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文禄・慶長の役

文禄・慶長の役  

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2015年5月)
文禄の役
 

文禄の役『釜山鎮殉節図』[注 1]。釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。
戦争文禄の役
年月日:文禄元年4月13日1592年5月24日) - 1593年7月
場所朝鮮半島全域、満州豆満江一帯
結果小西行長沈惟敬らの協議によって日本と明の間では休戦成立[注 2][1]。日本軍は南に後退したものの、朝鮮半島に築いた城塞に駐留した。
交戦勢力
豊臣政権
李氏朝鮮

 

 

指導者・指揮官
総大将 宇喜多秀家
一番隊

宗義智小西行長松浦鎮信有馬晴信大村喜前五島純玄

二番隊

加藤清正鍋島直茂相良長毎

三番隊

黒田長政大友吉統

四番隊

毛利勝信(森吉成)島津義弘高橋元種秋月種長伊東祐兵島津忠豊

五番隊

福島正則戸田勝隆長宗我部元親蜂須賀家政生駒親正来島通之(得居通幸)来島通総

六番隊

小早川隆景毛利秀包立花鎮虎(宗茂)高橋統増筑紫広門毛利輝元[注 3]

七番隊[注 4]

宇喜多秀家ほか

八番隊[注 5]

浅野幸長中川秀政宮部長煕ほか

九番隊

豊臣秀勝細川忠興長谷川秀一木村重茲ほか

水軍

九鬼嘉隆藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明亀井茲矩菅達長桑山一晴桑山貞晴堀内氏善杉若氏宗

明軍

兵部尚書石星
兵部左侍郎邢玠
兵部右侍郎宋応昌→顧養謙
防海禦倭総兵官(提督李如松
副総兵(遼東軍)祖承訓参将劉綎

朝鮮軍組織

都体察使
柳成龍李元翼
都元帥
金命元
巡察使
申砬、韓応寅
巡察使
李鎰、金睟、権慄
防禦使
成応吉、趙儆
助防将
洪允寛、劉克良、邊璣、朴宗男
兵馬節度使
李珏、高彦伯、金誠一、曹大坤
水軍節度使
朴泓、元均李舜臣李億祺
僉節制使
鄭撥、尹興信
府尹
尹仁涵、邊応星
都護府使
鄭煕績
牧使
金時敏、金汝岉
都護府使
徐礼元、宋象賢、朴晋
郡守
趙英珏、李彦誠
義兵
郭再祐、高敬命、趙憲

戦力
日本軍
158,700人[1](毛利家文書による通説。総勢は日本軍陣立を参照)
明軍:53,000人[注 6]
朝鮮軍:172,400人
義兵軍:22,400人
計247,800人[注 7]
損害
少なくとも約21,900人以上[2](病死、落伍、負傷帰国、休戦時に病傷者で後に回復する者を含む)

一説に約50000人[注 8](大半が病死・餓死。)

  • 中川秀政が戦闘中以外で討死
*鄭撥(朝鮮)、尹興信(朝鮮)、宋象賢(朝鮮)などが戦死
文禄の役(壬辰倭乱)
慶長の役
 

蔚山籠城図屏風(福岡市博物館所蔵)
戦争慶長の役
年月日1597年1月 - 1598年12月
場所朝鮮半島三南地方
結果:豊臣秀吉死去で日本軍が帰国して終結[3]講和せずに豊臣政権が瓦解したため双方が勝利を主張した。(「柳川一件」も参照)
交戦勢力
豊臣政権

李氏朝鮮
指導者・指揮官
総大将小早川秀秋
一番および二番隊

加藤清正
小西行長宗義智松浦鎮信有馬晴信、大村喜前、五島玄雅

三番隊

黒田長政毛利勝信・勝永、島津忠豊、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、相良長毎

四番隊

鍋島直茂鍋島勝茂

五番隊

島津義弘

六番隊

長宗我部元親藤堂高虎池田秀氏加藤嘉明来島通総中川秀成、菅達長

七番隊

蜂須賀家政、生駒一正、脇坂安治

八番および九番隊

毛利秀元宇喜多秀家

在番衆

ほか

明軍

兵部尚書邢玠(総督
都察院右僉都御史楊鎬→万世徳
提督麻貴
禦倭総兵官劉綎
禦倭総兵官董一元
水帥陳璘
副総兵陳蠶
副総兵鄧子龍
左協軍大将李如梅
朝鮮軍
都元帥権慄
三道水軍統制使李舜臣元均李舜臣
全羅右水使李億祺
義兵大将郭再祐

戦力
141500人[4] (諸説あり)

明軍92100[5]

損害
不明

諸説あり

不明

諸説あり[注 9][注 10](文禄・慶長両役の総計)

慶長の役(丁酉倭乱)

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年[注 11]1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年[注 11]1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。朝鮮征伐とも言う。

なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦[注 12])で表記。( )の年は西暦である。

概要 

日本天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長加藤清正らの侵攻で混乱した首都を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であった[6][注 13]

双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と李朝には傾国の原因となる深刻な財政難を残した。朝鮮側は戦果を補うために捕虜を偽造し、無関係の囚人を日本兵と称して明に献上せざるを得なかった。豊臣家にも武断派文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。

名称 

豊臣政権時から江戸時代後期あたりまでは、この戦役が秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであるということから、「唐入り」や「唐御陣」と呼ばれたり、「高麗陣[注 14]」や「朝鮮陣」などの呼称が用いられていた[7]。秀吉自身は「唐入り」と称し、他の同時代のものとしては「大明へ御道座」[7]という表現もあった。

朝鮮征伐」という表現も歴史的に頻繁に用いられてきた。これはすでに江戸初期の1659年(草稿成立は1644年頃[8])に刊行された堀杏庵(堀正意)『朝鮮征伐記』において見られた。この戦役を征伐とする立場は後述する倭乱の逆バージョンであるが、北条氏直を攻めた小田原征伐島津義久を攻めた九州征伐などでも用いられており、朝鮮だからとことさら卑下して表現したわけではない[注 15]し、韓国では現在でも元寇を「麗蒙の日本征伐」と呼んでいる[9]。堀杏庵は、秀吉は民の苦しみを顧みずに戦役を行ったとして撫民仁政の思想から批判した[8]が、征伐そのものを否定したわけではなく、江戸期の絵本太閤記や明治期のその他の歴史書籍の多くにおいて、朝鮮征伐は単純に秀吉の武勇伝の一つと捉えられていた[7]。これは江戸中期の学者山鹿素行が提唱した朝鮮を日本の属国と定義した史観(中朝事実[注 16]や、江戸後期の日本史研究を主導した水戸学者たちが秀吉が死去しなければ明も日本領になっていたとの考えが影響しており[7]、彼の野望は称賛されこそすれ、批判の対象ではなかったからである。明治初期に起こった征韓論に伴ってこの戦役も「征韓の役」などと呼ばれたこともあったが、これは島津綱久万治年間(1658-60年)に編纂を命じた『征韓録』が先であり、幕末の水戸学者川口長孺なども『征韓偉略』(1831年)を著した。征韓は意味としては朝鮮征伐と同義である。しかし懲罰の意味合いのある「征伐」や「征韓」(または征明)の表現は日本では避けられるようになっている。

朝鮮出兵」の呼称も早くからあり、戦後も昭和期には教科書で広く使われていたが、出兵の表現も次第に避けられるようになっている[注 17]。1960年代の世相を反映して、朝鮮出兵が海外侵略であったということが強く意識された結果、朝鮮社会が受けた被害にもより関心が持たれ、「朝鮮侵略[注 18]が盛んに使われた時期もあり[7]、「大陸侵攻」などの表現も登場した。1980年代になると史学では多角的分析が主流になるが、1990年代になると日韓の文化交流が解禁されて韓国の書籍が翻訳されるなどし、後述の朝鮮での呼称も日本の書籍でみられるようになって、用語は多様化した。近年の日韓関係を反映して、教科書等の記述にはかなり変動があったわけであるが、現在は、第一次出兵を「文禄の役」として第二次出兵を「慶長の役」とし、併せて「文禄・慶長の役」とする呼称で定着している。また略称としては単に、前役、後役とも言う。

中国では「抗倭援朝」または「朝鮮之役(朝鮮役)」と呼ばれるが、後者は朝鮮戦争(または朝鮮での戦役)という意味であり、1950年の同名の戦争やその他の朝鮮での戦争と区別する意味で、中国の当時の元号である万暦を付けて「萬暦朝鮮之役」と称されている[7]。日本で書き言葉に漢文が使われていた影響で「朝鮮役」という呼称も古くは使われたが、これはこの中国語の呼称をそのまま用いたものであった。中国から見て遠征であったという解釈では「萬暦東征」という呼称もある。また「萬暦日本役」という呼称もあったとされるが、戦地を戦役名とするのが慣習であり、現在はあまり使われていない。

