開けて悔しき玉手箱のブログ

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1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた各地域でおきた人工的な大飢饉である[1]。ウクライナ飢饉[2]、飢餓テロや飢餓ジェノサイド、スターリン飢饉などとも呼ばれる[3]。

ホロドモール  

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

ホロドモールによる餓死者とされる写真。群集が集まる中、路上に放置されている。

ホロドモールウクライナ語Голодомо́рロシア語Голод на Украине英語Holodomor, Famine Genocide)は1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた各地域でおきた人工的な大飢饉である[1]ウクライナ飢饉[2]飢餓テロ飢餓ジェノサイドスターリン飢饉などとも呼ばれる[3]ウクライナ語で 「ホロド」は餓え・飢饉を意味し、「モール」は疫病を表す[2]

ソ連における第一次五カ年計画において、コルホーズ(集団農場)による農業の集団化、クラーク(富農)撲滅運動、また反国家分子をグラグなどの強制収容所に収容したり[4]、さらに穀物の強制挑発などを原因として発生した[5][2]。「富農」と認定されたウクライナ農民たちはソ連政府による強制移住により家畜農地を奪われ、「富農」と認定されなくとも、少ない食料や種子にいたるまで強制的に収奪された結果、大規模な飢饉が発生し、330万人[6]から数百万人ともされる餓死者・犠牲者を出した[5][7]。この大惨事は、当時のソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンによる計画的な飢餓であったっことが歴史学の研究で明らかになっている[6]ウクライナに対するジェノサイド(大量虐殺)であったもとされるが、「民族の絶滅」を意図したという意味での「ジェノサイド」であったかについては議論がある[6]

 

概要 

ハルキウ州で行われた「プロレタリア革命の波」と呼ばれるコルホーズからのパンの強制収集。
飢餓により街頭に倒れ込んでいる農民と気にすることなく通り過ぎるようになった人々。(1933年)

ウクライナでは1919年ウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立を経て、1922年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト連邦を構成した。ソビエト・ロシアにとって、ウクライナから収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段であった。飢餓が発生してもウクライナの小麦は徴発され、輸出に回され続けたため、それが更なる食糧不足を招くことになった(飢餓輸出[3]

富農撲滅運動(ラスクウーラチヴァニェ)の名の下での反革命分子の粛清・殺戮、コルホーズによる強制農業集団化によって多数の犠牲が生じた[3]。さらにウクライナ語の禁止なども行われた。ウクライナ飢饉はスターリンによる強力な意図を持った強制封鎖によるものであったとされる[3]

ホロドモールの主な地域は以下の通り

 

経緯 

強制収容所の設置 

スターリンは反ソ連分子・反革命分子を収容する強制収容所を次々と建設していった。すでに1920年代に白海ソロフキ島強制収容所が設置され、スターリンは1929年にこれをソ連全域に適用し、「特別居留区」の設置を決定した[8]。シベリア、ヨーロッパロシアカザフスタンの「特別居留区」には、「富農」が170万人強制移住させられたが、そのうち30万人がウクライナ人だった[8]。1931年、「特別居留区」と強制収容所を、グラーグとして統合し、これはやがて476箇所建設され、1800万人が送り込まれた[8]。収容中に死亡したのは150万〜300万人とされる。ウクライナ農民はベロモル運河で強制労働に従事した[8]ソ連当局は強制収容者の5%が死ぬと予測していたが、実際は10-15%が死んだ。ベロモル運河での強制労働従事者は十分な食事ではなかったが、1933年のウクライナ農民の2倍〜6倍であった。[8]

第一次五カ年計画 

ソ連では経済停滞と資本主義を克服するために計画経済が目指された。1928年から1932年にかけてのスターリン第一次五カ年計画(1928-32)では、共産主義を実現するために、工業化と、ソ連最大の社会集団である農民層を支配して農業の集団化が目指された[8]。この5年間の間に、数万人が処刑され、数十万人が衰弱死し、数百万人が餓死することとなった[8]

富農撲滅運動(ラスクウーラチヴァニェ) 

