岸田文雄
岸田 文雄
きしだ ふみお
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内閣広報室より公表された肖像
(2021年撮影) |
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生年月日 | 1957年7月29日(65歳) |
出生地 |
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出身校 | 早稲田大学法学部卒業 |
前職 | 日本長期信用銀行従業員 衆議院議員岸田文武秘書 |
所属政党 | 自由民主党(宏池会) |
称号 | 法学士(早稲田大学・1982年) |
配偶者 | 岸田裕子 |
親族 | 祖父・岸田正記(元衆議院議員) 父・岸田文武(元衆議院議員) 弟・岸田武雄(実業家) 従兄弟・宮澤洋一(参議院議員、元経済産業大臣) |
サイン | |
公式サイト | 岸田文雄ホームページ |
内閣 | 第1次岸田内閣 第2次岸田内閣 第2次岸田改造内閣 |
在任期間 | 2021年10月4日 - 現職 |
天皇 | 今上天皇(徳仁) |
内閣 | 第1次岸田内閣 |
在任期間 | 2021年11月4日 - 2021年11月10日(総理兼任) |
内閣 | 第3次安倍第2次改造内閣 |
在任期間 | 2017年7月28日 - 2017年8月3日 |
内閣 | 第2次安倍内閣 第2次安倍改造内閣 第3次安倍内閣 第3次安倍第1次改造内閣 第3次安倍第2次改造内閣 |
在任期間 | 2012年12月26日 - 2017年8月3日 |
内閣 | 第1次安倍改造内閣 福田康夫内閣 |
在任期間 | 2007年8月27日 - 2008年8月2日 |
その他の職歴
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(第1次安倍改造内閣) (2007年8月27日 - 2007年9月26日) |
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(旧広島1区→) 広島1区 当選回数 10回 (1993年7月18日 - 現職) |
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(2021年9月29日 - 現職) |
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(総裁: 安倍晋三) (2017年8月3日 - 2020年9月16日) |
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(総裁: 谷垣禎一) (2011年9月30日 - 2012年9月28日) |
岸田 文雄(きしだ ふみお、1957年〈昭和32年〉7月29日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(10期)、内閣総理大臣(第100代・第101代)、自由民主党総裁(第27代)、宏池会(岸田派)会長(第9代)。
内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、再チャレンジ、科学技術政策)、消費者行政推進担当大臣、宇宙開発担当大臣、外務大臣(第143代・第144代・第150代)、防衛大臣(第16代)、自由民主党国会対策委員長(第52代)、自由民主党政務調査会長(第58代)、自由民主党広島県支部連合会会長を歴任した[1]。
中小企業庁長官・衆議院議員を歴任した岸田文武は父[2]。戦前戦後に衆議院議員を歴任した岸田正記は祖父[3]。実業家の岸田幾太郎は曾祖父。外国人登録支援機関である株式会社フィールジャパン with K 代表取締役の岸田武雄は弟[4]。参議院議員で経済産業大臣を歴任した宮澤洋一は従兄[3][5]。
来歴
生い立ち
広島県出身の通商産業省(現:経済産業省)の官僚であった父・岸田文武の元に東京都渋谷区で生まれる[3][6]。親の教育方針もあり、文雄は東京で育てられた[7]。岸田家は広島の一族であるため、一家は毎年夏に広島に文雄を連れて帰省し、文雄は広島原爆の被爆者たちから当時の話を聞いた[8]。岸田一族も多くが被爆し、死に至った者たちもいた[8]。
1963年、父の仕事の関係でアメリカ合衆国ニューヨーク市に居住し、小学校1年生から3年生まで3年間、現地の公立小学校に通う[9]。1963年秋から「PS 20」に通ったのち、1964年春からクイーンズ区の近隣住区エルムハーストに位置する「PS 13 Clement C Moore School」に通った[8]。
1966年6月にパブリックスクール3年次を修了(米国は小学校入学が日本より半年早い)して日本に帰国。7月に永田町小学校(現:麹町小学校)の3年次に転入。麹町中学校を経て、1973年に開成高等学校に入学[10]。野球部に入部し、高校生活を野球に捧げ、その傍らでロック/フォークの流行に影響を受けギターに打ち込む[10]。
大学から銀行員時代
1976年に同高校を卒業、東京大学合格を目指し2年間の浪人を経験。
1978年に早稲田大学法学部に入学。政治家を数多く輩出している同大学に学んだものの、政治家を志したわけではなかった。当時は夏目漱石のような文豪に憧れ、庄司薫の小説も愛読し一人旅を好んだ。
