神智学
ヘレナ・ブラヴァツキーによってアメリカ合衆国で成立した宗教 / ウィキペディア フリーな 百科事典
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神智学(しんちがく、英: theosophy) とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神と結びついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである 。神知学、神知論、接神論とも。
神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するものであり、神あるいは超越者が叡智的性格をもち、宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができるとされる 。
グノーシス派、新プラトン主義、インドの神秘思想などにも神智学的傾向がみられる が、狭義には以下の二つのものを指す。一つは、17世紀にヨーロッパで顕在化した近代の「キリスト教神智学」の潮流であり、もう一つは1875年に設立されたインドに本部のある「神智学協会」の思想である 。
後者は近現代に新たに創出された体系であり 、両者には共通点もあるが、系譜上のつながりはない 。通常、神智学と言えばニューエイジ(現在のスピリチュアル)、大衆的オカルティズムの源流である神智学協会に関するものを指すことが多い 。本記事では、神智学協会系の思想を区別する場合は〈神智学〉 と表記する。
神智学と〈神智学〉
神智学は、聖典や啓示の解釈を通じて神や世界の秘密を探ろうとする知的・精神的営為 、存在と自然の神秘に関する秘教哲学の体系、あるいはその神秘についての直接的な知を得ることを目指す探求を指す。本来的な意味での神智学は特に「神の本性」を知ることに重きを置くものを指しており、これに対して、「世界や自然」の秘密を知ろうとする傾向の神智学思想は汎智学(独: Pansophie パンゾフィー)とも呼ばれる 。神智学は秘教の広範な領域の一部であり、個の照明と救済をもたらす隠された知識や智慧に関連すると考えられている。神智家は宇宙の神秘を、そして宇宙と人間と神との結びつきを理解しようとする。神智学が目指すのは「神と人間と世界の起源」を探ることであり、それらを吟味することによって、神智家は宇宙の目的と起源についての首尾一貫した説明を見出そうとする。広義には新プラトン主義、グノーシス派、カバラ、ヨアキム主義も神智学に含まれる 。宗教改革以後では、新プラトン主義の系譜をひく自然神秘主義的な思想を展開し、医療錬金術を探求したパラケルスス、神秘体験から独自の神学を唱えたヤーコプ・ベーメらの著作も神智学の系列に属する 。とりわけ17世紀初頭のヤーコプ・ベーメの諸著作は以後のキリスト教神智学の大きな水源となり 、神智学が隆盛した18世紀から19世紀初めには、エマヌエル・スヴェーデンボリ、マルティネス・ド・パスカリなど多くの神智学的思想家が登場した 。
〈神智学〉は、19世紀にブラヴァツキー夫人ことヘレナ・P・ブラヴァツキーが唱導した心霊主義 、なかでも彼女とヘンリー・スティール・オルコットが創設した神智学協会(Theosophical Society、1875年創設)に端を発する 、古代の忘れられた「叡智」の再発見と「普遍宗教」の確立を目指す運動とその教義を指す 。現代において神智学と言えば、神智学協会の教義を指すことが多い 。ブラヴァツキーはヤーコプ・ベーメにも言及しているが、初期のブラヴァツキー〈神智学〉は古代の新プラトン主義に範を取っており、従来のキリスト教神智学にはあまり目を向けなかった 。黄金の夜明け団の研究家R・A・ギルバートは、ヤーコプ・ベーメに代表される神智学と、神智学協会が広めた〈神智学〉は、全く関係ないと明言している 。〈神智学〉の基礎となる主要著作のひとつは、1888年に出版されたブラヴァツキーの大作『シークレット・ドクトリン』 である 。西洋と東洋の智の融合を目指す〈神智学〉は、のちのアメリカのニューエイジ運動、大衆的オカルティズムの起源となった 。〈神智学〉は、当時は「世界をおおうバニヤン樹」といえるほどの広範な影響力を有し 、現代にも影に陽にその大きな影響は続いている 。神智学協会の諸団体は世界の52以上の国でなおも活動している 。