ウクライナにはすでに1918年には「富農」はいなくなっていたにもかかわらず、富農撲滅運動(ラスクウーラチヴァニェ)での「富農」の基準は下げられ、牛を2〜3頭所持しているだけでも「富農」として粛清の対象となった[3]

1929年12月、農業の集団化に対する農民の反抗を予期したスターリンは、「富農(クラーク)をひとつの階級として抹殺する」と宣言した[8]。各地域に三人組の「トロイカ」が設置され、村人のうち富農に該当するものを逮捕していった。トロイカによって処刑されたものは約3万人にのぼった[8]

ウクライナでは、1930年の最初の4か月で、11万3637人がクラークとみなされ、ヨーロッパロシア北部、ウラル山脈シベリアカザフスタンなどへ貨物列車に乗せられて、強制移住させられた。列車からおろされると、強制労働に従事した[8]

集団農業 (コルホーズ)の強制 

当初、コルホーズ(農業集団化)は自発的に行われていたが、次第に強制的なものになっていった。ソ連OGPUは、ウクライナ民族主義者ウクライナ人の知識人、集団化政策への反対者、そして共産党政権にとって脅威であると見なした者を容赦なく処罰した。豊かな土壌に恵まれたウクライナでも、課せられた収穫高の達成は困難で、更に当局による厳しい食料徴発に耐えられず、不満を表明する動きが現われた。また、農村部は民族主義者の溜まり場として目をつけられていた[要出典]

1930年、コルホーズ(集団農場)による農業の集団化が開始し、ウクライナ共産党幹部は、従わなければ強制移住になるとウクライナの農民たちを脅した[9]。しかし、農民は蜂起し、1930年にはウクライナで100万の抵抗運動が起こった。何千人の農民がポーランドに逃げた[10]

集団化政策の強行は減産を招いた。各集団に割り当てられた食糧を供出すると、農民達自身の分は残らなかった。更に、数々の条例が制定された。農産物は全て人民に属するものとされ、パンの取引や調達不達成が罪になった。落ち穂を拾ったり、穂を刈るだけでも「人民の財産を収奪した」という罪状で10年の刑を課せられた。

1931年、飢饉の始まり 

1930年は豊作だったが、スターリンは、この年の収穫高を基準として翌年の徴発計画を立てた[11]。翌年の1931年には不作だったため、ソ連当局は、目標値を達成していない集団農場に、作付け用の種子の差し出しも命じた[11]スターリンは農民が穀物を隠しているとみていたが、ウクライナの農民は本当に何も持っておらず、1931年末にはすでに多くの農民が飢え始めた[11]。年が明けても、種子がないので作付けできなかった。

1932年 

1932年になると、ウクライナ共産党員は餓死の報告と飢饉の危険を訴え、ソ連当局にも飢饉の報告はあがっており、1932年6月にはハルキウのすべての地区での餓死が報告された[11]スターリンは非公式に飢饉を認めたが、計画通りに穀物の徴発を続けるよう命じた[11]。なお、ロシア内戦の際、1921年ウクライナでは何十万人が餓死したことをスターリンは知っていたので、飢饉を回避する考えはスターリンになかった[11]スターリンは飢饉の原因は農業集団化政策でなく、農民が「めそめそ泣いて」ソビエト国民を混乱させていると不満を述べた[11]スターリンは「ウクライナの不穏分子を叩き潰せ」とカガノーヴィチモロトフなどの忠実な盟友に命じていた[11]。1932年7月ハルキウでのウクライナ共産党中央委員会総会における現地の飢饉の報告に対して、カガノーヴィチとモロトフらモスクワ特使たちは報告者を黙らせた[11]

1932年夏にはカザフスタンでも100万人が餓死した[11]

