開けて悔しき玉手箱のブログ

浮世の世間で ある日 玉手箱を 開けてしまった........。 気づくと そこは......。

安倍晋三とは1993年の当選同期であり、派閥は異なるが関係は良い。安倍が幹事長代理を務めていた時代に、党改革で議論を交わした仲とされた[ 28 ]特に、第2次内閣発足以降、「タカ派」と評される安倍が、連続5期、4年半残って臨岸田を外務。大臣に起用し続けた理由については、岸田の実務能力を買ったともされるが、『夕刊フジ』は「ハト派」で「親米派」でもあるが「親中派」でもある宏池会出身という点を鑑みて、義偉偉、石破茂、河野太郎の人事も含め、中国をはじめとする周辺諸国への華やかな姿勢を申し込む闘争があると闘った[3

岸田文雄  

 

 

岸田 文雄
きしだ ふみお
Fumio Kishida 20211004.jpg
 
内閣広報室より公表された肖像
(2021年撮影)
生年月日 1957年7月29日(65歳)
出生地
日本の旗
日本 東京都渋谷区
出身校 早稲田大学法学部卒業
前職 日本長期信用銀行従業員
衆議院議員岸田文武秘書
所属政党 自由民主党宏池会
称号 法学士早稲田大学1982年
配偶者 岸田裕子
親族 祖父・岸田正記(元衆議院議員
父・岸田文武(元衆議院議員
弟・岸田武雄(実業家)
従兄弟・宮澤洋一参議院議員、元経済産業大臣
サイン
Fumio Kishida signature.svg
 
公式サイト 岸田文雄ホームページ

日本の旗
第100-101代 内閣総理大臣
内閣 第1次岸田内閣
第2次岸田内閣
第2次岸田改造内閣
在任期間 2021年10月4日 - 現職
天皇 今上天皇(徳仁)

日本の旗
第150代 外務大臣
内閣 第1次岸田内閣
在任期間 2021年11月4日 - 2021年11月10日(総理兼任)

日本の旗
第16代 防衛大臣
内閣 第3次安倍第2次改造内閣
在任期間 2017年7月28日 - 2017年8月3日

日本の旗
第143-144代 外務大臣
内閣 第2次安倍内閣
第2次安倍改造内閣
第3次安倍内閣
第3次安倍第1次改造内閣
第3次安倍第2次改造内閣
在任期間 2012年12月26日 - 2017年8月3日

内閣 第1次安倍改造内閣
福田康夫内閣
在任期間 2007年8月27日 - 2008年8月2日

その他の職歴
日本の旗
内閣府特命担当大臣(再チャレンジ)
第1次安倍改造内閣
2007年8月27日 - 2007年9月26日
日本の旗
衆議院議員
旧広島1区→)
広島1区
当選回数 10回
1993年7月18日 - 現職)
Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg
第27代 自由民主党総裁
2021年9月29日 - 現職)
Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg
第58代 自由民主党政務調査会長
(総裁: 安倍晋三
2017年8月3日 - 2020年9月16日
Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg
第52代 自由民主党国会対策委員長
(総裁: 谷垣禎一
2011年9月30日 - 2012年9月28日
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岸田 文雄(きしだ ふみお、1957年昭和32年〉7月29日 - )は、日本政治家自由民主党所属の衆議院議員(10期)、内閣総理大臣第100代第101代)、自由民主党総裁(第27代)、宏池会(岸田派)会長(第9代)。

内閣府特命担当大臣沖縄及び北方対策規制改革国民生活再チャレンジ科学技術政策)、消費者行政推進担当大臣宇宙開発担当大臣外務大臣第143代第144代第150代)、防衛大臣第16代)、自由民主党国会対策委員長(第52代)、自由民主党政務調査会長(第58代)、自由民主党広島県支部連合会会長を歴任した[1]

中小企業庁長官衆議院議員を歴任した岸田文武は父[2]。戦前戦後に衆議院議員を歴任した岸田正記は祖父[3]。実業家の岸田幾太郎は曾祖父。外国人登録支援機関である株式会社フィールジャパン with K 代表取締役岸田武雄は弟[4]参議院議員経済産業大臣を歴任した宮澤洋一は従兄[3][5]

 