英語では一般的な意味での神智学的思想家は theosopher (神智家)といい、神智学協会の追従者を指す Theosophist (神智学徒、神智学者)とは区別される 。伝統主義学派の旗手ルネ・ゲノンは、『神智主義 - ある似非宗教の歴史』(1921年)を著して神智学協会を批判し、同協会の教義を「神智主義」(仏: théosophisme テオゾフィスム)と呼んで伝統的な神智学と区別した 。
語源
神智学 (theosophy) という用語は、古代ギリシア語で神を意味する
ブラヴァツキーは、3世紀の古代ギリシアの思想家アンモニオス・サッカスとその弟子たち(オリゲネス、プロティノスなど)が使い始めたと述べている 。この theosophia (神智)という言葉は、古くはポルピュリオスやイアンブリコスの新プラトン主義の著作に現れ 、初期キリスト教の教父たちのギリシア語・ラテン語の著作においても神学の同義語として用いられている 。theosophoi は「神に関することを知る者たち」である 。神智学は神学の同義語として用いられることが多かった 。
「神智学」という言葉は絶え間なくさまざまな意味を付与されてきた 。そのため、神智学という言葉を古代に使われたような意味で用いたり、厳密に語源にもとづいた意味で用いることは、学会においては一般的ではない 。
伝統的・キリスト教的神智学
古代・中世
「神智学」という言葉は、歴史において、絶え間なくさまざまな意味を付与されてきた 。神智学という語は、古くは3世紀には神学の「同義語」として用いられた 。ロバート・グロステストのものとされる13世紀の著作『哲学大全』は、神智家と神学者を区別した。同書では、神智家は聖典のみから霊感を吹きこまれる著者であるとされ、一方、偽ディオニュシニウス・アレオパギタやオリゲネスのような神学者は神智を説明することを務めとする人であるとされた 。
ユダヤ神秘主義においては、カバラ(ヘブライ語で「受け取られた伝承」)の神智学的 教義体系が12世紀後葉の南仏に出現し(バーヒールの書)、13世紀のスペインに広まった(13世紀後葉のゾーハルの書で頂点に達する)。カバラは後世のユダヤ神秘主義の発展の基礎となった。ユダヤ教の神智学的カバラは16世紀のオスマン・トルコ領パレスチナでイツハク・ルリアによって再解釈された(ルリアニック・カバラ)。ルネサンス期以降、折衷的な非ユダヤ的伝統である神学的クリスチャン・カバラと魔術的なヘルメス的カバラは、ユダヤ教の文献を研究し、その体系をかれらのさまざまな哲学に組み込んだ(それは今なお西洋の秘教の中心的な構成要素となっている)。ユダヤ神秘主義の先駆的研究者ゲルショム・ショーレムは、厳密に一神教的に解釈しながらも、中世のカバラとルリアニック・カバラはユダヤ教にグノーシス主義的モチーフを組み込んだものであると考えた 。
16-17世紀
ルネサンス期の間、神智学という用語から、ひとを神や媒介的諸霊の世界に結びつけるものを識ることを通じて個の照明と救済をもたらす霊智的な知識を指す言葉としての用法が生じた 。16世紀のドイツでは、「キリスト教神秘主義」と「秘教的自然哲学」とを架橋するような神智学の潮流が興った。マイスター・エックハルトのようなドイツ神秘主義の伝統とパラケルスス(1493年-1541年)の錬金術的思想を結びつけたヴァレンティン・ヴァイゲル(1533年–1588年)がその代表である 。