1979年、父・文武が通産省を退官し、衆議院議員に当選。この際の熾烈な選挙戦を手伝ったが、多くの種類の人間に接し1票を入れてもらうため、いかなる努力をするべきなのか考える貴重な経験となり政治への道に影響した[11]。1982年、同大学同学部(民法(不法行為):浦川道太郎ゼミ[12])卒業[2]、同年日本長期信用銀行に入行[2][13][14]。
長銀入行後、最初の配属は本店勤務で外国為替業務を2年半経験し、こののち海運業界担当の営業マンとして高松市に2年半赴任した[10]。高松での地方営業では利息すら払えなくなった会社から経営再建の支援継続を相談されたり、倒産や夜逃げを目の当たりにして世間の厳しさや経済というものの激しい実態を知った[10]。1987年3月、政治家になる決意を固め、長銀を退行した[15]。
政界
1987年、長銀を退行して父・衆議院議員岸田文武の秘書となる[2]。岸田の父は口数が少なく、岸田は父の背中から多くを学んだ[10]。
1988年11月、マツダの社長秘書を務めていた和田裕子と結婚した[15]。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に旧広島1区から自由民主党公認で出馬し、初当選[2][16]。父親と同じ宏池会に所属する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い広島1区から出馬し、以後広島1区で連続8選[2]。1997年には若手議員の登竜門とされる党青年局長に就任した[2]。
2000年、派閥領袖の加藤紘一が起こした「加藤の乱」に血判状をしたためて参加し、石原伸晃、塩崎恭久、根本匠と行動を共にした[10]。乱の鎮圧後は堀内光雄、宮澤喜一、池田行彦らから声をかけられ堀内派に属した[8][17]。
2001年、第1次小泉内閣で文部科学副大臣に任命される。2007年、第1次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、再チャレンジ、科学技術政策)に任命され、初入閣した[2]。続く福田康夫内閣でも内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、科学技術政策)に任命され、引き続き入閣。
2008年、新設された消費者行政推進担当、宇宙開発担当大臣を兼任[2]。福田康夫内閣 (改造)の発足に伴い大臣を退任し、党の消費者問題調査会長・道路調査会副会長兼事務局長、団体総局長に就任[2]。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、広島1区で民主党の菅川洋を破り、6選(広島県の小選挙区で議席を獲得した自民党の候補者は岸田のみ。また、広島1区では初めて次点以下の候補者が比例復活した)。2011年9月、自民党総裁谷垣禎一の下、党国会対策委員長に就任し、野党自民党の国会対策を担い与党民主党との交渉を担った(2012年9月退任[2])。2012年10月、政界引退を表明した古賀誠から宏池会を継承し、第9代宏池会会長に就任した。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、広島1区で7選。
外務大臣
選挙後に発足した第2次安倍内閣では外務大臣として入閣し[注釈 1]、第2次安倍改造内閣で留任、さらに2014年12月の第47回衆議院議員総選挙で8選した後に第3次安倍内閣でも再任、自民党総裁選後の2015年10月に発足した第3次安倍第1次改造内閣でも外相を留任する。
2015年7月5日に決定した軍艦島のユネスコ文化遺産登録では、韓国の妨害に対して「forced to work(働かされた)」という表現を用いて遺産の説明を行うことで対処した。この表現について岸田は「強制連行」を意味しないことを明言し、徴用工訴訟問題と関連付けしないことも合意させた[18]。
同年12月28日ソウル市内で尹炳世韓国外交部長官と外相会談をし、日本国政府は韓国政府が設立する元慰安婦を支援するための財団に10億円拠出し慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することで合意する日韓合意がなされた[19][20]。
2016年4月、地元広島で開催されたG7外相サミットの議長を務め[21]、他のG7外相と共に広島平和記念公園を訪問。広島平和記念資料館を訪れた後、原爆死没者慰霊碑に献花を行う[22]。同年5月、バラク・オバマの広島訪問が実現した際にオバマに対して原爆ドーム、原爆の子の像、折り鶴などについて通訳を介さずに英語で説明を行う[23]。
第24回参議院選挙後、同年8月に発足した第3次安倍第2次改造内閣でも留任。同年12月、安倍晋三の真珠湾訪問に同行する[24]。2017年1月6日、外務大臣在職期間が大平正芳を超え、戦後の外務大臣としては歴代2位[25]、専任の外務大臣としては歴代最長となる[26]。
外相の起用
政策面では、内政の知識と経験が豊富であるが、外務大臣に起用されるまで外交に携わった経験はなく、幼少期のニューヨーク在住を除けば留学・在外勤務の経験もないため、本来なら外相は門外漢であった。しかし、外相起用に際しては普天間基地移設問題などを念頭に、岸田が沖縄担当相を歴任し、知事の仲井真弘多との親交も深いことが理由とされる一方、中国要人との太いパイプを持つ古賀誠を後見人に持ち、対話を重視するスタイルの岸田の起用が中国など関係諸国へのメッセージであるとの報道もある[27]。
