開けて悔しき玉手箱のブログ

浮世の世間で ある日 玉手箱を 開けてしまった........。 気づくと そこは......。

道教

道教   

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

道教
中国語
繁体字  
簡体字  
朝鮮語
ハングル  
ベトナム語
ベトナム語 đạo giáo

道教(どうきょう、拼音Dàojiào)は、中国三大宗教三教と言い、儒教仏教道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある[1]

概要 

老子の誕生を描いた画

道教漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の(タオ)とは宇宙人生の根源的な不滅の真理を指す。道の字は辶(しんにょう)が終わりを、始まりを示し、道の字自体が太極にもある二元論的要素を表している。この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、を錬り、仙人となることを究極の理想とする。それはひとつの道に成ろうとしている。

道教では、道は学ぶことはできるが教えることはできないと言われる[2]。言葉で言い表すことのできる道は真の道ではないとされ、道士の書物や言葉は道を指し示すものに過ぎず、真の「恒常不変の道」は各自が自分自身で見出さなくてはならないとされている。

神仙となって長命を得ることは道を得る機会が増えることであり、奨励される。真理としての宇宙観には多様性があり、中国では儒・仏・道の三教が各々補完し合って共存しているとするのが道教の思想である。食生活においても何かを食することを禁ずる律はなく、さまざまな食物を得ることで均衡が取れ、長生きするとされる。 また、拳法を通じて「」を整え精神の安定を図る、瞑想によって「無為を成す」ことも道への接近に有効であるという[2]

全世界で道教の信徒を自認する人は約三千万人程度であり[2]、 現在でも台湾東南アジア華僑華人の間ではかなり根強く信仰されている宗教である。中華人民共和国では文化大革命によって道教は壊滅的な打撃を受けたが、民衆の間では未だにその慣習が息づいている。現在では共産党政権下でも徐々に宗教活動が許され、その宗教観の修復が始まっている。

老荘すなわち道家の思想と道教とには直接的な関係はないとするのが、日本及び中国の専門家の従来の見解であった。しかし、当時新興勢力であった仏教に対抗して道教創唱宗教の形態を取る過程で、老子教祖に祭り上げ、大蔵経に倣った道蔵を編んで道家の書物や思想を取り入れたことは事実で、そのため西欧では、19世紀後半に両方を指す語としてタオイズム(Tao-ism)の語が造られ、アンリ・マスペロを筆頭とするフランス学派の学者たちを中心に両者の間に因果関係を認める傾向がある。それを承けて、日本の専門家の間でも同様な見解を示す向きも近年は多くなってきている[3]

松岡正剛によると、道教の本には必ず道教とは何かを論じるー章が設けられるが、いずれも的確性を欠くのは「とうてい一義的な定義ができないから」だが、成立を見ていくとおそらく、神仙思想(キャラクタライズされた仙人と不老不死)が根本にあり、そこに老荘思想や陰陽五行説が混入し、伝わった仏教の影響から独自の様相に至ったと考えている。そして様々な流入要素を挙げている。[4]

  • 老荘思想道家)を道教の源とみなす。
  • 老子を神格化して太上老君元始天尊などとする。劉向が神仙に加え葛洪が最高位とする。
  • それゆえ「道」(タオ)を思想する。また「気」の身体への出入りを重視する。
  • 深山幽谷に住む仙人のイメージをふくらませて、長生長寿昇天を主たる教旨とする。
  • 古来の「卜占」「蠱術」や「鬼道」(シャーマニズム)を利用する。
  • 陰陽五行説占星術や「易」を援用する。
  • 長生のための養生術を衣食住に及ぼし、さらに房中術(男女の性愛術)にも及ぼす。
  • 消災滅禍のための「方術」「道術」をつかう。またその訓練をする。
  • 錬丹術や錬金術を追求し、金丹などの薬物生成に長じる。
  • 独自の護符(霊符)を多用して、ときに調伏もする。
  • 神仙道と天師道を混合する。
  • しだいに教団をもつ「成立道教」(教会道教)と民間信仰として広がる「民衆道教」に分かれていく。
  • どんどん道教の神々をふやしていく。
  • 風水も気功も、武術も漢方もとりいれる。

宗教民俗学者窪徳忠は簡潔に以下のように説明している。[5]