『永遠の叡智の円形劇場』(1595年)を著したパラケルスス主義者ハインリヒ・クンラート(1560年-1605年) 、『神聖なる権威の啓示』(1619年)という著作を遺したエギディウス・グートマン(1490年-1584年) も16世紀末のドイツ神智学の重要人物に数えられる。しかしながら神智学という言葉はまだ確立した意味にまで達していなかった。というのもヨハネス・アルボレウスによる16世紀中葉の Theosophia は、長々とした説明を加えながらも秘教については何も触れなかったのである 。
17世紀ドイツのキリスト教神秘家ヤーコプ・ベーメ(1575年-1624年)は、著作のなかで「神智学」という言葉を使うことはめったになかったが、かれの業績はその言葉が広まる大きな要因となった。それはベーメの著作のいくつかの表題によるものであるが 、それらの表題はベーメ自身というよりも編集者らによって選ばれたものと思しい 。
17世紀の神智家は比較的少数であったが、かれらの多くは多作であった 。ドイツ以外では、オランダ、イングランド、フランスにも神智家がいた。その代表的人物はヤン・バプティスト・ファン・ヘルモント(1618年–1699年)、ロバート・フラッド(1574年–1637年)、ジョン・ポーディジ(1608年–1681年)、ジェーン・リード(1623年–1704年)、ヘンリー・モア(1614年–1687年)、ピエール・ポワレ(1646年–1719年)、アントワネット・ブリニョン(1616年–1680年)である 。
この時期の神智家たちは、神秘の完全な理解に向けて、象徴的意味を引出して知識追及を推し進めるために能動的想像を活用し、特定の神話ないし啓示に基づく解釈によって自然を探るという方法を取ることが多かった 。
18世紀
18世紀には、神智学という言葉は一部の哲学者の間で広く使われるようになった。しかし「神智学」という言葉は18世紀全体を通じて辞書や百科事典においてはなおも実質的に不在であり、19世紀の第2四半世紀になってようやく頻出するようになった 。少なくとも19世紀中葉までは、神智家自身が神智学という言葉を使うのは控えめであった 。
ヨーハン・ヤーコプ・ブルッカー(1696年–1770年)の記念碑的著作『哲学の批判的歴史』(1741年)には神智学に関する長い一章が設けられていた。ブルッカーは哲学史における当時の標準的な論及のなかで、秘教における他の潮流と並んで神智家たちを加えた。
ドイツの哲学者たちはこの時期に、ザムエル・リヒター(筆名シンケルス・レナトゥス)の『神智哲学 理論と実践』(1710年)、ゲオルグ・フォン・ヴェリング(筆名ザルヴィクト、1655年-1727年)の『魔術カバラ的・神智学的論文』といったキリスト教神智学の主要な著作群を生み出した 。他にこの時期の著名な神智家には、ヨーハン・ゲオルク・ギヒテル(1638年–1710年)、ゴットフリート・アルノルト(1666年–1714年) 、フリードリヒ・クリストフ・エティンガー(1702年–1782年) 、ウィリアム・ロー(1686年–1761年)、ディオニュシウス・アンドレアス・フレーアー(1649年–1728年)がいる 。
18世紀までに、神智学という言葉はしばしば汎智学と併せて用いられるようになった。ここでの「汎智学」とは、具象宇宙の神聖文字を解読することによって獲得される、神的事物にかんする知識である。この場合の「神智学」という言葉は、より正確には、具象宇宙の内容をつかむために神的なものを観照するという逆転した過程に特化した用語である 。
イングランドでは、メソジストの背景をもつ印刷業者ロバート・ヒンドマーシュがエマヌエル・スヴェーデンボリの著作を翻訳して印刷・配布するために、1783年に「神智学協会」を作った 。この会はスヴェーデンボリ主義にもとづく信仰から成り立っており、1785年に「英国新教会教義普及協会」に改名された 。
フランスではルイ=クロード・ド・サン=マルタン(1743年-1803年)とジャン=フィリップ・デュトワ=マンブリーニ(別名ケレフ・ベン・ナータン、1721年-1793年)が18世紀後葉における神智学の隆盛に寄与した 。他にこの時代の神智学的思想家としてはカール・フォン・エッカルツハウゼン(1752年–1803年)、フリードリヒ=ルドルフ・ザルツマン(1749年–1821年)、ヨーハン・ミヒャエル・ハーン(1758年–1819年)が挙げられる 。
