パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス[注 1](ドイツ語: Paul Joseph Goebbels
発音、1897年10月29日 - 1945年5月1日)は、ドイツの政治家。 ナチ党政権下では国民啓蒙・宣伝大臣を務め、ナチズムの喧伝と強制的同一化を推進した。
第一次世界大戦後に政治活動を開始し、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)における左派の中心人物の一人となったが、その後はアドルフ・ヒトラーに接近し、第3代宣伝全国指導者を勤めてナチスのプロパガンダを積極的に広め、ナチ党の勢力拡大に貢献した。第二次世界大戦の敗戦の直前、ヒトラーの遺書によってドイツ国首相に任命されるが、ヒトラーの後を追い、家族を殺害後に自殺した。
生涯
前半生
生い立ち
1897年10月29日、ドイツ帝国プロイセン王国ライン州に属する人口3万人の小都市ライトのオーデンキルヒェナー通り(Odenkirchener Straße)186番地で生まれた[13]。ライトはミュンヘン=グラートバッハ(現在のメンヒェングラートバッハ)と川を挟んで隣り合う双子都市で、主要産業はミュンヘングラートバッハと同じく織物だった[14]。宗教はローマ・カトリックが支配的であり、ゲッベルスの両親も敬虔なカトリックであった[15]。 父のフリードリヒ・ゲッベルス (Friedrich Goebbels) は、貧しい職工の家に生まれ、工場の事務職を経て業務支配人まで出世した人物であった。ゲッベルス家は2階建ての持ち家を有していたが、父の給料は一般の職工とそれほど変わりがなく、家計はどちらかといえば貧しかった[15]。
母のマリア・カタリナ(Maria Katharina, 旧姓オーデンハウゼン (Odenhausen))はオランダ人鍛冶屋の娘でフリードリヒとの結婚前にドイツ国籍を取得した女性であった。ゲッベルスは常に母カタリナを尊敬していたが、彼女が元オランダ人である事実はひた隠しにしていた[16]。
ゲッベルスは夫妻の三男であり、兄にコンラート とハンス、姉にエリーザベト (Elisabeth)、妹にマリア (Maria) がいる[17]。両親は貧しいが敬虔なカトリック教徒であり、ゲッベルスは司祭になるよう望まれていた[18]。
ゲッベルスは、4歳の時に右下腿部に小児麻痺を患い、手術することとなった。そのためゲッベルスの発育は著しく遅れ、左右で足の長さが異なり、歩行がやや不自由な身体障害者となった。ゲッベルスは生涯にわたって整形医療具に萎えた足を包み、それを後ろに引きずるように歩くことを余儀なくされた[19][20]。他の子供らが興じていたダンス・スポーツ・遊びにも少年ゲッベルスは一切参加できなかった[20]。このことは、ゲッベルスの決定的なコンプレックスとなり、彼の人格形成に大きな影響を与えた。後にゲッベルスは自作の小説『ミヒャエル』の中で自らを投影した主人公ミヒャエル・フォーアマンを通じてこの時の心情をこう告白している。「他の少年たちが走ったり、はしゃいだり、飛び跳ねたりするのを見るたび、彼は自分にこんな仕打ちをした神を恨んだ。それから自分と同じではない他の子供たちを憎んだ。さらにこんな不具合者をなおも愛そうとする自分の母を嘲笑した」[20]。
友達と遊ぶことのできないゲッベルスは学校から帰ると屋根裏の自分の部屋に閉じこもって読書ばかりするようになった。特に縮刷廉価版のマイアー百科事典を愛読して、幅広い知識を身につけたという。ゲッベルスの学校の成績は常に優秀であった。父フリードリヒも息子ならば「ドクトル(博士号)」取得は不可能ではないとみて、貧しい家計をやりくりして彼を1908年からギムナジウムへ通わせることにした[21]。肉体的劣等感をばねに、さらに勉学に励んだゲッベルスの成績はギムナジウムでも首位を占めることが多かった。しかし彼は人から好かれるタイプではなく、担任の教師からも嫌われていたので教師の歓心を得ようと同級生の告げ口をすることが多かったという[22]。
1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると学校は愛国心の熱狂に包まれ、多くの学生たちが出征を希望した。ゲッベルスも従軍を希望し、兵員募集に応じて兵役検査を受けたが、担当の軍医は障害者などまともに相手にせず、一瞥しただけで検査にかける事も無く兵役不適格者と認定した。その日ゲッベルスは部屋で夜通し泣きじゃくったという[23]。多くの同級生が出征していくなか、ゲッベルスはギムナジウムに取り残されて勉学を続けることとなった。兄二人は出征し、西部戦線で戦った。兄ハンスは1916年にフランス軍の捕虜となっている[24]。
1917年にギムナジウムを卒業し、大学進学資格を得た。卒業成績はラテン語、国語、宗教が「優」であった。ギリシア語、フランス語、歴史、地理、数学、物理もそれに次ぐ「良」であった[25]。
