開けて悔しき玉手箱のブログ

浮世の世間で ある日 玉手箱を 開けてしまった........。 気づくと そこは......。

本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。皇室の菩提寺(皇室香華院)として御寺(みてら)と呼ばれている。楊貴妃観音堂(本尊・楊貴妃観音)は洛陽三十三所観音霊場第20番札所。

泉涌寺  

 

泉涌寺
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仏殿(重要文化財
所在地 京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
位置 北緯34度58分41秒 東経135度46分49.2秒
山号 東山(とうざん)
泉山(せんざん)
宗派 真言宗泉涌寺派
寺格 総本山
本尊 釈迦如来
阿弥陀如来
弥勒如来
創建年 伝・斉衡3年(856年
開山 伝・神修
開基 伝・藤原緒嗣
別称 御寺
札所等 洛陽三十三所観音霊場第20番
真言宗十八本山第8番
京都十三仏霊場第6番
泉山七福神巡り番外
神仏霊場巡拝の道第121番(京都第41番)
文化財 泉涌寺勧縁疏、附法状(国宝
仏殿、大門、開山堂ほか(重要文化財
公式サイト 御寺 泉涌寺
法人番号 2130005002225 ウィキデータを編集
泉涌寺の位置(京都市内)
 
泉涌寺
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泉涌寺(せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派総本山寺院山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊釈迦如来阿弥陀如来弥勒如来の三世仏。皇室菩提寺(皇室香華院)として御寺(みてら)と呼ばれている。楊貴妃観音堂(本尊・楊貴妃観音)は洛陽三十三所観音霊場第20番札所。

平安時代弘法大師空海が草創したと伝わるが、実質的な開山は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)で、天台東密浄土の四宗兼学の道場として再興した[1]東山の一峰である月輪山の麓に広がる寺域内には、鎌倉時代後堀河天皇四条天皇、および江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇に至る天皇陵があり、霊明殿には歴代の天皇皇后皇族の尊牌(位牌)が奉安されている。

 

歴史 

仁和寺大覚寺などと共に皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。なお、『続日本後紀』によれば藤原緒嗣承和10年(843年)に没しているので、上述の伝承を信じるとすれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されたということになる。

別の伝承は開創者を空海とする。すなわち、空海天長年間(824年 - 834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855年藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。空海による草創年代を大同2年(807年)とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺泉涌寺山内にあり、西国三十三所音霊場の第15番札所)となったともいう。以上の伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したものと思われる。

月輪大師俊芿

鎌倉時代建保6年(1218年)、宇都宮信房が荒廃していた仙遊寺俊芿に寄進、俊芿は多くの人々の寄付を得てこの地に大伽藍を造営し、嘉禄2年(1226年)に主要伽藍を完成させた。その際に霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという(旧寺号の「仙遊寺」と音が通ずる点に注意)。宇都宮信房は源頼朝の家臣で、豊前守護に任じられた人物であり、俊芿に帰依していた。俊芿(1166年 - 1227年)は肥後国出身の学僧で、正治元年(1199年に渡り、足かけ13年の滞在で天台を学び、建暦元年(1211年)日本へ帰国した。彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍は全て宋風に造られた。

泉涌寺は律(北京律)を中心として天台、東密真言宗)、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えた。

後鳥羽上皇土御門上皇順徳上皇後高倉院の他、北条政子北条泰時も俊芿の下で受戒するなどその勢いは強まり、貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ、仁治3年(1242年)正月には四条天皇の葬儀を行うまでになっている。こうした関係から後堀河天皇四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれた。

この頃から皇室との結び付きがより強まっていき、遂には南北朝時代から安土桃山時代までの歴代天皇の葬儀を一手に行うまでになっている。

応仁2年(1468年)には応仁の乱の兵火を受けて全山焼失してしまうが、間もなく復興された。天正13年(1585年)には豊臣秀吉に寺領494石を認められる。次いで、元和元年(1615年)には徳川家康により寺領601余石が認められた。

江戸時代に入ってからは皇室との関係はより密接となり、後水尾天皇から孝明天皇に至る歴代天皇皇后の葬儀を一貫して執り行ったほか、その陵墓も全て境内にあり、「月輪陵(つきのわのみさぎ)」、「後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)」、「後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)」として築かれて祀られている。月輪陵と後月輪陵には合計で25の陵と9つの墓があり[2]後月輪東山陵孝明天皇陵である[3]

泉涌寺はこれらの皇室の陵墓や尊牌に対して香をたき、花を供える香華院となり、「御寺(みてら)」と尊称されている。明治政府神仏判然令により、陵墓は全て宮内省諸陵寮(現・宮内庁書陵部)の管理下に置かれることとなり、以後は天皇・皇后の葬儀を行うこともなくなったが、明治天皇勅旨により、堂宇の営繕修理は、全て宮内省において実施され、日常の経費も御尊牌奉護料として下賜されていた[4]。戦後、政教分離の原則を定めた日本国憲法施行により、国費を支出することができなくなったことから、1966年昭和41年)に三笠宮崇仁親王を初代総裁とする「御寺泉涌寺を護る会」が有志により設立され[5]、現在は秋篠宮文仁親王が総裁を務めている[6]。また、天皇・皇后が京都に行幸啓する折りには、参拝するのが恒例となっているほか[7]、先帝四代の祥月命日には、天皇の代理として、宮内庁京都事務所の職員が代拝している[8]

 