古代の民間の雑多な信仰を基とし、神仙説を中心としてそれに道家老荘思想)、易、陰陽、五行、卜筮、讖緯、天文などの説や、巫の信仰を加え、仏教の体裁や組織に習って宗教的な形にまとめられたもので、不老長生を主な目的とする現世利益的な宗教である。

要素 

道教は複数の要素を含み、様々な論が試された[1]

の時代の文学理論家劉勰著『滅惑論』では、「道教三品」として、上:老子、次:神仙、下:張陵を襲う(醮事章符)と記している。これはそれぞれ老子の無為や虚柔の思想、神仙の術、祭祀や上章(神々への上奏文を燃やす儀式)および符書(お札)の類を指す[1]

馬端臨は『文献通考』「経籍考」にて道教が雑多であると述べ、「清浄」「煉養」「服食」「符録」「経典科教」の5つを要素に挙げている。「清浄」は黄帝老子列子荘子らの著にある清浄無為の思想、「煉養」は赤松子や魏伯陽らに代表される内丹などの修練、「服食」は盧生や李少君らに代表される外丹服薬、「符録」は張陵や寇謙之などに代表される符を用いた呪術、「経典科教」は杜光庭など道士と彼らが膨大な経典を元に行う儀礼をそれぞれ指す[1]

どちらの書も、それぞれの要素は並列するだけでなく、歴史的な出現順を追って書かれた。仏教の立場から道教を批判的に書いた『滅惑論』も、その流れを汲み著された『文献通考』も、古い要素(老子の教え)は良いが、時代が下るほどに価値のないものになると論じている[1]。以下、『滅惑論』の区分で解説する。

老子 

水牛の上に乗った老子

老子は実在の人物か否かの意見は分かれ、司馬遷の『史記』も自身に裏打ちされた記述とは言えない。著書『老子道徳経』に見られる「道」「徳」「柔」「無為」といった思想は、20世紀後半に発掘された馬王堆帛書郭店楚簡から類推するに、戦国時代後期には知られていたと考えられる[6]。また「道」を世界万物の根源と定める思想もこの頃に発生し、やがて老子の思想と同じ道家という学派で解釈されるようになった[6]

その一方で『老子道徳経』本来の政治思想は、古代の帝王である黄帝が説く無為の政治と結びつきを強め、道家法家を交えたような黄老思想となった。前漢時代まで大きく広まり実際の政治にも影響を与えたが[7]武帝儒教を国教とすると民間に深く浸透するようになった。その過程で老荘思想的原理考究の面が廃れ、黄帝に付随していた神仙的性質が強まっていった。そして老子もまた不老不死の仙人と考えられ、信仰の対象になった[8]

神仙 

老子とは別に道教の源流の一つとなった神仙とは、東の海の遠くにある蓬莱山や西の果てにある崑崙山に棲み、飛翔や不老不死などの能力を持つ人にあらざる僊人(仙人)や羽人を指す伝説である。やがて方術や医学が発展すると、人でもある方法を積めば仙人になれるという考えが興った[9]

漢書』芸文志・方技略・「神僊」には10冊の書名が書かれているが、いずれも現代には伝わっていない。しかしそこに使われた単語から内容を類推できる。「歩引」は馬王堆から発見された図「導引」と等しく呼吸法などを含めた体の屈伸運動で、長生きの法の一つである。「按摩」は現代と同じ意味、「芝菌」は神仙が食べたというキノコ、「黄治」は錬丹術を指す。これらは黄帝伏羲など神話的人物の技とみなされていた[9]。また『漢書』方技略には他に「医経」(医学の基礎理論であった経絡や陰陽、また針灸などの技法)、「経方」(本草すなわち薬学)、「房中」(性交の技)があり、健康や長寿を目的としたこれらの技法も道教と密接な関係を持った[9]

漢書』以外にも様々な法技が行われていた。呼吸法のひとつ「吐故納新」、五臓を意識して行う瞑想の「化色五倉の術」、の歩みを真似て様々な効用を求めた「禹歩」などが伝わる[10]