朝鮮半島韓国北朝鮮)では李王朝の時代から、この戦役も小中華思想を基にして従来通りに倭乱[注 19]であると定義し、戦乱が起こった時の干支を取って、文禄の役を「壬辰倭乱[注 20]と呼び、慶長の役を「丁酉倭乱[注 21]または「丁酉再乱」[注 22]と呼んだ。現在も韓国ではこの倭乱が用いられており、2つの戦役を一つと見て壬辰倭乱を戦争全体の総称として使う場合もある。また、北朝鮮では「壬辰祖国戦争」[注 23]と言う呼称も用いられる。

近年、三国の自国史を超克することを目的として行われた日韓中共同研究では「壬辰戦争」という呼称が提唱された[6]。韓国の歴史学界でも、倭乱の使用は自国中心史観で不適切として、一部の教科書では2012年から「壬辰戦争」との表記に変わった[10]。ただし韓国では「イムジンウェラン(壬辰倭乱)」が未だに一般的な呼称で、書籍や新聞、テレビ等で広く用いられている。

英語圏では「The War of Bunroku-Keicho[11]」「The Imjin War[11][12]」「Japanese invasion of Korea[13]や「Japan's Korean War[14]」などの名称があるが、これらはそれぞれが既出の日中韓の名称の英訳に相当する。

背景 

日朝関係前史 

隣国である日本と朝鮮半島との間は歴史的に関わりが深く、戦争や侵略の経験も相互に持った。秀吉が生きていた当時からも大部分は認識されており、現在では以下の外交および軍事的出来事が前史として両国に存在していたことが分かっている。

663年に、新羅連合軍と大和朝廷百済連合軍が衝突した白村江の戦いがあり、大和・百済側が敗北した。これ以後、大和朝廷朝鮮半島への直接介入を止めてしまい、(何度か計画は持ち上がったものの)日本側からは数万に及ぶ大規模な出兵は文禄の役まで約千年間も途絶えることになった。しかし一方で交易は断続的に続けられた[9]。他方、812年から906年までの間、小規模な海賊による新羅の入寇が繰り返され、997年から1001年にかけての高麗海賊による入寇があった。1019年には、高麗(及び傘下の女真族)による刀伊の入寇があった。

1224年から5回に渡って、高麗の金州(現中国領)や巨済島などに初めて倭人の海賊が襲来。後に倭寇と呼ばれる海賊の活動が始まった。高麗は大宰府に海賊取締りを要請し、少弐職にあった武藤資頼は大使の目の前で海賊90名を処刑させた[15]。その後、モンゴル軍の侵攻を受けた高麗はに降伏。珍島済州島に逃げた三別抄が1271年に日本に救援を求めるが、無視された。

1274年1281年に元の軍勢(モンゴル人、南宋人、高麗人)が日本の九州北部を侵攻する、いわゆる、元寇があった。北条時宗鎌倉幕府が二度に渡って撃退するわけであるが、対馬壱岐では虐殺や童女童子を掠って奴婢とするなどの蛮行があった。その後、日本は動乱期を迎えて南北朝時代の1350年頃から倭寇(庚寅倭寇)が活発化したという前後関係から、倭寇元寇への報復であった[注 24]という主張が安土桃山や江戸時代に語られていたようだが、倭寇と海賊衆の実態から考えればその指摘は正しくないというのが定説である。むしろ承久の乱で敗者を支持して厳しい立場となった西国武士団が海に活路を求めたのを始まりとし、室町幕府の内紛(観応の擾乱)によっても同様のことが起きて、九州探題今川了俊南朝勢力を降したときにも、さらに船団で海外に脱出する者が増えたと考えられていて[15]、江戸末期の『日本防考略』でも倭寇をして「日本あふれ」と定義していた[19]

倭寇と日朝関係 

倭寇の襲来に怯える高麗では、軍備が荒廃して満足に戦えず[19]倭人(投化倭人)を巨済島や南海県などに住まわせ、時に食料を供給することで鎮撫しようとしたが、倭寇はそこを新たな出撃地としただけで海賊活動は止めず、この政策は完全に失敗した。倭寇は府庫の米だけなく奴婢の獲得を狙うようになり[19]、逃亡した禾尺・才人といった高麗賤民なども倭寇の側に合流した[15][注 25]1375年には家臣団を連れて投降した倭人の藤経光を誘殺しようとして失敗し、逆に激しい報復を受けた。以後、倭寇は暴虐の度をむしろ高めて「倭寇猖獗」と呼ばれる前期倭寇の最盛期を迎えた。1380年には朝鮮で鎮浦大捷と撃退が称賛される倭寇500隻[注 26]の大襲撃があった[15]。高麗は海賊取締を要請したが日本の北朝に無視されたため、1389年対馬に軍を差し向ける康応の外寇を行ったといわれている[注 27]

高麗が滅び李氏朝鮮に代わると、太祖李成桂は日本に禁寇を要求した。1392年南北朝合一を果たして動乱を治めたばかりの足利義満は日本側として初めてこれに応じ、今川了俊倭寇取締が命じられた。了俊はさらに守護大名大内義弘に命じて倭寇鎮圧の功績を上げた。朝鮮側がいう1396年壱岐対馬征伐は日本側に記録がないが、いずれにしても、日朝の取締強化によって前期倭寇は減退の傾向を見せていた。しかし1419年太宗上王世宗応永の外寇(己亥東征)を実施して227隻1万7千余の大軍勢で、壱岐対馬を侵攻した。ちょうどこの頃、明の永楽帝との関係が拗れていた時期で、将軍足利義持は明が朝鮮と連合して攻めてきたのかと驚き、京都では三度目の蒙古襲来という噂が広がって大きな衝撃が広がった[7][19]。幸い、この外寇は宗貞盛の僅かな手勢によって撃退され、台風を恐れて撤退した。結局、これが朝鮮側からの最後の日本侵攻となった[注 28]。前期倭寇は、明の海禁勘合貿易が始まるなどしたことで1444年頃にほぼ終息した。他方、日朝貿易の増加は、通交統制となって、1510年に恒居倭人(朝鮮居留日本人)の反乱である三浦の乱という副産物を生んだ。

後期倭寇は、1511年ポルトガルマラッカを滅ぼして東アジアでの交易を始め、1523年に寧波の乱が起きるなどして、勘合貿易が途絶えて、明王朝海禁政策を逃れた中国人が増える状況で、再び活発化した。歴史学者村井章介らの研究[20]などを基にすれば、16世紀初頭の1501年から1525年頃には、明、李朝、日本、琉球、東南アジア諸国環シナ海地域においては、それまでの勘合貿易などの朝貢形式の明王朝主導の貿易ではなく、海禁政策に反する非合法な中国人倭寇商人の活動や、堺や博多の豪商などを中心にしたネットワークが構築されてシフトしていったという。後期倭寇は禁制を破った中国人や南蛮人なども混在した集団となったことで、襲撃の主な標的は朝鮮半島からもっぱら中国沿岸に移った。

しかし、朝鮮でも1544年に後期倭寇による蛇梁倭変が起こって、通交統制がさらに厳しくなって、日本国王大内氏少弐氏使節以外の日朝通交が禁止された。これに困った宗氏偽使を用いて朝鮮と締結したのが、1547年丁未約条である。この時、対馬宗氏が朝鮮に駿馬を求め、朝鮮が日本に服属している旨を明朝に伝えたとの報告を行った。これに対して李氏朝鮮の司憲府大司憲林百齢は激怒しているが[注 29]、日朝間の立場は明と対馬の宗氏とを介して複雑に絡み合っており、後の文禄の役の原因の一つともなる。(後述

嘉靖帝の時代の武力による海禁政策の厳格な施行で、かえって海外に拠点を持つ後期倭寇の活動は過激化して最盛期となった。王直などの中国人大頭目が率いる倭寇が、五島列島などを根城に活躍したのはこの頃である。1554年6月には済州島で唐人と倭人の同乗する船が朝鮮水軍と衝突する事件が起き、1555年には乙卯の倭変があり、倭冦が明の南京や朝鮮の全羅道を侵した。また1555年には達梁倭変があり、1557年丁巳約条が締結された。後期倭寇ポルトガル人貿易と競合し、明の取締強化と、群雄割拠した戦国大名が勢力圏を広げて日本側の根拠地を追われたことで、衰退。1588年、秀吉の海賊停止令発布によって終息した[注 30]