大学時代
ギムナジウムを出た後、親の仕送りや家庭教師のアルバイトでやりくりして耐乏生活を送りながらボン大学に在学し、歴史と文学を専攻したが、まもなく生活困難になり、1917年9月にはカトリックの慈善団体アルベルトゥス・マグヌス協会に奨学金の貸与を申請し、許可されている。この際にゲッベルスは面接官の神父から「君は神を信じていないな」と言われたという逸話があるが、その逸話には根拠はないとされている[26]。しかし後に反カトリックとなったゲッベルスはこの時の奨学金を長く返済しようとしなかった。1930年に協会は当時国会議員になっていた彼を相手取って訴訟を起こして取り戻している[27]。
ボン大学では歴史と文学を中心に学び、特にゲーテの劇作を熱心に研究した。当時のドイツでは二つか三つの大学を転々として勉学するのが通例だったが、彼は他の学生より多めに大学を転々としている。1918年夏にはフライブルク大学へ移り、授業料を免除されて古代ギリシャやローマの影響を研究する考古学者・古典芸術研究家ヴィンケルマンの研究にあたった。さらに冬にはヴュルツブルク大学へ移って古代史と近代史を学んだ[28]。
この時期に起きた第一次世界大戦の敗戦やドイツ革命による混乱については、1918年11月13日に友人フリッツ・プラング(Fritz Prang)に宛てた手紙で次のように書いた。「君もまた野蛮な大衆の声よりも知識人階級の指導が要望される時が再びやってくると思わないか。我々はそういう時が一刻も早く訪れることを待望しようじゃないか。そしてその日に備えて我々の知識を辛抱強く鍛えようではないか。現下のような祖国の暗黒時代に生きることは全く辛いことだ。しかしこの辛さに耐えて生き抜くことが後日、我々に大きな利益をもたらさないと誰が言えよう。なるほどドイツは戦争に負けた。だがしかし我らの愛する祖国が、いつの日か勝利者の地位にとって代わることがないと誰が言えよう」[29]
1919年夏には再びフライブルク大学へ戻ったが、この頃からカトリックへの信仰心が薄れたとみられ、カトリック学生同盟から離れている。また1919年冬にはミュンヘン大学に移るが、ますますカトリック教会との関係を断ちたがるようになり、奨学金を受けた生徒の義務だった協会への勉学報告書の提出も怠るようになった。敬虔な父からも心配され、迷いを捨ててひたすら神へ祈りをささげるよう求める手紙を送られている[30]。
1920年にハイデルベルク大学へ移り、歴史、言語学、美術、文学を学んだ[31]。また1921年春から4か月かけて博士論文『劇作家としてのウィルヘルム・フォン・シュッツ。ロマン派戯曲史への寄与(Wilhelm von Schütz als Dramatiker. Ein Beitrag zur Geschichte des Dramas der Romantischen Schule)』を執筆し、これにより1922年4月21日にハイデルベルク大学より博士号(Dr. phil.)を授与された[32]。この学位授与はゲッベルスの知識人としてのプライドを大いに満足させた[33]。なおこの論文は美学的関心が主であり、政治的傾向はほとんど見受けられないが、ゲッベルスは宣伝大臣となった後、自分が学生時代から政治に関心を持っていたかのように糊塗するために論文のタイトルを『初期ロマンチシズムの精神的、政治的傾向』に改めさせている[34]。
大学時代には左翼的な思想を持っていたと見られる。フライブルク大学在学中にリヒャルト・フリスゲス(Richard Flisges)という共産主義者の復員兵と知り合った関係で彼からマルクスやエンゲルスの著作、ヴィルヘルム2世とドイツ軍国主義を批判するラーテナウの著作、ロシアびいきのフリスゲスが好きなドストエフスキーの著作などを借りて読むようになり、それらから思想的影響を受けた。反戦とワイマール憲法支持を唱えるリベラル紙『ベルリナー・ターゲブラット』の熱心な読者にもなり、同紙に50通も投稿を行っているが、投稿が紙面に採用してもらえたことはなかった[35]。
また大学在学中のゲッベルスにはまだ反ユダヤ主義的傾向は少なく、ハイデルベルク大学で教えを受けたフリードリヒ・グンドルフ教授はユダヤ人であり、博士論文の執筆指導教員マックス・フォン・ヴァルトベルク男爵も片親がユダヤ人の半ユダヤ人だった[36]。また、ナチ党で地位を得るまでは半ユダヤ人のエルゼ・ヤンケ (Else Janke) という女性と恋愛関係にあった[37]。1919年に友人に宛てて送った手紙の中にも「きみも知っての通り、僕はこの行き過ぎた反ユダヤ主義者たちが嫌いではないかもしれない。確かにユダヤ人は、僕の特別な友人だとは言えないけれども、罵倒や非難、さらに迫害によってユダヤ人を始末してはいけないと思う。たとえそのやり方が許されるとしても、それは高潔ではないし、人間性に悖る」と書かれている[38]。
知識人のプライドと失業と反ユダヤ主義