安倍晋三とは1993年の当選同期であり、派閥は異なるが関係は良い。安倍が幹事長代理を務めていた時代に、党改革で議論を交わした仲とされ[28]、第一次、第二次いずれの安倍内閣にも入閣しており、信頼も厚い。特に、第2次内閣発足以降、「タカ派」と評される安倍が、連続5期、4年半余りにわたって岸田を外務大臣に起用し続けた理由については、岸田の実務能力を買ったともされるが[29]、『夕刊フジ』は「ハト派」で「親米派」でもあるが「親中派」でもある宏池会出身という点を鑑みて、菅義偉、石破茂、河野太郎らの人事も含め、中国をはじめとする周辺諸国への友好姿勢をアピールする狙いがあると報じた[30]。
防衛大臣
2017年7月28日、自衛隊南スーダン派遣での日報の隠蔽疑惑に関する問題の責任を取って稲田朋美が辞任したのに伴い、内閣改造までの一週間に渡って防衛大臣を兼務した[31]。外務大臣と防衛大臣の兼務は憲政史上初であった[2]。
政調会長
2017年8月の内閣改造では以前から希望していた党三役ポストである自由民主党政務調査会長に就任し、安倍晋三首相を支持して党内を乱さないことで2020年以降の『ポスト安倍晋三』に向けて存在感を示す方針を取った[32][33]。
2018年9月の自民党総裁選挙に向けては、岸田派内では若手を中心に岸田の出馬を求める主戦論が優勢である一方、ベテランなど一部に今回は首相支持に回り3年後に首相からの「禅譲」を狙うべきだとする慎重論があり[34]、最終的に7月24日に岸田が自身の立候補見送りと安倍への支持を表明したが、党内からは「乗り遅れだ」との冷ややかな見方が広がった[35]。
2018年10月、自民党総裁の直属機関(総数24)のうち、『道州制推進本部』『日本経済再生本部』『外交戦略会議』『農林水産業・地域の活力創造本部』『歴史を学び未来を考える本部』の5つを廃止した。政務調査会の権限を強めることを狙った[36][37]。
2020年の自民党総裁選には、9月1日に岸田派の臨時総会で出馬を表明した[38][39][40]。結果は内閣官房長官の菅義偉に敗れ、2位に終わり、「今日の戦いが終わった今、新たなスタートだと思っている。総理・総裁を目指して次の歩みを進めていきたい」と述べた[41]。
2020年9月11日、初の著書となる『岸田ビジョン 分断から協調へ』を出版した。当初は15日に出版する予定であったが、14日の総裁選投開票日に間に合わせるために前倒しされた[42]。
総裁選後の2020年9月15日に政調会長を退任した。
政調会長退任後
2021年3月27日、自由民主党広島県連会長に就任。同会長を務めるのは3回目[43]。
同年5月12日、自民党本部で二階俊博幹事長と会談。党本部が2019年の参院選広島県選挙区をめぐり、現職の溝手顕正を追い落とすため、河井案里陣営に送金して買収の原資になったとの指摘がある1億5,000万円について、使途解明を急ぎ、国民に説明するよう申し入れた(詳細は河井夫妻選挙違反事件を参照)[44][45]。
同年8月26日、自民党の総裁選挙管理委員会は、総裁選の日程を「9月17日告示、29日投開票」と決定した[46]。この時点で、現職の菅義偉が立候補を予定しており、二階、麻生、細田派会長の細田博之、公明党代表の山口那津男らは菅の再選支持を明らかにしていた[47][48][49]。しかし同日、岸田は国会内で記者会見を開き、総裁選出馬を正式に表明した。全候補者のなかで最も早い立候補表明であった。立候補する理由について「自民党が国民の声を聞き、幅広い選択肢を示すことができると示し、日本の民主主義を守るため」と語った[50]。その後、菅は出馬しない意向を示し、岸田と河野太郎、高市早苗、野田聖子の四者の選挙戦となった[51]。
自由民主党総裁・内閣総理大臣
2021年9月29日、自民党総裁選の投票が行われた。1回目の投票でトップの256票を獲得したが、有効投票数[注釈 2]の過半数に届かなかったため河野太郎との決選投票が行われることになった。決選投票[注釈 3]では257票を獲得して河野太郎(170票)を破り、第27代総裁に選出された[52]。
10月1日、新体制の党執行役員人事を決定し、副総裁に麻生太郎、幹事長に甘利明、政務調査会長に高市早苗、総務会長に福田達夫、選挙対策委員長に遠藤利明がそれぞれ就任[53]。
10月4日、衆議院および参議院の本会議で行われた内閣総理大臣指名選挙にて指名し天皇による任命を経て第100代内閣総理大臣に就任。第1次岸田内閣が発足した。
岸田は64人目の総理大臣で[7][54]、広島出身の総理としては[54][55][56]、加藤友三郎、池田勇人、宮澤喜一に次ぐ4人目で[7][54]、広島県は山口県(8人)、東京都(5人)に次いで3番目に多い総理大臣輩出県となった[7][54][57]。太平洋戦争後に限れば、群馬県4人に次ぐ3人で[58]、2位[7][54][56]。大正以降は、昭和、平成、令和と全ての年号で総理大臣を生んでいる[59]。野田佳彦より誕生日が遅いため、存命中の内閣総理大臣経験者の中では最年少者となった(就任時の年齢は64歳で、39番目に若い)。
10月6日、アメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンと総理就任後初となる電話会談を行った。
10月14日、第205回国会会期末を迎え衆議院を解散し[60]、31日の第49回衆議院議員総選挙では、圧勝で10選。自民党は重鎮の落選が相次ぎ、公示前の276議席から261議席に減らしたものの、「絶対安定多数」を単独で確保した。この時点で、公明党と合わせて与党は293議席となった[61]。