日明関係前史 

1402年、足利義満は京都北山に明使の返礼を受け入れて、建文帝冊封を受諾した。中国で靖難の変が起こったため、1404年に永楽帝は改めて義満を「日本国王」として冊封して金印を下賜した。以後1547年までの150年間で19回に及ぶ遣明船(勘合船)が出されて、勘合貿易が交わされた。これは実質的には朝貢であったが、10年1貢[注 31]という特異なものであった[22]。義満は冊封儀礼も行っていたとされるが、次の4代将軍足利義持は外交方針を改めて1411年に冊封関係は断絶された。6代将軍足利義教が一時復活させるが、以後も途切れがちで、勘合貿易を独占していた大内氏の滅亡(1551年)によって、日明関係はほぼ断絶した。

中朝関係前史 

モンゴルの高麗侵攻以来、元朝の属領となっていた高麗は、王統がモンゴル貴族化していたが、恭愍王の代になって紅巾の乱で中国が混乱したことで元の統治が弱まり、自立を目指すようになった。王は元の皇后を出した奇氏(奇皇后)の勢力を粛清して独立を図ったが、倭寇と紅巾軍に悩まされて国内外は混乱。成立間もない明の冊封を受けようとしたのが理由で、恭愍王は親元派に暗殺された。高麗は一時的に北元との関係を復活させるが、この内乱を制した武人の李成桂が、1392年に禅譲を受けて主君恭譲王から王位を継ぎ、明の洪武帝から「朝鮮」の国号と権知高麗国事の号を賜って、李氏朝鮮を創始するに至った。一方で、2年後に旧主を含む高麗の王統は皆殺しにされた。

李氏朝鮮でも日本と同様に、1401年に明の建文帝から第3代の太宗が誥命と金印を下賜され、中国で靖難の変があって、1403年永楽帝が改めて太宗を「朝鮮国王」として封じて、正式に冊封体制に入った。しかし朝鮮は、日本よりも交流が密で、年に3回[注 32]朝貢使節を送るという1年3貢[注 31]を行った。これら4節には望闕礼を執り行うこととなっており、朝鮮王と王世子は明制の官服である冕服を着て、王城漢城より明の皇帝に向けて遥拝儀礼を行って、百官と共に万歳三唱した[22]

このように、明の蕃王である朝鮮国王の臣下としての立場は明確であり、後に秀吉が明遠征を先導せよなどと唆したことは全く受け入れられない要求であった。

1591年5月、秀吉の国書を受けた朝鮮(後述)では、宗主国である明に奏聞するべきかどうか議論になった。東人派の間では情勢の不明の内に奏聞するのは混乱させるだけで、波風を立てると否定的で、奏聞の代わりに聖節使に任命した金応南に事情を説明させることにした。ところが明では、すでに4月に琉球を訪れた商人陳申が通報し、それが福建と浙江の巡撫という地方官僚を介して正式な報告として上げられていた。しかも内容は日本が明侵攻を計画し朝鮮がその先導役となるというものであって、明は朝鮮が日本と共謀しているのではないかとの疑念を抱いていた。遼東巡撫に兵を派して国境の警備を固めさせるとともに、朝鮮の情勢を内偵させた。

明は8月に来訪した金応南の説明に満足し、朝鮮節使を慰労して銀2万両を送った。ところが、入れ替わり遼東都司から征明嚮導の真偽を詰問する文書が、同じ頃に朝鮮朝廷に届いて彼らは驚愕した。慌てた朝鮮朝廷では、柳成龍と崔岦が作成した朝鮮国王名義の陳倭情報奏文[23]を韓応寅に持たせて急派した。その間も9月には薩摩の在日明国人の医師許儀俊の「すでに朝鮮は日本に服属して征明嚮導に協力しようとしている」[24]という追いうちとなる報告が明にあり、また琉球王国からも使者が来て奏聞された。鄭迥や蘇八といった帰化中国人の複数の情報筋からも、朝鮮が日本に服属したという内容が明には届けられていた。

1592年正月頃に明の朝廷に陳奏文が提出され、改めて日朝交渉の経緯を詳しく説明したが、朝鮮通信使を日本に送った事実はひた隠しにされ、中国人による通報などは朝鮮に対する誣告であると非難するばかりで、日本の出兵計画を大それたことで虚偽だと片づけていた。このため結果的に明が「征明嚮導」の疑念を払しょくするには至らず、戦役が起こった後も、明の猜疑心は消えなかった。むしろ(朝鮮がないと言っていた)朝鮮出兵が現実のものとなったことで明側の疑念は深まったのであった。遼東の明将らは朝鮮朝廷を難詰し、指揮権の統一にも反対して、朝鮮民衆の日本軍協力を疑い、朝鮮に対しては一定の距離を置いた[24]

朝鮮の内情 

権威の後ろ盾を明に求めた李成桂は、軍師であった鄭道伝の進言により、国内を、仏教を崇めた高麗時代とは一転して、朱子学を国教[注 33]とすることで道徳秩序のある儒教国家として繁栄させようとした。しかし鄭自身が王子の序列争いに巻き込まれて斬首されるなど朝鮮朝廷の動乱は収まらなかった。兄達を蹴落として王位を奪った李芳遠の後を継いだ世宗以後の君主は平和に腐心して儒学思想を極端に信奉するようになったが、かえって人臣の間に家長的名文主義排他主義が蔓延し[25]かつ争いは止まなかった。官人となるためには誰もが儒学を学ばねばならなかったが、書院ごとに儒生は徒党をなして、官人になってからも先輩につき従って政権掌握を目指すようになって、士禍と党争が始まったからである。勲旧派(中央貴族層)と士林派(新興両班層)との争いの次は、士林派から分裂した東人派(改革)と西人派(保守)の争いがあり、東西両派の争い時に文禄の役が始まったが、東人派はさらに南人派と北人派に分裂するなど、戦時下にも関わらず一向に党派争いは収まらず、団結することはなかった[26]。結果としては朝廷の秩序はしばしば乱され、王や后、王子、外戚、中央と地方の両班が、絶え間ない勢力争いに明け暮れて、陰謀や粛清を数世紀に渡って続けたことで、国力は浪費され、人臣には混乱が生じ、国家は衰退をきたした。

このような内紛を繰り返した李氏王朝から民心が離れていた、日本側に協力する民がいたほどであったという内容の記述は、ルイス・フロイスの著作にも見られる。当時の朝鮮王である宣祖李昖)は、儒学の発展と講学には非常に熱心であったが、極端に権威主義的で、しばしば逆鱗に触れて家臣に厳罰を降す気まぐれな王で、政治に飽き、徳がなく、人民に好かれていなかっただけでなく、後の両戦役の章で述べるがいくつもの致命的な判断の誤りを犯した。このため朝鮮の史料においてすら、宣祖実録(25年5月の条)には「人心恨叛し、倭と同心」と認め、宣祖が「賊兵の数、半ばが我が国人というが、然るか」と臣下に尋ねたと記述されており、王都を捨てて逃亡する王には、民事を忘れて後宮を厚くすることを第一として金公諒(寵姫仁嬪金氏の兄)を重用したと非難が集まり、投石する百姓が絶えずに衛兵もこれを止めることができなかったという[27]。また、金誠一の『鶴峯集』にも「倭奴幾ばくもなし、半ばは叛民、極めて寒心すべし」[28]という記述があった。(後述

『壬辰戦乱史』の著者李烱錫は、李氏朝鮮が「分党政治と紀綱の紊乱、社会制度の弊害と道義観の堕落、朝臣の無能と実践力の微弱性、軽武思想と安逸な姑息性、事大思想と他力依存性、国防政策の貧困」などの弱点を露呈していたことが侵略を受ける間接的要因となったと総括する[29]。また後述するが、当時の朝鮮半島の人口は日本の14に過ぎなかったことも留意したい。

原因 

秀吉の唐国平定構想 

豊臣秀吉坐像(狩野随川作)

秀吉は、日本の統一を完成させるよりもかなり前から海外侵攻計画を抱いていた。これは秀吉が仕えた織田信長支那征服構想[注 34]を継ぐものだったと広く信じられているが、実はこの説は根拠に乏しい。信長の夢に従って朝鮮に近い筑前守を請うて拝命したというのも俗説である。『朝鮮通交大紀』に現れる明との貿易を開こうと通交の斡旋を朝鮮に仲介を依頼した者(右武衛殿)を信長であるとするのは人物誤認であって[30]、これを基に信長の遺策を秀吉が受け継いだという説[31]がかつてあったが、それは辻褄が合わない[30]のであり、信長の影響については想像の域を出ない。