来歴 

生い立ち 

広島県出身の通商産業省(現:経済産業省)の官僚であった父・岸田文武の元に東京都渋谷区で生まれる[3][6]。親の教育方針もあり、文雄は東京で育てられた[7]。岸田家は広島の一族であるため、一家は毎年夏に広島に文雄を連れて帰省し、文雄は広島原爆被爆者たちから当時の話を聞いた[8]。岸田一族も多くが被爆し、死に至った者たちもいた[8]

1963年、父の仕事の関係でアメリカ合衆国ニューヨーク市に居住し、小学校1年生から3年生まで3年間、現地の公立小学校に通う[9]。1963年秋から「PS 20」に通ったのち、1964年春からクイーンズ区の近隣住区エルムハーストに位置する「PS 13 Clement C Moore School」に通った[8]

1966年6月にパブリックスクール3年次を修了(米国は小学校入学が日本より半年早い)して日本に帰国。7月に永田町小学校(現:麹町小学校)の3年次に転入。麹町中学校を経て、1973年に開成高等学校に入学[10]。野球部に入部し、高校生活を野球に捧げ、その傍らでロック/フォークの流行に影響を受けギターに打ち込む[10]

大学から銀行員時代 

1976年に同高校を卒業、東京大学合格を目指し2年間の浪人を経験。

1978年に早稲田大学法学部に入学。政治家を数多く輩出している同大学に学んだものの、政治家を志したわけではなかった。当時は夏目漱石のような文豪に憧れ、庄司薫の小説も愛読し一人旅を好んだ。

1979年、父・文武が通産省を退官し、衆議院議員に当選。この際の熾烈な選挙戦を手伝ったが、多くの種類の人間に接し1票を入れてもらうため、いかなる努力をするべきなのか考える貴重な経験となり政治への道に影響した[11]。1982年、同大学同学部(民法不法行為):浦川道太郎ゼミ[12])卒業[2]、同年日本長期信用銀行に入行[2][13][14]

長銀入行後、最初の配属は本店勤務で外国為替業務を2年半経験し、こののち海運業界担当の営業マンとして高松市に2年半赴任した[10]。高松での地方営業では利息すら払えなくなった会社から経営再建の支援継続を相談されたり、倒産や夜逃げを目の当たりにして世間の厳しさや経済というものの激しい実態を知った[10]。1987年3月、政治家になる決意を固め、長銀を退行した[15]

政界 

1999年、建設政務次官就任時の岸田
2013年10月3日、内閣総理大臣安倍晋三らとともに

1987年、長銀を退行して父・衆議院議員岸田文武の秘書となる[2]。岸田の父は口数が少なく、岸田は父の背中から多くを学んだ[10]

1988年11月、マツダの社長秘書を務めていた和田裕子と結婚した[15]

1993年、第40回衆議院議員総選挙旧広島1区から自由民主党公認で出馬し、初当選[2][16]。父親と同じ宏池会に所属する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い広島1区から出馬し、以後広島1区で連続8選[2]。1997年には若手議員の登竜門とされる党青年局長に就任した[2]

2000年、派閥領袖の加藤紘一が起こした「加藤の乱」に血判状をしたためて参加し、石原伸晃塩崎恭久根本匠と行動を共にした[10]。乱の鎮圧後は堀内光雄宮澤喜一池田行彦らから声をかけられ堀内派に属した[8][17]

2001年、第1次小泉内閣文部科学副大臣に任命される。2007年、第1次安倍改造内閣内閣府特命担当大臣沖縄及び北方対策規制改革国民生活再チャレンジ科学技術政策)に任命され、初入閣した[2]。続く福田康夫内閣でも内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、科学技術政策)に任命され、引き続き入閣。

2008年、新設された消費者行政推進担当宇宙開発担当大臣を兼任[2]福田康夫内閣 (改造)の発足に伴い大臣を退任し、党の消費者問題調査会長・道路調査会副会長兼事務局長、団体総局長に就任[2]

2009年の第45回衆議院議員総選挙では、広島1区民主党菅川洋を破り、6選(広島県小選挙区議席を獲得した自民党の候補者は岸田のみ。また、広島1区では初めて次点以下の候補者が比例復活した)。2011年9月、自民党総裁谷垣禎一の下、党国会対策委員長に就任し、野党自民党の国会対策を担い与党民主党との交渉を担った(2012年9月退任[2])。2012年10月、政界引退を表明した古賀誠から宏池会を継承し、第9代宏池会会長に就任した。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、広島1区で7選。