共産党青年団による徴発 

1932年8月7日、農産物はすべて国家の財産であるため、許可を得ずに食料を収奪または備蓄すれば窃盗とみなす法律が発効した[12]。こうして畑には監視塔が設置され、オデッサでは700の監視塔が設置された[12]共産党青年団はかたっぱしから農家を捜索し、穀粒にいたるまで持っていき、調理中の夕食まで持っていった[12]青年団の徴発部隊は、農民同士にボクシングをさせたり、犬のまねをさせたり、盗みを働いたとされた女性は裸にされ、村中を引き回した。ひとり暮らしの女性に対して青年団の徴発部隊は、「穀物徴発」の名目で夜間に侵入し、強姦した[12]

都市から派遣された労働者や党メンバーから構成されたオルグ団は空中パトロールで畑を監視し、農場にはコムソモールのメンバーが見張りに送り込まれた。告発が奨励された。子供が肉親を告発して、食物や衣類やメダルが与えられた。共産党少年団のこども50万人は「共産党の目と耳」になることを命じられ、畑を監視した[6]。党の活動家達は家々を回り、食卓から焼いたパンを、鍋からカーシャ(粥)までも奪っていった。

こうした徴発「政策」で収穫高があがることもなく、1932年10月には、スターリンに忠実なモロトフでさえ、割り当てを減らすよう進言した[12]

スターリンの妻自殺事件以後の徴発強化 

1932年11月9日スターリンの妻アリルーエワが自殺すると、スターリンはいっそう悪意を強め、サボタージュが疑われた集団農場の職員1623人が逮捕され、年末までにウクライナ人3万400人が流刑地に送られた[12]スターリンは集団化による飢饉は「作り話」で「悪意ある噂」であるとみなし、飢え死にしかけている農民は、ソ連の信用失墜をもくろむ資本主義国の手先であるとみなした。[12]

  • 11月18日、ウクライナ農民は、余剰穀物の「返還」が求められた。共産党の徴発部隊と警察が熱心に捜索した。[12]
  • 11月20日、割当量を納られなかった農民は肉(家畜)で支払うことを義務付けられた[12]
  • 11月27日、ソ連国内で未収となっている穀物の3分の1をウクライナに割り当てられた[12]
  • 11月28日、ソ連ブラックリストを導入し、割当量を納られなかった集団農場は15倍の分量の即時納入を義務付けられた[12]
  • 12月5日、フセヴォロド・バリツキー(Vsevolod Balitsky)内務人民委員部ウクライナ支局長の進言で、ウクライナ飢饉は、民族主義者による陰謀であるとされ、徴発で責任を果たさなかったものは国家に対する裏切り者とされた[12]。翌1933年1月までにバリツキーは、違法組織を1000以上発見したと報告した。農民をかばったものは敵とみなされ、有罪判決を受けた。
  • 12月14日には、ウクライナ共産党に潜む民族主義者を強制収容所に送ることが許可された[12]
  • 12月下旬、ウクライナの死亡者数は数十万人に達した[12]
  • 12月21日、スターリンは徴発量の年間割り当て量を決定し、翌1933年1月までに徴発するよう命じた[12]カガノーヴィチウクライナに到着すると、翌朝までの会議で徴発目標の達成決議が出された[12]。これは、ウクライナの300万人への死刑宣告を意味した[12]
  • 12月27日、国内パスポート制が導入され、農民達は農奴さながらに村や集団農場に縛り付けられた。

スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口4万人の村は、食料調達に応じる事が出来ず、村の住民が丸ごと追い立てられ、男性は白海・バルト海運河建設へ、女性はウラルのステップ地帯に送られ、離散を余儀なくされた[要出典]

1933年 

1933年初頭、スターリンは、ウクライナ国境を封鎖して、農民が外へ逃げられないようにした[12]ソ連ウクライナとロシアとの国境に軍隊を駐屯させてウクライナを封鎖した目的は、ウクライナ穀物流入することを阻止するためだったともされ、合同国家政治保安部武装分遣隊が旅行者を検査し、旅行許可書を持たないものは拘束され、キエフに返送された[13]。1933年1月14日以降は、都市部住民に国内パスポートの携行が義務付けられ、農民には国内パスポートは発行されなかった[12]。1月22日、農民の国外脱出が報告されると、スターリンは逃亡農民を「資本主義国家の陰謀の手先」であるとし、2月末までに19万人が逮捕された[12]