11月2日、イギリス・グラスゴーで開催されたCOP26に出席し、バイデン大統領とも短時間ながら初の対面による懇談を行った[62]。
11月4日、茂木敏充外相の自民党幹事長就任に伴い、新外相就任まで岸田自身が外務大臣を兼務した[63]。
11月10日、第206回国会が招集され、午前中に第1次岸田内閣は総辞職。午後の内閣総理大臣指名選挙の結果、天皇による任命を経て第101代内閣総理大臣に就任し、第2次岸田内閣が発足。
11月24日、国内で外国首脳と初めての会談となる日越首脳会談を行った。
12月9日、岸田が任命した内閣官房参与(観光立国その他特命担当)の石原伸晃が自身が代表を務める党東京都第8選挙区支部が60万円の「雇用調整助成金」を受け取ったことで混乱を招いたなどとして辞職[64]。
12月11日、衆議院議員宿舎を退去して元首相野田佳彦以来9年ぶりに内閣総理大臣公邸に入居した。当面は岸田と秘書の長男が暮らす。危機管理の強化を理由にしている[65]。
2022年1月17日、第208回国会(常会)が召集され[66]、岸田は施政方針演説を行った。
2022年7月8日、第26回参議院議員通常選挙の選挙運動中に安倍晋三が銃撃され死亡する事件が発生した(安倍晋三銃撃事件)[67]。これを受けて、岸田は「本日午後5時3分、安倍晋三元総理がお亡くなりになられました。どうか一命を取り留めていただきたいと祈っておりましたが、祈りも虚しく、こうした報に接することになってしまったこと、誠に残念であり、言葉もありません。心よりご冥福をお祈りしたいと思います。民主主義の根幹たる、選挙が行われている中、安倍(元)総理の命を奪った、卑劣な蛮行が行われた。断じて許せるものではなく、最も強い言葉で改めて非難を申し上げます」と官邸で述べた[68]。
政策・主張
経済・財政
- 2021年の総裁選で新自由主義からの脱却による日本型資本主義の再建を主張している。
- 2019年の消費税増税について「日本の政治は消費税率引き上げに様々なトラウマがある。成功体験を実感することが大事だ」[72]と発言している。
- 新型コロナウイルスの感染拡大に伴う経済対策として、当初は岸田が主導していた減収世帯への30万円の給付が検討されていたが、政府はこれを撤回し、全国民への一律10万円給付を行う形となった。岸田氏は自身のツイッターで『自民党も当初から訴えてきた10万円一律給付を首相が決断した』とツイート。実際、党内にも一律給付を求める声はあったが、最終的な党の提言には盛り込まれなかった。このため党のベテラン議員は「歴史の書き換えだ」、ネット上でも「うそ言わないで」といった批判が殺到した[73]。一方で岸田自身は早くから首相に現金一律給付を提案していたものの、3月28日の首相会見で限定給付が明言されたために持論を封じざるを得なかった経緯があったため、岸田が会長を務める政務調査会の議員からは「我々が散々言っていた案だ。それが公明党の案のようになっている」という声も上がった[74]。
- アベノミクスを評価しつつも、貧富の格差の拡大を招いていることを指摘し中間層への分配を主張している[75][76]。
- 地方創生策としてデジタル田園都市国家構想を主張している[75]。
- 商工族出身であるため、自動車工業界・中小企業零細対策などに詳しい[26]。大手自動車メーカーのサプライチェーンを何重にもなって下支えする中小の下請け業者や、地域社会・商店街の小売店など中小企業・小規模事業者を守ることを重要視している[75]。
- 国民年金と厚生年金の財政一元化ないしは調整を主張している[10]。
- 三位一体改革によって都道府県に移譲された商工会議所の事業費・人件費の財源を再び国に移譲することを主張している[10]。
- 2022年5月5日にイギリスロンドンシティを訪れた際、自身が元銀行員で戦後初の金融業界出身であったことから「最近の総理大臣の中では、最も経済や金融の実態に精通している」と自負し、日本への投資を訴えた。この時「安心して日本に投資をしてほしい。インベスト・イン・キシダ(岸田に投資を)です」と述べ、安倍晋三の「バイ・マイ・アベノミクス(アベノミクスは買いだ)」のオマージュとの声もあったが、過去に金融所得課税に触れていたことから市場関係者からは「インベスト・イン・キシダです」ではなく「インベスト・イン・キシダ・DEATH(岸田に投資したら死ぬ)だ」などと揶揄された[77]。
憲法・平和
- 憲法改正に賛成している[78]。
- 2015年に派閥研修会で「宏池会は憲法に愛着を持っている。当面、憲法9条自体は改正することを考えない。これが私たちの立場ではないかと思っている。」と主張している[26]。
- 集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈を見直すことについて、「限定的に行使」されることが明記されているとして賛成している[78][79]。
- 憲法観について護憲派である自身と安倍に距離があることを認めつつも、自衛隊の明記については平和主義の放棄に当たらないため「許容範囲内」であるとしている[79]。
- 日本の核武装については検討すべきでないとしている[78]。
- 核兵器廃絶に向けての指針として『岸田イニシアチブ』を、自著『核兵器のない世界へ』の中で発表している[79]。
- 広島陸軍被服支廠を保存すべきとしている[80]。