外務大臣 

2014年9月1日、インド首相ナレンドラ・モディとともに

選挙後に発足した第2次安倍内閣では外務大臣として入閣し[注釈 1]第2次安倍改造内閣で留任、さらに2014年12月の第47回衆議院議員総選挙で8選した後に第3次安倍内閣でも再任、自民党総裁選後の2015年10月に発足した第3次安倍第1次改造内閣でも外相を留任する。

2015年7月5日に決定した軍艦島ユネスコ文化遺産登録では、韓国の妨害に対して「forced to work(働かされた)」という表現を用いて遺産の説明を行うことで対処した。この表現について岸田は「強制連行」を意味しないことを明言し、徴用工訴訟問題と関連付けしないことも合意させた[18]

同年12月28日ソウル市内で尹炳世韓国外交部長官と外相会談をし、日本国政府韓国政府が設立する元慰安婦を支援するための財団に10億円拠出し慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することで合意する日韓合意がなされた[19][20]

左から順に、安倍・オバマ・岸田。原爆ドームを望む。

2016年4月、地元広島で開催されたG7外相サミットの議長を務め[21]、他のG7外相と共に広島平和記念公園を訪問。広島平和記念資料館を訪れた後、原爆死没者慰霊碑に献花を行う[22]。同年5月、バラク・オバマの広島訪問が実現した際にオバマに対して原爆ドーム原爆の子の像、折り鶴などについて通訳を介さずに英語で説明を行う[23]

第24回参議院選挙後、同年8月に発足した第3次安倍第2次改造内閣でも留任。同年12月、安倍晋三真珠湾訪問に同行する[24]。2017年1月6日、外務大臣在職期間が大平正芳を超え、戦後の外務大臣としては歴代2位[25]、専任の外務大臣としては歴代最長となる[26]

外相の起用 

政策面では、内政の知識と経験が豊富であるが、外務大臣に起用されるまで外交に携わった経験はなく、幼少期のニューヨーク在住を除けば留学・在外勤務の経験もないため、本来なら外相は門外漢であった。しかし、外相起用に際しては普天間基地移設問題などを念頭に、岸田が沖縄担当相を歴任し、知事の仲井真弘多との親交も深いことが理由とされる一方、中国要人との太いパイプを持つ古賀誠を後見人に持ち、対話を重視するスタイルの岸田の起用が中国など関係諸国へのメッセージであるとの報道もある[27]

安倍晋三とは1993年の当選同期であり、派閥は異なるが関係は良い。安倍が幹事長代理を務めていた時代に、党改革で議論を交わした仲とされ[28]第一次第二次いずれの安倍内閣にも入閣しており、信頼も厚い。特に、第2次内閣発足以降、「タカ派」と評される安倍が、連続5期、4年半余りにわたって岸田を外務大臣に起用し続けた理由については、岸田の実務能力を買ったともされるが[29]、『夕刊フジ』は「ハト派」で「親米派」でもあるが「親中派」でもある宏池会出身という点を鑑みて、菅義偉石破茂河野太郎らの人事も含め、中国をはじめとする周辺諸国への友好姿勢をアピールする狙いがあると報じた[30]

防衛大臣 

2017年7月28日、自衛隊南スーダン派遣での日報の隠蔽疑惑に関する問題の責任を取って稲田朋美が辞任したのに伴い、内閣改造までの一週間に渡って防衛大臣を兼務した[31]外務大臣防衛大臣の兼務は憲政史上初であった[2]

政調会長 

大阪市内で演説する岸田(2017年10月19日)

2017年8月の内閣改造では以前から希望していた党三役ポストである自由民主党政務調査会長に就任し、安倍晋三首相を支持して党内を乱さないことで2020年以降の『ポスト安倍晋三』に向けて存在感を示す方針を取った[32][33]

2018年9月の自民党総裁選挙に向けては、岸田派内では若手を中心に岸田の出馬を求める主戦論が優勢である一方、ベテランなど一部に今回は首相支持に回り3年後に首相からの「禅譲」を狙うべきだとする慎重論があり[34]、最終的に7月24日に岸田が自身の立候補見送りと安倍への支持を表明したが、党内からは「乗り遅れだ」との冷ややかな見方が広がった[35]

2018年10月、自民党総裁の直属機関(総数24)のうち、『道州制推進本部』『日本経済再生本部』『外交戦略会議』『農林水産業・地域の活力創造本部』『歴史を学び未来を考える本部』の5つを廃止した。政務調査会の権限を強めることを狙った[36][37]

