜鋒らが編纂に携わった。『大日本史』は、朱子学の正統主義の立場から、南朝正統論を強調した。水戸学では日本とは一つの道徳的実残の運動体(国体)であると考えられており、山崎闇斎の思想とともに幕末の尊皇攘夷運動の思想的契機の一つとなった。

一方、国学者流では本居宣長の影響も大きい。ほとんど読めなくなっていた『古事記』の解読にほぼ成功して、神国思想を強調した。

「国体」の語を用いた国家論が本格的に始まるのは、水戸学以降である。会沢正志斎は著書『新論』1825年(文政8年)の冒頭で国体と題した章を設けて尊皇攘夷を論じた。また、藤田東湖が起草し同藩主徳川斉昭が撰文した『弘道館記』1837年天保8年)は「国体以之尊厳」と刻み、日本の道徳が皇統に由来することを説いた。これら水戸学者の著作は幕末の志士たちの間で広く読まれたことから、「国体」の語が一般に通用するとともに、水戸学流の国体観念が明治維新の原動力となる。

吉田松陰は『講孟余話』を著して日本固有の国体を強調した。長州藩の老儒山県太崋がこれを批判し、両者の間で論争になった。後、吉田松陰門下から明治政府の高官となった者が多く、吉田松陰の国体観が明治国家に与えた影響は大きい。

水戸学の国体論とは別に大きな影響力を持ったものとして頼山陽日本外史』がある。これは「国体」の語を用いていないが、尊皇思想を背景に南朝方武将の楠木氏や新田氏を忠臣として描写しており、幕末の志士の間で多くの愛読者を獲得した。

国学者平田篤胤は神国思想に基づく国体を論じた。篤胤は禁書であったキリスト教関係の書を参照して、「アメノミナカヌシノカミ」(天御中主神)を創造神に位置づけ、世界を「幽冥界」と「顕明界」とに分け、前者は「オオクニヌシノミコト」(大国主命)が、後者は「天皇」が統治する世界であると考えた。そして天皇を全世界(人類・生物・物質)の統治者として位置づけた(平田篤胤『霊能御柱』)。こうした平田国学は豪商豪農層に広い支持を獲得し、一部の武士階級にも尊皇攘夷の思想を育んだ。この解釈は1880年明治13年)に始まる神道事務局祭神論争での出雲派の敗北によって表面上は衰退したが、現在でも神道系の新宗教の多くはこの解釈を奉じている。

なお、この頃の「国体」の語の用法にはブレがあり、例えば、国が鎖国から開国に転じることを「国体変革」と呼んでいる事例や、幕藩体制を「国体」と称している例がある。島崎藤村『夜明け前』(第一部下12章5節)には松平容堂は薩長の態度を飽き足りないとして、「一新更始の道を慶喜に建白した(中略)。天下万民と共に公明正大の道理に帰り、皇国数百年の「国体」を一変して、王政復古の業を建つべき一大機会に到達したと力説した。」とある。これは「国体」の語を広く国家体制の意味で用いていることによる。

本史 

明治維新から帝国憲法施行まで 

「国体」に関する著作は、明治7年に小早川惟克『國體略附政體』、太田秀敬『國體訓蒙』、田中知邦『建國之體略記』、明治8年に石川貞一『國體大意』、加藤弘之『国体新論』が発表されていた[7]

加藤弘之は『国体新論』を著して「人民を以て独り天皇の私有臣僕となすが如き」「従来称する国体」は「野鄙陋劣」であると批判し、「欧州の開明論」による「国家君民の権利義務」の理が「公明正大なる国体」であると主張した。これは明治政府の一部から批判を受けたため、加藤弘之は著書を自ら絶版するとともに、思想を転向し、社会進化論に基づき明治国家を擁護するようになる。

1876年明治9年)、元老院憲法起草を命じる勅語は「我が建国の体に基き広く海外各国の成法を斟酌して以て国憲を定めんとす」としており、「建国の体」即ち国体に基づいた憲法が要求された。これを受けて元老院が作成した憲法案は、伊藤博文に「各国の憲法を取り集めて焼き直ししただけであり、我が国体人情等に少しも注意したものとは察せられない」と反対され、廃案になった。

1881年明治14年)10月12日に、次のような国会開設の勅諭が発された。

「朕、祖宗二千五百有余年の鴻緒を嗣ぎ、中古紐を解くの乾綱を振張し、大政の統一を総攬し、又、つとに立憲の政体を建て、後世子孫継ぐべきの業をなさんことを期す。さきに明治八年に元老院を設け、十一年に府県会を開かしむ。これ皆、漸次、基を創め、序に循て歩を進むるの道によるにあらざるはなし。なんじ有衆また朕が心を諒とせん。顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。今、在廷臣僚に命じ、仮すに時日をもってし、経画の責に当らしむ。その組織権限に至っては、朕、親ら衷を裁し、時に及んで公布する所あらんとす。朕おもうに、人心進むに偏して、時会速なるを競う。浮言相動かし、ついに大計を遺る。これ宜しく今に及んで謨訓を明徴し、もって朝野臣民に公示すべし。もしなお故さらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害する者あらば、処するに国典をもってすべし。特にここに言明し、なんじ有衆に諭す。

奉勅 太政大臣 三条実美

この勅諭においては「立国の体」即ち国体のそれぞれの国における固有性と、当時の国家一大事業として「立憲の政体を建て」る事の弁別が既に明確となっている。憲法起草を命じられた伊藤博文は欧州で憲法調査を終えて帰国した後、1884年明治17年)、閣議の席上で「憲法政治を施行すれば、おのずから国体が変換する」と演説した。伊藤の部下であった金子堅太郎は伊藤を批判して「上に万世一系の天子が君臨するというこの国体にはなんらの変換もありませぬ。閣下は国体と政体との意味を取り違えておられる」と主張。伊藤は「国会を開いて政体を変えればこれも国体変換ではないか」と反駁したものの、これ以降国体変換を口にすることはなくなった。大日本帝国憲法制定後、伊藤の私著の形で刊行された半公式注釈書『憲法義解』では「我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なること」を謳った。

君主国体説 

上杉慎吉は「天皇主権者タルコトハ我ガ日本ノ国体ニシテ、人民ガ主権タルハアメリカ合衆国ノ国体ナリ」 [8]と述べている。

東京帝国大学憲法学を教授していた筧克彦法学博士は、貞明皇后に「古神道及び国体学」に関し皇后宮にて進講。御進講録「神ながらの道」は皇后宮職より公刊。また1935年昭和10年)に文部省開催の、憲法講習会の講演録「大日本帝國憲法の根本義」を文部省憲法教育資料中の1冊として上梓。同書には以下のようにある。

  • 「皇国神ながらの御主人様。御親様の御威力と皇国大生命の力とは不二たることを貴き性質とする。」
  • 天皇様と国家とはもと二元的に相対立せる存在ではなく、神代ながらに不二である。 皇国は、天孫(皇孫)天降りによりて開かれ。開かれし当初より一生命、一徳、一統治権。」「引用は『大日本帝國憲法の根本義』皇学会、1936年昭和11年)。による。」

天孫降臨より皇国神ながらの御主人様つまり国家主体として、天皇がある事をあきらかにした同講演が文部省主催であったことで、国家公認の国体学の権威としての地位をかため、皇太后宮より著作が公刊されたことにも伴い、帝国政府部内の国体説としては敗戦まで批判を許さなかった。詳細は筧克彦参照。

家族国家論の流行 

日清戦争の勝利や治外法権の撤廃などを背景に、欧米の論理に囚われない日本独自の国体論が新たな形で登場する。すなわち、日本の国民を先祖を同じくする一大家族に喩え、皇室を国民の本家に位置付ける家族国家論が流行し始める。憲法学者穂積八束は「我が日本固有の国体と国民道徳との基礎は祖先教に淵源す。祖先教とは先祖崇拝の大義を謂う。」「天祖は国民の始祖にして天皇は国民の宗家たり」(『国民教育 愛国心1837年天保8年))と述べ、また、高山樗牛も「皇室は宗家にして国民は末族なり」(「我国体と新版図」『太陽』1897年明治30年))とした。井上哲次郎も「我国は其総合家族制度の究極のものにして、其家長が天皇なり。」(「我国体と家族制度」1911年明治44年))としている。

大正デモクラシーと国体 

天皇機関説により憲法立憲君主制解釈改憲し、政党内閣の法的裏付けを求める動きが大正デモクラシーのバックボーンとなった。憲法学者美濃部達吉上杉慎吉の論争を経て、天皇機関説は事実上の通説となった。

有機的国体論 

[9]著名な国語学・文法学者であり、文部省起草「国体の本義」起草にも関わったとされる山田孝雄は1910年「大日本国体概論」を出版し[10]身体論的国家観を提示した。

  • 国体は国の体なり。喩えば、人の体あるが如し。人とは何か。之を物理学的に見れば、一個の有機体なり。之を科学的に見れば、各種元素の組織体なり。之を生理学的に見れば、幾多の細胞の組織せる有機体なり(「大日本国体概論」)。