- 「自民党が右傾化していると言われるが、保守穏健派があると示すためにも、仲間の応援に飛び回りたい」と党内の穏健派をアピールしている[81]。
- 「今の日本の政治において気になることがあります。強いリーダーシップ、米国中心外交、タカ派的体質が強調されることです。それぞれの意義を否定するものではありませんが要はバランスが大切だと思っています」と述べている[82]。
教育
エネルギー政策・科学技術政策
- エネルギー政策に関しては、原子力規制委員会の新基準を満たした原子力発電所は再開すべきとしている[78]。また、核燃料サイクルにも賛成。この理由として、「核燃料サイクルを止めてしまうと、除去される高レベルの核廃棄物はそのままということになる。再処理すると廃棄物の処理期間は300年と言われている。高レベルの核廃棄物を直接処理すると10万年かかると言われている。この処理の問題をどう考えるのか。核燃料サイクルを止めてしまうとプルトニウムがどんどん積み上がってしまう。」と述べたが、そのためには2021年現在存在しない「高速炉」やその再処理工場が必要である[83]。
- 科学技術立国を掲げ、政策に科学技術の視点を反映するため首相直属の首席科学技術顧問、各省に科学技術顧問を置くことを明言している[84]。一方、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)を担う中で、失策と名高い「選択と集中」[85][86][87]を進めてきた張本人でもある[88]。
表現の自由
自民党と統一教会との癒着問題
- 霊感商法等の問題を抱え、2021年にもその被害が報告されている[90]世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と、数十人にも及ぶ自民党国会議員との結び付きが指摘されていることに関し2022年7月31日に「政治家の立場からそれぞれ丁寧に説明していくことが大事だ」と述べた[91][92][93][94][95]。
- この岸田のコメントの以前に、立憲民主党や共産党は“統一教会と政治家の関係性”を追及するための対策本部やチームを立ち上げ、日本維新の会は統一教会と関係のある議員を党内で調査していたが、岸田からは統一教会と関係のある議員を調査したり除名したりするという発言は出なかった[92][96]。
- 2022年7月31日時点で第2次岸田内閣のメンバーのうち、少なくとも末松信介文部科学大臣、萩生田光一経済産業大臣、岸信夫防衛大臣、二之湯智国家公安委員会委員長、山際大志郎内閣府特命担当大臣[97]、磯﨑仁彦内閣官房副長官の6名が統一教会と関係があると報じられていた[98]。
- ネット上では、《えーっ!!!それぞれが丁寧な説明!?党総裁として、首相として何も説明しない気ですか?》《おいおい、自民党の総裁として、総理として先ずあんたが謝るのが先やろ。それに、党として調査すると言わなあかん。一人一人の問題に矮小化したらあかん》などの呆れ声が上がった[92]。
- 福田赳夫元首相の秘書で、自民党本部情報局国際部主事を務めた経験を持つ中原義正は、「岸田首相は党総裁として、所属議員と統一教会の癒着の実態をきちんと調査し、公表するのが当たり前。丁寧に説明も何もない。深い関係にある議員は党員資格停止や除名するのが筋だ。適当にお茶を濁し、時間稼ぎしているのだろうが、これでは安倍政権と何ら変わらないではないか」と語った[99]。
- 2022年8月10日に発足させた第2次岸田改造内閣では、加藤勝信厚生労働相、高市早苗経済安保担当相、林芳正外相、山際大志郎経済再生担当相、寺田稔総務相、西村明宏環境相、岡田直樹地方創生担当相の7人が統一教会との関係を認めた[100][101]。さらに副大臣、政務官計54人のうち、少なくとも大串正樹、和田義明、山田賢司、井出庸生、野中厚、中谷真一、豊田俊郎、石井浩郎、尾崎正直、中野英幸、国光文乃、中川貴元、高見康裕、高木啓、吉川有美、山本左近、古川康、清水真人、柳本顕の19人が統一教会の関連団体にパーティー券を買ってもらうなど教団側と接点を持っていたことが8月12日、毎日新聞の取材で明らかになった[102]。既に関係を認めた閣僚7人と合わせて計26人が政府の要職に就任した[102]。
その他
- 女性宮家の創設に反対[78]。
- 選択的夫婦別姓制度の導入にどちらかといえば反対(2014年)[103]。2017年は夫婦別姓制度に無回答、同性婚制度も無回答[26]。夫婦別姓やLGBTなどジェンダーに関する考え方は後手に回っていた岸田であったが[26]、徐々に政策見直しを行い2020年9月の共同通信からの質問には「女性の社会進出や核家族化など、時代の変化を的確に捉えた上で議論が必要」、「性的少数者の方が生活していく上で、不利益や不自由を感じない制度が必要」と回答し[104]、2021年3月25日に発足した「選択的夫婦別氏制度を早期に実現する議員連盟」に「呼びかけ人」として参加するに至った[105]。2021年9月15日、BS-TBSの番組で、「(選択的夫婦別姓制度)導入を目指して議論をすべきだ」と述べ、導入に意欲を示した[106]。
- 2021年9月17日のテレビ朝日の番組で、同性婚の是非をめぐり岸田は「多様性を認めるということで、議論があってもいいと思うが、まだ認めるところまで私は至っていない」と答えた[107]。なお、2021年3月に北海道地裁は「性的指向は人の意思で選択、変更できない。同性愛者が婚姻によって生じる法的効果の一部すら受けられないのは、立法府の裁量の範囲を超えた差別的な扱いだ」と判決を出していた[108]。