2020年の自民党総裁選には、9月1日に岸田派の臨時総会で出馬を表明した[38][39][40]。結果は内閣官房長官菅義偉に敗れ、2位に終わり、「今日の戦いが終わった今、新たなスタートだと思っている。総理・総裁を目指して次の歩みを進めていきたい」と述べた[41]

2020年9月11日、初の著書となる『岸田ビジョン 分断から協調へ』を出版した。当初は15日に出版する予定であったが、14日の総裁選投開票日に間に合わせるために前倒しされた[42]

総裁選後の2020年9月15日に政調会長を退任した。

政調会長退任後 

2021年3月27日、自由民主党広島県連会長に就任。同会長を務めるのは3回目[43]

同年5月12日、自民党本部で二階俊博幹事長と会談。党本部が2019年の参院選広島県選挙区をめぐり、現職の溝手顕正を追い落とすため、河井案里陣営に送金して買収の原資になったとの指摘がある1億5,000万円について、使途解明を急ぎ、国民に説明するよう申し入れた(詳細は河井夫妻選挙違反事件を参照)[44][45]

同年8月26日、自民党の総裁選挙管理委員会は、総裁選の日程を「9月17日告示、29日投開票」と決定した[46]。この時点で、現職の菅義偉が立候補を予定しており、二階、麻生、細田派会長の細田博之公明党代表の山口那津男らは菅の再選支持を明らかにしていた[47][48][49]。しかし同日、岸田は国会内で記者会見を開き、総裁選出馬を正式に表明した。全候補者のなかで最も早い立候補表明であった。立候補する理由について「自民党が国民の声を聞き、幅広い選択肢を示すことができると示し、日本の民主主義を守るため」と語った[50]。その後、菅は出馬しない意向を示し、岸田と河野太郎高市早苗野田聖子の四者の選挙戦となった[51]

自由民主党総裁内閣総理大臣 

2022年4月28日、ドイツ首相オラフ・ショルツとともに
2022年5月5日、英国首相ボリス・ジョンソンとともに
左からオーストラリアのアンソニー・アルバニージ首相、アメリカ合衆国ジョー・バイデン大統領、日本の岸田文雄首相、インドのナレンドラ・モディ首相(2022年5月24日に東京で開催された2回目の対面による日米豪印戦略対話にて)

2021年9月29日、自民党総裁選の投票が行われた。1回目の投票でトップの256票を獲得したが、有効投票数[注釈 2]過半数に届かなかったため河野太郎との決選投票が行われることになった。決選投票[注釈 3]では257票を獲得して河野太郎(170票)を破り、第27代総裁に選出された[52]

10月1日、新体制の党執行役員人事を決定し、副総裁に麻生太郎、幹事長に甘利明政務調査会長高市早苗、総務会長に福田達夫選挙対策委員長遠藤利明がそれぞれ就任[53]

10月4日、衆議院および参議院本会議で行われた内閣総理大臣指名選挙にて指名し天皇による任命を経て第100代内閣総理大臣に就任。第1次岸田内閣が発足した。

岸田は64人目の総理大臣で[7][54]、広島出身の総理としては[54][55][56]加藤友三郎池田勇人宮澤喜一に次ぐ4人目で[7][54]広島県山口県(8人)、東京都(5人)に次いで3番目に多い総理大臣輩出県となった[7][54][57]太平洋戦争後に限れば、群馬県4人に次ぐ3人で[58]、2位[7][54][56]大正以降は、昭和平成令和と全ての年号で総理大臣を生んでいる[59]野田佳彦より誕生日が遅いため、存命中の内閣総理大臣経験者の中では最年少者となった(就任時の年齢は64歳で、39番目に若い)。

10月6日、アメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンと総理就任後初となる電話会談を行った。

10月14日、第205回国会会期末を迎え衆議院を解散[60]、31日の第49回衆議院議員総選挙では、圧勝で10選。自民党は重鎮の落選が相次ぎ、公示前の276議席から261議席に減らしたものの、「絶対安定多数」を単独で確保した。この時点で、公明党と合わせて与党は293議席となった[61]

11月2日、イギリスグラスゴーで開催されたCOP26に出席し、バイデン大統領とも短時間ながら初の対面による懇談を行った[62]

11月4日、茂木敏充外相の自民党幹事長就任に伴い、新外相就任まで岸田自身が外務大臣を兼務した[63]