ここに見られる類比的思考は西欧で広範に見られる<自然>な身体をモデルにした国家有機体説であり、「ペストやコレラの病毒の如き」「無政府共産主義の如きものゝ伝来に接し仮初にも之に感染するの偏狭者」[11]「病気で衰弱した身体にバチルスの入り易い様に毒は直ちに食ひ込んだ」「日露戦後の世間が疲弊した弱身にくひ込んだ病気である」[12]といった有機体としての国家、あるいは隠喩としての病の比喩は、この時代の空気[13]であった[14]

民本主義 

民本主義の主唱者吉野作造は「君民同治を理想とする所の民本主義の政治は、…寧ろ国体観念を鞏固にするものである。」(「民主主義と国体問題」『大学評論』1917年大正6年))と述べ、美濃部達吉は「政治上の意義に於ての民主主義は…毫も我が国体に抵触するものではなく、却って益々国体の尊貴を発揮する所以である。」(「近代政治の民主的傾向」『太陽』1918年大正7年))と主張した。明治期にはキリスト教を排撃していた井上哲次郎も、「日本の国体は万世一系の皇統を中心として来られるもの、日本は君主国にして民本主義を取れり、君主主義と民主主義との調和を保てるものにして其所に我国体の安全は存す」(『我国体と世界の趨勢』)と、民主主義に寄る姿勢を示した。

1921年(大正10年)、内務省神社局は『国体論史』を出版し、国体論の歴史を概観するとともに、「神話はその国民の理想、精神として最も尊重すべし。それは尊重すべきのみ、これを根拠として我が国体の尊厳を説かんと欲するは危し。先入主として、これらの『国造り説』と相容れざる進化学上の知識を注入せられおる国民はあるいはこれを信ずる事をえざるが故なり」とした。内務省神社局がこのような見解を示していたことは注目される。 内務省神社局長であった水野錬太郎(内務大臣・文部大臣・神職会会長等も歴任。「天皇の政治利用」だと非難されて文部大臣辞任に追い込まれた。水野文相優諚問題参照。)は「日本の仏教は早くから国体精神と同一化し、儒教も、もとより国体精神と同一化してをり、そのほか外国の新文明新思想も国体精神と一致しつつあるもので、外来の思想を論難したり議論すべきでない」 [15]と述べている。

第二次世界大戦の時代 

治安維持法 

1922年大正11年)、共産主義インターナショナルコミンテルン)は日本の共和制への移行というテーゼを日本共産党に示唆した(日本共産党においてはこの22年テーゼは草案段階に終わる)。このような国体変革を狙った動きに対して、1925年(大正14年)公布の治安維持法は「国体の変革」を目的とした結社を禁止し、更に田中義一が主導した1928年昭和3年)の法改正で最高刑が死刑に引き上げられた。治安維持法でいうところの「国体」は大審院判決によれば「我帝国は万世一系天皇君臨し統治権を総覧し給ふことを以て其の国体と為し治安維持法に所謂国体の意義亦此の如くすへきものとす」(大判昭和4年5月31日刑集八巻317頁)とされた。治安維持法により共産主義革命運動が厳しく摘発されるとともに、この頃から「国体の変革」が言語的タブーとなる。
そうした環境下においてもなお、コミンテルンは日本の政体をドイツ語のMonarchieと規定、君主制の廃止を日本共産党に示唆した。君主制は「天皇制」と翻訳される。日本共産党32年テーゼ天皇制打倒を目標に掲げ、当局から厳しく規制(1945年まで非合法化)された。

国体の名を借る政争 

1927年、新たに結成された立憲民政党が政綱に「議会中心的主義」と掲げたのに対し、翌年、その対立政党である立憲政友会鈴木喜三郎(当時内相)は「議会中心主義などという思想は、民主主義の潮流に棹さした英米流のものであって、わが国体とは相容れない」(大阪朝日新聞1928年2月20日)と批判。逆に、政友会内閣が締結した不戦条約に「人民の名において」という文言があったのをとらえて、野党民政党はこれを国体に反するものとして論難した。

国体明徴運動 

文部省の思想問題対策 

  • 文部省国民精神文化研究所を「我が国体、国民精神の原理を闡明にし、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関を設くる」ために設置(学生思想問題調査委員会答申、1932年5月)。
  • 文部省『国体の本義』『臣民の道
  • 文部省内思想問題研究会編纂、青年教育普及会発行、紀平正美安岡正篤共著『国体の真意義・日本の国体』、1932年10月
  • * 安岡正篤著『日本の国体[16]
  • * * 緒論 国体及び政治に関する世の五大疑問
  • * * 第1章 国家は何が故に尊きや

・各人各階級は自然に各自の欲求に活きる。一方で、社会全体の心理的生理的に相影響する本然の生活関係に在る人間の集団が一種の有機的体系として在る。そういった全体を傷なってしまわないように、各自の欲求すなわち部分的欲求に即して、有機的体系を維持せんとする全体的欲求、社会的欲求がなければならない。この全体的欲求の実態を「官」あるいは「司」といい、民の指導的地位身分を意味する。官司の本質は自恣に走り社会生活を乱ることのないように民を正治することに在る。この作用の性質ゆえにこれを特に政治(政は正である)といい、その最高の政治組織体を国家というのであって、本然の規範的存在である。

・以上のように国家は本然的規範的発展の果てに成立したものであるから、我々は国家に就いて自ずから敬虔の念を懐き尊貴の情を催さざるを得ないのである。

  • * * 第2章 為政者と民衆との本質的関係如何

・人間と自然的動物とを区別する微妙な特徴は「敬」と「恥」の存在である。小さいもの卑しいものが大なるもの高いものに引接されるとき、之に対して自ずから催す感情が「敬」、自ら反って湧く感情が「恥」である。国家民衆はいかにしてよく敬に居り、恥を知ることができるか。それは当然百官有司すなわち為政者―指導階級によらねばならない。民衆は各々その生を営んで他が有るのを知らず、知っても深くは意に介さない。そこで民衆を乱雑に陥れず、統一調和してよく永生に即かしめる全体的意思に当たる者が為政者なのである。

・従って、為政者は「民」に対してぜひとも「士」でなければならない。最も恥を知り敬に居り、自然的生活を人格的に純化する者、道義の人でなくてはならない。

・なお、国家や政治についての本質論は、勿論現実の国家や政治の頽廃とは自ずから異なる問題である。国家や政府の神聖な意義を認め国家や政府の本義を尊重することは、現実の国家や政府がそのままに神聖であることを意味しはしないし、現実の国家や政府の頽廃とは関係なく超然として在るべき態度である。

  • * * 第3章 天皇は何が故に神聖不可侵なりや

・内外創造の太極、唯一者、これを一番普遍的な民族的観念で「天」と称する。国家においてこの天を表現する位体を天子という。天を神と宗教的に観念すれば、天子はすなわち「あきつみかみ」=「あらひとがみ」である。天を道徳的に内証すれば、天子はすなわち「すめらみこと」である。

・天子は造化そのものを体とし、国家民衆の真我なるものであるから、至虚にして至霊、百官有司の明徳有為に対して言えば、玄徳無為でなければならない。官民をして各々その明徳を明らかにし、為すあらしめるが天子の徳であり、為である。政府には善悪の審判がなければならない。しかし、このように政府をして善を善とし悪を悪とせしむるは天徳の作用で、天徳自体は本来善もなく悪もない。大日本帝国憲法第3条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」とあるのは正にこの玄徳無為の哲理を法律的に表現したものを解釈することができる。

・人間が禽獣と侔しい動物ではなく、敬に居り恥を知る万物の霊長である限り何者にも易え難い至尊を何人も持たねばならない。至尊は畢竟真我であり、神である。同時に我々の国家にもまた是の如き至尊がなければならない。或いは之を国旗に表徴し、或いは之を法律に懸け、或いは之を無象に観る。我々は之を天皇に拝する。我々に天皇在すことは我々の胸奥に神在すに侔しい。天皇を蔑する者は神を蔑する者である。道を知らぬ者である。しかも是の如き者すら、否、是の如き者ほど深刻に実は天皇の慈悲の中に摂取されて居るのである、天皇の恵沢に浴して居るのである。

  • * * 第4章 万世一系の皇統が何故至貴至尊なりや

・我が国で革命という語が厭われて、維新の語が用いられるのは、西洋支那と国体を異にする点から観て当然と思う。国体と政体とを多くの法律、政治学者は区別してきた。憲法学の穂積八束博士は「国体は主権の所在に由って定まり、政体は主権行動の形式に由って分る」(憲法提要p98)とし、政治学の小野塚博士も「国体は最高機関の組織に由る区別にして、政体はその活動の形式に由る区別なり」(政治学大綱上巻p112)として居るが、世間では全く二者を混用して居る。安岡は「その国が如何なる価値的生活を現せるや国家生活に於る天地人三才すなわち至尊官司(特に政府)民衆が如何に組織活動せるや」の状態を国体といい、特にその中「国家の至尊官司が如何に表現組織され、如何に作用せるか」の状態を政体としようと思う。

・更生は生命自体の作用、真我の妙現でなければならないように、国家に於ける革命も本来天子の徳でなければならない。国家が滅亡の危機に瀕するとき、革命を遂行して新局面を打開することが毎に天皇の御稜威に由って行われてこそ真の道義国家である。