- 自民党の議員定年制見直しに反対[109]。
- 党執行部の権限が強くなりすぎたとして、自民党の役員任期を1期1年、連続3期までに制限することを主張している[110]。
- 2021年9月2日夜、BS-TBSの番組で、学校法人森友学園への国有地売却をめぐる公文書改ざん問題について、「国民が足りないと言っているので、さらなる説明をしなければならない課題だ」と指摘した。この発言を受けた安倍晋三前首相付近などから「岸田がこの問題を再調査」するとの憶測が浮上したが[111]、岸田は「必要があれば国民に説明する」が「再調査は考えていない」と述べた[111]。
- 総裁と幹事長ら執行部に就任中の者は、小泉内閣以降、公平性確保などの観点から派閥を離脱し、派閥の活動(派閥の集会に参加することなども含む)を控えることが慣例的であるが、派閥活動を継続するだけでなく派閥(宏池会)の領袖を継続している。一部の議員からは批判が出ているものの福田達夫総務会長は2021年11月26日の記者会見で「公平性に疑義があるとの批判は起きておらず、問題ない」としている[112]。
政治姿勢
正姿勢
「正姿勢」とは、宏池会の設立者・池田勇人が陽明学者の安岡正篤から「低姿勢、高姿勢いずれも間違いだ。自分の政治哲学を持っていれば、おのずから『正姿勢』(正しい姿勢)になる」と助言された言葉である[113]。岸田は宏池会で語り継がれてきた「正姿勢」の助言を聞き入れ、信条としている[114]。平凡社『世界大百科事典』第2版によると、かつて正しい姿勢とは軍隊式の直立不動をいうものであったが、現代社会においては、もっと自然で安楽な姿勢で直立することが基本となっている[115]。安岡正篤は全国師友協会から『日本の機微 低姿勢より正姿勢へ』という題名の文書を刊行している[116]。
2017年第195回国会衆議院本会議の代表質問において、岸田は首相の安倍に「正姿勢」の話を質問の最後に演説した[15]。与党自民党議員は岸田の質問途中から相次いで離席していた[113]。野党は岸田へ拍手を送った[117]。演説後、着席までの25秒間、岸田は万雷の拍手を受けた[118]。政治評論家の杉浦正章は、岸田の演説を池田勇人の低姿勢からの脱皮と評価した[118]。
昭和三十五年、岸信介総理から政権を引き継いだ池田勇人総理が、みずからの政治姿勢として寛容と忍耐という内閣のスローガンを提唱した際、それが低姿勢と受け取られ、責任ある政権の姿として疑問が指摘された、こういったことがありました[注釈 4]。これについて、陽明学者であり、池田総理の心の師であった安岡正篤氏は、低姿勢、高姿勢、いずれも間違いである、自分の政治哲学をはっきり持っていれば、おのずから正姿勢、正しい姿勢になると助言したと言われています。相手の顔色を見て右顧左べんするようでは、国民への責任を果たすことはできません。同時に、野党や国民に上から目線で臨むようでは、国民の信を失い、真っ当な政治を行うことはできません。総選挙において多くの議席をいただいた今こそ、正姿勢、三文字を胸に、公約実現のため、日々前進してまいりたいと存じます。結びに当たり、思いの一端を申し上げ、私の質問といたします。— 岸田文雄、第195回国会 衆議院本会議 第5号(平成29年11月20日(月曜日))
人物
- 本籍地は広島県広島市[120]。自宅は同市南区の比治山神社の近辺[121]。3人の息子は広島育ちだが[122][123]、2020年自民党総裁選当時は3人とも上京して議員宿舎で共に生活しており、文雄は家庭では風呂洗いや皿洗いを担当していた[124][125]。長男は父の議員秘書を務めている[122]。首相就任後もしばらく議員宿舎で生活していたが、2021年12月11日に長男と共に首相公邸へ引越した[126][127]。なお、首相公邸に出ると噂されるに幽霊については「今のところまだ見ておりません」と述べている[注釈 5][129]。
- 宏池会に所属し[130][131]、派閥会長を務めた古賀誠との関係が近く、古賀の側近とされた。宏池会の政治家らしく酒豪で知られ[5][132]、「政界随一の酒豪」ともいわれる[133][134]。おとなしい語り口で知られるが普段はべらんめえ口調といわれる[134][135]。
- 2020年自民党総裁選から「キッシー」の愛称を公認し、SNS等で使うようになった[136][137]。もとは同期議員の間でのあだ名だったという[138]。その1年後の2021年自民党総裁選の際には「フミキュン」とも呼ばれるようになっていると明かした[139][140]。
- タレントの宮澤エマ(7親等)、反核運動家のサーロー節子(8親等)[141]、俳優のジョージ・タケイ(9親等)[142]とは遠縁にあたる。
- 座右の銘は「天衣無縫」[143]、「春風接人」[5]。また、アフリカを由来とする説などがあることわざ「早く行きたければ1人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め」を所信表明演説などで度々引用し、自身のTwitter公式アカウントのプロフィールにも記載している[144][145][146]。
- 血液型はAB型。
人物評
- 古賀篤によると、岸田は「人の意見を受け止めるタイプのリーダー」[147]。温厚で敵を作らない性格で知られているが、2020年自民党総裁選中に出演した民放番組で司会者に「敵がいない」と人柄をほめられると「実際敵だらけだからこうなってんじゃねえかな」と答えた[148]。