11月10日、第206回国会が招集され、午前中に第1次岸田内閣は総辞職。午後の内閣総理大臣指名選挙の結果、天皇による任命を経て第101代内閣総理大臣に就任し、第2次岸田内閣が発足。

11月24日、国内で外国首脳と初めての会談となる日越首脳会談を行った。

12月9日、岸田が任命した内閣官房参与(観光立国その他特命担当)の石原伸晃が自身が代表を務める党東京都第8選挙区支部が60万円の「雇用調整助成金」を受け取ったことで混乱を招いたなどとして辞職[64]

12月11日、衆議院議員宿舎を退去して元首相野田佳彦以来9年ぶりに内閣総理大臣公邸に入居した。当面は岸田と秘書の長男が暮らす。危機管理の強化を理由にしている[65]

2022年1月17日、第208回国会常会)が召集され[66]、岸田は施政方針演説を行った。

2022年7月8日、第26回参議院議員通常選挙の選挙運動中に安倍晋三が銃撃され死亡する事件が発生した(安倍晋三銃撃事件[67]。これを受けて、岸田は「本日午後5時3分、安倍晋三元総理がお亡くなりになられました。どうか一命を取り留めていただきたいと祈っておりましたが、祈りも虚しく、こうした報に接することになってしまったこと、誠に残念であり、言葉もありません。心よりご冥福をお祈りしたいと思います。民主主義の根幹たる、選挙が行われている中、安倍(元)総理の命を奪った、卑劣な蛮行が行われた。断じて許せるものではなく、最も強い言葉で改めて非難を申し上げます」と官邸で述べた[68]

7月14日に官邸記者会見で、閣議決定により安倍晋三国葬を実施すると表明した[69][70]

8月10日に第2次岸田改造内閣を発足させた[71]

 

政策・主張 

経済・財政 

  • 2021年の総裁選で新自由主義からの脱却による日本型資本主義の再建を主張している。
  • 2019年の消費税増税について「日本の政治は消費税率引き上げに様々なトラウマがある。成功体験を実感することが大事だ」[72]と発言している。
  • 新型コロナウイルスの感染拡大に伴う経済対策として、当初は岸田が主導していた減収世帯への30万円の給付が検討されていたが、政府はこれを撤回し、全国民への一律10万円給付を行う形となった。岸田氏は自身のツイッターで『自民党も当初から訴えてきた10万円一律給付を首相が決断した』とツイート。実際、党内にも一律給付を求める声はあったが、最終的な党の提言には盛り込まれなかった。このため党のベテラン議員は「歴史の書き換えだ」、ネット上でも「うそ言わないで」といった批判が殺到した[73]。一方で岸田自身は早くから首相に現金一律給付を提案していたものの、3月28日の首相会見で限定給付が明言されたために持論を封じざるを得なかった経緯があったため、岸田が会長を務める政務調査会の議員からは「我々が散々言っていた案だ。それが公明党の案のようになっている」という声も上がった[74]
  • アベノミクスを評価しつつも、貧富の格差の拡大を招いていることを指摘し中間層への分配を主張している[75][76]
  • 地方創生策としてデジタル田園都市国家構想を主張している[75]
  • 商工族出身であるため、自動車工業界・中小企業零細対策などに詳しい[26]。大手自動車メーカーのサプライチェーンを何重にもなって下支えする中小の下請け業者や、地域社会・商店街の小売店など中小企業・小規模事業者を守ることを重要視している[75]
  • 国民年金厚生年金の財政一元化ないしは調整を主張している[10]
  • 三位一体改革によって都道府県に移譲された商工会議所の事業費・人件費の財源を再び国に移譲することを主張している[10]
  • 2022年5月5日イギリスロンドンシティを訪れた際、自身が元銀行員で戦後初の金融業界出身であったことから「最近の総理大臣の中では、最も経済や金融の実態に精通している」と自負し、日本への投資を訴えた。この時「安心して日本に投資をしてほしい。インベスト・イン・キシダ(岸田に投資を)です」と述べ、安倍晋三の「バイ・マイ・アベノミクスアベノミクスは買いだ)」のオマージュとの声もあったが、過去に金融所得課税に触れていたことから市場関係者からは「インベスト・イン・キシダです」ではなく「インベスト・イン・キシダ・DEATH(岸田に投資したら死ぬ)だ」などと揶揄された[77]