天正5年(1577年)10月、信長から播磨征伐を命じられた秀吉が「中国征伐の後は九州を退治し、更には進んで朝鮮を従へ、明を征伐する許可を請うた」という有名な逸話[32][33]は、堀正意が『朝鮮征伐記』に載せて江戸時代から広く信じられており、原典を確認できないので史実とは明言できないが、何らかの由来があった可能性はある。

しかしながら秀吉本人が海外進出の構想を抱いていたことを示す史料は、天正13年(1585年)以降のものに存在し、史学的には1585年が外征計画を抱いた初めであろうとされる[29]関白就任直後の同年9月3日[注 35][34]、子飼いの直臣一柳市介(直盛の兄)の書状で「日本国ことは申すにおよばず、唐国まで仰せつけられ候心に候か」という記述がそれである[35]

天正14年(1586年)3月[35]には、『日本西教史』によると、イエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガル大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言ったという記録がある[36][37]

同年4月、毛利輝元への朱印状14カ条のなかの「高麗御渡海事」という箇所で外征の計画を披露し、6月の対馬宗義調への帰順を促す書状でも九州のことが終わり次第、高麗征伐を決行すると予告した[34][38]。また8月5日の安国寺恵瓊黒田孝高への朱印状でも、九州征伐の後の「唐国」ついても沙汰があったと記述があった[39]

天正15年(1587年)になると登場頻度は増え、話も徐々に具体化した。九州征伐の後、泰平寺相良家家臣で連歌師深水宗方に謁見した際、秀吉は「もはや日本もすでに統一した。この上兵を用いるならば高麗琉球ならん」[39]と述べて和歌を所望。宗方はこれに応えて、「草も木もなびきさみだれの 天のめぐみは高麗百済まで」と詠んで、大いに気に入られたという出来事があった。5月9日、秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において、「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もあることを示している[40]。6月1日付で本願寺顕如に宛てた朱印状の中にも「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している[41]

妙満寺文書(5月29日付)によれば、秀吉は北政所に宛てた手紙で、壱岐対馬に人質を求めて出仕を命じただけでなく、朝鮮に入貢を求めて書状を出したこと、唐国まで手に入れようと思うと述べていた[42]。小早川文書によれば、10月14日付の肥後国人一揆後の佐々成政の処罰について、「唐南蛮国迄も従へんと欲するによって、九州の如きは五畿内同前に平定さねばらぬ」と秀吉が述べた[43]という。

秀吉の唐国平定計画は、長期的に順を追って進められており、しかも日本統一の過程と手段や方法が同一であって、諸国王を諸大名と同列に扱ったことに特色と一貫性があった。明への入朝要求はことごとく無視されたことから、その道中の朝鮮は前段階となった。(後述九州征伐の後に日朝交渉は始まっていて、鶴松の誕生や小田原征伐大仏建立などで中断はあったが、以後はもはや遠征は単なる構想ではなかった。

天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書には「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」との秀吉の大気炎が残されている[44][35]が、それは誇大妄想などではなくて計画があったのである。(関連話

日朝交渉の決裂 

征明嚮導 

天正15年(1587年)5月初旬、薩摩川内に在陣中に(すでに秀吉に帰順していた)宗義調の使者として佐須景満[注 36]と家臣の柳川調信、柚谷康広の3名が来て、秀吉に拝謁を願い出た。彼らは秀吉が前年に予告した朝鮮出兵(高麗征伐)を何とか取り止めてもらい、貢物と人質を出させることでことを済ませることはできないかと請願に来たのである。しかし、九州征伐を成し遂げたばかりの秀吉は、次は琉球、朝鮮だと考えており、聞き入れなかったばかりか、朝鮮国王自らが入朝することを要求し[38]、それが無い場合は征伐するとした[注 37]。そして彼ら宗氏を朝鮮との交渉役に命じて、入朝を斡旋させる任務を与えた。6月7日、帰路の箱崎で宗義調と宗義智の親子に謁見して、直にその旨を重ねて厳命した。このように宗氏に強い態度に出た背景としては、琉球が島津に従属したように、朝鮮も対馬に従属していると秀吉が誤解していたためである[45]ルイス・フロイスも「朝鮮は年毎の貢物として米一万俵を対馬国主に納めていた」と書いていて、このような認識は秀吉に留まらず、当時の一般的なものであったことが分かっている[24]。ところが実際にはこの米というのは朝鮮側から倭寇防止のために下賜される歳賜米のことで、量も僅か100石に過ぎず、対馬・宗氏は朝鮮貿易に経済を依存していて、逆に従属的な立場であり、対外的には嘘を吐いていたに過ぎなかった。前述のように偽使を用いて苦労して朝鮮との関係を修復したところだった。秀吉の難題への対応を苦慮した彼らは形式的にでも双方を満足させねばならず、折衷案がないかと模索した。

9月、宗氏は柚谷康広を日本国王の偽使(橘康広)として渡海させ、秀吉の日本統一を告げたうえで、新国王となった秀吉を祝賀する通信使の派遣を朝鮮側に要請した。これは通信使を朝鮮国王入朝の代わりとして事態を収めようという配慮であったが、朝鮮側は書簡の文言が傲慢であると主張し、朱子学に凝り固まった宣祖も「これまでの国王を廃して新王を立てた日本は簒奪の国であり」[46][注 38]大義を諭して返せと命じた。それを受けた大臣らは「化外の国には礼儀に従って」[46]接する必要はないとして、水路迷昧[注 39]を理由に要請を断った。日本側には記録はない[47]が朝鮮側の記録[注 40]によると、報告を受けた秀吉は激怒し、交渉失敗は裏切りの結果であるとして柚谷康広を一族共々処刑したといわれる[46]

期限を越えても1年間進展なかったので、天正17年(1589年)3月、秀吉は朝鮮国王遅参を責め、入朝の斡旋を再び宗義智[注 41]に命じた。6月、宗義智は博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇を正使として自らは副使となり、家臣の柳川調信や博多豪商島井宗室など25名を連れて朝鮮へ渡った。漢城府で朝鮮国王に拝謁した一行は、重ねて通信使の派遣を要請し、宗義智は自らが水先案内人を務めるとまで申し出た。ところが朝鮮側は先に誠意を見せろと数年前に倭寇が起こした事件を持ち出して、対馬へ逃亡したと疑われる朝鮮人の叛民・沙乙背同(サウルベドン)なる人物の引き渡しを要求した。宗義智はこれに応えてすぐに柳川調信を対馬に帰し、沙乙背同と数名の倭寇を捕縛して連行[注 42]させたので、断る理由がなくなった朝鮮側はついに通信使の派遣に応じた。返礼に宗義智孔雀火縄銃[注 43]を献上した。

聚楽第図屏風』の一部分(三井記念美術館所蔵)
京都の秀吉の政庁であった聚楽第

天正18年(1590年)3月に漢城府を発した通信使は、正使に西人派の黄允吉、副使に東人派の金誠一、書状官許筬(許筠の兄)ほか管楽衆50余名という構成で、4月29日に釜山から対馬に渡って滞在1ヶ月した。このとき金誠一が宴席に駕籠のこと)に乗って後からやってきた宗義智を無礼と怒ったので、謝罪に轎夫を斬首にするという事件があった[48]。京都に到着したのは7月下旬で、大徳寺を宿とした。しかし秀吉は小田原征伐奥州仕置のために9月1日まで不在で、凱旋後もしばらく放置された。

11月7日になってようやく秀吉は聚楽第で引見したが、宗義智とその舅小西行長が共謀して通信使は服属使節であると偽って説明して、秀吉は朝鮮は日本に帰服したものだと思い込んでいたようである[47][49]。それで秀吉は定められた儀礼もほとんど行わずに、国書と贈物(入貢)を受け取っただけで満足し、中座して赤子の鶴松を抱いて再び現れて、使者の前で小便を漏らした我が子を笑い、終始上機嫌だった。対等な国からの祝賀の使節のつもりだった通信使一同は侮辱と受け取り憤慨したが、正使と副使にはそれぞれ銀400両、その他の随員にまでも褒美の品々が分け与えられ、功が労われた。もちろん返答の用意もなく、儀礼に反すると通信使が抗議した後で、僧録西笑承兌が起草し、堺で逗留していた一行に国書が届けられた。