ドゥニ・ディドロはフランス啓蒙期に出版された『百科全書』の編纂者であるが、この事典でかれが執筆した一記事は、同時代の他の百科事典以上に神智学という言葉に注意を払った 。その記事は主としてパラケルススを扱ったもので、ありていに言ってブルッカーの『哲学の批判的歴史』の剽窃であった 。
19世紀
1891年にパピュスの創設したマルティニスト団のような諸団体は、ユダヤ・キリスト・イスラム教の伝統と西洋の秘教に緊密に関連する神智学の潮流に追随した。
ブラヴァツキーと〈神智学〉運動
概説
〈神智学〉は、ロシア出身のヘレナ・P・ブラヴァツキー(通称ブラヴァツキー夫人、1831年 – 1891年)に始まる思想・実践で、現代で神智学と言えば、こちらを指すことが多い 。アメリカ人のヘンリー・スティール・オルコット(通称オルコット大佐、1832年 - 1907年)とブラヴァツキーらが1875年に組織した神智学協会(神智協会)によって広められた。神智学協会は「真理にまさる宗教はない」をスローガンに掲げている 。
ブラヴァツキーによれば、〈神智学〉運動とは、太古より特定の秘儀参入者によって伝承されてきた宇宙と人間の秘密から、時代ごとにふさわしい形式で東西の宗教が発生してきたとされ、その諸宗教の対立を超えて、秘密の重要部分を公開することで、再び古代の根源的な「神的叡智」への回帰を目指そうとするものである 。その〈神智学〉は、「西洋伝統思想」が基礎にあり、西洋と東洋の智の「融合・統一」を意図するものであるとされる 。
自らの組織の名称に「神智学」という名称を選択することで、神智学の伝統に連なろうとしたのではないかという意見もある が、初期会員のチャールズ・サザランがたまたま辞書で目にした用語が団体名に採用されたという説もある 。R・A・ギルバートは、神智学協会が広めた〈神智学〉は独自解釈した仏教・ヒンドゥー教であり、ヤーコプ・ベーメに代表される伝統的な神智学とは全く関係ないと明言している 。
ブラヴァツキー自身は、〈神智学〉は宗教ではなく、「神聖な知識」または「神聖な科学」であると述べている 。社会人類学者の杉本良男は、神智学協会の性格づけはなかなか難しい意味があり、いわば否定的定義として、宗教のようで宗教でない、オカルトのようでオカルトでない、心霊主義のようで心霊主義でない、哲学のようで哲学でない、それらの純粋型としてのまことの「古代の智慧」の探求だということになるのであろうと述べている 。この純粋型は当時すでに失われていたが、インドのヴェーダにその原型をとどめているとされた 。
神智学協会の〈神智学〉運動は、19世紀末を代表する文化運動のひとつであり、その衝撃は、さらに20世紀初頭のモダニズム誕生から、1960年代のカウンターカルチャー、20世紀末に始まるニューエイジと精神世界(現在のスピリチュアル)を理解していく上で、「鍵」となる存在である 。欧米文化の秘教主義、神秘主義、オカルト主義の趨勢が一群となったこの運動を、秘教的音楽史家ジョスリン・ゴドウィンは「神智学的啓蒙」と表現した 。
当時ヨーロッパでは仏教に関心が持たれていた 。外国人の入国が禁じられていたチベットについては、超能力を持つラマなど神秘的な逸話が流布しており 、欧米人は深いあこがれを抱いていた 。ブラヴァツキーらは〈神智学〉を真の仏教、「秘伝仏教」であるとし、彼らが「大師(マスター)」「マハトマ(偉大な魂)」と呼ぶチベットの精神的成就者(アデプト・秘儀参入者)から授けられた秘密の教えであると主張した(哲学者・宗教学者・社会学者のフレデリック・ルノワールは、実際には仏教よりもヒンドゥー教に近いと述べている ) 。