・政道に就いて最も大切なのは維新革命の原理である。我々は国家に於てその始の盲目的自然の状態を脱し、堂々と有道に進んで居る。利己的物質的暴力的生活を去って大我的理想的に進んで居るその最も高潔な自覚は至尊奉仕の念である。至尊奉仕の自覚が君民を一貫して普遍的に輝いていてこそ真の道義的国家であり、我が日本こそこれにあたる国である。この自覚の光が歴史的にいまだかつて滅び尽きたことはない。すなわち日本国民は万世一系の皇統を有して居る。それは国家の道義的確立という至貴至尊の価値を物語って居る。

  • * * 第5章 今日世界は君主国変じて共和国となり而してそれが世界共通の政治的進歩とさるゝ時日本独り如何にして天皇政治を清標し得るや

・今日次第に君主政治が亡び共和政治と変わる世に、そしてそれがまた当然政治の進歩と考えられておるとき、日本独り如何にして天皇政治を神聖不可侵とすることができるかという疑問は以上をもって氷解するであろう。 

  • 日本精神と辯證法 日本精神の根本(紀平正美と共著) 青年敎育普及會、1932年4月
  • * 安岡正篤著『日本精神の根本[17]
  • * * 第1章 如何に生くべきか即如何に死すべきか

・日本精神史上光明を放つ武士道は、いつでも露の命を永遠の価値に換えようという覚悟を根本にしていた。さらに永遠の光に依ってそのままに不朽の意義あらしめよう、一瞬の今を無限そのものたらしめようと念願した。如何に生くべきかは寧ろ如何に死すべきかであった。

・事の成敗利鈍は暫く舍いて、友人石田三成のために体を抛つのが武士の道とした大谷吉隆の事例には真に不断の瀕死を知って、永遠の今に生きようとする真の民族精神が赫々と輝いて居る。ここが論理を超越して日本人を動かす。

  • * * 第2章 現実に対する驚悟

・永遠の価値に生きよう、第一義諦に生きようとすれば、現実の夢のような生活、幻のような生活をはっきりと省察しなければならない。現実を直視して、俗悪な生活を徹底的に点検せねばならない。日本人は理想精神のゆえに人生の現実に慊らぬことに於いて、実に微妙な情意を持っていた。この日本人の微妙な心情に儒教仏教の感化殊に仏教の寂滅観が潤いを与えた。無常観、人生の無常は、日本人の心情に先にあったものに仏教がしっくり契って之を長養したものである。

・はっきりと心眼を開いて、本当の本当の人生を発見したい熱望が重要である。剣法に依って心法を練った古の武士の中にその実例を見出す。

  • * * 第3章 真性の体現

・真実な心境に触れると、本当の情趣がにじみ出てくる。真剣の人は何処やら優に床しい真心がある。真情が出るようになれば、本当の智慧も現れる。与えられた瞬間の命に永遠の意義を創造しようとする。そこで、束の間の命が非常に尊くなってくる。そこに所謂武士の礼というものがあった。学問の第一義も知識より、かかる人格生活の体現を深めること即ち志を立てるにある。大塩平八郎の洗心洞箚記には、立志は文字通り士心を立てることでなければならない。士は民と違って、物欲に支配さるる経済至上主義ではなく、能く精神の優越を確保する道義の主体たる人をいうのであるから、道に生きんとする是れ即ち立志である、と説かれている。三輪執斎も士心を説いて、士心の特徴は「憤」にあると言う。これは論語に「憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず」とある通り、能く驚く、人生の事に活発な感激と創造力とを持つことである。 

第二次世界大戦 

  • 天皇が統治する政体」を意味する所の「国体」思想は、日中戦争大東亜戦争で頂点に達した。
  • 大東亜戦争終結詔書終戦詔書「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」1945年(昭和20年)8月14日

第二次大戦期におけるこうした「国体」観念のあり方は、戦後の政治学歴史学の立場から「天皇ファシズム」と称されることがある[18]天皇制ファシズム参照)。

後史 

  • 憲法改正審議における政府答弁「御誓文の精神、それが日本国の国体であります。」「日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。」「日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治の行われたことはないのであります。民の心を心とせられることが日本の国体であります。故に民主政治は新憲法によって初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあつた事柄を単に再び違った文字で表したに過ぎないものであります。」(以上吉田茂
「日本の国体というものは先にも申しましたように、いわば憧れの中心として、天皇を基本としつつ国民が統合をしておるという所に根底があると考えます。その点におきまして毫末も国体は変らないのであります。」「稍々近き過去の日本の学術界の議論等におきましては、その時その時の情勢において現われておる或る原理を、直ちに国体の根本原理として論議しておった嫌いがあるのであります。私はその所に重きを置かないのであります。いわばそういうものは政体的な原理であると考えて居ります。根本におきまして我々の持っておる国体は毫も変らないのであって、例えば水は流れても川は流れないのである。」(以上金森徳次郎国務大臣、1946年(昭和21年)6月25日衆議院本会議答弁)

 

帝国日本の敗戦により米軍を主力とする連合国軍による占領が始まると、民主化が進められて国民主権を明記した日本国憲法が施行された。それにともない、学術研究、言論、社会運動における「天皇制」の語は一般化した[19]
  • 戦後の共産主義運動における天皇制反対の名による皇室制度・国体への批判
日本の敗戦後に日本共産党指導部は釈放され、活動を再開した。象徴天皇制をうたった日本国憲法下においても天皇制に対する批判的なスタンスを変えることはなく、日本共産党及び同党の周辺知識人の主張によると、国体には「ほとんど同義」 [20]の語に天皇制がある。
  • 2004年に、日本共産党は綱領を改定。その中では天皇制について「一人の個人が世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」という方針をうちだしている。
  • 国体の言語タブー化。本来の大和言葉、国柄(くにがら)への言換え。
  • 国旗国歌法案の国会審議において、国歌の君が代の意味を質された政府は「国歌・君が代の『君』は日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である」(1999年(平成11年)6月29日衆議院本会議、小渕恵三首相)と答弁。

 

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  1. ^ 八木は「欧米に国体に似た文字があるかと言えば、強いて言えば、フランス革命イギリスにも影響を及ぼし、イギリスもまた共和政体に変更すべしという議論があったときにエドマンド・バークが『イギリスの政体は共治である。君民共治はイギルスの基礎的政治の原則(Fundamental Political Principle of England)である・・・』と主張した。このバークのいう「基礎的政治の原則」という文字が、やや日本の国体に似ているように思う」とする。「明治憲法の思想: 日本の国柄とは何か 八木秀次PHP出版)P.123
  2. ^ 「過去との断絶と連続--1945年以降のドイツと日本における過去との取り組み」マンフレート・ヘットリング/ティノ・シェルツ 川喜田敦子 訳(ヨーロッパ研究6 2007年3月 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部ドイツ・ヨーロッパ研究センター)[1][2]P.5
  3. ^ KO字源[3]
  4. ^ 天照大神が皇孫瓊瓊杵ノ尊を降し給ふに先立つて、御弟素戔嗚ノ尊の御子孫であらせられる大国主ノ神を中心とする出雲の神々が、大命を畏んで恭順せられ、こゝに皇孫は豊葦原の瑞穂の国に降臨遊ばされることになつた。而して皇孫降臨の際に授け給うた天壌無窮の神勅には、豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の国は、是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)宝祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、当に天壌(あめつち)と窮りなかるべし。と仰せられてある。即ちこゝに儼然たる君臣の大義が昭示せられて、我が国体は確立し、すべしろしめす大神たる天照大神の御子孫が、この瑞穂の国に君臨し給ひ、その御位の隆えまさんこと天壌と共に窮りないのである。而してこの肇国の大義は、皇孫の降臨によつて万古不易に豊葦原の瑞穂の国に実現されるのである。」『国体の本義
  5. ^ 子安宣邦「朱子学と近代日本の形成-東亜朱子学の同調と異趣」 台湾東亜文明研究学刊第3巻第1期 2006.6、PDF-P.4、5
  6. ^ 立憲学派は国体に関わる実践は、法理ではなく倫理の範疇に関わるものであるとする。立憲学派においても国体とは国家創業以来の「歴史の経験」の現実であるとし、超国家的なものとしての倫理の実践を重視する。法体制として憲法による君主権の制約というイギリス流の憲法観に拠るものであり、天皇廃止論に輿するものではない。
  7. ^ 「野口米次郎の一九二〇年代後期の指向性」堀まどか(総研大文化科学研究 第4号2008.3.31)[4]P.94(脚注7)
  8. ^ 上杉慎吉『帝国憲法』1924年 大正13年東京帝国大学講義 謄写版
  9. ^ この項目、「有機的<国体/国語>論の本義」西野厚志(早稲田大学大学院教育学研究科紀要)2013.9[5]から起筆した。
  10. ^ 西野2013.9によれば山田孝雄が国体論に傾斜し始めたのは幸徳秋水らによる大逆事件およびその一連の報道が大いに関係しており「1910年11月10日深く心に感ずるところあり」(大日本国体論自序)とある。
  11. ^ 「前代未聞の事件」時事新報1911.1.20
  12. ^ 井上哲次郎「破壊思想の源流」読売新聞1910.11.19
  13. ^ 西野2013.9、P.5
  14. ^ 有機的な国家身体から排除される側であった幸徳秋水ですら「所謂愛国心は実に之が病菌たり、所謂軍国主義は実に之が伝染の媒介たる」ゆえ「愛国的病菌は朝夜上下に蔓延し、帝国主義的ペストは世界列国に伝染し、二十世紀の文明を破毀し尽さずんば已まざらんとす」(「廿世紀の怪物帝国主義」1901年 警醒社書店)と同様の比喩を用いている。西野2013.9、P.5。
  15. ^ 『水野博士古稀記念 論策と随筆』水野博士古稀祝賀会事務所刊、1937年昭和12年)。
  16. ^ 国体の精華とは如何、政治の本質如何、という二つの問題を主な5つの条項に分けると、どうなるか。その要説。著者の当時の立場は金雞學院學監。
  17. ^ 自己は宇宙の秘義を開く鍵である。人は自己の人格内容に従って世界の理趣を無限に掬むことができる。日本人が本当に世界を知るためにも、先ず日本人として日本民族精神を、殊にその根本的特質、真骨頭ともいうべき点を明確に自覚し、之を長養する必要がある。国体の精華を解するためには日本精神の根本の霊活さを味識せねばならない。著者の当時の立場は金雞學院學監。
  18. ^ 社会学小辞典』(有斐閣・1982年・増補版)の「天皇ファシズム」の項には〈日本の場合、イタリアやドイツなどのような「下から」の運動による国家権力の掌握ではなく、天皇制国家権力自体が「上から」なし崩し的にファシズム化していったので、天皇ファシズムと呼ばれる。〉とある。
  19. ^ 上記の通り戦前即ち帝国時代にも日本共産党は「天皇制」の用語を使用していたが、一般には普及しなかった。
  20. ^ 『社会科学総合辞典』新日本出版社、1992年、189頁、「国体」の項。