その内容は、秀吉自らは「日輪の子」であるという感生帝説を披露して帝王に相応しい人物であると主張したうえで、大明国を征服して日本の風俗や文化を未来永劫に中国に植え付けるという大抱負を述べ、先駆けて「入朝」した朝鮮を評価して安堵を約する一方で、「征明嚮導」つまり明遠征軍を先導をすることを命じ、応じるならば盟約はより強固になるとするものだった。そして全ては「只ただ佳名を三国に顕さんのみ」と秀吉個人の功名心を誇示してもいた。文章を一読した通信使は属国扱いに驚愕して宗義智と玄蘇に抗議した。玄蘇は秀吉の本意とは異なる嘘の説明で誤魔化していたので、それを信じた金誠一は誤字であると考えた「閣下」「方物」「入朝」の文字の書き換えを要求して食い下がったが、もはや一刻も早く帰還すべきと考えていた黄允吉はそのままで出立した。天正19年(1591年)1月に対馬に到着。2月に朝鮮に帰国し、玄蘇と柳川調信が同行した。

仮途入明 

天正19年(1591年)3月、通信使は朝鮮国王に報告した。しかし、彼らが来日中に朝鮮朝廷では政変があって西人派の鄭澈が失脚[注 44]して東人派の柳成龍が左議政となっていた[50]。黄允吉が「必ず兵禍あらん」と戦争が切迫している事実を警告したが、対抗心をむき出しの金誠一が大げさであると横やりを入れ[注 45]、全否定して口論になった。柳成龍が同じ東人派の金誠一を擁護して彼の意見が正しいことになり、黄允吉の報告は無視された。通信使に同行した軍官黄進はこれを聞いて激怒し、「金誠一斬るべし」といきり立ったが周囲に止められた[51]。人事の変更と若干の警戒の処置は取られたが、対日戦争の準備はほとんど行われなかった。「倭軍」の能力を根拠なく軽視したり、そもそも外寇がないとたかを括る国内世論で、労役を拒否する上奏が出されるほどだった[52]。(朝鮮の軍備を参照

玄蘇と柳川調信[注 46]東平館に滞在中、宣慰使(接待役)呉億齢らは日本の情勢を聞き出そうと宴席を設けた。すると(秀吉ではなく宗氏の意向を汲む)玄蘇は「中国(明)は久しく日本との国交を断ち、朝貢を通じていない。秀吉はこのことに心中で憤辱を抱き、戦争を起こそうとしている。朝鮮がまず(このことを)奏聞して朝貢の道を開いてくれるならば、きっと何事もないだろう。そして、日本六十六州の民もまた、戦争の労苦を免れることができる」[53][54]と主張した。しかし、これは朱子学の正義に合わないため、金誠一は大義に背くと批判し、口論となった。玄蘇は「昔、高麗が元の兵を先導して日本を攻撃した。日本がこの怨みを朝鮮に報いようとするのは当然のことだ」[53][54]と熱くなって反撥したので、朝鮮側はこれに対して何も言い返さなかった[53]。5月、朝鮮朝廷は「日本は朋友の国で、大明は君父である」として仮途入明の要求を拒否し、宗氏が別に要求した斉浦と監浦の開港も拒否した。玄蘇と調信は国書を手に対馬に戻った[55][56][57][58]

同年6月、玄蘇の復命を受けてすぐに宗義智は再び渡海し、釜山の辺将に対して「日本は大明と国交を通じたい。もし朝鮮がこの事を(明に)奏聞してくれるならとても幸いであるが、もしそうしなければ、両国は平和は破られるだろう」と警告を発し、再交渉を要望した。辺将はこれを上奏したが、朝鮮朝廷では先の玄蘇らの言動を咎め、秀吉の国書の傲慢無礼さを憤激していたところだったので、何の返事も与えなかった。義智は10日間待ったが、断念して不満足のまま去った。これ以降、日本との通信は途絶えた。釜山浦の倭館に常時滞在していた日本人もだんだんと帰国し、ほとんど無人となったため、朝鮮ではこのことを不審に思っていた[55][59]。(関連話

朝鮮半島経由の理由 

秀吉が唐国平定計画を目指しながら直接に明に向かわず、その第一歩として当初より朝鮮に圧力をかけ、帰服か軍の通過を許すかの選択を強要しようとした理由の一つとして、日本の航法が江戸時代になってからも「地乗り航法(沿岸航法)」であったことが説明として挙げられる。「山あて」と呼ばれる周囲の景色の重なり具合から自分の位置を知る方法が主流であったため、船団が沿岸を目視できる範囲から離れることは危険で、濫りに大洋を横断することはできなかった。このため日本水軍は、九州北部の肥前名護屋(現唐津市玄海町)などから出航して、壱岐勝本)→対馬南部(厳原)→対馬北部(大浦)→釜山と順次進んで海峡を横断し、朝鮮半島南部沿岸を西回りで北上する必要があったのである[60]。最短ルートから外れた済州島は無視された。

準備 

『朝鮮征伐大評定ノ図』(月岡芳年作)新撰太閤記の一場面

天正19年1月20日、秀吉は(明の)遠征準備を始動した。常陸以西、四国、九州、日本海の海沿い諸国大名に号令を発して、10万石に付き大船2艘を準備するように命じ、港町は家百軒につき10人の水主(かこ)を出すこと、自分の蔵入地筑前・摂津・河内・和泉に集中)には10万石に付き大船3艘、中船5艘を造ること、建設費は半額を奉行より支出し、残額は竣工の上で交付するとした。また水主は2人扶持とし、残される妻子にも給金を与えることを約束し、船頭は給米を与えて厚遇するとした。また船等は摂津、播磨、和泉に翌年までに集合することを命じた[61]。また大船の大きさは長さ18間(33メートル)で幅6間(11メートル)と定められていた。

同年末にかけて軍用軍資金として通貨を大量に生産させた。金貨は花紋があるため太閤花降金と称し、銀貨は花降銀とも石見銀とも呼ばれた。糧米は48万人分が集積され、も相応に準備された。各地の街道や橋の整備修復も命じられた[62]

また朝鮮の地図が作製され、八道を五色で塗り分け、慶尚道を白国、全羅道を赤国、忠清道京畿道を青国、江原道平安道を黄国、咸鏡道を黒国、黄海道を緑国と命名し、諸将に配られた[63]

名護屋城築造 

天正19年8月23日、秀吉が「唐入り」と称する征明遠征の不退転の決意が、改めて諸大名に発表された。宇喜多秀家が真っ先に賛成したといわれ、五大老のうち徳川家康は関東にいて不在であったが、他の大老、奉行は秀吉の怒りを恐れて不承不承の賛意を示した[64][注 47]。このために秀家は、後に秀吉の名代として総大将を任じられることになる。決行は翌年春に予定され、(秀吉は帰順したと考えていた)朝鮮を経由して明国境に向かうというこの遠征のために、国を挙げて出師の準備をさらに急ぐように促された。12月27日には秀吉は関白職を内大臣豊臣秀次に譲って、自らは太閤と称して外征に専心するようになった。

秀吉は遠征軍の宿営地として名護屋城築造を指示した。黒田孝高に縄張りを命じて、浅野長政を総奉行とし、九州の諸大名に普請を分担させた。また壱岐を領する松浦隆信にも、勝本に前哨基地となる風本城の築城を命じた。

名護屋城の建設予定地は、波多氏の領土で、フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した[65]場所であったが、完成した名護屋城には全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記した[66]ほど活況を呈し、唐入りの期間は日本の政治経済の中心となった[66]

最後通牒 

年明けて天正20年(1592年)、すなわち文禄元年正月、総21軍(隊)[67][68]に分けられた約30万よりなる征明軍の編成が始まった。2月に渡海し半島を伝って明に攻め込む予定で、4軍までを先発させることまで決まったが、速い展開に焦った小西行長宗義智がまず朝鮮帰服の様子を確かめるべきだと進言して、計画は急遽、停止を強いられた。これは彼らが朝鮮通信使が来たことだけをもって朝鮮が入朝した(帰服した)と嘘をついてことを進めていたことを、秀吉が度外視して明征服を実行に移そうとしていたので、不安になったためだった。

行長は嘘を取り繕うために帰服した朝鮮が変心したと新たな嘘で説明し、征明軍に道と城を貸すのを拒否していると言ったようである[49]。朝鮮交渉の不首尾に面目を失った行長であるが、責任は朝鮮側に転嫁し、平伏して最後の交渉と相手が従わぬ場合には、自らが先鋒を務めることを願い出た。1月18日、秀吉はそれを許し、両名に3月末までに様子を見極めて復命するように指示。もし朝鮮が従わないのならば、4月1日になったら(まず朝鮮から)「御退治あるべし」と出征開始の号令が出された。これによって征明軍は征韓軍となった。

