国際勝共連合(こくさいしょうきょうれんごう、英: International Federation for Victory over Communism; IFVOC, VOC、「共産主義に勝利するための国際連盟」)は、世界基督教統一神霊協会(現・世界平和統一家庭連合)を母体とする反共主義の政治団体[10][11][12][注 2]。通称は「勝共連合」または「勝共」[14]。
1968年1月13日、統一運動の創設者、文鮮明により大韓民国で設立された[15][10][11][12][1]。同年4月1日、日本では岸信介、笹川良一、児玉誉士夫らが発起人となり、同名の団体が設立された[10][16][17][1]。日本の初代会長は久保木修己。
自由民主党とは反共産主義の活動を通じて長年協力関係にあった[12]。1970年代当時の自治省の資料から自民党に多額の政治献金および借入金を提供していたことが認められる[18]。2012年に自民党政権が復帰すると、安倍晋三は首相として機関誌『世界思想』の表紙をたびたび飾り、団体のイメージアップに寄与した[19][20][21]。
創設の背景と経過
時代的背景
大韓民国では、1961年5月16日、朴正熙、金鍾泌らによって軍事クーデターが起こり、張勉民主党内閣が倒れた。6月10日には諜報機関である大韓民国中央情報部(KCIA)が設立された[22]。7月3日、朴正熙は共産主義を駆逐することを目的として反共法を制定。続いて9月30日には再建国民運動法を改正し、「容共中立化思想の排撃」とあった文言を「勝共民主理念の確立」に書き換えた。「勝共(승공)」という言葉はこの日、韓国で初めて公式に登場した[23]。1963年2月26日、民主共和党が結成され、韓国は軍政から民政に移行した。同党はその綱領の第5項で「われらは、あらゆる領域にわたって勝共のために国力を培養し、民族的宿願である国土統一を期する」と謳った。こうして「勝共」は朴政権の専売用語として定着していった[23][24]。
統一教会(現・世界平和統一家庭連合)は朴正熙軍事独裁政権の先兵となることに犬馬の労をいとわなかった[25]。古参の信者で、駐韓米軍第8軍に所属していた朴普煕、韓相国、金相仁、韓相吉の4人はいずれもKCIAの要員となった[26]。教団は韓国政府の庇護を長く受けることになる[23]。
日本での創設過程
日本での創設
1967年6月12日、統一運動の創始者、文鮮明と韓鶴子は来日。世界的な反共組織をつくることと原理修練会に参加することが目的だった[27][28]。7月15日夜、本栖湖畔の全国モーターボート競走会連合会(現・日本モーターボート競走会)の施設「水上スポーツセンター」で、文鮮明、劉孝元(『原理講論』の執筆者)、笹川良一、藤吉男、白井為雄(児玉誉士夫の代理)、久保木修己(日本統一教会会長)らは反共組織結成の構想を練った[29][30][28]。会合は第1回「アジア反共連盟結成準備会」と名付けられ、16日朝にも話し合いが行われた。勝共運動を日本に持ち込み、受け入れることでいったん合意したが、週刊誌がすぐに会合を記事にし、足並みが乱れて計画は挫折した[28][17][31][32][33]。同年11月頃、久保木修己は、東京都渋谷区の統一教会本部に沢浦秀夫、野村健二、阿部正寿らを招き、「勝共啓蒙団」を結成した[33]。「勝共啓蒙団」は李相憲が書いた『新しい共産主義批判』の原稿を韓国から入手し、野村と阿部が中心となって日本語に訳し、出版した[34][35]。
1968年1月13日、文鮮明は「国際勝共連合」をソウルで設立した[15][23]。そして同年4月1日、岸信介、笹川良一、児玉誉士夫らが発起人となり、勝共啓蒙団を改編し、日本において「国際勝共連合」が設立された[10][16][17][1]。設立にあたり、国際勝共連合は「この運動によって日本から共産主義勢力が駆逐され、世界から妖怪が姿を消して、真の平和と繁栄が確立するまで、断じて追撃の手を休めない」と宣言した[33]。初代会長には久保木修己が就任した。名誉会長は笹川良一。