参考文献 

  • 概要、『国体の本義』文部省編纂内閣印刷局印刷発行、1937年5月31日。
  • 概要、筧克彦述『神ながらの道』皇后宮職 、1925年6月 。(尚 書誌ID 000002065114 「国立国会図書館」所蔵を用いた
  • 概要、中西旭主筆『世界観の確立』『尊皇の大義台湾総督府国民精神研修所、1941年3月。
  • 概要、verfassungの邦訳の解説として(国を治める)過程の語義が含まれるかについて、Schmitt, Carl. Verfassungslehre.1928,Auflage.

その他文献情報 

概説 

思想史 

論考 

  • 「主権論をめぐる「日本的系譜」の可能性について」田中悟(国際協力論集18 2010.06)[14][15]
  • 「野口米次郎の一九二〇年代後期の指向性」掘まどか(総研大文化科学研究 第4号2008.3.31)[16]
  • 十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策」長谷川亮一(千葉大学・博士号授与論文 2006年)[17]
  • 十五年戦争下の朝鮮・台湾における教員「研修」」中村顕一郎(創価大学文系大学院教育学紀要 平成16年)[18]※院生論文
  • 「太平洋戦争における「終戦」の過程」コンペル・ラドミール(横浜国際経済法学第18巻第3号2010.3)[19]
  • 司馬遼太郎夏目漱石観」高橋誠一郎(初出:異文化交流第4号 東海大学外国語教育センター)[20]
  • 「過去との断絶と連続--1945年以降のドイツと日本における過去との取り組み」マンフレート・ヘットリング/ティノ・シェルツ 川喜田敦子 訳(ヨーロッパ研究6 2007年3月 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部ドイツ・ヨーロッパ研究センター)[21][22]
  • 「内務官僚の「中正なる国家」構想」崔鐘吉(筑波大学博士授与論文)※論文要旨のみ[23][24]
  • 「近代日本の国家と家族に関する一考察」加藤千香子(横浜国立大学人文紀要 第一類 哲学・社会科学 1996.11.31)[25][26]

関連項目 

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登戸研究所 

登戸研究所  

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大日本帝国陸軍
 
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登戸研究所(のぼりとけんきゅうじょ)は、現在の神奈川県川崎市多摩区生田にかつて所在した、大日本帝国陸軍の研究所。

沿革 

設立 

1939年(昭和14年)1月、「謀略の岩畔」との異名をとった陸軍省軍務局軍事課長・岩畔豪雄大佐(正確には軍事課長就任は同年2月、大佐昇進は同年3月)によって、特殊電波・特殊科学材料など秘密戦の研究部門として、通称「登戸研究所」が「陸軍科学研究所」の下に設立された。

登戸研究所の前身は1919年(大正8年)4月に「陸軍火薬研究所」が改編して発足した「陸軍科学研究所」のため、当初の正式名称は「陸軍科学研究所登戸出張所」であった。

運用中 

所長には篠田鐐大佐が就き、1939年(昭和14年)9月に正式発足した。

1941年(昭和16年)6月に「陸軍科学研究所」が廃止され、「陸軍科学研究所登戸出張所」は「陸軍技術本部第9研究所」に改編。1942年(昭和17年)10月、陸軍兵器行政本部が設けられ、その下の「第9陸軍技術研究所」に改編。1943年(昭和18年)6月、電波兵器部門を多摩陸軍技術研究所へ移管。

1945年1月、「帝国陸海軍作戦計画大綱」が発表され、本土決戦準備のため、登戸研究所は長野県各地、兵庫県丹波に分散移転した[1]

同年8月15日、敗戦が決定すると、陸軍省軍務課は「特殊研究処理要綱」を通達し、すべての研究資料の破棄を命令した[2]。それらの資料の殆どが処分され、また、ほとんどの関係者が戦後沈黙したため、長らくその研究内容は不明だった。

組織 

1944年時。

所長
篠田鐐少将
庶務課
第一科
電波兵器、気球爆弾、無線機、風船爆弾、細菌兵器、牛疫ウイルスの研究開発
第二科
謀略戦用兵器の研究開発
第三科
経済謀略戦用兵器の研究開発:法幣偽札製造を実行していた。
第四科
機械や爆弾の組み立て

研究・開発された兵器 

原子爆弾生物兵器、 化学兵器、 特攻兵器、 謀略兵器、 風船爆弾、 缶詰爆弾、 怪力光線殺人光線電気投擲砲

上記の通り、怪力光線などのようにいささか空想じみた研究をしており、実態が不明な点が多いこともあって、各種創作物の中ではオカルトめいた怪しい研究所として描かれることが多い。しかし実際には、どちらかといえば謀略やBC兵器特攻兵器のような、地味かつあまりイメージの良くない研究が主だった。

中華民国の経済を乱すため、当時として45億円もの中華民国向けの偽札がこの研究所で作られ、30億円もの偽札が中華民国で使用された「杉作戦」が有名である。

その後 

帝銀事件 

1948年1月26日に発生した帝銀事件では、警視庁は犯行に使われた毒物が登戸研究所が開発したものと推定し、第二科の研究者を中心に捜査が行われた。この中の捜査メモ「甲斐文書」に、関東軍防疫給水部と共同による人体実験の関与を指摘する供述が記録されている[3]。第二科の関係者の多くは、登戸研究所で開発されたアセトン・シアン・ヒドリン(青酸ニトリール)である可能性があると証言している。

関係者 

1950年朝鮮戦争が勃発すると、東側に対抗するため、戦犯免責者の公職復帰が行われた。登戸研究所関係者では第三科の関係者がアメリカ軍に協力し、横須賀基地内の米軍印刷補給所で、偽造印刷の技術を使い、共産圏の各種公文書の偽造を行った[4]

1952年に研究班の一部がアメリカ本土に移動。入れ替わりでかつて登戸研究所所長を勤めていた篠田が合流した[5]

跡地 

戦後、登戸研究所跡地は慶應義塾大学北里研究所、川崎国民学校などが使用し、慶應義塾は同地を医学部予科、工学部予科、法学部予科(一年)の登戸仮校舎とした。1949年(昭和24年)秋の日吉校舎の接収解除に伴い、登戸仮校舎は翌年春明治大学に譲渡し、1951年(昭和26年)4月に同大学の生田キャンパスになった(農学部が千葉県誉田村から移転)。

明大への譲渡後も多くの建物は校舎や学生寮となった。老朽化のため建物の大部分は取り壊されたものの、枯葉剤の研究が行われたと見られる「36号棟」のほか、動物慰霊碑や消火栓など当時の施設がまだ幾つか現存している。

2010年3月29日、前述の「36号棟」の建物をそのまま利用する形で資料館が開館した。当時の貴重な資料や解体された棟のドア、柱などの建築部材が展示されている。開館日並びに開館時間は、毎週水曜日から土曜日の10時より16時まで。

脚注 

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  1. ^ 渡辺P.150
  2. ^ 渡辺P.162
  3. ^ 渡辺P.176
  4. ^ 渡辺P.175
  5. ^ 渡辺P.176

参考文献 

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年12月)

関連項目 

外部リンク 

 

日韓秘密軍事情報保護協定

日韓秘密軍事情報保護協定   

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日韓秘密軍事情報保護協定[1](にっかんひみつぐんじじょうほうほごきょうてい、General Security of Military Information Agreement, GSOMIAジーソミア、한일 군사비밀정보보호협정)は、日本大韓民国の間で秘密軍事情報を提供し合う際、第三国への漏洩を防止するために締結する軍事情報包括保護協定。内容は主に日本側が偵察衛星で収集した写真資料などと、韓国側が脱北者などの人間を通じて得た情報を共有するものである[2]