秀吉が配下の将に伝達した文書に「高麗国の御使」として両名が派遣されたことは確認できるが、1月から3月末までの間、再び玄蘇を派遣した以外は特に行動した様子はなく、行長と義智は朝鮮には赴かなかった。それはすでに無駄であると分かっていたからに他ならない。結局、仮途入明の要求なども平和のためなどではなく、欺瞞を重ねた結果に過ぎなかった[49]

2月27日、京都で秀吉は東国勢の到着を待っていて、徳川家康の手勢が少ないのを怒り不機嫌となったと言うが、これが俗説としても、出陣の延期が続いて人々は不安がっていたようだ。秀吉が吉日である3月1日に出陣の儀をするつもりだったが、眼病を患って延期した。3月13日、「高麗へ罷(まか)り渡る人数の事」の軍令が発表され、日本軍の先駆衆が9隊に再編成される陣立てが新たに示された。ようやく26日早朝、秀吉は御所に参内して後陽成天皇朝鮮出兵を上奏して、京を出立した。この間も第一軍(隊)は3月12日に壱岐から対馬へ移動し、後続も渡海を開始。23日からは第一軍は対馬の北端の豊崎に移動して待機していた。

他方、最後通牒の役目を担った玄蘇は、改めて朝鮮国王が入朝して服属するか、さもなくば朝鮮が征明軍の通過を許可するように協力を交渉していたが、朝鮮側の返事は要領を得なかった[69]。すでに期日が過ぎた4月7日、玄蘇は対馬へ帰還して朝鮮側の拒絶の意志を伝えた[70]

道中、緩々と厳島神社に参拝して、毛利氏の接待を受けていた秀吉の大行列が名護屋城に着陣したのは、すでに戦端が切られた後の4月25日であった。

日本軍陣立 

『九鬼大隅守舩柵之図』, 真ん中の巨船は安宅船日本丸で、九鬼嘉隆の乗艦として前後役で活躍し無事に帰還した。

天正20年3月15日、軍役の動員が命じられ、諸国大名で四国・九州は1万石に付き600人、中国・紀伊は500人、五畿内は400人、近江・尾張・美濃・伊勢の四ヶ国は350人、遠江三河駿河・伊豆までは300人でそれより東は200人、若狭以北・能登は300人、越後・出羽は200人と定めて、12月までに大坂に集結せよと号令された[61]。ただしこれらの軍役の割り当ては一律ではなくて、個別の大名の事情によって減免された。動員された兵数の実数はこの8割程度ともいわれる[71]

主として西日本方面(西海道南海道山陰道山陽道)では全面的に兵が動員されたが、東日本方面(畿内以東)では動員数が減らされた。主として西日本の大名が朝鮮へ出征し、徳川家康などの東日本の大名は肥前名護屋に駐屯した[72]

兵は諸侯の石高の大小に比例して動員されたため、数万人を出す大身者から、数百人を出す小身者まで様々で、これらを組み合わせて一隊が編成され、主としてその中の大身者を指揮者とした。また豊臣譜代の諸侯が外様の諸侯を指揮することとした。加藤清正小西行長らが鍋島直茂宗義智松浦鎮信らを指揮下に置いたのはその例である[73]

全体としては概算で、名護屋滞在が10万、朝鮮出征が16万〜20万となった。ただし、この数字には人夫(輸卒)や水夫(水主)などの非戦闘員(補助員)が含まれていた。非戦闘員の割合は各隊でまちまちで、文禄の役における島津勢では約4割であった[注 48]が、立花勢では約5割で、五島勢では約7割にも及んだ[74]。なお、非戦闘員から兵員に転用されたという記述が後に出てくるため、これらが完全に戦闘に関与しなかったわけではないようである。

当時、日本全国の総石高は約2000万石であり、一万石あたり250人の兵が動員可能とした場合、日本の総兵力は約50万人であった[75]文禄の役で動員された25万〜30万の兵数は、日本の総兵力の約半分程であった。

軍の構成は以下の通りであった。脚注のない数字は主に毛利家文書[76][77][78]と松浦古事記[79]による。実際に出陣したことが分かっている武将の中に表記がないものがある毛利家文書は明らかに省略されており、7番隊以後や名護屋在陣衆(旗本含む)はより詳しい松浦古事記を参考にした。先駆衆の毛利輝元[注 3]までは順次出立したが、宇喜多秀家より後の部隊は戦況に合わせて出陣しており、順番も異なって、隊として行動していたようにも見えない。首都漢城の行政を任された奉行衆や、占領地の統治を命じられ各地に分散した8番隊、あるいは伊達や佐竹など在陣衆からの増援もあった。渡海時期のよく分からない部隊もある。当初は秀吉や家康を含めた全軍が渡海する予定であったが、何かにつけて周囲が出陣を押しとどめたので、実現しなかった。

日本水軍の規模は9千人から1万人ほどであった[80][81][82]陸上部隊の数字の中にも若干の水軍衆が含まれていたと思われるが、それらを含めても水軍の総数は多くとも約1万数千人程度で、その主力は淡路水軍と紀伊水軍であった(来島系以外の村上水軍は小早川・毛利隊の中に含まれる)。

日本軍(征明軍改め征韓軍)
  • 旗本・計27,695人
  • 前備衆・計5,740人[83]
富田左近将監…650人
金森長近金森可重…800人
幡谷大膳大夫…170人
戸田勝成…300人
奥山盛昭…350人
池田長吉…400人
小出吉政…400人
津田信成…500人
上田重安…200人
山崎家盛…800人
稲葉重通…470人
市橋長勝…200人
 
  • 弓鐵砲衆・計1,755人[83]
大島雲八…200人
野村直隆…250人
木下延重…250人
船越景直…175人
伊藤長弘…250人
宮部藤左衛門尉…130人
橋本道一…150人
鈴木孫三郎…100人
生熊長勝…250人
 
羽柴信秀(織田信秀)…300人
長束正家…500人
古田織部正…130人
山崎定勝…250人
蒔田広定…200人
中江直澄…170人
生駒修理亮[注 50]…130人
生駒主殿頭…100人
溝口大炊介…100人
河尻秀長…200人
池田彌右衛門…50人
大塩与一郎[注 51]…120人
木下秀規…150人
松岡右京進(九郎次郎)…100人
有馬豊氏…200人
寺沢広高[注 52]…160人
寺西正勝…400人
福原長堯[注 53]…500人
竹中重門…200人
長谷川守知…270人
矢部定政…100人
川勝秀氏…70人
氏家行継…250人
氏家行広…150人
寺西直次…200人
服部正栄…100人
間島氏勝…200人
 
  • 予備軍
  • 在陣衆・計73,620人[86]
徳川家康…15,000人
豊臣秀保…10,000人
       (15,000人[68]
前田利家前田利長…8,000人
       (10,000人[68]
織田信包…3,000人
結城秀康…1,500人
織田信雄…1,500人
上杉景勝…5,000人
蒲生氏郷…3,000人
佐竹義宣[注 54]…3,000人弱
伊達政宗[注 55]…1,500人
最上義光…500人
森忠政…2,000人
丹羽長重…800人
京極高次…800人
里見義康…150人
堀秀治堀親良…6,000人
          (7,000人[68]
青木一矩…1,000人(1,400人[68]
毛利秀頼…1,000人
木下勝俊…1,500人
村上頼勝…2,000人
溝口秀勝…1,300人
木下利房…500人
水野忠重…1,000人
宇都宮国綱…500人
秋田実季…250人
津軽為信…150人
南部信直…200人
本多康重…100人
那須資晴那須衆)…250人
真田昌幸真田信繁…700人
足利国朝…300人
石川康長…500人
日根野高吉…300人
北条氏盛…200人
仙石秀久…1,000人
木下延俊…250人
伊藤盛景…1,000人
 
  • 出征軍・総計158,800人(総計195,100人[87]または総計205,570人[88]
  • 第一軍「朝鮮国先駈勢」(名護屋より出撃)
  • 一番隊・計18,700人
宗義智(先導役)…5,000人(大石智久ほか)
小西行長先鋒)…7,000人
松浦鎮信…3,000人
有馬晴信…2,000人
大村喜前…1,000人
五島純玄(宇久純玄)…700人(水主を含む)
 
  • 二番隊・計22,800人(計20,800人[88]
加藤清正…10,000人(8,000人[88]
鍋島直茂…12,000人(波多三河守…2,000[注 56]
 