顧問団に小川半次、大坪保雄、辻寛一、千葉三郎、山本勝利、鯨岡兵輔、伊藤宗一郎、玉置和郎、源田実ら衆議院・参議院の自民党議員の他、財界人や右派の言論人、国文学者の浅野晃などが名を連ねた[36][37]。発足の1968年4月から1969年9月までの延べ動員数は公称1万6000人[24]。本部は渋谷区渋谷1丁目に置かれた[24]。
主要経過
1960年代
1968年4月、東京都知事の美濃部亮吉は、朝鮮大学校を各種学校として認可した[38]。同月に結成されたばかり国際勝共連合の最初の仕事はこの朝鮮大学校の認可反対運動(認可されてからは取り消し運動)であった。文鮮明の命を受けた江利川安栄は同校のある東京都小平市に移り住み、「朝大門前講義」と称して連日にわたり学校におしかけ、挑発を行った[39][注 3]。犬塚博英の証言によれば、朝鮮大学校前に演説に行き、大学関係者に殴られ、眼鏡が折れて前が見えような状態でも現れ。「私が死ぬことによって共産主義の非道が明らかになれば、死んでも本望です!」と述べていたという[40]。
1970年代
1970年4月12日に行われた京都府知事選挙で、自民・民社・公明の3党は元自治省事務次官の柴田護を擁立した。統一教会は社共推薦の蜷川虎三を落選させるために、初めて全国から信者を動員した[41]。当時500人ほどしかいなかった信者のうち150人を京都に送り込み、自民党の手足となって動いた[42]。蜷川府政を批判する「府民新聞」号外などが50万枚配布された。そのうち45万枚が創価学会員によって、5万枚が統一教会信者によって配られた[41]。蜷川は6選を果たすが、このときの働きが契機となって、統一教会ならびに国際勝共連合は自民党に食い込む足掛かりをつかんだ[42]。
同年5月27日、米国のメルヴィン・レアード国防長官は、在韓米軍6万2千人のうち2万人を1971年6月までに撤退させると発表した。この発表は北朝鮮と対峙する韓国の政府に衝撃をもたらした。対策をめぐって議会で論議が重ねられ、その結果、日本との政治的な提携を強め、日本を韓国の「背後基盤」とするよう役割を担わせなければならないとする方針が国家安全保障会議でまとめられた[43]。
同年6月26日、国際勝共連合会長の久保木修己は韓国に飛び、丁一権首相と会談。さらに8月に再度訪韓した[12]。9月2日、久保木は岸信介の自筆の推薦文をしたため、朴正煕と青瓦台の大統領官邸で会見。同月に開催される第4回「世界反共連盟(現・世界自由民主連盟)世界大会」への韓国の代表団派遣を依頼した[44][45]。9月20日、同大会が東京の武道館で開かれ、国際勝共連合が大会の運営を担った[43][46]。文鮮明はこの日の説教で世界反共連盟世界大会に触れ、「日本の自民党たちから、昔首相をした人たちまで、私の作戦に巻き込まれながら喜んでいます」と語った[47]。
1975年4月の東京都知事選挙は社会党・共産党・公明党推薦の現職の美濃部亮吉、自民党推薦の石原慎太郎、民社党推薦の松下正寿の三つどもえの争いとなったが、統一教会ならびに勝共連合は世界平和教授アカデミー会長の松下[48]ではなく、石原を応援した[49]。とくに勝共連合からは若いメンバーが大量に動員された[33]。
1976年5月25日、『ニューヨーク・タイムズ』は、統一教会と文鮮明が韓国政府やKCIAと密接な関係をもって反共活動などの政治活動を行っていると、一面中央に写真入りで報じた。それとともに「あからさまに政治的な国際勝共連合を含む文鮮明の組織は、笹川良一や児玉誉士夫など日本の極右主義者から資金援助を受けている」「国際勝共連合は韓国の政府職員に反共教育をする組織(An anti-Communist indoctrination school for Korean Government employees)だった」と報じた[50][51]。