1922年に博士号を取得し大学を離れたが、職が見つからず、一時ライトの両親の家に戻ることとなった。その後、ドレスナー銀行のケルン支店にようやく仕事を見つけたが、不況によりわずか9か月で解雇されている。この銀行に勤務していた頃に1923年の大インフレを経験しており、ドイツ経済の惨状を目の当たりにした。ゲッベルス自身もますます貧困に苦しむこととなった。彼は反資本主義の思想を持つようになり、これが高じて反ユダヤ主義の思想を徐々に芽生えさせた。資本主義経済を牛耳る「国際金融ユダヤ人」に対して「生存のための戦い」を挑む以外に「より良い世界」への道は開けないというユダヤ陰謀論を唱え始めるようになった[37]。
家族への恥ずかしさのあまり、リストラ後もしばらくケルンへ通うふりをしている。しかしやがて路頭に迷って家族に失業を打ち明けるしかなくなった[39]。失業中は少年時代の頃のように再び部屋にこもりがちになった。家族からは「貧しい家計をやりくりして勉強させてやったのに」と白眼視された[40]。
彼は、新聞社のジャーナリストか放送局の文芸部員に再就職しようとしたが、いずれの会社からも採用を拒否された。この時、彼の採用を拒否した会社の中にはユダヤ系企業もあった。彼の目には知識人である自分に生活の糧を与えようとしないこの世界は「ユダヤ化されている」と映り、ユダヤ人への憎しみを強めることとなった[39]。
恋人のエルゼもこの時期からゲッベルスの反ユダヤ主義の高まりを感じるようになった。ゲッベルスは彼女に「ユダヤ人がドイツの文学を支配しているので、せっかく骨を折って書き上げた傑作も突き返される」「ユダヤ人でなければ、文壇にも、劇壇にも、映画界にも、ジャーナリズムの世界にも入れないようになっている」といった愚痴をよく聞かせるようになったという[41]。
ゲッベルスの日記には次のような焦燥が書かれている。「この居候生活の惨めなこと。僕にはふさわしくないこんな生活をどうしたら終わらせることができるのか。それを考えると頭が痛い。何一つ成功してくれない。いや成功することが許されないのだ。贔屓と経歴だけが物を言うこの世界で数のうちに入れてもらうためには、自分の意見とか、信念を主張する勇気とか、個性とか、性格と言われる物を真っ先に全部捨てなければならないのだから。僕はまだ何者でもない。大いなるゼロだ。」[39]
政治活動開始
ゲッベルスが政治家としての第一歩を踏み出したのは1924年のことであった。友人フリッツ・プラングに誘われて様々な社会主義者あるいは国家社会主義者の政治集会に参加し、演説などをするようになったのである[42]。
こうした活動の中の1924年8月、小右翼政党ドイツ民族自由党所属のプロイセン州議会議員フリードリヒ・ヴィーガースハウスの知遇を得て、ヴィーガースハウスがエルバーフェルトで発行していた新聞『民族的自由 (Völkische Freiheit)』の編集員の地位を月収100マルクの給料で手に入れた。しばしばドイツ民族自由党のための演説にも駆り出された[43]。さらに同年10月4日には同紙の編集長を任せられている[44]。
しかしブルジョワ保守的なヴィーガースハウスやドイツ民族自由党と社会主義的な思想を持つゲッベルスとでは反りが合わなかった。また『民族的自由』紙は小規模すぎて、社会への影響力が皆無であったし、ゲッベルスの見るところでは支持者も頭が鈍いのが多いので、彼らに向けて演説したり、物を書いたりするのが億劫になっていった。家族への手紙の中でゲッベルスは「どさ回りの一座にいる名優のような気分だ」という愚痴をこぼしている[45]。
ゲッベルスは1924年末頃から国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のカール・カウフマンと親密になり、ナチ党で働かせてもらえないか頼み込むようになった[46]。逆にヴィーガースハウスとは疎遠になり、1925年1月に『民族的自由』編集長職から解雇された[47]。ゲッベルスは1925年1月17日号をもって『民族的自由』紙を廃刊した[48]。
国家社会主義ドイツ労働者党闘争時代
ナチス左派
その後カウフマンの口利きでナチ党幹部オットー・シュトラッサーの面接を受ける機会を得た。面接で「なぜ我が党に移りたいのか」と問うたオットーに対して、ゲッベルスは「ドイツ民族自由党は未来がないと思います。なぜなら党指導部が民衆について全くの無知だからです。党指導部は社会主義を恐れています。しかし私の信ずるところでは一種の社会主義と国家主義を統合した思想こそがドイツを救うのです。貴方のお兄さんグレゴールさんは社会主義の理念と国家主義の情熱を統合していらっしゃる。われら国家社会主義者が奉じねばならぬのはまさにグレゴールさんの思想です。」と述べた。オットーはゲッベルスの演説力に感心し(特にゲッベルスの美しい声に惹かれたという)、党の大きな力になると考え、彼の採用を決定した[49]。