1933年1月から3月にかけて、さらに種子の徴発がすすめられた[12]。そのため、集団農場はなにも栽培することができなくなった[12]

1933年春にはウクライナで1日1万人の割合で人が死んでいったことがのちに分かっている[4]1933年春には、エンバクや、フダンソウといった飼料を「悪用」すると「10年は強制収容所へ送られる」と言われた。

グラグ 

1933年2月から4月までに農民15000人がグラグに送られた[4]。ロシア共和国内クバン地方のウクライナ人も6万人が強制追放され、1933年内にはさらに14万2000人のウクライナソビエト国民がグラグに送られた[4]。グラグでは、1933年に少なくとも67297人が栄養失調や病気で死亡した[4]。特別居留区では24万1355人(その多数はウクライナ人)が死亡した[4]ウクライナからカザフスタンや極北に送られる途中でも多くが死に、遺体は列車からおろされ、その場に埋められた[4]

餓えの果ての人肉食 

食料を没収された農民達はジャガイモで飢えをしのぎ、ドングリイラクサまで食べた。遂に人々は病死したや人間の死体を掘り起こして食べるに至り、その結果多数の人間が病死している。赤ん坊を食べた事例さえもあった。通りには死体が転がり、ところどころ山積みされ、死臭が漂っていた。取り締まりや死体処理作業のため都市から人が送り込まれたものの、逃げ帰る者も多かった。子供を持つ親は誘拐を恐れて子供達を戸外へ出さなくなった。形ばかりの診療にあたった医師達には、「飢え」という言葉を使う事が禁じられ、診断書には婉曲的な表現が用いられた。困り果てた農民達が村やソビエトに陳情に行っても「隠しているパンでも食べていろ」と言われるだけだった[要出典]

ウクライナでは家族同士で殺害してその人肉をたべることが頻発した[6]。これはOGPUでも記録されており、親が子供を殺してその肉を食べたあと、その後やはり餓死したり、別のケースでは母親が息子を殺して、娘と二人でその肉を食べ、別の家では、息子の嫁を殺して、その肉を食べたりし、さらには人肉を取引する闇市場も登場したとも伝わる[6]ウクライナでは1932年から1933年にかけて2505人がカニバリズムにより有罪となった[6]

 

国際社会の反応 

ウクライナの報道も制限されていたので、ごく少数の目撃者をのぞいて世界に知られることもなかった。ジャーナリストのガレス・ジョーンズは1933年3月、ウクライナへの旅行禁止処置をやぶって汽車でハルキウに入り、人々が飢えで腹がぱんぱんにふくらんでいるのを目撃した[4]。マリア・ウォヴィンスカは、何体もの死体をみた[4]

こうした少数の報道や、ウクライナから逃亡した農民たちの証言などから、ウクライナでの惨状について各国もある程度承知していたが、スターリンは、五カ年計画の成功を宣伝し、外交的承認を得ようとしていたため、飢饉を絶対に認めるわけにはいかなかった。国際政治の場でのソ連の名誉失墜は避けねばならなかったのである。

当時ソ連に招かれていたバーナード・ショウH・G・ウェルズニューヨーク・タイムズ記者のウォルター・デュランティWalter Duranty)等は、「模範的な運営が成されている農村」を見せられ、当局の望み通りの視察報告を行っただけであった。それどころか、デュランティは、ガレス・ジョーンズが実際にウクライナで目撃したことを報道すると、「いたずらに恐怖心をあおろうとしたでっちあげ」だとジョーンズを批判し、「現実に飢饉などない」と断言した[6]

一方、英国カナダスイスオランダ等各国及び国際連盟は国際赤十字を通じて、ウクライナ飢饉に手を打つようソ連政府に要請をおこなったが、ソ連政府は頑として飢饉の存在を認めず、「存在しない飢饉への救済は不要」という答えを繰り返すだけであった[要出典]