1976年6月14日、『タイム』は、朴正煕大統領が文鮮明の反共活動(勝共連合)を支援したと報じた。
機関紙『世界思想』1976年11月号は「日本においても軍事力の増強は絶対に必要であります。生活水準を三分の一に減らし、税金を四倍、五倍にしてでも、軍事力を増強してゆかなければなりません。それに、日本を守るということだけでなくて、韓国をも守らなければなりません」と述べた[52]。
1976年12月5日に行われた第34回衆議院議員総選挙の旧東京2区(定数5)において、国際勝共連合とKCIAは、自民党政府の対韓政策に厳しい態度をとっていた無所属の宇都宮徳馬に対し執拗な選挙妨害を行った[53]。同選挙区は自民党公認の石原慎太郎がトップ当選を果たし、民社党新人の大内啓伍が3位で初当選した。宇都宮4位で当選した。
1978年4月3日、福田赳夫首相は参議院予算委員会で「勝共連合と自由民主党は反共という点で共通する点がある」「勝共連合が反共を旗印にしている点に着目した」と述べ、自民党と国際勝共連合が協力関係にあることを公に認めた[12]。勝共連合から自民党へ多額の政治献金が流入していたことが当時の自治省の資料からも確認できる。1973年には4780万円、1974年には4618万円、1975年は4509万円、1976年は100万円が献金されていた。自民党の勝共連合からの借入金は1672万5千円に及んでいた[18]。
同年4月9日の京都府知事選挙では全国動員をかけて、自由民主党・新自由クラブ推薦の林田悠紀夫を支援[10][54]。社共共闘が崩れたこの年の府知事選で、林田は初当選を果たした[55]。
同年6月1日、衆議院議員の正森成二(旧大阪1区)は衆議院地方行政委員会で、前述の『世界思想』同年11月号の記事や国際勝共連合の諸活動をとりあげた[52]。
同年6月8日の赤旗によると、宮本顕治共産党委員長は、京都府知事選の敗北を受けて、県・地区委員長会議の結語として、「自民党に対しては“勝共連合と一緒にやれば反撃をくって損だ”という状況をつくることが重要だ。“勝共連合退治”の先頭に立つことは、後世の歴史に記録される『聖なる戦い』である」と聖戦宣言を行った[56]。 後年の2022年10月、志位共産党委員長は、雑誌の対談にて、共産主義を批判してきた「国際勝共連合」を「反共の先兵」と位置付けしており、「旧統一教会との『最終戦争』」 という表題となった[57][58]。
1979年2月24日、国際勝共連合と自民党の国防関係国会議員が中心となり、「スパイ防止法制定促進国民会議」が設立された[59][60][61][62]。呼びかけ人は木内信胤、朝比奈宗源、宇野精一、郷司浩平、宝井馬琴、三輪知雄の6人。サンケイ会館で設立発起人総会が開かれ、発起人には久保木修己、松下正寿、神川彦松、大石義雄、江木武彦、瓦林潔、白井浩司、升本喜兵衛、桶谷繁雄、尾上正男、井本臺吉、三上英雄、黛敏郎、中河与一、桜田武、天野武一、白井永二、弟子丸泰仙、安岡正篤、加瀬英明、松本明重、村田五郎、加藤陽三、西村直己、柏村信雄、鈴木一、杉田一次、世界日報社社長の石井光治、中外日報社社長の本間昭之助らが名を連ねた[59]。都道府県会議を全国で設置し、地方議会におけるスパイ防止法案制定請願運動の先頭に立った。勝共連合は同団体に1億6000万円を寄付した[33]。
1980年代
1984年6月10日に、『世界日報』の路線の対立で追放された副島嘉和らが『文藝春秋』に出した告発手記で、久保木修己が昭和天皇の身代わりで文鮮明に拝礼する秘密儀式があるとする暴露をした。それにより、勝共連合を反共運動の同志と考えていた民族派右翼や街宣右翼が激怒し、久保木に質問状を出す。3ヶ月後に久保木は、副島手記の内容を否定する回答をした。「平和と安全を守る七大都市大会」の大阪大会では、任侠右翼や民族派右翼が「勝共運動は、文鮮明の手先」「世界を股にかけるペテン師の金集め」などの批判ビラを会場周辺に張り、大会を妨害した。