1925年2月22日に非公式ながら入党した(正式な入党は1926年3月22日で党員番号は8762。後に特別な党員番号22が与えられた)[50]。
1925年3月にエルバーフェルトにナチ党の「ラインラント北部大管区」を設立させることに携わったゲッベルスは、カウフマンやエーリヒ・コッホ、ヴィクトール・ルッツェなどとともに同大管区の役員に選ばれた。大管区指導者はカウフマンであり、ゲッベルスは書記局長だった。またこのポストは北部および西部のナチ党指導者グレゴール・シュトラッサーの秘書を兼務するものであった。給料は200マルクでヴィーガースハウスの下にいた頃の2倍になった[51][52]。
ゲッベルスは、数々の演説をこなして急速に頭角を現し、シュトラッサー兄弟に次ぐ北西ナチ党のリーダーの座を確立していった。シュトラッサー兄弟とともに南部ミュンヘンの党本部への敵対行動を強めた。党首アドルフ・ヒトラーの指導体制は一応認めつつもユリウス・シュトライヒャーやヘルマン・エッサーら「ミュンヘンのごろつき」をヒトラーの側近から排除することを主張し、西部や北部の社会主義的・左派的な方針でもってナチ党全体を運営させようと画策した。ゲッベルスはミュンヘンの党本部からシュトラッサー兄弟に次ぐ「党内左翼偏向勢力」(ナチス左派)の領袖と見なされていくこととなった。1925年8月21日付けのゲッベルスの日記には「ヒトラーを倒してグレゴールに党の主導権を握らせるべきだ」とまで書かれている[53]。
1925年9月10日には北西ドイツの大管区指導者たちを集めて「北西ドイツ大管区活動協同体(Arbeitsgemeinschaft der nord- und nordwestdeutschen Gaue der NSDAP)」(略称NSAG)の創設に携わった[54]。グレゴールが指導者、ゲッベルスが事務局長(geschäftsführer)に就任した。これはヒトラーのミュンヘン党本部(特に党宣伝部長のエッサー)へ対抗するものであった[55]。しかしこれは北西ドイツ大管区の緩やかな統合組織でしかなく、当初より不統一と内部対立が露呈した。その内部対立の中でもゲッベルスはオットーとともに極端な社会主義的路線をとり、「まず社会主義的救済。それから嵐のような国民の解放がやってくる」と主張した[56]。対する南部ドイツの大管区はミュンヘン党中央のヒトラーの下に中央集権で強固に固まっていた。北西ナチスが南部ナチスの権力に常に及ばなかったのはこうした状況のためだった[57]。
1925年10月にグレゴールが発行していた機関紙『国家社会主義通信(Nationalsozialistische Briefe)』の編集を任せられている[58]。同紙でのゲッベルスの言論は国家主義よりも社会主義にアクセントを置く物が多かった[59]。例えばソビエト連邦との同盟を盛んに唱えたり、インドや中国を「反抗的な持たざる国」と定義してこれらの国とのイデオロギー的連帯を訴えた[59]。
この頃のゲッベルスはソ連について次のような好意的評価をしていた。「ソヴィエト体制はボルシェヴィストだとか、マルキストだとか、インターナショナルだとかでは長続きしない。それはナショナルだから、ロシア的だから存続しているのだ。ロシア皇帝はかつてロシア人民の情熱と本能をその深みで捕らえたことはなかった。レーニン、彼はそれを成し遂げた」「ロシアが目覚めたなら全世界は一国家が引き起こす奇跡を目のあたりに見ることになるだろう」[59]。ただしその一方で「共産主義は真の社会主義のグロテスクな歪曲にすぎない。我々が、我々だけがドイツにおける真正の、いやヨーロッパで唯一の社会主義者になりうるのだ」とも論じている[60]。
ヒトラーとの出会い
ミュンヘン党本部と対立を深めながらもゲッベルスはヒトラーとの面会・和解も願っており、1925年10月12日付けの日記には「僕は一度ミュンヘンへ行かねばならない。一度二時間だけでもヒトラーと二人きりで話せれば、すべて氷解するはずだろうに。」と書いている。そして実際に1925年11月4日にミュンヘンを訪れ、ヒトラーと初めての会見を行った。ゲッベルスは初対面でヒトラーに魅了され、11月6日の日記にはこう書いている[61][62][63]。
ヒトラーもシュトラッサー兄弟を味方にできる見込みがない以上、北部や西部のナチ党を掌握するためにはゲッベルスを味方につけることが重要と認識していた。そのためヒトラーは彼に大変気をかけていた。1925年のクリスマスにヒトラーは「模範的な貴方の闘いに」という賛辞とともに『我が闘争』をゲッベルスに贈っているほどである[64]。
しかしヒトラーとの出会いによってゲッベルスのナチス左派的傾向がただちに減少したわけではなく、彼はこの後も引き続きシュトラッサー兄弟と親密な関係を保ち、またその思想は相変わらず社会主義的な色彩を強く見せる国家主義だった。この時期にゲッベルスによって書かれた『国家社会主義者入門』にはこのような問答が載っている[65]。
<問>国家的という概念と社会主義的という概念は矛盾し合わないか?