ドイツ系、ポーランド系のウクライナ人は、ドイツ、ポーランドの領事館に相談したため、ドイツ、ポーランドでは情報が母国へ伝わっていた[6]スターリンは演説でポーランドウクライナに侵攻して併合しようとしているとのべていたため、1932年にウクライナの農民はポーランドウクライナ侵攻を期待していた[6]。しかし、1932年7月にソ連・ポーランド不可侵条約が調印されたため、この希望は潰えた[6]

ウクライナでは反ソ・反共感情が高まったため、のちに独ソ戦によりヒトラーのドイツ軍が侵攻した時は「解放軍」として喜んで歓迎し、大勢のウクライナ人が兵士に志願し共産党員を引き渡すなどドイツの支配に積極的に加担したほどであった。しかし、ドイツ人の生存圏の拡大と、ウクライナ人を含むスラヴ系諸民族の排除を目指すナチス・ドイツもまた、ウクライナ人に過酷な政策を実施した[14]。中でも、ナチスの食糧大臣ヘルベルト・バッケ東部総合計画の基、ソ連で起きた飢饉を参考にそれらを上回る規模の大飢饉を起こし、ドイツ人の入植の邪魔となるウクライナ人を始めとした現地人を絶滅させる計画を立てていた(詳細は飢餓計画英語版を参照)。

 

その後 

ウクライナの村には、五カ年計画の完遂を祝って凱旋門が建てられた[6]。そのまわりには餓死した遺体が放置されていた[6]。「富農」を追放した共産党員の役人は裕福になり、特別の店で好きなものを買うことができた[6]

また、その後のウクライナ人の出生数が大幅に抑制される等の多大な悪影響を及ぼした。

ソ連政府が一連の飢餓の事実を認めるのは、1980年代になってからであった。

 

現代のウクライナにおける議論 

ウクライナ大統領ヤヌコーヴィチと共に慰霊碑を訪れた、ロシア大統領メドヴェージェフ(2010年)

飢餓による餓死者の総数やこの飢饉がジェノサイドを目的に起こされたものであるかどうかで現在も議論が続いている。詳細な犠牲者数についてはホロドモール#犠牲者数を参照。

この飢餓の主たる原因は、広範な凶作が生じていたにもかかわらず、ソ連政府が工業化の推進に必要な外貨を獲得するために、国内の農産物を飢餓輸出したことにあった。その意味で大飢饉が人為的に引き起こされたものであることは否定できない。ウクライナユシチェンコ政権は、これをもってウクライナ人に対する大量虐殺であったと主張し、国際的な同意を募った。一方、現代ロシアの歴史家を中心に、大規模で悲惨な飢饉があったという事実認識には同意するが、飢饉の被害はウクライナ人のみならずロシア人カザフ人にも広く及んだと指摘して、これがウクライナ人に対する民族的なジェノサイドであることを否定する議論もあり、見解の相違は埋まっていない。

2007年ヴィクトル・ユシチェンコ大統領はホロドモールを否定した者を刑事的に処罰するための法案提出を促した[15]。刑は罰金最大1000ドル、懲役最大4年となる予定であった。これと似た例にドイツのホロコーストアルメニアオスマン帝国でのアルメニア人虐殺を否定した場合の懲役刑に関する法律がある[16]

2008年、ホロドモール発生75年を記念して、キエフウクライナ飢饉犠牲者追悼記念館が開設。2010年には国立化され、「ホロドモール犠牲者追悼国立博物館ウクライナ語Національний музей «Меморіал жертв Голодомору»」と改称された。一方クリミア半島の特別市セヴァストポリでは2009年セヴァストポリ・ホロドモール博物館が開館したが、間もなく展示写真数点が1920〜30年代に起こったヴォルガ地方飢饉や世界恐慌時にウクライナ国外で撮影されたものの流用であることが明かされ問題となった[17]。なおセヴァストポリ2014年クリミア危機以降ロシアの実効支配下にある。

2010年4月27日、ユシチェンコの後任で親露派であるヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領は、「ホロドモールは、ウクライナ、ロシア、ベラルーシカザフスタンの4カ国でおきた。それはスターリン全体主義体制の結果である。しかし、ホロドモールを一つの民族に対するジェノサイドと見なすことは間違っているし、不公平だ。」「これはソ連に含まれていた諸民族全てに共通する悲劇だったのです。」と述べ、スターリン政権の失策であることは認めつつも、ジェノサイドであるかは否定した[18]