1985年、韓国で開催された国際勝共決起大会に岸信介は「私のもっとも尊敬する一人である文先生は、民族を越えアジアと世界のために粉骨砕身、努力してこられました」とメッセージを寄せた[63][64]。
1986年7月の衆参同日選挙(第38回衆議院議員総選挙・第14回参議院議員通常選挙)では、150人の衆参両院候補を応援、自民、民社両党を中心に134人を当選させた、としている。同連合が発表した名簿には、松永光(自民党スパイ防止法制定特別委員長)、森清、箕輪登(当時の自民党衆議院議員)らが含まれていた。同連合の機関紙「思想新聞」によると、選挙後には、これらの各勝共推進議員一人ひとりに勝共理念の研修を受けてもらったという。その結果、134人全員が勝共理念を理解し、国会議員のそれぞれの地元でも勝共連合支部との関係が密接になった、と伝えている[65]。1986年の第38回、1990年(平成2年)の第39回、1993年(平成5年)の第40回の衆議院議員総選挙に大阪三区で立候補しいずれも落選した阿部令子[注 4]は、霊感商法の霊能者役であり合同結婚式に参加した教会員で渡辺美智雄元秘書だったとされている[66]。1990年総選挙での自民党追加公認に関しては「公認は渡辺(美智雄)氏らが強引に押し切った」[67]とされ、地元大阪府連の強い反発を受けた。なお、「霊感商法などで問題になっている統一教会との関係」が他党(共産党)のビラなどで指摘されているが、阿部本人は「支援は受けているが会員ではない」[68]と回答している。
1990年代
ソ連崩壊によって反共陣営にとっての最大の敵が消えた1990年代以降、母体である統一教会の霊感商法に対する批判の強まりも重なって一時日本の保守層と関係が薄くなっていたのではとの指摘がなされている。有田芳生は『私は以前、安倍(晋三)さんから統一教会と北朝鮮の関係について聞かれたことがある。そのときは「統一教会が接近してきている。会おうと言われているが断っている」と言っていました。安倍さんは北朝鮮に対して強硬な立場で総裁選も近いということから考えると、少なくとも本人の意思では(前述の祝電を)送っていないとは思いますが』とコメントしている[69]。
1991年5月15日、安倍晋太郎が議員在職中に死去。1993年7月の衆院選で、父親の地盤を継承した安倍晋三が初当選した。統一教会の日本進出に大きな役割を果たした岸信介の血を引く安倍晋太郎の血族、安倍家の流れを汲む自民党清和政策研究会を通じた政界との交流は続いた。
1996年3月21日、「世界平和連合」の日本支部が東京で設立された。初代会長には久保木修己が就任した[70]。多くの場合において国際勝共連合の会長が世界平和連合の会長を兼職した。
2000年代以降
2003年の参院選・山口県選挙区に安倍晋三の実弟の岸信夫が立候補し初当選した。
2010年代ごろから、日本の保守層との距離が縮まり、再接近している。2010年7月の第22回参議院議員通常選挙では勝共連合が有田への対抗馬として、比例区で出馬していた山谷えり子を当選させるよう、統一協会員に働きかけを行なっていた(ただし、参院比例区の制度上、同じ他党の候補の当選阻止は出来ない)[71]。このとき有田は、自身のブログに統一協会の内部文書を載せ、統一協会と晋三および山谷の強い関係性を指摘している。「世界思想」2013年9月号は「安倍政権の救国ロードマップ」を特集し、街頭演説をする晋三の姿を表紙に使った[72]。また2010年11月号では「菅『革命』政権」と銘打つ菅直人内閣の批判特集を行い、街頭演説をする菅の写真を無断で使用した[73]。
下村博文元政調会長が関連団体から陳情を受け、自民党の公約に反映させるよう指示を出していた疑いが指摘されている[74]。
2010年、日本統一教会会長の梶栗玄太郎が国際勝共連合会長、世界平和連合会長に就任[75]。
2012年12月26日、梶栗が腎臓癌のため死去[76][77]。梶栗の死に伴い、12月29日、徳野英治が日本統一教会会長に復帰した[78]。