<答>否、逆だ!本当に国家主義的な人間は社会主義的に考える。そして本当の社会主義者は国家主義者だ!
<問>何故労働者党か?
<答>実直に仕事をするドイツ人はいずれも、ドイツの労働者だからだ!
反ヒトラー派に
シュトラッサー兄弟は国家社会主義理論の強化を目指しており、党綱領を改正して詳述化することを考えていた。その新綱領案はシュトラッサー兄弟やゲッベルス、カウフマンらによって練られ、1925年12月末に完成された。これはあくまで現行党綱領を詳述化した物であって綱領の根本原理を修正した物ではなかったが、ヒトラーは党首である自分に相談もなく北西ナチスが勝手に新綱領案を作ったことに激怒した。またヒトラーが考えるところでは党綱領は融通自在に解釈できるよう簡潔・抽象的でなければならず、綱領の詳述化は運動の戦術の自由を縛ってしまうものに他ならなかった[66]。
グレゴールは、この新綱領案への承認を求めるために翌1926年1月25日にハノーファーにおいて北西ナチスの大管区指導者たちを招集した(ハノーファー会議)。この会議にヒトラーは出席せず、ゴットフリート・フェーダーを代理で送っている。ヒトラー本人が出席しなかったこともあって、会議は終始グレゴール優位に進んだ。フェーダーは「ヒトラーも私もこの綱領案を認めるつもりはない」と主張したものの彼とロベルト・ライを除く全員が綱領案に賛成した[67]。
また会議では共産党が提案していた皇室財産没収法案に賛成すべきか否かも議題となった。この件をめぐってはヒトラーが反対したが、ナチス左派を代表するグレゴールは没収に賛成した。ゲッベルスも没収賛成の立場から演説した[68]。フェーダーは「この法案はユダヤ人のペテンであるとヒトラーは主張している」と訴えたものの、野次り倒された。そこへゲッベルスが立ち上がってミュンヘン党指導部を批判するとともに「プチブル主義者アドルフ・ヒトラーは党から追放すべきである」と提案したと伝わる[67]。一方ヒトラー追放動議を出したのはゲッベルスではなくベルンハルト・ルストとする説もある[68]。いずれにしてもヒトラー追放動議はグレゴールが「党内秩序を乱すもの」「行き過ぎた意見」として却下している[69]。
続く2月14日に今度はヒトラーが自分の影響力が強いバンベルクで反撃の会議を招集した(バンベルク会議)。グレゴールとゲッベルスも出席を命じられた[69]。ここでヒトラーは「皇室財産没収を主張する者は銀行や取引所に巣くっているユダヤ人の財産は没収しようとしない嘘吐きである」と断じたうえで「旧諸侯には彼らの権利に属さない物は何一つ渡してはならない。だが、旧諸侯に属する物を不当に奪うこともまた許されない。党は私有財産制と正義を擁護するからだ」と論じた。さらに新綱領案についても一条ずつ批判を加えていき、最後には「(現行党綱領は)我々の信仰、我々の世界観の創立証書である。これに揺さぶりをかけることは、我々の理念を信じて死んでいった人々に対する裏切りを意味する」と結んだ[70]。
ヒトラーがブルジョワとの融和を重視し、国家社会主義から保守主義に転じたと感じたゲッベルスは、すっかりヒトラーに幻滅して、2月15日の日記でヒトラーを罵っている。「ヒトラーの演説は二時間。僕はへとへとになった。何というやつだ。反動なのか?全く始末に負えないぐらぐらした奴だ。ロシア問題は全くの的外れ。イタリアとイギリスは我々の宿命的な盟邦であるだって?ひどい。我々の課題はボルシェヴィズムの粉砕であるだって?ボルシェヴィズムはユダヤ人のこしらえ物であるだって?皇族への補償。法は法である。私有財産制の問題には触れない。ひどい!綱領はこれで結構だ!フェーダーがうなずく。ライがうなずく。シュトライヒャーがうなずく。『こんな連中の中に自分がいるのは心が痛む。』(ゲーテの"ファウスト"からの言葉)短い討論。シュトラッサーが発言する。途切れがちに震えながら不手際に。善良で正直なシュトラッサー…。ああ、我々は向こう側のあの豚どもになんと力及ばざることか。僕には一言も発しえなかった。まるで頭を打ちのめされたようだ」[71][72]、「僕の人生で最大の失望のひとつだ。僕はもうヒトラーの全幅の期待は持てない。恐ろしいことだ。頼るものがなくなるということは。疲れ果てた。」[73][74]。
ヒトラーの懐柔