- 何事もそつなくこなすジェネラリストと評されている[28]。他方、『デイリー新潮』には「超つまらない男」という記事を書かれたことがある[149]。
- 外見が美男子であることが注目されている。「政界きってのイケメン」ともいわれ[3]、『週刊女性PRIME』からは外相時代の2017年に「イケメン大臣」として言及された[150]。
趣味・嗜好
- 東京都出身だが、父親の影響もあり幼少期から広島東洋カープの大ファン[3][151][152]。市民球団としてこよなく愛されてきたカープの“生き様”を、自らの政治信条になぞらえている[153]。選手では衣笠祥雄のファン[154][155]。2016年3月27日には、G7外相サミットのPRのためMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島で行われた対横浜DeNAベイスターズ戦にて始球式を行った[156]。
- サブカルチャーにも理解があり、YouTubeでは「今話題になっている漫画も読むように努力をしております」と明かしている。人気漫画『鬼滅の刃』は全巻読破しており、好きなキャラクターは猗窩座と述べている[157][158]。また、宏池会の設立者・池田勇人を尊敬し[5][131][159]、池田勇人政治の再興を目指しているともいわれる[160]。好きな漫画としてその池田を主人公とする大和田秀樹の『疾風の勇人』と[161]、弘兼憲史の『課長島耕作』シリーズ[162]をあげている。
- 好きな食べ物は、広島のお好み焼き[5][163]、カキ(貝)[5]、納豆[5][143]、むさしの「若鶏むすび」[164]。お好み焼きには一家言あり「広島のお好み焼きは、大阪のお好み焼きとは別の食べ物」と主張している[165]。また、岸田は「妻の作るお好み焼きが大好き」と語っており、2021年自民党総裁選当選後の夜食にも食した[166]。
- カラオケで得意な歌としてサザンオールスターズ「涙のキッス」を挙げている[注釈 6][167]。
関係団体
全国教育問題協議会との関係
- 全国教育問題協議会(全教協)の機関誌『教育問題16号』(2020年9月刊行)に、岸田は寄稿した[168]。
- 全教協の役員の一人には、2010年の時点で統一教会関係者だと判明していた人物Aがいた[169][170][171][172]。
- 2019年9月6日、東京都永田町の自由民主会館で開かれた全教協の役員会と研修会で、岸田は「昭和52年からの全教協の歴史を振り返ると、美しい日本人の心を大切にする教育の改革を推進し、大変なお力であったと思う」とあいさつした[173]。
統一教会との関係
エピソード
政界入り以前
- 在米時の岸田は映画を英語で理解して観賞することができた為に[8]、他の日本人児童への対応で教員から助けを求められることもあったという[10]。
- 学生時代のクラブは、中学時代は軟式テニス部、高校時代は野球部[9]。野球部時代には高橋慶彦と対戦したことがある[155]。三菱製紙上席執行役員・林康司、商工中金社長・関根正裕、東京医科歯科大学准教授・清水則夫らは岸田の開成同期で開成野球部のチームメイト[175]。誰かが失敗したら、みんなでカバーすればいいという宏池会議員としての岸田の信念は、野球のチームプレーから生まれた[176]。
- 部活が中心だった開成高校での学業の成績は中くらいを確保していたので東京大学は受かると思い、現役は東京大学のみを受験、浪人1年目も東京大学のみ、浪人2年目で東京大学の他に早稲田大学と慶応義塾大学を受験して、早稲田大学と慶応大学はどちらも合格したが、東京大学・官僚コースと思っていた人生は道を外れた[15]。
- 早稲田大学で岩屋毅と知り合い、在学中は岩屋らと繁華街を飲み歩いていた[10]。
- 日本長期信用銀行に勤務していた際、富士急行社長の堀内光一郎(宏池会第七代会長・堀内光雄の長男で宏池会所属の衆議院議員堀内詔子の夫)が一年後輩で同じ部署にいた。堀内が岸田と飲みに行った際に、通行人とぶつかりトラブルになりかけたが、岸田が間に入り広島弁で「許してやってくれんかのう」と相手に語りかけ、ことなきを得たという。堀内はこの件を回想し、「普段は静かなスタイルだが、腹に秘めている度胸はずば抜けている」と語っている[177][178]。
政界入り以降
- 妻の岸田裕子とは見合い結婚と報道されるが[179]、実際は父の秘書として企業回りをしていた時に岸田が一目惚れし、儀礼的に見合いの場が設けられたもの[123]。
- 自民党青年局における台湾との交流では、酒に強い台湾の政治家らの歓迎を一手に引き受け、ビールも紹興酒もマオタイも次々に乾杯して文字通り杯を空(乾)にしたという[15][134]。これらは岸田の「酒豪伝説」として知られている[15]。
- 2000年11月20日の「加藤の乱」には加藤派の若手として血判状をしたためて参加し、岸田は石原伸晃、根本匠、塩崎恭久と行動を共にし最後まで反乱側に与した[10]。
- 2004年4月4日、広島市南区の比治山陸軍墓地にて、岸田が会長を務める広島比治山陸軍墓地奉賛会の主催で合同追悼式が行われた[180]。戦没者の遺族や関係者ら約270人が参列し[180]、岸田は「苦難に立ち向かった人の記憶を語り継がなければならない」とあいさつした[180]。黙祷の後、遺族が祭壇に献花した[180]。