正式名称は秘密軍事情報の保護に関する日本国政府大韓民国政府との間の協定(ひみつぐんじじょうほうのほごにかんする にほんこく/にっぽんこく せいふとだいかんみんこくせいふとのあいだのきょうてい、Agreement Between the Government of Japan and the Government of the Republic of Korea on the Protection of Classified Military Information대한민국 정부와 일본국 정부 간의 군사비밀정보의 보호에 관한 협정)。

2012年6月29日に締結される予定であったが、韓国側の都合により締結予定時刻の1時間前になって延期された[3][リンク切れ]

2016年に交渉が再開され、同年11月23日ソウル韓国国防部で署名式が行われた[4]

2019年8月22日に韓国側が協定の破棄を決定した[5]

概説 

2010年 

2009年1月に日韓の首脳が合意した「日韓新時代共同研究プロジェクト」の報告書が2010年10月に発表された[6]

12月7日、日韓外相会談で前原誠司外相が安全保障・防衛分野における日韓間の協力を推進していきたい旨を、韓国側に伝えた[7]

2011年 

1月10日、韓国で行われた日韓防衛相会談において、自衛隊と韓国軍が軍事物資や役務を協力し合う物品役務相互提供協定(ACSA)の内容についての意見交換と議論、情報保護協定(GSOMIA)の内容についての意見交換など、日韓防衛協力・交流を拡大・深化させていくことで合意した[8]

2012年 

この協定は日本が有する北朝鮮の情報などを韓国が入手できることから、韓国にとって有用なものであった。日韓の初[9]の防衛協力協定でもあったため、李明博政権下であった2010年以降、韓国政府は日本政府と秘密交渉を行っていたが、締結直前になって条約の存在が初めて韓国国民に明らかにされると強い反対運動が起きた[10]

条約は2012年6月29日の午後に締結されることとなっていたが、締結予定時刻の1時間前に韓国政府から延期の申し入れがなされ、日本政府はそれを受け入れた。

2012年7月16日金星煥外交通商相ソウルを訪問した前原誠司民主党政調会長に対してアメリカ合衆国ニュージャージー州に設置された日本軍慰安婦記念碑の撤去運動を日本側が行ったことなどが署名の延期の原因だと主張した[11]

2016年 

2016年11月23日ソウル韓国国防省で署名式を非公開で行い、即日発効した[12]

署名には日本側から長嶺安政駐韓日本国特命全権大使、韓国側は韓民求防相が協定文に署名した。それに伴い、22日午後朴槿恵大統領はこの協定の署名を裁可した。

韓国側は前回の反省を踏まえ、この署名に先立って行った協議過程(仮署名、次官会議、閣議決定などの予定)を公表し、また署名も行った後には協定文を公表することも表明している[13]

2019年 

韓国大統領府(青瓦台)は2019年8月22日、国家安全保障会議(NSC)常任委員会を開き、日韓で防衛秘密を共有する日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を決めた。輸出管理を厳しくした日本への反発から韓国政府内では破棄論が強まっていた。NSCの金有根(キム・ユグン)事務処長が記者会見で「GSOMIAの終了を決めた」と述べた[14]。これに対し、日本政府は外交ルートで抗議した[15]

更新 

協定は、1年ごとに自動更新されることとなっており、終了させる場合は更新期限の90日前(8月24日)までに相手国へ通告することとなっている[16]。日本側では、両国関係が悪化しても朝鮮半島の情勢を安定させる等の目的で協定を維持する意思を見せているが[17]、韓国側では韓国海軍レーダー照射問題キャッチオール規制の運用見直しなど日韓関係が不安定化するごとに延長の可否が取りざたされていた[18][19]

第三国の評価等 

アメリカ合衆国 

北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国 

脚注 

[ヘルプ]
  1. ^ 日韓秘密軍事情報保護協定に関する日韓間の協議外務省 報道発表
  2. ^ 【社説】何のためのGSOMIA破棄なのか懸念される=韓国| Joongang Ilbo | 中央日報”. s.japanese.joins.com (2019年8月23日). 2019年8月22日閲覧。
  3. ^ “[政治]【日々是世界 国際情勢分析】日韓秘密情報保護協定署名延期の真相+(1/2ページ)”MSN産経ニュース (産経新聞社). (2012年7月10日). オリジナルの2012年7月10日時点によるアーカイブ。 2014年5月17日閲覧。
  4. ^ 日韓秘密軍事情報保護協定の署名外務省平成28年11月23日
  5. ^ 최새일 (2019年8月22日). “[速報]日本との軍事情報協定を破棄 韓国が決定” (日本語). 聯合ニュース2019年8月22日閲覧。
  6. ^ [1]この報告書に日韓の安全保障協力の重要性が指摘されている。[2]
  7. ^ [3]
  8. ^ [4]
  9. ^ “日韓が軍事情報協定締結=機密共有を迅速化-北朝鮮の脅威対抗”時事通信. (2016年11月23日) 2017年1月2日閲覧。
  10. ^ 韓日軍事情報保護協定破棄のカード出すも…韓国に残された時間は3週間のみ”. 中央日報 (2019年8月2日). 2019年8月2日閲覧。
  11. ^ “[国際]「日本が世論悪化させた」 情報協定延期で韓国”MSN産経ニュース (産経新聞社). (2012年7月16日). オリジナルの2012年7月16日時点によるアーカイブ。 2014年5月17日閲覧。
  12. ^ 2016年(平成28年)12月2日外務省告示第459号「秘密軍事情報の保護に関する日本国政府大韓民国政府との間の協定の署名及び効力発生に関する件」
  13. ^ http://www.jiji.com/sp/article?k=2016112200588&g=prk
  14. ^ 恩地洋介 (2019年8月22日). “日韓軍事情報協定を破棄 韓国政府が決定” (日本語). 日本経済新聞2019年8月22日閲覧。
  15. ^ https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190822-00000125-jij-pol
  16. ^ 日韓GSOMIA延長”. 朝日新聞デジタル (2018年8月25日). 2019年7月18日閲覧。
  17. ^ 外相、日韓軍事情報協定は維持を” (2019年7月17日). 2019年7月18日閲覧。
  18. ^ 韓国、検証作業改めて要請 レーダー協議打ち切り”. 産経新聞 (2019年1月22日). 2019年7月18日閲覧。
  19. ^ 日韓軍事情報協定「再検討も」韓国高官が言及”. 日本経済新聞 (2019年7月18日). 2019年7月18日閲覧。
  20. ^ 米国防長官「CVIDまで北を制裁」、ホルムズ派兵にも言及”. 朝鮮日報 (2019年8月10日). 2019年8月12日閲覧。
  21. ^ 日本テレビ (2019年8月23日). “GSOMIA破棄 米国「強い懸念と失望」|日テレNEWS24” (日本語). 日テレNEWS242019年8月23日閲覧。
  22. ^ 北朝鮮、日韓軍事協定の破棄を韓国に要求”. 日本経済新聞 (2019年7月28日). 2019年7月28日閲覧。

関連項目 

外部リンク 

 

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フォンニィ・フォンニャットの虐殺 

フォンニィ・フォンニャットの虐殺  

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フォンニィ・フォンニャットの虐殺
 
犠牲者を収容するアメリカ海兵隊員(J・ボーン伍長撮影)
各種表記
ハングル 퐁니•퐁넛 양민 학살 사건
漢字 퐁니•퐁넛 良民 虐殺 事件
発音 ポンニ・ポンノッ ヤンミン ハッサル サゴン
2000年式
英語表記:
Pongni / Pongneot yangmin haksal sageon
Phong Nhi and Phong Nhat massacre
テンプレートを表示
フォンニィ・フォンニャットの虐殺
各種表記
クォック・グー Thảm sát Phong Nhất và Phong Nhị
漢字・チュノム 慘殺豐一且豐二
北部発音: タムサット・フォンニャット・ヴァー・フォンニィ
テンプレートを表示

フォンニィ・フォンニャットの虐殺(フォンニィ・フォンニャットのぎゃくさつ、퐁니•퐁넛 양민 학살 사건[1]、フォンニィ・フォンニャット良民虐殺事件[1]Phong Nhi and Phong Nhat massacre[2])は、ベトナム戦争中に韓国軍が起こした一連の虐殺事件の一つ[3]1968年2月12日に、南ベトナムクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で、大韓民国海兵隊第2海兵師団(青龍師団)(en)によって、非武装の民間人69-79人[4] が虐殺された。2013年現在、大韓民国国防部は、韓国軍によるベトナム人虐殺・女性凌辱を否定する見解を示している。

概要 

1968年2月12日[5]フォンニィ・フォンニャット村を訪れた韓国海兵隊第2海兵師団(青龍部隊)第1大隊は婦女子を集めると至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った。ところが、その日のうちにアメリカ海兵隊員4名、南ベトナム兵26名からなる部隊が現場に到着した[6]アメリカ・ベトナム兵は生存者へ手当を施し、病院へ搬送した[6][7]。また、J・ボーン伍長によって事件現場の撮影が行われた[6]。事件後に生き残った村人たちは犠牲者の遺体を国道1号線に並べて抗議の意思を示した。