しかしゲッベルスの才能を買っていたヒトラーは、この会議後、ゲッベルスが自分から離れぬよう気をかけた。1926年3月終わりにはヒトラーから電信を受けて4月8日にミュンヘンのビュルガーブロイケラーの集会で演説することになった。ゲッベルスはこの時のミュンヘン訪問について日記にこう書いている。「ヒトラーから電話があった。挨拶したいということだった。カフェから電話する。15分で彼はここに着く。背が高くて健康的で、闘志満々のヒトラー。僕は彼が好きだ。バンベルクのことがあったので、彼の親切はどうも面映い。彼は午後のため自分の車を回してくれる。」「車でビュルガーブロイへ。ヒトラーはすでに来ている。心臓が破れんばかりに高鳴る。ホールに入る。歓声で迎えられる。超満員。シュトライヒャーが口火を切る。それから僕は二時間半しゃべりにしゃべった。聴衆、狂乱、絶叫。終わるとヒトラーが僕を抱きしめてきた。彼の眼には涙が光っていた。とても熱いものが込み上げてきた。」(1926年4月13日付け)[75][76]。「昨日ヒトラーと会う。すぐ食事に誘われた。彼は若い魅力的な女性を連れていた。楽しい夜。僕は車で一人で帰らねばならなかった。今朝10時、ヒトラーに誘われる。僕は花を持っていった。とても喜んでくれる。それから二時間、東西の問題を討議する。彼の議論には感嘆せずにはいられないが、ヒトラーはロシア問題を十分に理解しているとは思えない。僕もいくつかの点を考え直さねばならない。」(1926年4月16日付け)[77][78]。
ヒトラーは巧妙にゲッベルスの心を支配していった。ゲッベルスの中でヒトラーの存在が大きくなるにつれてゲッベルスは急進的な社会主義思想を修正するようになり、ヒトラーの保守主義に理解を示すようになった。またゲッベルスはミュンヘンでの歓待ぶりに比べてエルバーフェルトでは自分はまったく尊重されていないとも感じるようになっていた。ゲッベルスの日記にはこのように記述してある。「ここ(エルバーフェルト)では誰も僕を気にしない。まるで僕が何も仕事をしていないかのようだ。」「シュトラッサーの所へ行く。彼は僕がミュンヘンと妥協しかけているんじゃないかと疑っている。そんなばかばかしい考えは捨ててしまえと言っておいた。」(6月10日付)[79]。「管区全体がカウフマンの怠慢のために腐りきっている。どうしてこのような暴徒の集団がドイツを解放できるのか。僕の唯一の望みはヒトラーが僕をこのヤクザ集団から救い出し、ミュンヘンへ連れて行ってくれることだ。」(6月12日付)[80][81]
ベルリン大管区指導者
その後、すっかりシュトラッサー兄弟やカウフマンと疎遠になったゲッベルスは、ヒトラーからミュンヘンへ招集される日を心待ちにしていた。しかし1926年10月末、ヒトラーがゲッベルスに下した辞令は「ベルリン=ブランデンブルク大管区指導者」であった(なおグレゴールにはこの際に「宣伝全国指導者」の職が与えられた)。当時のベルリンは「赤いベルリン」と揶揄されるほど共産主義者や革命主義者が多かった。ベルリンのナチ党員はわずか1000人に過ぎず、しかも北部はシュトラッサー兄弟の本拠であったのでナチ党員にも革命主義者が多かった。でありながらシュトラッサー兄弟も大管区指導者エルンスト・シュランゲもベルリンのナチ党をまとめきれず、ベルリン突撃隊指導者クルト・ダリューゲや既に離党したはずのハインツ・ハウエンシュタインなどが独自に指揮権を行使しているような混沌とした状況だった[82]。ヒトラーとしては社会主義的傾向の強いゲッベルスを置くことでベルリンの革命志向の党員たちを納得させ、一つにまとめさせることを期待したとみられる[83]。ベルリン行きはナチ党内では貧乏くじと見られていたが、ゲッベルスは引き受けることにした。ベルリン着任後、ヒトラーの全権委任と自らの権力を盾に喧嘩ばかりしているベルリン・ナチ党員の間に割って入り、統率権を押し通した[84]。
ゲッベルスは赴任当時のベルリンの党組織の惨状について後の著書『ベルリンの戦い』(1932年)の中でこう書いている。「当時ベルリンで党と称していた物は、全くそう呼ぶに値しなかった。それは何百人かの国家社会主義的な考え方をしている人間がただ入り乱れてとぐろを巻いている集まりで、その一人一人が国家社会主義について、自己流で私的な意見を持っていた。そしてその意見というのは、普通国家社会主義ということで理解されている物とはほとんど関わりがなかった。各グループでの殴り合いは日常茶飯事だった。ありがたいことに世間はそれに注意は払わなかった。運動自体が数から言って問題にもならなかったからである。こんな党に行動力はない。政治闘争への投入は不可能だった。統一的な形を与え、共同の意志を吹き込んで、新しい、熱い衝動を与えねばならなかった。」[85]
ゲッベルスは不良党員の追放から開始し、ベルリンの1000人の党員のうち400人を追放した。ベルリン大管区の赤字財政を立て直すために残った党員たちに毎月3マルクの負担金を課した(失業中の者はその半額)。自らの演説会も有料にした。大管区指導者事務所もポツダム街の地下室からリュッツォー街のアパートの二階へ移し、政党の事務所らしく変えた[86][87]。
