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フォンニィ・フォンニャットの虐殺 

フォンニィ・フォンニャットの虐殺  

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

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フォンニィ・フォンニャットの虐殺
 
犠牲者を収容するアメリカ海兵隊員(J・ボーン伍長撮影)
各種表記
ハングル 퐁니•퐁넛 양민 학살 사건
漢字 퐁니•퐁넛 良民 虐殺 事件
発音 ポンニ・ポンノッ ヤンミン ハッサル サゴン
2000年式
英語表記:
Pongni / Pongneot yangmin haksal sageon
Phong Nhi and Phong Nhat massacre
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フォンニィ・フォンニャットの虐殺
各種表記
クォック・グー Thảm sát Phong Nhất và Phong Nhị
漢字・チュノム 慘殺豐一且豐二
北部発音: タムサット・フォンニャット・ヴァー・フォンニィ
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フォンニィ・フォンニャットの虐殺(フォンニィ・フォンニャットのぎゃくさつ、퐁니•퐁넛 양민 학살 사건[1]、フォンニィ・フォンニャット良民虐殺事件[1]Phong Nhi and Phong Nhat massacre[2])は、ベトナム戦争中に韓国軍が起こした一連の虐殺事件の一つ[3]1968年2月12日に、南ベトナムクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で、大韓民国海兵隊第2海兵師団(青龍師団)(en)によって、非武装の民間人69-79人[4] が虐殺された。2013年現在、大韓民国国防部は、韓国軍によるベトナム人虐殺・女性凌辱を否定する見解を示している。

概要 

1968年2月12日[5]フォンニィ・フォンニャット村を訪れた韓国海兵隊第2海兵師団(青龍部隊)第1大隊は婦女子を集めると至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った。ところが、その日のうちにアメリカ海兵隊員4名、南ベトナム兵26名からなる部隊が現場に到着した[6]アメリカ・ベトナム兵は生存者へ手当を施し、病院へ搬送した[6][7]。また、J・ボーン伍長によって事件現場の撮影が行われた[6]。事件後に生き残った村人たちは犠牲者の遺体を国道1号線に並べて抗議の意思を示した。

当時のフォンニィ・フォンニャット村アメリ海兵隊と友好関係にあり、村の男たちはアメリカと同盟関係にある南ベトナム軍に参加していた[8]。続く2月25日には韓国海兵隊によってハミの虐殺が引き起こされ、ハミ村の婦女子・老人135名が虐殺された[9]

事件を受けてアメリカ陸軍参謀総長ウィリアム・ウェストモーランド大将が韓国軍に調査報告を繰り返し求め続けたため[10]、韓国軍は韓国海兵隊の軍服を着たベトコンによる陰謀であったとアメリカ軍に報告した[10]フォンニィ・フォンニャットの虐殺当時の韓国では韓国政府が行った聞慶虐殺事件保導連盟事件では共産主義者に罪を着せることで虐殺事件を闇に葬りさることに成功していた[11][12]。韓国軍からの報告を受け取ったアメリカ軍では、アメリカ軍監察官のロバート・モレヘッド・コック大佐による調査が行われ、1970年1月10日韓国海兵隊による虐殺事件であったことを明らかにした報告書が提出された[1]ベトナム派遣軍最高司令官だった蔡命新は、ハンギョレ新聞によるインタビュー(2000年11月)に対し、アメリカ人はゲリラ戦に無知であったために韓国側と対立することがあったが、最終的にはアメリカ軍は韓国軍の戦術を取り入れるようになったと述べている[10]。事件翌月には、アメリカ軍の一小隊によってソンミ村虐殺事件が引き起こされたが、アメリカ軍は軍法会議を開き実行犯を処罰した。この事件について蔡は、戦争では普通のことであるとして実行犯を擁護する発言を行っている[13]

アメリカ軍内部では、韓国軍を完全な後方部隊とするか、南ベトナム解放民族戦線が完全に支配していて、誰を殺しても問題とされない地域に配置転換するべきである、とした検討が行われた[14]。韓国兵は残忍なやり方で女性強姦してから殺害するケースが多く、アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった[15]。また妊婦や子供は井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだ。生き残った村人はバラバラになった遺体を井戸から引き上げ、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った[15]1969年2月には事件の遺族達によって南ベトナム議会に賠償を求める請願書が提出されている[6]2000年には蔡命新将軍は数々の事件について、我々は誰にも償いをする必要はないと述べている[13]

2013年8月、クォン・キヒョン大韓民国国防部スポークスマンはグローバル・ポスト(en)に対して、「韓国軍が組織的に民間人虐殺を行うことは戦争状況からも不可能」「女性への性的搾取はない」「拷問や恐喝はしたかもしれないが、虐殺と歴史が誇張している」「ベトナム市民の勘違い」と、ベトナム戦争当時の韓国軍によるベトナム人虐殺・女性凌辱を否定した[16]