伽藍 

総門を入ると、参道の左右にいくつかの塔頭(山内寺院)がある。長い参道の先にある大門をくぐると、左手に楊貴妃観音堂があり、正面には伽藍の中心をなす仏殿、舎利殿が建ち、これらの背後に霊明殿、御座所など皇室ゆかりの建築があり、その背後に月輪陵がある。

御座所庭園
霊明殿

月輪陵 

歴代天皇、皇族の陵墓群。皇室財産として宮内庁が管理している。開山堂へ向かうスロープの途中から全景が一望できる。月輪陵は「月輪陵」と「後月輪陵」からなっている。これらの陵に祀られている歴代天皇・皇族の25陵・5灰塚・9墓は以下の通り。

月輪陵。歴代天皇らの25陵、5灰塚、9墓が営まれている

別院・塔頭 

毎年1月の第2月曜日(成人の日)には、泉涌寺塔頭を巡り、福笹に縁起物を付けていく「泉山七福神巡り」の行事が行なわれている。

  • 総門
    総門
 

楊貴妃観音 

重要文化財楊貴妃の風貌をモデルに作られた観音菩薩坐像という伝承があり、楊貴妃観音堂に安置される。建長7年(1255年)俊芿の弟子湛海が仏舎利と共に南宋から請来したものとされる。

長らく100年に一度だけ公開する秘仏であったが、請来から700年目の1955年昭和30年)から一般公開されている。作風、材質など、明らかに日本の仏像とは異質で、寺伝どおり南宋時代の作と考えられている。

なお、舎利殿に安置される木造韋駄天立像と木造伝・月蓋長者(がつがいちょうじゃ)立像も南宋時代の作であり、楊貴妃観音菩薩坐像と共に1997年(平成9年)、重要文化財に指定されている。

 

文化財 

国宝 

  • 泉涌寺勧縁疏(かんえんそ) - 俊芿筆。俊芿が、荒廃した前身寺院を「泉涌寺」と改名して再興するため、人々の喜捨(寄付)を募るための趣意書。泉涌寺建立の起源にかかわる歴史上重要な文書であると共に、書道作品としても優れている。
  • 附法状 - 俊芿が死の前月、弟子の心海に自らの法を嗣いだ証明として書き与えたもの。

重要文化財 

京都府指定有形文化財 

  • 水屋形
  • 開山俊荷律師像
 

歌碑 

境内には『枕草子』の作者である清少納言の父・清原元輔の旧居で、清少納言が晩年を過ごしたとされる月輪山荘にほど近い場所として、1974年(昭和49年)に平安博物館館長・角田文衞の発案で百人一首に採られた「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」の歌碑が建立されている。

 

解脱会との関係 

泉涌寺は、新宗教教団である解脱会とのつながりが強い。解脱会創始者岡野聖憲諡号・解脱金剛)は、敗戦により維持・運営に困難をきたしていた同寺に対する援助を行った。聖憲は死後、同寺境内に埋葬されることを希望し、1954年(昭和29年)、聖憲の遺骨を祀る「解脱金剛宝塔」が境内に建立された。聖憲の命日にあたる11月4日には、「解脱金剛御年祭」が行われるほか、毎月4日に聖憲に対する法要が執り行われている。解脱会泉涌寺を、伊勢神宮橿原神宮と並ぶ三聖地と定め、聖地巡拝として毎年1,000人ほどが参列している[10][11]

 

前後の札所 

洛陽三十三所観音霊場
19 泉涌寺塔頭今熊野観音寺 - 20 泉涌寺 - 21 法性寺
真言宗十八本山
智積院 - 8 泉涌寺 - 9 教王護国寺
京都十三仏霊場
大善寺 - 6 泉涌寺 - 7 平等寺
泉山七福神巡り
5 泉涌寺別院雲龍院 - 番外 泉涌寺本坊 - 6 泉涌寺塔頭悲田院
神仏霊場巡拝の道
120 智積院 - 121 泉涌寺 - 122 泉涌寺塔頭今熊野観音寺
 

アクセス 

 

周辺 

 

脚注 

  1. ^ 泉涌寺”. コトバンク2021年1月18日閲覧。
  2. ^ 【悠久の天皇陵】(36)光格天皇/幕末期 天皇の権威が向上『産経新聞』朝刊2018年12月4日(社会面)。
  3. ^ 孝明天皇 後月輪東山陵宮内庁ホームページ(2019年4月14日閲覧)。
  4. ^ 御寺 泉涌寺を護る会”. 泉涌寺公式HP2021年1月18日閲覧。
  5. ^ 御寺泉涌寺を護る会”. 御寺泉涌寺を護る会 公式ホームページ. 御寺泉涌寺を護る会. 2021年2月11日閲覧。
  6. ^ “秋篠宮さま立皇嗣の礼、泉涌寺で慶祝法要”中外日報 (中外日報社). (2020年11月11日) 2021年1月19日閲覧。
  7. ^ 知られざる皇室ー伝統行事から宮内庁の仕事まで. 株式会社河出書房新社. (2010年1月30日)
  8. ^ 尾藤克之 (2019年3月27日). “「新元号」の真の意味とは? 天皇の菩提寺・御寺泉涌寺に聞いた”. オトナンサー. メディア・ヴァーグ. 2021年2月5日閲覧。
  9. ^ 泉涌寺史 本文編. 法蔵館. (1984年)
  10. ^ 井上順孝世界宗教百科事典』丸善出版(2012年12月) P426
  11. ^ 解脱金剛御年祭”. 解脱会]. 2016年6月5日閲覧。
 

参考文献 

 

関連項目 

 

外部リンク 

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