ゲッベルスは党の宣伝ポスターのデザインに気を使った。当時は予算の問題から黒字ばかりの味気ないポスターが多かったが、ゲッベルスは借金をしてでも印刷屋に刺激的なポスターを作成させた。そのためナチ党ポスターはベルリンの人々の人目を引くようになった。またゲッベルスは政治ポスターに大きな赤い文字の見出しでぎょっとするような訳の分からぬ文句を書く手法を好んだ[88]。
アメリカ皇帝 ベルリンにて演説す。
気になった通行人は次々と立ち止まって続きを読んだ。これの内容はドーズ案とヤング案をアメリカ資本主義の産物であると攻撃する物で、さらに何日のどこの集会でヨーゼフ・ゲッベルス博士が演説する旨の広告が付けられていた[88]。また他人から浴びせられる罵倒さえもうまく利用した。ある新聞が「ナチは山賊」と批判してこの言葉が広まるとゲッベルスは自ら「山賊首領ヨーゼフ・ゲッベルス」などという刺激的な肩書をポスターに付けて人々の関心を集めた[89]。
殴り合いはニュースになりやすいことから突撃隊とドイツ共産党の戦闘部隊赤色戦線戦士同盟の殴り合いも積極的に行わせ、負傷した突撃隊員を積極的に宣伝の材料にした。1927年2月には共産党が党大会の会場として使っていたファールス会場を借りてナチ党の党集会を行うという挑発行為を行い、これに激怒した共産党が赤色戦線戦士同盟に殴りこみを行わせたことで「ファールス会場の戦い」と呼ばれる大乱闘に発展している[89][90]。一方で共産党もヴァイマル憲法による議会制民主主義体制を「ブルジョワ共和政」として敵視している党だったので、ヴァイマル共和国官憲に対する闘争ではしばしば共闘することがあった。そのためゲッベルスは、共産党に「血をわけた赤いごろつきども」という愛憎相半ばした感情を持っていた[91]。
ナチ党を取り締まろうとする警察には強い批判を加え、特にユダヤ人のベルリン副警視総監ベルンハルト・ヴァイスを徹底的に攻撃した。彼をユダヤ人名である「イジドール」の名前で呼び、この名前がベルリン市民に広まってヴァイスは「イジドール・ヴァイス」と巷で呼ばれるようになり、ナチ党員以外の市民からも多くの場でからかいのネタにされた[90][92][93]。
警察とナチ党の対立は深刻化し、1927年5月5日、警察から大ベルリン地区におけるナチ党の党活動が禁止された[94]。以降ゲッベルスは党集会をピクニックやハイキングなどと偽装して開催することを余儀なくされた。次いで警察はゲッベルスはじめナチ党幹部(国会議員は除くとされた)個人の公の場での演説もプロイセン州全域において禁止した。この強烈な弾圧についてゲッベルスは著書『ベルリンの戦い』の中でこう書いている。「僕としては公開の場で演説を禁止されたことが一番こたえた。当時の僕は演説すること以外に党の同志との接触手段をもたなかったからだ。口で話す言葉は常に文字に印刷した言葉より重要である。特にその頃の我々の印刷設備はお粗末なもので、言論を十分に印刷して流すことはできなかった。」。ゲッベルスは国会議員のナチ党員が演説中に客席から立ちあがって発言を行うといった偽装で演説をしようとしたが、警察にばれて告発されて罰金を課されている[92]。
1927年7月4日に『デア・アングリフ』紙を発刊して、紙面における言論活動に転じた[95]。『フェルキッシャー・ベオバハター』紙はじめ他のナチ党新聞と同じく反ユダヤ主義と反共主義を基調としたが、他のナチ党新聞と比べると資本家攻撃が多いのが特徴的でゲッベルスのナチス左派の性向が見受けられる[96]。1927年10月29日、ゲッベルスの誕生日にあわせて警察は事前許可を取るという条件付きで彼に演説することを許可した[97][98]。
国会議員に当選
ゲッベルスは1928年5月の国会選挙にナチ党の候補として出馬することになった。しかし依然として党の急進派には反議会主義の立場から国会選挙に参加することに反対する者が多かったので、ゲッベルスは選挙参加は日和見主義に走ったことを意味しない旨を訴えて党員の説得にあたった[99]。それが4月30日付けの『デア・アングリフ』に掲載されたゲッベルスの抱負だった。「我々が国会に入るのは、民主主義の兵器庫の中で民主主義自身の武器を我らの物とするためである。我々が国会議員になるのは、ヴァイマル的な物の考え方を、その考え方そのものの助けで麻痺させるためである。(中略)我々は友人として乗り込むのでも中立者としてやって来るわけでもない。我々は敵として乗り込むのだ。羊の群れが狼に襲い掛かるように我々は乗り込むのだ。」[100]。