憲法・平和 

  • 憲法改正に賛成している[78]
  • 2015年に派閥研修会で「宏池会憲法に愛着を持っている。当面、憲法9条自体は改正することを考えない。これが私たちの立場ではないかと思っている。」と主張している[26]
  • 集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈を見直すことについて、「限定的に行使」されることが明記されているとして賛成している[78][79]
  • 憲法観について護憲派である自身と安倍に距離があることを認めつつも、自衛隊の明記については平和主義の放棄に当たらないため「許容範囲内」であるとしている[79]
  • 日本の核武装については検討すべきでないとしている[78]
  • 核兵器廃絶に向けての指針として『岸田イニシアチブ』を、自著『核兵器のない世界へ』の中で発表している[79]
  • 広島陸軍被服支廠を保存すべきとしている[80]
  • 自民党が右傾化していると言われるが、保守穏健派があると示すためにも、仲間の応援に飛び回りたい」と党内の穏健派をアピールしている[81]
  • 「今の日本の政治において気になることがあります。強いリーダーシップ、米国中心外交、タカ派的体質が強調されることです。それぞれの意義を否定するものではありませんが要はバランスが大切だと思っています」と述べている[82]

教育 

  • 高等教育における「所得連動型授業料返還方式」の導入を主張している[10]
  • 国立大学の法人化について問題点が多発していることを認め、官民による資金投入や大学運営上の制限撤廃を主張している[10]

エネルギー政策・科学技術政策 

  • エネルギー政策に関しては、原子力規制委員会の新基準を満たした原子力発電所は再開すべきとしている[78]。また、核燃料サイクルにも賛成。この理由として、「核燃料サイクルを止めてしまうと、除去される高レベルの核廃棄物はそのままということになる。再処理すると廃棄物の処理期間は300年と言われている。高レベルの核廃棄物を直接処理すると10万年かかると言われている。この処理の問題をどう考えるのか。核燃料サイクルを止めてしまうとプルトニウムがどんどん積み上がってしまう。」と述べたが、そのためには2021年現在存在しない「高速炉」やその再処理工場が必要である[83]
  • 科学技術立国を掲げ、政策に科学技術の視点を反映するため首相直属の首席科学技術顧問、各省に科学技術顧問を置くことを明言している[84]。一方、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)を担う中で、失策と名高い「選択と集中[85][86][87]を進めてきた張本人でもある[88]

表現の自由 

自民党統一教会との癒着問題 

その他 

  • 女性宮家の創設に反対[78]
  • 選択的夫婦別姓制度の導入にどちらかといえば反対(2014年)[103]。2017年は夫婦別姓制度に無回答、同性婚制度も無回答[26]夫婦別姓LGBTなどジェンダーに関する考え方は後手に回っていた岸田であったが[26]、徐々に政策見直しを行い2020年9月の共同通信からの質問には「女性の社会進出や核家族化など、時代の変化を的確に捉えた上で議論が必要」、「性的少数者の方が生活していく上で、不利益や不自由を感じない制度が必要」と回答し[104]、2021年3月25日に発足した「選択的夫婦別氏制度を早期に実現する議員連盟」に「呼びかけ人」として参加するに至った[105]。2021年9月15日、BS-TBSの番組で、「(選択的夫婦別姓制度)導入を目指して議論をすべきだ」と述べ、導入に意欲を示した[106]
  • 2021年9月17日のテレビ朝日の番組で、同性婚の是非をめぐり岸田は「多様性を認めるということで、議論があってもいいと思うが、まだ認めるところまで私は至っていない」と答えた[107]。なお、2021年3月に北海道地裁は「性的指向は人の意思で選択、変更できない。同性愛者が婚姻によって生じる法的効果の一部すら受けられないのは、立法府の裁量の範囲を超えた差別的な扱いだ」と判決を出していた[108]
  • 自民党の議員定年制見直しに反対[109]
  • 党執行部の権限が強くなりすぎたとして、自民党の役員任期を1期1年、連続3期までに制限することを主張している[110]
  • 2021年9月2日夜、BS-TBSの番組で、学校法人森友学園への国有地売却をめぐる公文書改ざん問題について、「国民が足りないと言っているので、さらなる説明をしなければならない課題だ」と指摘した。この発言を受けた安倍晋三前首相付近などから「岸田がこの問題を再調査」するとの憶測が浮上したが[111]、岸田は「必要があれば国民に説明する」が「再調査は考えていない」と述べた[111]
  • 総裁と幹事長ら執行部に就任中の者は、小泉内閣以降、公平性確保などの観点から派閥を離脱し、派閥の活動(派閥の集会に参加することなども含む)を控えることが慣例的であるが、派閥活動を継続するだけでなく派閥(宏池会)の領袖を継続している。一部の議員からは批判が出ているものの福田達夫総務会長は2021年11月26日の記者会見で「公平性に疑義があるとの批判は起きておらず、問題ない」としている[112]
 