  • 三番隊・計11,000人(計12,000人[88]
黒田長政…5,000人(6,000人[88]
 
  • 四番隊・計14,000人
島津義弘…10,000人(琉球与力)
 
  • 五番隊・計25,100人
福島正則…4,800人(5,000人[88]
戸田勝隆…3,900人(4,000人[88]
長宗我部元親…3,000人
蜂須賀家政…7,200人
生駒親正…5,500人
来島通之(得居通幸)来島通総…700人(水軍)
 
  • 六番隊・計15,700人
筑紫広門…900人
毛利輝元[注 3]…30,000人(吉川広家ほか)
 
  • 第二軍「朝鮮国都表出勢衆」
宇喜多秀家総大将)…10,000人(対馬で待機、軍監黒田孝高など)
  • 奉行衆
増田長盛…1,000人(3,000人[88]
石田三成総奉行)…2,000人
大谷吉継…1,200人
前野長康…2,000人
加藤光泰…1,000人
 
浅野幸長…3,000人
宮部長煕…1,000人(2,000人[68]
南条元清…1,500人
木下重堅(荒木重堅)…850人
垣屋恒総…400人
斎村政広…800人
明石則実…800人
別所吉治…500人
中川秀政…3,000人
稲葉貞通…1,400人
服部春安…800人
一柳可遊(一柳右近)…400人
竹中重利(軍目付)…300人
谷出羽守…450人
石川康勝…350人
 
  • 九番隊・計25,470人
豊臣秀勝 / 織田秀信[注 57]…8,000人   長岡忠興(細川忠興)…3,500人   (壱岐で待機)
長谷川秀一(羽柴藤五郎)…5,000人
木村重茲…3,500人(3,000人[68]
太田一吉(軍目付)…120人(160人[68]
牧村利貞(政吉)…700人(750人[68]
岡本重政…500人
糟屋武則…200人
片桐且元…200人
片桐貞隆…200人
高田豊後守…300人
藤掛三河守…200人
小野木重勝…1,000人
古田兵部少輔…200人
新庄直定…300人
早川長政…250人
森重政(毛利兵橘)…300人
亀井茲矩…1,000人(水軍)
 
  • 軍目付
竹中重利、太田一吉、熊谷直盛
  • 日本水軍
  • 船手衆・計8,750人
九鬼嘉隆船大将)…1,500人(志摩鳥羽)
藤堂高虎…2,000人(紀伊粉河
脇坂安治[注 58]…1,500人(淡路洲本)
加藤嘉明…1,000人(淡路志知)
来島通之・来島通総…既記(伊予来島)
菅平右衛門…250人(淡路岩屋)
桑山小藤太桑山貞晴…1,000人(紀伊和歌山)
堀内氏善…850人(紀伊新宮)
杉若伝三郎…650人(紀伊田辺
 
  • 舟奉行(兵員物資輸送の監督)
  • 高麗(朝鮮)
早川長政、森高政、森重政(あるいは森吉安)、宮城豊盛
一柳可遊、加藤嘉明藤堂高虎
 

動機に関する諸説 

秀吉が明の征服とそれに先立つ朝鮮征伐つまり「唐入り」を行った動機については古くから諸説が語られているが、様々な意見はどれも学者を納得させるには至っておらず[29]、これと断定し難い歴史上の謎の一つである。戦役の本編に入る前に動機に関する諸説について述べる。主なものだけで以下のようなものがある[注 59]

豊臣秀吉の嫡男(次男)であったが、夭折してしまった鶴松(棄丸)(妙心寺所蔵)
『本朝智仁英勇鑑』加藤主計頭清正
『朝鮮戦役海戦図屏風』昭和16年前後/太田天洋(明治17-昭和21)
狩野内膳の『南蛮屏風』
イエズス会員と日本人
鶴松死亡説(鬱憤説)

1591年天正19年)正月、征明の遠征準備を始めさせた秀吉であったが、その直後(日付の上では2日後)に弟である豊臣秀長が病死するという不幸があり、さらに8月には豊臣鶴松の死という大きな悲しみに遭遇した。秀吉は相次ぐ不幸に悲嘆に暮れたが、その極みに至って、却って自らの出陣と明国を隠居の地とする決意を新たにしたと、秀吉の同時代人近衛信尹は『三藐院記』で書いている[89]。征明の決意を公に表明したのは愛息の死の直後であった。林羅山はこれを受けて『豊臣秀吉譜』において「愛児鶴松を喪ったその憂さ晴らしで出兵した」という説を書き[90]、『朝鮮征伐記』など様々な書籍でも取り上げられている。しかし、秀吉の心情としてはそれも当たらずといえども遠からずであったかもしれないが、見てきたように計画はそれ以前からあってすでに実行段階に入っていたのであり、順序から考えればこれを動機とは呼べないのである。東洋史学者池内宏は批判して「後人のこじつけ」であると評した[29]

功名心説(好戦説/征服欲説)

遠征動機を秀吉の功名心とする説の根拠は、秀吉が朝鮮に送った国書に「只ただ佳名を三国に顕さんのみ」と端的にその理由を述べている点にある。このため動機の一つであることは容易に推定できるのであるが、江戸前期の儒学者貝原益軒[注 60]が、欲のために出兵するは“貧兵”であり、驕りに任せた”驕兵”や怒りに任せた“忿兵”でもあって、天道に背いたが故の失敗であったと批判したのを皮切りとして、道義に適わぬことがしばしば問題とされた。道学者の道徳的批判に過ぎないと言えばそれまでだが、功名心に対する価値観は(第二次世界大戦の)戦前と戦後でも劇的変化があり、動機と評価を合わせて考える場合は、英雄主義による賛美が大義なき戦争という批判に変わったことに留意すべきであろう。歴史家徳富蘇峰は秀吉を英雄と賛美しつつも遠征動機を端的に「征服欲の発作」と述べた[91]

動乱外転説

江戸後期の儒学者頼山陽は、国内の動乱を外に転じるための戦役だったという説を唱えて有名だった。明治期の御雇教授マードックも、国内の安定のために諸大名の資源と精力を海外遠征で消費させる方策であったという見解を示した。『日本西教史』の著者ジャン・クラッセの場合は「太閤は日本の不平黨が叛逆すべき方便を悉く除去せんと欲し、その十五萬人を渡海させしめ」船を呼び戻して「軍隊再び日本に帰るを妨げ、飢餓困難に陥り死に就かしめんと欲する」[92]とまで細かく書いている。しかし、この説の矛盾は、秀吉が遠征の失敗を予期したことを前提にしている点である。実際に出征した諸将を見れば、子飼い武将を含む譜代や外様でもより身近な大名が中心で、徳川家康のごとき最も警戒すべき大老は出征しなかった。豊太閤三国処置などから判断すると出征した諸将に大きな報奨・知行を与えるつもりで、逆に秀吉は遠征の成功を信じて疑わなかったのである。池内宏はこれを「机上の空論」と評し[29]、(敗北主義的な頼山陽の説が気に入らない)蘇峰も国内の諸大名に「秀吉に喰って掛るが如き気概はなかった」として「架空の臆説、即ち学者の書斎的管見」と完全否定している[93]

領土拡張説

急成長を遂げてきた豊臣家は、諸将の俸禄とするために次々と新たな領地の獲得を必要としていたという説は、戦国大名としては当然のこととして当初より検証なく受け入れられてきた。功名を立てることと領土獲得はしばしば同じことであるため両説は重複して主張されることがあるが、歴史学者中村栄孝は秀吉は名声不朽に残さんがために「当時わが国に知られていた東洋の諸国をば、打って一国と為すのを終局の希望として、海外経略の計画は進められていた」[94]と大帝国建設が目的だとし、「政権確立のため、支配体制の強化を所領と流通の対外的拡大に求め、東アジア征服による解決を目指していた」[29]とも述べた。また、中村は「その目的も手段も、殆ど海内統一に際して群雄に臨んだ場合と異なることがなかった」[94]と書状等から分析し、諸国王が諸大名と同様に扱われたことを強調。蘇峰も秀吉は朝鮮を異国とは思わず「朝鮮国王は、島津義久同様、入洛し、秀吉の節度に服すべきものと思った」とした[95]。これらの見解は、天下統一の達成が日本列島に限られるという現代の国境概念の枠中で考えることを否定するものでもあった。

勘合貿易説(通商貿易説/海外貿易振興説)