当時のフォンニィ・フォンニャット村アメリ海兵隊と友好関係にあり、村の男たちはアメリカと同盟関係にある南ベトナム軍に参加していた[8]。続く2月25日には韓国海兵隊によってハミの虐殺が引き起こされ、ハミ村の婦女子・老人135名が虐殺された[9]

事件を受けてアメリカ陸軍参謀総長ウィリアム・ウェストモーランド大将が韓国軍に調査報告を繰り返し求め続けたため[10]、韓国軍は韓国海兵隊の軍服を着たベトコンによる陰謀であったとアメリカ軍に報告した[10]フォンニィ・フォンニャットの虐殺当時の韓国では韓国政府が行った聞慶虐殺事件保導連盟事件では共産主義者に罪を着せることで虐殺事件を闇に葬りさることに成功していた[11][12]。韓国軍からの報告を受け取ったアメリカ軍では、アメリカ軍監察官のロバート・モレヘッド・コック大佐による調査が行われ、1970年1月10日韓国海兵隊による虐殺事件であったことを明らかにした報告書が提出された[1]ベトナム派遣軍最高司令官だった蔡命新は、ハンギョレ新聞によるインタビュー(2000年11月)に対し、アメリカ人はゲリラ戦に無知であったために韓国側と対立することがあったが、最終的にはアメリカ軍は韓国軍の戦術を取り入れるようになったと述べている[10]。事件翌月には、アメリカ軍の一小隊によってソンミ村虐殺事件が引き起こされたが、アメリカ軍は軍法会議を開き実行犯を処罰した。この事件について蔡は、戦争では普通のことであるとして実行犯を擁護する発言を行っている[13]

アメリカ軍内部では、韓国軍を完全な後方部隊とするか、南ベトナム解放民族戦線が完全に支配していて、誰を殺しても問題とされない地域に配置転換するべきである、とした検討が行われた[14]。韓国兵は残忍なやり方で女性強姦してから殺害するケースが多く、アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった[15]。また妊婦や子供は井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだ。生き残った村人はバラバラになった遺体を井戸から引き上げ、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った[15]1969年2月には事件の遺族達によって南ベトナム議会に賠償を求める請願書が提出されている[6]2000年には蔡命新将軍は数々の事件について、我々は誰にも償いをする必要はないと述べている[13]

2013年8月、クォン・キヒョン大韓民国国防部スポークスマンはグローバル・ポスト(en)に対して、「韓国軍が組織的に民間人虐殺を行うことは戦争状況からも不可能」「女性への性的搾取はない」「拷問や恐喝はしたかもしれないが、虐殺と歴史が誇張している」「ベトナム市民の勘違い」と、ベトナム戦争当時の韓国軍によるベトナム人虐殺・女性凌辱を否定した[16]

2018年4月、韓国内の弁護士団体やベトナム友好団体らが中心となり、ベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺の真相究明を目的とした模擬法廷であるベトナム市民平和法廷が開かれた[17]フォンニィ・フォンニャットの虐殺の生存者であったグエン・ティ・タンらが原告となり大韓民国政府を訴え、判決では「重大な人権侵害であり、戦争犯罪の性格を帯びる事件」として大韓民国政府の責任が認められた[18]

  • 両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられて瀕死の21歳の女。写真撮影後に病院に徹送され、「お母さん、お母さん…」と母を呼びながら妹達の前で絶命した[19](J・ボーン米海兵伍長撮影)
    両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられて瀕死の21歳の女。写真撮影後に病院に徹送され、「お母さん、お母さん…」と母を呼びながら妹達の前で絶命した[19](J・ボーン米海兵伍長撮影)

脚注 

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  1. a b c d “잠자던 진실, 30년만에 깨어나다 “한국군은 베트남에서 무엇을 했는가”… 미국 국립문서보관소 비밀해제 보고서•사진 최초공개”ハンギョレ. (2000年11月15日) 2011年2月9日閲覧。
  2. ^ p47 Di Heonik Kwon
  3. ^ 「韓国のベトナム大虐殺を告発する」 月刊正論 2014年7月号 pp.64-81
  4. ^ “미국의 관심은 ‘학살은폐 책임’ 최초공개된 미국 비밀보고서의 의미… 정부는 참전군인의 명예를 위해서 진상조사에 나서라”ハンギョレ. (2000年11月15日) 2011年2月9日閲覧。
  5. ^ 『知られざる歴史の真実 世界史編』インターナショナル・ラグジュアリー・メディア、2011年、51頁。ISBN 4905144124
  6. a b c d “‘끝없이 벗겨지는 ‘제2의 밀라이’미군 보고서로 다시 입증된 <한겨레21>의 퐁니·퐁넛사건 보도… 남은 건 ‘누가 쏘았는가’”ハンギョレ. (2000年11月15日) 2011年2月9日閲覧。
  7. a b c d “여기 한 충격적인 보고서가 있다 미국이 기록한 한국군의 베트남 학살 보고서 발견”オーマイニュース. (2000年11月14日) 2011年2月9日閲覧。
  8. ^ Kwon, Heonik. After the massacre: commemoration and consolation in Ha My and My Lai. University of California Press. p. 32. ISBN 9780520247970.
  9. ^ Kwon, p. 1.
  10. a b c ““한국군도 많이 당했다” 채명신 전 주월한국군총사령관 인터뷰… 남베트남군 사령관 만나 사과한 적도”ハンギョレ. (2000年11月15日)2011年2月9日閲覧。
  11. ^ “South Korea owns up to brutal past”シドニー・モーニング・ヘラルド. (2008年11月5日) 2011年2月10日閲覧。
  12. ^ '문경학살사건' 유족 항소심도 패소('聞慶虐殺事件' 遺族抗訴審も敗訴)”朝鮮日報. (2009年8月6日). オリジナルの2011年5月1日時点によるアーカイブ。 2011年2月10日閲覧。
  13. a b The Cold Warrior”. Newsweek (2000年4月9日). 2011年9月23日閲覧。
  14. ^ “편견인가, 꿰뚫어 본 것인가 미군 정치고문 제임스 맥의 보고서 “쿠앙남성 주둔 한국군은 무능·부패·잔혹””ハンギョレ. (2000年11月15日)2011年2月9日閲覧。
  15. a b WORLD AFFAIRS 証言 Apocalypse Then 「私の村は地獄になった」ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号 P.24
  16. ^ Battle of the dueling war crimesグローバル・ポスト August 16, 2013
  17. ^ 한겨레. “「ベトナム民間人虐殺市民平和法廷」ソウルで開かれる”. japan.hani.co.kr2019年7月7日閲覧。
  18. ^ “미투도 김영란법도 ‘노’라고 말할 권리 위한 것”” (朝鮮語). www.hani.co.kr (2018年5月19日). 2019年7月7日閲覧。
  19. ^ “특집 “그날의 주검을 어찌 잊으랴” 베트남전 종전 26돌, 퐁니·퐁넛촌의 참화를 전하는 사진을 들고 현장에 가다”ハンギョレ. (2001年4月24日)2011年2月9日閲覧。
  20. ^ “미군 보고서로 다시 입증된 <한겨레21>의 퐁니•퐁넛사건 보도… 남은 건 ‘누가 쏘았는가’”ハンギョレ. (2000年11月23日) 2011年2月9日閲覧。

参考文献 

関連項目 

外部リンク 

 

環境毒物学 

環境毒物学   

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この記事では、確認のために追加の引用が必要です。信頼できる情報源に引用を追加して、この記事の改善にご協力ください。情報源:「環境毒物学」–ニュース・新聞・書籍・学者・JSTOR(2019年4月)(このテンプレートメッセージを削除する方法と時期を学ぶ)
環境毒物学の学際性の概要

環境毒物学はある学際的な様々な化学物質の有害な影響、生物学的および物理の研究に関わる科学の分野の薬剤生物[1] [2] 生態毒性学は、人口および生態系レベルでの毒物の有害な影響の研究に関係する環境毒性学の下位分野です。

レイチェル・カーソンは、環境毒物学の母と見なされています。彼女は、無規制の農薬使用の影響を扱った「サイレントスプリング」という本を出版して、1962年に毒物学の分野を明確にしました。カーソンの本は、殺虫剤DDTの生態学的影響に関するLucille Farrier Stickelの一連の報告に広く基づいていました。[3]     

生物はあらゆるライフサイクルの段階でさまざまな種類の毒物にさらされる可能性があり、その中には他のものよりも敏感なものもあります。毒性は、食物網内での生物の配置によっても異なります。生物蓄積は、生物が最終的に確立することができる脂肪組織において毒性物質、格納したときに発生する栄養カスケードおよび生物濃縮特定毒物のを。生分解は、副産物として二酸化炭素と水を環境に放出します。このプロセスは通常、環境毒物の影響を受ける地域で制限されています。

有害から毒物などの化学的および生物学的薬剤の効果汚染物質殺虫剤農薬、及び肥料は、その種の多様性と豊かさを減らすことによって、生物とそのコミュニティに影響を与えることができます。このような人口動態の変化は、生産性と安定性を低下させることにより、生態系に影響を与えます。

1970年代初頭から実施法案はすべての種に応じた環境毒性物質の有害な影響を最小化することを意図していたが、マッカーティは(2013 [4])「と警告した電流に基づいている、単純な概念モデルの実装における長年の制限水生毒性試験プロトコル」は差し迫った環境毒物学「暗黒時代」につながるかもしれません。