ブラヴァツキーはアメリカで執筆した大著『ヴェールを剥がれたイシス』 ではカバラ 、新プラトン主義 、グノーシス、メスメリズムなど古今東西のさまざまな思想を引き合いに出したが 、活動の場をインドに移してからはヒンドゥー教や仏教の教えを多く取り入れた 。しかしそれらの東洋思想の理解には限界があり、理解可能で利用できる部分だけを摂取して、それから先はカバラや新プラトン主義で補うという方法が取られた 。西洋のインド思想・仏教の理解は誤解に満ちており、理解できない部分を「西洋思想」で補って解釈しているため、「カルマ」や「輪廻転生」などの解釈は引用元のものとは相当に異なる。もしくは、西欧の神秘主義の伝統的な思想を、西欧が植民地支配によって接触できたアジア宗教の用語によって装飾または再解釈したものであり、普遍的なものとしてグローバル化したものであるとも言われる 。神智学協会の研究対象は、古代密儀宗教以降の西洋秘教伝統のすべてであり 、その体系と内容は、インド思想など東西の多くの宗教・哲学の要素を折衷して組み立てられているため極めて複雑である 。
宗教社会学の研究者である樫尾直樹によると、〈神智学〉を要約すると、人智を終局的に規定する神の智の「認識」を、五感を越えた超感覚的な霊性を基礎として探究することを目的としている 。宗教学者の大田俊寛によれば、〈神智学〉とは、不滅とされる霊魂が輪廻転生を繰り返しながら、自らの霊性を進化・向上させ、ついには神的存在にまで至るという「霊性進化論」を目的としている 。
ブラヴァツキーは1877年に第一の主著『ヴェールを剥がれたイシス』を発表し、1888年には第二の主著『シークレット・ドクトリン』を発表した 。前者は、題名から理解されるように、西洋オカルティズムの故地とされるエジプトを志向したものである 。後者は、センザールという古代の神聖言語で書かれた「ジャーンの書」 をブラヴァツキーが翻訳・解説したという体裁を取った本であるが、「ジャーンの書」なるテクストが実在したという証拠はない。インド渡航の成果は〈神智学〉が〈神智学〉となる思想面の転換の契機を与え、『シークレット・ドクトリン』でブラヴァツキーの教えは完全な形で示された 。岩本道人(吉永進一)は、この本は近代〈神智学〉文献で最も重要なものであると述べている 。ただし、通常の理解力では到底把握できない内容・文体であった 。
歴史学者のセオドア・ローザクは、『ヴェールを剥がれたイシス』と『シークレット・ドクトリン』の「そのパノラマはあまりに広く、洞察と偏屈な意見が多すぎて容易な論評を許さない」と述べている 。ほとんどの人が『シークレット・ドクトリン』を理解できず、わかりやすく大要をまとめた『神智学の鍵』が出版された 。深遠さを演出して読者を煙にまく神秘化の手法も用いられ、重厚で難解だったブラヴァツキーの思想が当時の人々にどれほど理解されたかは不明であるが、その思想に含まれる強靱な体系を構築する核となりうる諸要素は、彼女の死後に明確化・具体化されていった (吉村正和は、〈神智学〉において魂の構造や再生について多様な解釈が生まれるのは、ブラヴァツキーがそうした点を明確に説明していないからであると述べている )。
教育学者の岩間浩は、神智学協会は極めてユニバーサルな、国際的、非ドグマ的、平和主義的、精神修養的な性格を持っていたと述べている 。ブラヴァツキーが人種・宗教・身分を超えた神秘主義研究を訴えたこともあり、当時は影響が大きかった 。ヨーロッパ諸国、北米、英国の統治下にあったインドを中心に世界的に普及し、ルドルフ・シュタイナーの人智学など多くの分派や支流を生み出した。神智学協会は、秘教思想、そして仏教やヒンドゥー教の基本的な考えが西洋世界に普及するうえで、深い影響を与えた 。神智学協会自体の活動は1930年代には下火になったが 、その思想は書物などを通じて広範な影響力を今も有しており、近現代の新宗教やニューエイジにもその大きな影響が窺知される 。
ニューエイジの思想や実践の大半は、1875年から1925年の協会の活動にその淵源を見出すことができる 。例えば、20世紀初頭の〈神智学〉の本や雑誌では、ヨーガ、瞑想、占星術、チャクラ、オーラ、水晶、前世、スピリチュアル・ヒーリング、天使と妖精、象徴表現、