秀吉の戦略は可能な限り平和的手段で降服させるように努めてそれに従わないときにのみ征伐するというものであったが、海外において明との勘合貿易の復興や通商貿易の拡大を目指したときに、朝鮮が明との仲介要請を拒否したことが、朝鮮出兵の理由であったという説は、日本史学田中義成辻善之助、柏原昌三など多くの学者が唱えてきたものである。秀吉の平和的外交を強調する一方、侵略の責任の一端が朝鮮や明にあったことを示唆する主張として、しばしば批判を受けた説であったことも指摘せねばならないが、この説の問題点はむしろ貿易が当初からの目的と考えるには根拠が薄いことである。

歴史学者田保橋潔が「どの文書にも勘合やその他の貿易についての言及はない」[29]と批判したように、肝心の部分は史料ではなく想像を基にしている。蘇峰は「秀吉をあまりにも近世化した見解」ではないかと疑問を呈した[96]。日明交渉において突如登場した勘合貿易の復活の条件が主な論拠となるが、中村栄孝が「明國征服の不可能なるを覚った後、所期の結果とは別に考慮されたものに他ならない」[97]と述べたように当初からの目的だったか疑わしいうえに、秀吉が万暦帝の臣下となることを前提とする「勘合」と「冊封」の意味を秀吉本人が理解していなかったという説[22]もあって、慶長の役の再開理由が単に朝貢勘合貿易)が認められなかっただけでなく、朝鮮半島南部領有(四道割譲)の拒否にもあったのであればこの説は成り立たないと指摘された。ただし、名古屋大学名誉教授三鬼清一郎は領土拡張説と勘合貿易説は二者択一ではないと主張してこれに異議を唱え、対外領土の拡張も対明貿易独占体制の企ての一部であるとした。また歴史学者鈴木良一は、豊臣政権の基盤は弱く商業資本に依存していたと指摘し、商業資本による海外貿易の拡大要求が「唐入り」の背景にあったとした[29]

国内集権化説(際限なき軍役説)

国内の統一や権力集中あるいは構造的矛盾の解決のための外征であったとする説も多数存在するが、豊臣政権の統治体制が未完で終わったために検証できないものが多いのが難点である。

日本史学佐々木潤之介は「全国統一と同時に、集権的封建国家体制建設=武士の階級的整備・確立と、統一的な支配体制の完成に努力しなければならず、統一的支配体制の完成事業は、この大陸侵略の過程で推進した」[29]と指摘。同じく朝尾直弘は、家臣団内部の対立紛争を回避し、それらを統制下におくための論理として「唐国平定」が出てきたとし、惣無事令など日本国内統制政策の際にも「日本の儀はいうに及ばず、唐国までも上意を得られ候」という論法を用いていたことから、大陸を含む統合を視野にいれていたとし[35]朝鮮出兵による軍賦役を利用して身分統制令を課して新しい支配=隷属の関係を設定したと論じた[29]貫井正之教授は「大規模な海外領土の獲得によって、諸大名間の紛争を停止させ、全大名および膨張した家臣団をまるごと統制下に組み込もうとした」と論じ、構造的矛盾を解決する必要不可欠なものであったと主張した[29]

日本史学山口啓二は「自らの権力を維持するうえで諸大名への『際限なき軍役』の賦役が不可避であり、戦争状態を前提とする際限なき軍役が統一戦争終結後、海外に向けられるのも必然的動向である」と主張し、「秀吉の直臣団は少数の一族、子飼いの武将、官僚を除けば、兵農分離によって在地性を喪失した寄せあつめの一旗組が集まって軍隊を構成しており、戦功による恩賞の機会を求めていたので、豊臣氏自体が内側で絶え間なく対外侵略を志向して、麾下の外様大名を統制するために彼らを常に外征に動員し、豊臣氏の麾下に管理しておかなければならなかった」と説明した[29]

国内統一策の延長説

これは統一が軍事的征服過程であるという従来見解を否定する点が特徴の説で、歴史学者藤木久志は、天下統一=平和を目指す秀吉にとって惣無事令こそが全国統合の基調であったとし、海賊禁止令は単に海民の掌握を目指す国内政策だけでなく海の支配権=海の平和令に基づいており、全ての東アジア外交の基礎として位置付けられたとし、「国内統一策つまり惣無事令の拡大を計る日本側におそらく外国意識はなく、また敗戦撤退の後にも、敗北の意識よりはむしろ海を越えた征伐の昂揚を残した」[29]と述べた。対明政策は勘合の復活、すなわち服属要求を伴わない交易政策であるが、朝鮮・台湾・フィリピン・琉球には国内の惣無事令の搬出とでもいうべき服属安堵策を採るなど、外交政策は重層性が存在し、秀吉は「朝鮮に地位保全を前提とした服属儀礼を強制」して従わないため出兵した。結果的に見れば戦役は朝鮮服属のための戦争であるが、それも国内統一策の延長であったと主張した[29]

東アジア新秩序説

下克上で生まれた豊臣政権は、従来の東アジアの秩序を破壊する存在であったとする説。明・中国を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦であったという考えは、戦前においては朝鮮半島の領有を巡って争った日清戦争の前史のように捉えるものであり、明治時代前後に支持を得た。しかし頼山陽の『日本外史』にある秀吉が日本国王冊封されて激怒したという有名な記述は近代以前に流布された典型的な誤解[22]であり、基本的な史実に反する点があった。史料から秀吉自身が足利義満のように望闕礼を行ったと十分に判断でき、史学的には秀吉が意図して冊封体制と崩そうとしたという論拠は存在しないといっていい。

しかし一方で、16世紀と17世紀の東アジアにおける明を中心とする国際交易秩序の解体によって加熱した商業ブームが起き、この時期に周辺地域で交易の利益を基盤に台頭した新興軍事勢力の登場を必然とし、軍事衝突はこの「倭寇的状況」が生み出したと言う岸本美緒教授や、「戦国動乱を勝ちぬいて天下人となった豊臣秀吉が、より大きな自信と自尊意識をもって、国際社会に臨んだのは、当然のなりゆき」[29]という村井章介名誉教授など、秀吉が冊封をどう考えていたかに関係なく、統一国家日本が誕生したこと自体が東アジアの国際情勢に変動を促した要因であったとする東アジア史からの指摘もある。論証も十分ではないという批判[29]もあるが、動機とは異なるものの世界史の中での位置づけという観点からこの説は一定の意味を持つ。

また、ケネス・スオープ米ボールステイト大学準教授(現・南ミシシッピ大学教授)は「日本と朝鮮の間の戦争だとの見方はやめるべきだ」として「明(中国)を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦。これは日本と中国の戦争だ。秀吉軍の侵攻直前に明で内乱が起きたため、明はすぐに兵を送ることができなかったが、朝鮮の要請ではなく、自分の利益のために参戦した」と述べ[注 13]地政学的見地から日中衝突の必然性をもって説明する学者もいた。

キリシタン諸侯排斥説

ルイス・フロイスやジャン・クラッセ、『東方伝道史』のルイス・デ・グスマンなど同時代の宣教師達が主張した説で、「基督(キリスト)信者の勇を恐れ之を滅せんことを謀り、戦闘の用に充て戦死せしめんと欲し、若し支那を掌握せば基督信者を騙して支那に移住せしめん」[98]と秀吉が考えていたという。

戦役がバテレン追放令やキリシタン弾圧と重なり、同じ頃フィリピンやインドに伸ばした秀吉の外交が彼らの目にはキリスト教世界全体に対する攻撃と映っていた可能性はあるが、小西行長を筆頭としてキリシタン大名は排斥されておらず、そのような事実はなかった[99]。動乱外転説に似ているが、排斥対象がキリスト教徒に限定されているところに特色がある。

元寇復讐説

秀吉が元寇の復讐戦として文禄慶長の役を起こしたという説は、辻善之助が「空漠なる説」[29]と一蹴しており、事実とはかけ離れたものである。しかし、特に根拠のない俗説の類であるとしても、朝鮮の書物においても交渉当事者であった景轍玄蘇が言及していたことが記録されており、信じる者は当時からいたようである。

朝鮮属国説(秀吉弁護説)

異端の儒学者山鹿素行が主張したもので、神功皇后の頃より「凡朝鮮は本朝の属国藩屏」なのだから従わぬ朝鮮を征伐して「本朝の武威を異域に赫(かがやか)すこと」は至極当然であるというもの[100]。功名心説(好戦説)が道義的批判を受けた反撥から生まれた儒者的論法だが、動機や原因というよりも単なる称賛であり、しかも朝鮮征伐は本来の目的ではなく秀吉に古代の知識があったかも疑わしいとして、国家主義者の蘇峰すら「恰好たる理屈を当て嵌めたものに過ぎぬ」[101]と評した。