2013年3月25日、国際勝共連合と世界平和連合の「新春のつどい」が都内で開催。あわせて、太田洪量の国際勝共連合会長就任式も行われた[79][80]。
同年6月30日、安倍晋三首相は自民党本部の総裁応接室で、徳野、太田、全国祝福家庭総連合会総会長の宋龍天と面談した[注 5]。面談には、萩生田光一、安倍の実弟の岸信夫、国際勝共連合の幹部2人が同席した[86][87][注 6]。安倍は、4日後に公示を控えた参院選に比例区から立候補する北村経夫の当落予想について徳野、太田らと協議し、徳野に北村の支援を直接依頼した[94][95][96]。7月21日投開票。北村は知名度も低く「当選には程遠い」と言われていたが[81]、自民党が比例代表で獲得した18議席中、15位で初当選した[97]。
2016年1月、二世信者らによって学生組織「国際勝共連合 大学遊説隊UNITE」(現・勝共UNITE)が結成された[98][99]。若者を前面に出す形での憲法改正や新安保法制の賛成を訴える街頭活動を行っている[100]。
2017年、梶栗正義が会長に就任[5]。梶栗は教団の関連団体である「世界平和連合」と「平和大使協議会」と「国際ハイウェイ財団」の会長と「UPFジャパン」(天宙平和連合の日本支部)の議長も兼任している[101][102][103][104]。
2022年4月、魚谷俊輔が国際勝共連合、世界平和連合、それぞれの事務総長に就任[105][6]。なお魚谷は天宙平和連合(UPF-Japan)の事務総長も兼務している[106][107]。
2023年3月、本部を渋谷区宇田川町のワールド宇田川ビルから、千代田区九段南のカーサ九段坂に移転した[3][4][108]。
主張・思想
- 共産主義政党と共産主義の欺瞞と間違いを明らかにすると主張しており、創設直後から共産主義者同盟、共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派など共産主義系の組織に対抗した活動をして来た。大学、労働組合、一般人を対象とした反共講演会を開催した[24]。学生を中心とした遊説隊による街頭宣伝活動も行った[24]。台湾・フィリピン・韓国などと交流し、PL教団青年部など宗教団体に働きかけを行った。
- その主張から世界各国の反共主義・保守派要人と交流を持つ。「新しい憲法を作る国民大会」に賛同的であるなど、日本の「憲法改正」や核武装化を主張する[110]。
- 日米安全保障条約の自動延長の阻止を目的とする闘争が再び盛んになった1960年代後半から1970年代前半までのあいだ、旧統一教会の関連団体と日本の右翼組織や民族派団体は、統一教会の韓民族主義を柱とするカルト教義を棚上げにし、自組織内の布教を阻止していたものの、反共という一致点で頼もしく思い、新左翼や朝鮮総連など共産主義者らに立ち向かう様子から助っ人になると考えていた[111][40]。そのため、日本の右翼組織や民族派団体は統一教会トップと面識ができても関係を「反共」に限っていた。友人知人親族を統一教会に勧誘する動きがあった際に、民族派団体『八千矛社』を率いていた犬塚博英は勝共連合幹部による自組織内の勧誘について、「信者をひとり獲得するために、俺を敵に回していいのか」と牽制することで勧誘行為を止めさせている[40]。
機関紙誌
思想新聞
月2回刊行の新聞。"勝共連合独自の視点からの時局ニュースや主張など左翼運動・日本共産党の抱える政治問題に鋭く切り込む新聞"[112]としている。そのほか、『国際勝共新聞』を発行している[36]
世界思想
月刊誌。安倍晋三は首相在任中、2013年3月号、2013年9月号、2015年2月号、2016年9月号、2017年12月号、2018年6月号の計6回、表紙を飾った[19][20][21]。元々は世界思想出版[注 7]発行の本団体機関誌であったが、平和大使協議会の機関誌だった『平和大使』を吸収。2019年4月から同協議会が発行元になっている