 

犠牲者数 

ホロドモールの犠牲者数については諸説ある。記録がないため、飢饉の正確な犠牲者数は不明である[6]ソ連では国勢調査が実施されていたが、共産党幹部の意向で変更された。たとえば、1937年の国勢調査では見込みより800万人少なかったため、スターリンは調査した人口学者を処刑している[6]。1933年4月のキエフ州だけで49万3644人が飢えで苦しんでいると報告されているが、この報告では死者数は報告されなかった[6]

しかし、共産党内部でも飢饉による被害はある程度知られており、ウクライナ共産党のM.スクリプニクは自殺直前、ウクライナと北カフカスでの餓死者は800万人だったと述べている[5]。1933年のソ連の官僚の私的な会話では死者数は550万人と話されていた[6]ウクライナドネツィクで育ったニキータ・フルシチョフ第一書記は「私が正確な数字を提示できないのは、だれも計算しつづけていなかったからだ。われわれが知っていたのは、無数の人々が死につつあるということだけであった」とのちに回想している[7]

歴史学者

1986年にイギリスの歴史学者ロバート・コンクエストは、1932~33年のウクライナにおける飢饉の死者数は500万人と推計した[7]。これはウクライナ人口の18.8%、農村人口の約四分の一にあたる[7]。コンクエスの推計の詳細は、以下のとおりである。1930年から37年にかけての農民の総死者数は1100万人で、1930年から37年にかけて逮捕され強制収容所での死者数は350万人で、合計1450万人であった[7]。このうち、富農撲滅運動による死者数は650万人、農業集団化によるカザフ人の死者数は100万人で、1932-33年の飢餓による死者数は合計で700万人だったとする[7]。このうち、ウクライナ飢饉の死者数は500万人で、北カフカース飢饉での死者数は100万人、その他の地域の飢饉での死者数は100万人であるとする[7]強制収容所で死んだ350万人の多くは、ウクライナとクゥバーニ川地方の農村出身者だった[7]。ただし、これは飢饉によるのでなく、強制移住による犠牲である[7]

表1.1930-37年の犠牲者数[7]
農民の死亡者 1100万人
強制収容所での死亡者 350万人
合計 1450万人
表2.表1の内訳[7]
富農撲滅運動による死者数 650万人
農業集団化によるカザフ人の死者数 100万人
1932-33年の飢餓の死亡者数 ウクライナ:500万人,北カフカース:100万人,その他の地域:100万人
合計 1450万人

中井和夫らは、少なくとも、当時のウクライナの人口の一割以上、400万人から600万人が飢饉によって犠牲となったとする[5]

D.マープルズの2007年の著書では500万人とされる[19]

アメリイェール大学歴史学者ティモシー・スナイダーは2010年の著書でウクライナでの餓死者や栄養失調による死者数の総数は330万人が妥当とする[6][20]。これらのうち300万人がウクライナ人で、残りの30万人がロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人と推計した[6]。また、スナイダーは、カザフスタンの飢饉では130万人が死亡し、そのうちウクライナ人は10万人だったとする[6]

国連、政治家

2003年に25ヶ国が署名した国連の共同声明では、700万から1000万人が死亡したと宣言した[21]

2005年にはユシチェンコ大統領がアメリカ議会の演説で「ホロドモールにより、2000万のウクライナ人の命が奪われた」と述べ [22]、カナダのスティーヴン・ハーパー元首相は死者数を約1000万人とする公式声明を発表している[23]

しかし、ユシチェンコ大統領らが2000万人などの極端な数字を使うことに対し、アメリカの歴史学者ティモシー・スナイダーは死者数の誇張であると批判し、「1932年から1933年のウクライナの飢饉は、意図的な政治決定の結果であり、約300万人が亡くなったことは事実だ」と述べた[24]