環境毒性に関する管理ポリシー 

国際政策 

環境を保護するために、国家環境政策法(NEPA)が作成されました。[5]NEPAが明らかにする主なポイントは、「環境に重大な影響を与える主要な連邦政府の行動をとる前に、政府のすべての支部が環境を適切に考慮することを保証する」ことです。[5]この法律は1970年に可決され、環境品質評議会(CEQ)も設立されました。[6] CEQの重要性は、政策分野のさらなる推進に役立ったことでした。

CEQは、非常に有益な有用な環境プログラムを作成しました。いくつかには、連邦水質汚濁防止法(RCRA)、有害物質管理法、資源保護および回復法(RCRAおよびSafe)が含まれます。[7] CEQは、「スーパーファンドおよびアスベスト規制法を除く現在の環境法」の大部分の基盤を作成するのに不可欠でした。[6]

NEPAの最初の影響のいくつかは、裁判所内の解釈に関係しています。裁判所は、NEPAを解釈して、あらゆるプロジェクト、特に連邦政府からの直接的な環境影響を拡大するだけでなく、連邦政府プロジェクトからの間接的な行動も拡大しました。[6]

有害物質規制法 

有害物質規制法としても知られるTSCAは、人間と環境に有害である可能性のある工業用化学物質を規制する連邦法です。[8] TSCAは、「商業用途の化学物質の製造、輸入、保管、使用、廃棄、および分解」を特に対象としています。[8] EPAは、以下を行うことを許可しています。 "1。健康または環境リスクを判断するための化学物質の製造前テスト2.商業生産の開始前の重大なリスクについての化学物質のレビュー3.生産または廃棄の制限または禁止特定の化学物質の4。米国に出入りする前の化学物質の輸出入管理。[8]

空気清浄法 

大気浄化法は、1990年改正の署名によって支援されました。これらの修正により、酸、オゾン層の減少、大気質および有毒汚染物質の改善が保護されました。[9]クリーンエア法が実際に改訂され、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領からの支援として、それがで調印された。[9] この行為の標的であることを最大の主要な脅威:都市部の大気汚染、有害大気排出量、成層圏オゾン、酸これらの特定の領域をターゲットとすることとは別に、それは「法律をより実行可能にするプログラムを許可し、法律のより良い順守を確実にするのを助けるために施行を強化する」全国事業を確立しました。[9]

砒素 

最も重要な重金属の1つであるヒ素は、生態系と人間の健康に問題を引き起こします。それは、「半金属特性、顕著な毒性と発癌性があり、酸化物または硫化物の形で、または鉄、ナトリウム、カルシウム、銅などの塩として広く利用可能です[15]それだけでなく、これは地球上で最も豊富な要素でもあり、その特定の無機形態は、生物(動物、植物、人間)と環境にとって非常に危険です。

ヒ素が人間に及ぼす影響は、膀胱、皮膚、肺、肝臓に癌を引き起こす可能性があることです。人間がヒ素にさらされる主要な分野の1つは、汚染された水によるものであり、これは世界30か国以上で問題となっています。

人間は、「自然の手段、産業源、または意図しない源から」のヒ素に遭遇する傾向があります。[15]水は、ヒ素農薬または天然のヒ素化学物質によって汚染される可能性があります。自殺の試みでヒ素が使用され、急性中毒を引き起こす可能性のある場合があります。ヒ素は、「細胞のスルフヒドリル基に主に影響するため、細胞呼吸、細胞酵素、および有糸分裂の機能不全を引き起こすため、原形質形成毒です。」[15]

PCBに関する規制と施行措置 

米国は、PCBの使用を禁止しなかったものの、前述したように、彼らは1979年ザ・環境保護庁におけるPBCバンドの前に作られた製品中に存在している1979年4月19日にプリント基板上の禁止をリリースしている可能性がある[10 ]米国環境保護庁によると、「この国ではPCBはもう生産されていませんが、現在使用中のPCBの大部分を制御できるようになります」と、EPAの管理者ダグラスM.キャッスルは述べました。「これは、有毒で非常に持続的な人工化学物質による空気、水、食料のさらなる汚染を防ぐのに役立ちます。」[10]

PCBは実験動物でテストされており、癌や先天性欠損症を引き起こしています。PCBは、人間の肝臓と皮膚に特定の影響があると疑われています。彼らはまた、癌を引き起こす疑いもあります。EPAは、「1億5000万ポンドのPCBが、空気や水を含む環境全体に分散していると推定しています。この国の埋め立て地にはさらに2億9000万ポンドがあります。」[10]繰り返しますが、禁止されているにもかかわらず、環境内で大量のPCBが循環しており、人間の皮膚と肝臓に影響を与えている可能性があります。

PCBを誤って処分した人や会社がいくつかありました。これまで、EPAは、処分方法について人々/企業に対して法的措置を講じなければならなかった4つのケースがありました。企業に関係する2件の訴訟は、不適切な処分により28,600ドルの罰金を科されました。「ノースカロライナ州の210マイルの道路に沿ってPCBを違法に投棄」したことで、3人に対して罰金が課せられたことは不明です。[10]

PCBは禁止されましたが、使用されているいくつかの例外があります。完全に禁止されている領域は、EPAによって特に許可または免除されていない限り、「製造、加工、商業における流通、およびPCBの「非密閉」(環境に開放)使用です。「完全密閉」使用(含まれているため、PCBへの暴露はほとんどありません)、機器の寿命が続くまで許可されます。」[10] PCBを含む電気機器に関しては、特定の管理された条件下で許可されています。7億5,000万ポンドのPCBのうち、電気機器は5億7800万ポンドに相当します。PCBの新規製造は実際には禁止されています[10]

環境毒性の原因 

私たちの食物、水、空気中に有毒物質が存在する可能性のある環境毒性の原因はたくさんあります。これらのソースには、有機および無機汚染物質、農薬、生物学的因子が含まれ、これらはすべて生物に有害な影響を与える可能性があります。いわゆるポイント汚染、例えば特定の工場からの排水だけでなく、環境中に拡散する多くの化学物質と重金属を含む自動車タイヤのゴムのような非ポイント汚染(拡散源)もあります。

PCB 

ポリ塩化ビフェニル(PCB)は、米国やカナダを含む多くの国で禁止されているにもかかわらず、現在も私たちの環境に存在する有機汚染物質です。水生生態系におけるPCBの永続的な性質により、多くの水生種はこの化学物質を高レベルで含んでいます。たとえば、バルト海の野生のサケSalmo salar)は、汚染された環境で野生の魚が生息するため、養殖サケよりもPCBレベルが著しく高いことが示されています。[11]  

PCBは、人間が生産する「塩素化炭化水素として知られる有機化学物質」のグループに関連します[12]。PCS の化学的および物理的特性は、塩素の量と位置を決定します。[12]毒性の範囲は一貫しておらず、PCBには特定の特性(化学的安定性、不燃性)があるため、大量の商業的および産業的慣行で使用されています。それらの一部には、「電気、熱伝達、油圧機器、塗料の可塑剤、プラスチックおよびゴム製品、顔料、染料、カーボンレスコピー用紙」などがあります。[12]

ヘビーメタル 

 魚などの食料源に含まれる重金属も有害な影響を与える可能性があります。これらの金属には、水銀カドミウムが含まれます。魚(すなわちニジマス))より高いレベルのカドミウムにさらされており、低いレベルにさらされた魚または全くさらされていない魚よりも遅い速度で成長します。さらに、カドミウムはこれらの魚の生産性と交尾行動を潜在的に変える可能性があります。重金属は行動に影響するだけでなく、水生生物の遺伝子構造にも影響を与えます。カナダの研究では、採掘作業によって汚染された湖のさまざまな重金属濃度勾配に沿った野生の黄色のとまり木の遺伝的多様性を調査しました。研究者たちは、イエローパーチの個体群の中で、金属汚染が進化的反応にどのような影響を与えたかを判断したかったのです。勾配に沿って、すべての遺伝子座にわたる遺伝的多様性は、肝臓のカドミウム汚染と負の相関がありました。[13]さらに、銅汚染と遺伝的多様性の間に負の相関関係が観察されました。いくつかの水生種は重金属耐性を進化させました。高い重金属濃度双翅目の種に応じて、ユスリカのripariusは、ユスリカ科のユスリカ、水生環境におけるカドミウム毒性に対して耐性となるように進化してきました。生活史の変化、Cd排泄の増加、およびCd曝露下での持続的な成長は、Chironomus ripariusが遺伝に基づく重金属耐性を示すことを示す証拠です。[14]

金属毒性 

最もよく知られている、または一般的なタイプの重金属には、亜鉛、ヒ素、銅、鉛、ニッケル、クロム、カドミウムが含まれます。これらのタイプはすべて、人間と環境の健康に特定のリスクをもたらします。

これらの金属の特定の量は、例えば、特定の生化学的および生理学的維持において、「非常に低い濃度では生体の機能を維持しますが、特定の閾値濃度を超えると有害になります」という重要な役割を果たします。[15]重金属は環境汚染の大きな部分を占めており、その毒性は「生態学的、進化的、栄養的、環境的理由により重要性が増している問題です」。[15]