政治姿勢 

正姿勢 

「正姿勢」とは、宏池会の設立者・池田勇人陽明学者安岡正篤から「低姿勢、高姿勢いずれも間違いだ。自分の政治哲学を持っていれば、おのずから『正姿勢』(正しい姿勢)になる」と助言された言葉である[113]。岸田は宏池会で語り継がれてきた「正姿勢」の助言を聞き入れ、信条としている[114]平凡社世界大百科事典』第2版によると、かつて正しい姿勢とは軍隊式の直立不動をいうものであったが、現代社会においては、もっと自然で安楽な姿勢で直立することが基本となっている[115]安岡正篤全国師友協会から『日本の機微 低姿勢より正姿勢へ』という題名の文書を刊行している[116]

2017年第195回国会衆議院本会議の代表質問において、岸田は首相の安倍に「正姿勢」の話を質問の最後に演説した[15]。与党自民党議員は岸田の質問途中から相次いで離席していた[113]。野党は岸田へ拍手を送った[117]。演説後、着席までの25秒間、岸田は万雷の拍手を受けた[118]。政治評論家の杉浦正章は、岸田の演説を池田勇人の低姿勢からの脱皮と評価した[118]

昭和三十五年、岸信介総理から政権を引き継いだ池田勇人総理が、みずからの政治姿勢として寛容と忍耐という内閣のスローガンを提唱した際、それが低姿勢と受け取られ、責任ある政権の姿として疑問が指摘された、こういったことがありました[注釈 4]。これについて、陽明学者であり、池田総理の心の師であった安岡正篤氏は、低姿勢、高姿勢、いずれも間違いである、自分の政治哲学をはっきり持っていれば、おのずから正姿勢、正しい姿勢になると助言したと言われています。相手の顔色を見て右顧左べんするようでは、国民への責任を果たすことはできません。同時に、野党や国民に上から目線で臨むようでは、国民の信を失い、真っ当な政治を行うことはできません。総選挙において多くの議席をいただいた今こそ、正姿勢、三文字を胸に、公約実現のため、日々前進してまいりたいと存じます。結びに当たり、思いの一端を申し上げ、私の質問といたします。— 岸田文雄、第195回国会 衆議院本会議 第5号(平成29年11月20日(月曜日))
 

人物 

人物評 

  • 古賀篤によると、岸田は「人の意見を受け止めるタイプのリーダー」[147]。温厚で敵を作らない性格で知られているが、2020年自民党総裁選中に出演した民放番組で司会者に「敵がいない」と人柄をほめられると「実際敵だらけだからこうなってんじゃねえかな」と答えた[148]
    • 加藤の乱」のように政治生命を賭けた勝負もするが[15]、岸田は理念をはっきり主張しないことによって敵を作らない順応型であるから有力な地位が持てたのだとも指摘されている[26]。著書もなくビジョンがないと言われていたが、2020年9月に初めて著書を出版してビジョンを示し、立て続けに翌月、核兵器の廃絶を訴える著書を出版した。
  • 何事もそつなくこなすジェネラリストと評されている[28]。他方、『デイリー新潮』には「超つまらない男」という記事を書かれたことがある[149]
  • 外見が美男子であることが注目されている。「政界きってのイケメン」ともいわれ[3]、『週刊女性PRIME』からは外相時代の2017年に「イケメン大臣」として言及された[150]

趣味・嗜好 

関係団体 

全国教育問題協議会との関係 

  • 全国教育問題協議会(全教協)の機関誌『教育問題16号』(2020年9月刊行)に、岸田は寄稿した[168]
  • 全教協の役員の一人には、2010年の時点で統一教会関係者だと判明していた人物Aがいた[169][170][171][172]
  • 2019年9月6日、東京都永田町の自由民主会館で開かれた全教協の役員会と研修会で、岸田は「昭和52年からの全教協の歴史を振り返ると、美しい日本人の心を大切にする教育の改革を推進し、大変なお力であったと思う」とあいさつした[173]