また、メルボルン大学歴史人口学者スティーブン・ウィートクロフトは「ハーパーや西側の有力政治家が、ウクライナの飢饉による死亡率について、このように誇張した数字を使い続けていることは問題だ。」「1932から33年の飢饉により死亡したウクライナ人が1000万という数字を受け入れる根拠は全く無い。」とポストメディア・ニュースに宛てた電子メールに綴っている[25]

司法判断

2010年のキエフ控訴裁判所の判決によると、飢饉による人口損失は全体で1000万人に達し、そのうち390万人が直接的な餓死、残り610万人が出生不足に陥ったとされている[26]

心理学者

ウクライナ ジトーミル州立大学の心理学者Gorbunova, Viktoriiaとウクライナ国立教育科学学院社会政治心理学研究所の心理学者Vitalii Klymchukらは2020年に犠牲者は400万人から700万人と設定して飢饉体験者およびその家族の心理調査をしている[27]

 

国家犯罪(ジェノサイド、人道に対する罪)としての承認 

ジェノサイド」という言葉を考案した法律家ラファエル・レムキンは、ウクライナ飢饉を「ソ連によるジェノサイド」の典型例であるとした[6]

2006年ウクライナ議会は「ウクライナ人に対するジェノサイド」であると認定した[28]。また、米英など西側諸国においても同様の見解が示されており、ソビエト連邦による犯罪行為であるとしている[29]

ジェノサイドとして承認した国・団体 

ホロドモールをジェノサイドとして承認している諸国(青)。
アメリカ合衆国オハイオ州パーマ市ウクライナ正教会聖ヴォロディミル大聖堂の敷地に立つホロドモール慰霊碑
団体

 

人道に対する罪として承認した国・団体 

国際組織

以下のいずれにおいても、ロシア側の反発や他国内の諸問題が足枷となり「ジェノサイド」としての承認は却下された。

 

関連作品 

映像作品 

 

脚注 

[脚注の使い方]

注釈 

 

出典 

  1. ^ Bloodlands : Europe between Hitler and Stalin / Timothy Snyder; New York: Basic Books, 2010
  2. a b c 岡部芳彦「日本人の目から見たホロドモール」 Kobe Gakuin University Working Paper Series No.28 2020年.
  3. a b c d e 松井範惇「飢饉のプロセス理論: 脆弱性の観点から」東洋文化研究所紀要 171, 400-374, 2017-03,東京大学東洋文化研究所
  4. a b c d e f g h i ティモシー・スナイダー『ブラッドランド 上』p94-97
  5. a b c d 中井和夫他『ポーランドウクライナ・バルト史』p318-321
  6. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v ティモシー・スナイダー『ブラッドランド 上』p100-112
  7. a b c d e f g h i j k コンクエスト『悲しみの収穫』恵雅堂出版、2007年、,p495-509.
  8. a b c d e f g h i j ティモシー・スナイダー『ブラッドランド 上』p62-66
  9. ^ ティモシー・スナイダー『ブラッドランド 上』p67-70.
  10. ^ ティモシー・スナイダー『ブラッドランド 上』p67-70.
  11. a b c d e f g h i j ティモシー・スナイダー『ブラッドランド 上』p74-80
  12. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v ティモシー・スナイダー『ブラッドランド 上』p82-93
  13. ^ 松井範惇「飢饉分析から学ぶ-マラウイ、マダガスカルとウクライナの事例から見えるもの-帝京大学短期大学紀要38号、2018.p1-15.
  14. ^ 物語ウクライナの歴史 中公新書 ヨーロッパ最後の大国
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  20. ^ Snyder 2010, p. 53. "It seems reasonable to propose a figure of approximately 3.3 million deaths by starvation and hunger-related disease in Soviet Ukraine in 1932–1933".
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  28. ^ ウクライナ語) ウクライナにおける1932年‐1933年のホロドモールに関する法律(ウクライナ)
  29. ^ ウクライナ語) ウクライナ大統領の公式サイト。ホロドモールの国際的承認 [3]。2009年1月12日。
 

参考文献 

関連文献 

 

関連項目 

 

外部リンク 

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