ナチ党はこの選挙で70万票を得、12議席を獲得した。ゲッベルスは当選者の一人であった(他にナチ党からはヘルマン・ゲーリング、グレゴール・シュトラッサー、ヴィルヘルム・フリック、フランツ・フォン・エップ、ゴットフリート・フェーダー等が当選)[101]。当選後の5月21日にゲッベルスは『デア・アングリフ』で次のように語った。「私は国会議員ではない。私はIDI(国会議員不可侵権)とIDF(無料乗車権)の所有者にすぎない。IDIの所有者とは、この民主的共和政府の下にあっても、時には真実を語ることを許されている人間のことである。彼は頭で考えたことをそのまま口に出して言うことを許されている点で他の人間と異なる。彼は糞の山は糞の山と正直に言い、それを遠回しに政府などとは呼ばない。」[102]「たとえば『シュトレーゼマン氏(時の首相)がフリーメイソンであり、あるユダヤ人夫人と結婚しているというのは事実に合致しているでしょうか』という質問ができる」[97]「これはほんの序の口にすぎない。これから我々がどんな面白いショーをお見せするか、大いにご期待を請う。ショーは始まったばかりだ」[103]
しかしこの選挙は全体としては中道政党や保守・右翼政党が伸び悩んで左翼政党の大勝に終わった。オットー・シュトラッサーは「『国家社会主義の救済使命』が大衆的反響を見出さなかった。とりわけプロレタリア層への浸透が図られなかった」と嘆いた[104]。一方ヒトラーは中道政党が軒並み没落し、社民党や共産党のような左翼政党が議席を伸ばしたことは労働者層が現体制に不満を持っている表れと見て前向きに評価した[105]。
ゲッベルスも今回の選挙で左翼に投票した労働者層をナチ党に取り込むことができるか否かが今後の鍵であると心得、1928年夏中、労働者層向けの訴えかけを盛んに行った。「資本主義国の労働者はもはや生きた人間でも、独創者でも、創造者でもない。彼は機械に変えられてしまっている。一つの数字であり、良識も目的も持たない工場内のロボットである」「国家社会主義のみが彼に尊厳をもたらし、彼の生活を有意義なものにする」こうした左翼と見間違うような論文を次々と『デア・アングリフ』に掲載していった[106]。
党宣伝全国指導者
1929年1月9日には第3代宣伝全国指導者(ナチ党宣伝部長、初代はグレゴール・シュトラッサー、二代はヒトラーの兼務)となり、党の最高指導部に列した[107][108]。
ゲッベルスは宣伝・運動の面においては左翼政党の方がはるかに優れているとの認識に立ち、彼らのやり方を手本とすることをためらわなかった。シュプレヒコール、楽隊行進、職場での宣伝活動、街頭細胞システム、大衆示威行為、戸別訪問などを左翼政党から引き出し、これらをヒトラーがミュンヘンで確立した運動スタイルと和合させた。敵から限りなく学んで吸収するスタイルはかつての保守派には見られない国家社会主義独自のスタイルといえた[109]。
1929年6月にはドイツの新しい賠償支払い方式ヤング案が成立した。ゲッベルスはヤング案を激しく批判し、『デア・アングリフ』で次のように宣言した。「君ら(政府)が何に署名しようと、我々としてはそれに拘束されるつもりはない」「我々は厳かに手を挙げる。汚れなき手を、歴史の前に。そして誓う。この手が屈辱的条約を破る日まで、我々は決して気を緩めはしないと」[110]。
ヤング案についてはナチ党の他にも保守政党ドイツ国家人民党や退役軍人組織鉄兜団などが強く反発していた。ヒトラーと国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルクの会談が行われ、その結果、ナチ党・国家人民党・鉄兜団の三者は反ヤング案・反政府で共闘することとなった[107]。ゲッベルスはそれまでフーゲンベルクのことを「反動の手合」と呼んで攻撃を繰り返してきたが、ヒトラーのこの決定に対して異議は唱えなかった。フーゲンベルクは無数のメディアを支配する大実業家であるため、ゲッベルスとしても一時的に相乗りするのは悪くないと考えていた。とはいえ保守政党と組むのはゲッベルスの性に合わないところでもあり、彼は『デア・アングリフ』で次のように念を押している。「我が党と同じ手段をとっている他の政党があるが、それらは世界観から見て我々とは深淵で隔てられているのであって、手段を同じくするからと言ってゴールまで同じではない」[110]。
いずれにしてもこの連携のおかげでゲッベルスはフーゲンベルクから巨額の資金と彼の支配するメディア群の提供を受けることができた。ゲッベルスはそれを使って大々的なヤング案反対運動を行ってナチ党の存在を世に知らしめた。ヤング案をめぐる国民投票は1929年12月22日に行われたが、ヤング案反対票はわずかに580万票だった(可決には2000万票が必要)。だがゲッベルスにとってそれはどうでもよかった。これが負け戦なのは百も承知であり、大事なのはこれによって普通なら数百万マルクはかかるであろうナチ党の宣伝をただで行うことができたことだった[111