統一教会との関係 

  • 岸田は「旧統一教会との関係については、まず私個人は、知る限り当該団体とは関係はないということはまず申し上げておきたいと思います。」と2022年8月6日に述べた[174]
 

エピソード 

政界入り以前 

政界入り以降 

  • 妻の岸田裕子とは見合い結婚と報道されるが[179]、実際は父の秘書として企業回りをしていた時に岸田が一目惚れし、儀礼的に見合いの場が設けられたもの[123]
  • 自民党青年局における台湾との交流では、酒に強い台湾の政治家らの歓迎を一手に引き受け、ビールも紹興酒マオタイも次々に乾杯して文字通り杯を空(乾)にしたという[15][134]。これらは岸田の「酒豪伝説」として知られている[15]
  • 2000年11月20日の「加藤の乱」には加藤派の若手として血判状をしたためて参加し、岸田は石原伸晃根本匠塩崎恭久と行動を共にし最後まで反乱側に与した[10]
  • 2004年4月4日、広島市南区比治山陸軍墓地にて、岸田が会長を務める広島比治山陸軍墓地奉賛会の主催で合同追悼式が行われた[180]戦没者の遺族や関係者ら約270人が参列し[180]、岸田は「苦難に立ち向かった人の記憶を語り継がなければならない」とあいさつした[180]。黙祷の後、遺族が祭壇に献花した[180]
  • 2007年に内閣府特命担当大臣で初入閣時、「岸田大臣室の心得」として定めた五箇条に、早稲田大学校歌に歌われる「進取の精神」という一箇条がある[15]。第2次安倍内閣外務大臣を担当していた頃の話では、年一回の早大議員同窓会「国会稲門会」には参加していない[181]
  • もともと口下手だが、父の選挙応援の頃から演説は鍛えられ、街頭演説は得意としている[15]
  • 並み居る各国外相の中でも酒豪として轟くロシアラブロフ外相が2013年11月に来日した際には、夕食会で広島の地酒を相手の杯につぎ、3時間にわたって酒量を競い合った[134]
  • 2020年自民党総裁選に立候補を表明した日の未明、エプロン姿の妻が立つ傍らで食事をとる自身の写真と共に、「夜のテレビ出演の合間に、地元から上京してきてくれた妻が食事を作ってくれました。ありがたいです」と投稿した[182]
  • 特技は「人の話をしっかり聞くこと」と総裁就任会見の場で語っている[183][184]。政治家の道を歩んで以降、「岸田ノート」と呼ばれる大学ノートを持ち歩いて[185][186]、国民から聞いたことや愚痴、批評などを書き纏めた上で読み返しており、年間で3冊分、10年間で30冊近くになっている。「岸田ノート」について、2021年8月26日の会見では「聞く力の原点であり、私にとって大切な財産」と紹介している[187]内閣総理大臣就任後は、環状に座り国民から直接意見を聞く「車座対話」を積極的に開催し、全閣僚に実施するように呼びかけている[188][189][190]
  • マスク着用を緩和すべきでないという考えを示しながら、海外の首脳と会談する際にはマスクを着けていない事から、Twitterでは「#自分だけノーマスク岸田」というハッシュタグがトレンド入りした[191]
 

役職 

内閣 

第1次岸田内閣第2次岸田内閣
内閣総理大臣
第2次安倍内閣第2次安倍改造内閣第3次安倍内閣第3次安倍第1次改造内閣第3次安倍第2次改造内閣第1次岸田内閣
第3次安倍第2次改造内閣
福田康夫内閣
第1次安倍改造内閣
第1次小泉内閣
小渕第2次改造内閣第1次森内閣

衆議院 

自民党 

 

所属団体・議員連盟 

 

家族・親族 

岸田家 

広島県東広島市大連市広島市南区比治山町、東京都渋谷区

実家
自家

親戚 

系図 

 
 
 
 
 
 
 
山野井道澤
 
 
 
小田常吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
たき
 
 
 
小田貫一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岸田忠次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩動康治
 
 
 
高子
 
 
 
をきな
 
 
 
小田得一
 
 
 
 
 
 
 
岸田幾太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岸田光太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
井口良二
 
岩動道行
 
 
 
 
 
 
小田勝
 
 
 
和子
 
 
 
岸田正記
 
 
 
 
 
岸田正次郎
 
 
 
 
宮澤裕
 
 
岸田人見
 
 
 
 
 
 
 
 
 
綾子
 
サーロー節子