- 2007年に内閣府特命担当大臣で初入閣時、「岸田大臣室の心得」として定めた五箇条に、早稲田大学校歌に歌われる「進取の精神」という一箇条がある[15]。第2次安倍内閣の外務大臣を担当していた頃の話では、年一回の早大議員同窓会「国会稲門会」には参加していない[181]。
- もともと口下手だが、父の選挙応援の頃から演説は鍛えられ、街頭演説は得意としている[15]。
- 並み居る各国外相の中でも酒豪として轟くロシアのラブロフ外相が2013年11月に来日した際には、夕食会で広島の地酒を相手の杯につぎ、3時間にわたって酒量を競い合った[134]。
- 2020年自民党総裁選に立候補を表明した日の未明、エプロン姿の妻が立つ傍らで食事をとる自身の写真と共に、「夜のテレビ出演の合間に、地元から上京してきてくれた妻が食事を作ってくれました。ありがたいです」と投稿した[182]。
- 特技は「人の話をしっかり聞くこと」と総裁就任会見の場で語っている[183][184]。政治家の道を歩んで以降、「岸田ノート」と呼ばれる大学ノートを持ち歩いて[185][186]、国民から聞いたことや愚痴、批評などを書き纏めた上で読み返しており、年間で3冊分、10年間で30冊近くになっている。「岸田ノート」について、2021年8月26日の会見では「聞く力の原点であり、私にとって大切な財産」と紹介している[187]。内閣総理大臣就任後は、環状に座り国民から直接意見を聞く「車座対話」を積極的に開催し、全閣僚に実施するように呼びかけている[188][189][190]。
- マスク着用を緩和すべきでないという考えを示しながら、海外の首脳と会談する際にはマスクを着けていない事から、Twitterでは「#自分だけノーマスク岸田」というハッシュタグがトレンド入りした[191]。
役職
内閣
- 国務大臣「消費者行政を統一的・一元的に推進するための企画立案及び行政各部の所管する事務の調整担当」
- 国務大臣「宇宙開発利用に関する施策を総合的かつ計画的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整担当」
- 内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・規制改革・国民生活・科学技術政策)
衆議院
- 厚生労働委員長[2]
- 国家基本政策委員会与党筆頭理事[2]
- 国土交通委員会与党理事[2]
- 消費問題委員会与党筆頭理事[2]
- 文部科学委員会与党筆頭理事[2]
- 議院運営委員会理事[2]
- 経済産業委員会理事[2]
- 衆議院議事進行係[2]
自民党
所属団体・議員連盟
- 自民党たばこ議員連盟(顧問)[192]
- 日本会議国会議員懇談会[193]
- 神道政治連盟国会議員懇談会[193]
- 日本の前途と歴史教育を考える議員の会
- ボーイスカウト振興国会議員連盟[194]
- 公立学校施設耐震化会長代行[2]
- 航空議員連盟副会長[2]
- ソフトボール振興議員連盟幹事長[2]
- 子供の体力向上推進幹事長[2]
- 創・畜・省エネ推進議連幹事長[2]
- 臨床心理職国家資格化事務局長[2]
- まちづくり三法見直しWT主査[2]
- 公共工事品質確保議連幹事(制度検討部会長)[2]
- 著作権に関するWT座長[2]
- 消費者問題PT座長[2]
- 核燃料税等PT主査[2]
- 知的財産小委員長[2]
- 証券市場育成議連事務局長[2]
- 保険制度改善議連事務局長[2]
- 学校栄養士議員連盟事務局長[2]
- 国宝・重文を護る会事務局長[2]
- 日越友好議連事務局長[2]
- コンテンツ産業振興議連幹事長[2]
- 小規模企業税制確立議連幹事長[2]
- 外交を学ぶ会事務局長[2]
- 日傷援護議員協議会幹事[2]
- ライフサイエンス議連事務局長[2]
- アイスランド友好議連副会長[2]
- 小規模企業税制確立議員連盟
- 日朝国交正常化推進議員連盟顧問[195]
- 美ら島議連初代会長[196]
- 永霞会(永田町・霞が関開成会)初代会長[197]
- 選択的夫婦別氏制度を早期に実現する議員連盟[105]
- 半導体戦略推進議員連盟・顧問[198]
- 公益資本主義議員連盟会長[199]
- 新たな資本主義を創る議員連盟会長[200]
- 日本新体操連盟名誉顧問[201]
家族・親族
岸田家
(広島県東広島市、大連市、広島市南区比治山町、東京都渋谷区)
- 実家
- 曽祖父・幾太郎(広島県人・実業家)
- 1867年生 - 1908年没
-
詳細は「岸田幾太郎」を参照
- 祖父・正記(広島県人・実業家〈百貨店経営〉、政治家)
- 1895年生 - 1961年没
-
詳細は「岸田正記」を参照
- 父・文武(広島県人・通産官僚、政治家)
- 1926年生 - 1992年没
-
詳細は「岸田文武」を参照
- 母・澄子
- 弟・武雄(1960年生、三菱商事勤務、株式会社フィールジャパン with K 代表取締役、慶應義塾大学法学部卒)[202]
- 妹・純子(1963年生、慶應義塾大学文学部卒)[202]
- 妹・典子(1965年生、上智大学外国語学部卒)[202]
- 自家
- 息子3人[81]
親戚
- 5世祖父・山野井道澤(医師[204])
- 高祖父・小田貫一(広島市長)
- 叔母
- 曽祖叔父・岸田光太郎(実業家、岸田材木店創業者)
- 大叔父・岸田正次郎(実業家)
- 大伯父・小田勝(医師、山口病院院長)
- 叔父・岸田俊輔(大蔵官僚、銀行家・元広島銀行会長[205])
- 従兄・宮澤洋一(大蔵官僚、政治家)
- 従叔祖父・岩動道行(大蔵官僚、元科学技術庁長官)
- 遠縁