人は汚染された水を通してヒ素中毒にさらされた

 

別の非常に有毒な金属である鉛は、「世界の多くの地域で広範な環境汚染と健康問題」を引き起こす可能性があり、知られています。鉛の物理的な外観は、明るい銀色の金属です。環境中の鉛汚染の原因には、金属めっきおよび漁業、土壌廃棄物、工場の煙突、鉱石の製錬、バッター産業からの廃棄物、肥料および農薬などがあります。銅などの他の金属とは異なり、鉛は生理的側面のみを果たし、生物学的機能は果たしません。米国では、「年間100〜200,000トン以上の鉛が車両の排気ガスから放出されています」があり、一部は植物、水中の流れ、土壌への固定によって持ち込まれる可能性があります。[15]

人間は、採掘、化石燃料の燃焼を通じて鉛と接触します。燃焼中、鉛とその化合物は空気、土壌、水にさらされます。鉛は体にさまざまな影響を与え、中枢神経系に影響を与えます。鉛と接触した人は、急性または慢性のいずれかの鉛中毒になります。急性中毒を経験した者は、そのような、食欲不振、頭痛、高血圧症、腹痛、腎機能障害、疲労、不眠、関節炎、幻覚やめまいなどの症状を持っている。」[15]一方、慢性暴露を、のようなより重篤な症状を引き起こす可能性があります、「精神遅滞、先天異常、精神病、自閉症、アレルギー、失読症、体重減少、多動、麻痺、筋力低下、脳損傷、腎臓損傷、さらには死を引き起こすことさえある」[15]

水銀 

以前の重金属である水銀と同様に有毒な光沢のある銀白色は、加熱されると無色で無臭のガスに変化します。[15]水銀は海洋環境に大きな影響を与え、水環境への影響について多くの研究が行われています。水銀汚染の最大の発生源には、「農業、都市下水の排出、鉱業、焼却、および産業廃水の排出」があり、これらはすべて水に比較的関連しています。[15]

水銀は3つの異なる形態で存在し、3つすべてが異なるレベルの生物学的利用能と毒性を持っています。3つの形式には、有機化合物、金属元素、無機塩が含まれます。前述のように、それらは海、川、湖などの水資源に存在します。[15] それらは微生物に吸収され、「水生生物に著しい混乱を引き起こす生物濃縮」を経験します。[15]

水銀は海洋生物を傷つけますが、人間の神経系に対しても非常に有害です。より高いレベルの水銀曝露は、多くの脳機能を変化させる可能性があります。「内気、震え、記憶障害、いらいら、視力や聴力の変化につながる」ことがあります。[15]

カドミウム 

ATSDRランキングによると、カドミウムは7番目に毒性の高い重金属です。カドミウムは、(職場で)人間やその環境の動物にさらされると、人間/動物の生涯を通じて体内に蓄積するという点で興味深い。[15]カドミウムは第一次世界大戦のスズと塗料産業の顔料の代替として使用されていましたが、現在では主に充電式バッテリー、タバコの煙、およびいくつかの合金の生産に見られます。

有害物質および疾病登録局が述べているように、「米国では、毎年500,000人以上の労働者が有毒カドミウムにさらされています。」また、カドミウムへの最も高い曝露は中国と日本で見られると述べられています。[15]

カドミウムの腎臓と骨への影響は非常に大きいです。それは、「骨のマトリックス上にミネラルを置くプロセスである」骨石灰化を引き起こす可能性があります[16]。これは、腎機能障害または骨の損傷によって起こります。

クロム 

7番目に多い元素であるクロムは、石油と石炭を燃やし、下水や肥料を介して環境に放出されるときに自然に発生します。クロムの使用量は、「冶金、電気めっき、塗料および顔料の製造、日焼け、木材の保存、化学製品の製造、パルプおよび紙の製造などの産業」で見ることができます。[15]クロムの毒性は、「トウモロコシ、小麦、大麦、カリフラワー、シトルラスなどのさまざまな植物および野菜の生物学的プロセスに影響を与えます。クロムの毒性は植物の白化および壊死を引き起こします」。[15]

農薬 

農薬は環境毒性の主な原因です。これらの化学的に合成された薬剤は、投与後も環境中に持続することが知られています。農薬の貧しい生分解性をもたらすことができる生物濃縮と一緒に様々な生物における化学物質の生物濃縮食物網内。農薬は、対象とする害虫に従って分類できます。殺虫剤は、さまざまな果物や作物を攻撃する農業害虫を排除するために使用されます。除草剤は、作物生産を減らす雑草やその他の望ましくない植物などのハーブ害虫を対象としています。

DDT 

ジクロロジフェニルトリクロロエタン(DDT)は有機塩素系殺虫剤であり、人間と野生生物の両方に悪影響を及ぼすため禁止されています。DDTの殺虫特性は1939年に初めて発見されました。この発見に続いて、DDTはジャガイモカブトムシ、コドリンガ、コーンイヤーワームなどの農業害虫を殺すために農家によって広く使用されました。1962年、レイチェル・カーソンが著書「サイレント・スプリング」で、DDTの広範囲にわたる制御されない使用の有害な影響を詳述しました。環境に放出されたこのような大量のDDTとその代謝物であるジクロロジフェニルジクロロエチレン(DDE)は、動物と人間の両方に有毒でした。

DDTは容易に生分解されないため、化学物質は土壌および堆積物の流出に蓄積します。水系は汚染され、魚や貝などの海洋生物は組織にDDTを蓄積します。さらに、この効果は、魚を食べる動物が化学物質も消費するときに増幅され、食物網内の生物濃縮を示します。DDTDDEが組織に蓄積して卵殻のthin薄化を引き起こすため、生物濃縮のプロセスはさまざまな鳥種に有害な影響を及ぼします。その結果、ヨーロッパと北米で鳥の個体数の急激な減少が見られました。

DDTで汚染された動物または植物を消費する人間は、健康への悪影響を経験します。さまざまな研究により、DDTは人間の肝臓神経系生殖系に有害な影響を与えることが示されています。

1972年までに、米国環境保護庁(EPA)は、米国でのDDTの使用を禁止しました。北米でのこの農薬の規制にもかかわらず、それはまだ世界の特定の地域で使用されています。この化学物質の痕跡がの支流で顕著な量で発見されている長江における中国の農薬を示唆し、この地域ではまだ使われています、。   

DDTは1972年に禁止されましたが、一部の農薬(およびその他の化学物質)は環境に残留しました。この有毒物質の残留により、ハヤブサはほぼ絶滅しました。「鳥の卵、脂肪、組織」などの多くの地域で高レベルのDDTが見つかりました。[17]政府。汚染地域からの繁殖を支援するために保全グループと協力しました。最後に、1999年に鳥は米国の絶滅危species種リストから除外されました。[17]

フッ化スルフリル 

フッ化スルフリルは、環境に放出されるとフッ化物硫酸塩に分解される殺虫剤です。フッ化物は水生野生生物に悪影響を与えることが知られています。フッ化物レベルの上昇は、コイCyprinus carpio)の摂食効率と成長を損なうことが証明されています。フッ化物にさらされると、これらの魚のイオンバランス、総タンパク質、脂質レベルが変化し、体組成が変化し、さまざまな生化学プロセスが中断されます。   

シアノバクテリアとシアノトキシン 

藍藻類、または藍藻類は光合成細菌です。多くの種類の水で成長します。それらの急速な成長(「ブルーム」)は、水温の上昇と富栄養化(これらの藻類の過度の成長を引き起こす土地からの流出に起因することが多いミネラルや栄養素の濃縮から生じる)に関連しています。シアノバクテリアの多くの属はいくつかの毒素を産生します。[18] [19]シアノトキシンは皮膚毒性、神経毒性、および肝毒性の可能性がありますが、それらの暴露に関連した死はまれです。[18]シアノトキシンとその非毒性成分はアレルギー反応を引き起こす可能性がありますが、これはよくわかっていません。[20]589既知の毒性にもかかわらず、これらの毒素が持つ複雑な作用メカニズムのために、暴露の特定のバイオマーカーを開発することは困難でした。[21]

飲料水中のシアノトキシンの発生 

飲料水中のこの毒素の発生は、いくつかの要因に依存します。1つは、原水における飲料水のレベルです。2つ目は、実際に飲料水が生産されているときに、これらの毒素を水から除去する有効性に依存します。[22] 飲料水中のこれらの毒素の有無に関するデータがないため、最終水に存在する量を実際に監視することは非常に困難です。これは、米国が飲料水処理施設でこの毒素の存在を実際に監視する州または連邦のプログラムを実施していないためです。[22]

人に対する毒素の影響 

これら2つの毒素の影響に関するデータは限られていますが、入手可能なものから、毒素が肝臓と腎臓を攻撃することが示唆されています。オーストラリアのパーム島で肝臓腸炎のようなアウトブレイクが発生しました(1979年)。「C。raciborskii、シリンドロスペルモプシンを生成できるシアノバクテリア」を含む水を消費したためです。[22]ほとんどの場合(通常は子供が関係している)、病院に連れて行く必要があります。入院の結果には、嘔吐、腎障害(水分、タンパク質、電解質の損失による)発熱、血性下痢、頭痛が含まれます。[22]

社会 

ジャーナル 

こちらもご覧ください 

参照資料