2018年4月、韓国内の弁護士団体やベトナム友好団体らが中心となり、ベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺の真相究明を目的とした模擬法廷であるベトナム市民平和法廷が開かれた[17]フォンニィ・フォンニャットの虐殺の生存者であったグエン・ティ・タンらが原告となり大韓民国政府を訴え、判決では「重大な人権侵害であり、戦争犯罪の性格を帯びる事件」として大韓民国政府の責任が認められた[18]

  • 両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられて瀕死の21歳の女。写真撮影後に病院に徹送され、「お母さん、お母さん…」と母を呼びながら妹達の前で絶命した[19](J・ボーン米海兵伍長撮影)
    両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられて瀕死の21歳の女。写真撮影後に病院に徹送され、「お母さん、お母さん…」と母を呼びながら妹達の前で絶命した[19](J・ボーン米海兵伍長撮影)

脚注 

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  1. a b c d “잠자던 진실, 30년만에 깨어나다 “한국군은 베트남에서 무엇을 했는가”… 미국 국립문서보관소 비밀해제 보고서•사진 최초공개”ハンギョレ. (2000年11月15日) 2011年2月9日閲覧。
  2. ^ p47 Di Heonik Kwon
  3. ^ 「韓国のベトナム大虐殺を告発する」 月刊正論 2014年7月号 pp.64-81
  4. ^ “미국의 관심은 ‘학살은폐 책임’ 최초공개된 미국 비밀보고서의 의미… 정부는 참전군인의 명예를 위해서 진상조사에 나서라”ハンギョレ. (2000年11月15日) 2011年2月9日閲覧。
  5. ^ 『知られざる歴史の真実 世界史編』インターナショナル・ラグジュアリー・メディア、2011年、51頁。ISBN 4905144124
  6. a b c d “‘끝없이 벗겨지는 ‘제2의 밀라이’미군 보고서로 다시 입증된 <한겨레21>의 퐁니·퐁넛사건 보도… 남은 건 ‘누가 쏘았는가’”ハンギョレ. (2000年11月15日) 2011年2月9日閲覧。
  7. a b c d “여기 한 충격적인 보고서가 있다 미국이 기록한 한국군의 베트남 학살 보고서 발견”オーマイニュース. (2000年11月14日) 2011年2月9日閲覧。
  8. ^ Kwon, Heonik. After the massacre: commemoration and consolation in Ha My and My Lai. University of California Press. p. 32. ISBN 9780520247970.
  9. ^ Kwon, p. 1.
  10. a b c ““한국군도 많이 당했다” 채명신 전 주월한국군총사령관 인터뷰… 남베트남군 사령관 만나 사과한 적도”ハンギョレ. (2000年11月15日)2011年2月9日閲覧。
  11. ^ “South Korea owns up to brutal past”シドニー・モーニング・ヘラルド. (2008年11月5日) 2011年2月10日閲覧。
  12. ^ '문경학살사건' 유족 항소심도 패소('聞慶虐殺事件' 遺族抗訴審も敗訴)”朝鮮日報. (2009年8月6日). オリジナルの2011年5月1日時点によるアーカイブ。 2011年2月10日閲覧。
  13. a b The Cold Warrior”. Newsweek (2000年4月9日). 2011年9月23日閲覧。
  14. ^ “편견인가, 꿰뚫어 본 것인가 미군 정치고문 제임스 맥의 보고서 “쿠앙남성 주둔 한국군은 무능·부패·잔혹””ハンギョレ. (2000年11月15日)2011年2月9日閲覧。
  15. a b WORLD AFFAIRS 証言 Apocalypse Then 「私の村は地獄になった」ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号 P.24
  16. ^ Battle of the dueling war crimesグローバル・ポスト August 16, 2013
  17. ^ 한겨레. “「ベトナム民間人虐殺市民平和法廷」ソウルで開かれる”. japan.hani.co.kr2019年7月7日閲覧。
  18. ^ “미투도 김영란법도 ‘노’라고 말할 권리 위한 것”” (朝鮮語). www.hani.co.kr (2018年5月19日). 2019年7月7日閲覧。
  19. ^ “특집 “그날의 주검을 어찌 잊으랴” 베트남전 종전 26돌, 퐁니·퐁넛촌의 참화를 전하는 사진을 들고 현장에 가다”ハンギョレ. (2001年4月24日)2011年2月9日閲覧。
  20. ^ “미군 보고서로 다시 입증된 <한겨레21>의 퐁니•퐁넛사건 보도… 남은 건 ‘누가 쏘았는가’”ハンギョレ. (2000年11月23日) 2011年2月9日閲覧。

参考文献 

関連項目 

外部リンク