醮事章符 

様々な神々を祀る寺院に庶民が参る風景は、道教をイメージする代表的風景である。この源流は、の上帝そして天に対する信仰、儒家の祖先信仰、民間の巫法、墨家の上帝鬼神信仰などさまざまなものが考えられる。特に墨家が言う「鬼」とは、天と人の間にあって人間を監視し、天意(「義」‐道徳や倫理など)に背くと災いや事故を起こすと言う[11][12]。人々は「義」を守る生活とともに天や鬼を祀り、罰を避けようとした。道教では天と鬼の間に人の世界があり、各階層で善行や悪行によって上り下りがあると考えられた[12]

また道教では神秘的な「符」を用いて護身や鬼の使役ができると考えられた。睡虎地秦簡・日書には符の存在を暗示する「禹符」の文字や馬王堆帛書・五十二病方にも符を使う記述が見られる。洛陽郊外の邙山漢墓は延光元年(122年)と年代が判明している最古の符が発見された[12]

その他 

どのようにして現在のような宗教的思想体系になったのか、ほとんど不明である。その他の要素では、老荘道家)の「玄」と「真」の形而上学、さらに中国仏教輪廻解脱ないしは衆生済度の教理儀礼などが重層的・複合的に取り入れられたと考えられる[11]

土地の守護神「城隍神」を祭った道教の寺院として「上海城隍廟」がある。上海城隍廟は、前漢時代の偉人「霍光」を祭っていた「金山神廟」を増築してできた経緯があり、上海の城隍神である「秦裕伯」とともに「霍光」が祭られている。[13]

道家儒教との関係 

陰陽勾玉巴
(寿の字巴)
台湾にある道観道教の寺)

道教とは、「道の教え」である。広義には、「従うべき聖人の教え」という意味で、この語(道教)は使われる。この場合儒教仏教を指すこともある。実際、「道学」と言えば、それは儒学を指す。狭義には、「『老子』や『荘子』の中で述べられているような道の教え」「老荘」と言う意味で使われる場合もある。そして、この「老荘」と関連して、「5世紀に歴史的に形成された道教」(茅山派)という意味でも、使われる。

老荘の思想」と「5世紀に歴史的に形成された道教」とは、伝統的に中国では前者を《道家》と呼んで後者の神仙思想を下にした道教とは厳密に区別されるが、欧米では両者ともに“Taoism”と呼ばれたため、それを承けて近年は道教道家は同じものを指すと考えられるようになった。

道(タオ)は、自然とか無為と同義とされ、また陰陽の思想で説明される。道は真理であり、無極(むごく)と呼ばれ、また太極とか太素と呼ばれる。これらの思想は、太極図で示される。朱子学として大成される宋学の形成に重要な役割を担ったのは、この太極図である。

歴史的に形成された道教 

初期の教団 

教団組織の面での形成は、神祭儀礼の完成や神学教理より遅れた。同時期に整って行った仏教教団の影響も大きい。教義面に関しての一応の成立は南北朝初期の寇謙之を遡らないが、宗教としての教団組織と儀礼と神学教理の三要素が完成したといえるのがいつなのかは難しい問題であり、から五代にかけて、漠然と代を中心にした時期とみられる。

道教の教団の制度は2世紀頃の太平道に始まる。後漢時代の中ごろ、于吉という人物が得た神書『太平清領書』を弟子が順帝に献上したが役人によって死蔵された。これを入手した張角が、「黄老道を奉事」して立ち上げた宗教集団が太平道である。実際の活動は「首過」(天や鬼神への懺悔)や「符水」(符を入れた水を飲む)などで病を癒すようなものだったが、後漢末期の不安定な時代に多くの信者を集め、やがて軍隊のような組織化を成した。そのため政府から弾圧を受けたが、184年ついに蜂起、これが黄巾の乱である。しかし太平道は間もなく鎮圧され、教団は壊滅した[8]

太平道よりやや遅れ、張陵が興した五斗米道(天師道)も道徳的反省を行い鬼神の祟りを避け病を癒す「思過」を説くなど、太平道と似通った性質の宗教集団であった。しかしこちらは政治と上手く折り合いをつけ、また天師(教主)を頂点に置いたしっかりした教団組織を持つなどの違いから発展し、3代目張魯の頃には蜀から中原に広まっていた[14]曹操は蜀を滅ぼした後、張魯ら一族を厚遇し、信者数万戸は黄河渭水流域に移住させ、この地で五斗米道は大きく広がった[14]

後に八王の乱など戦乱を避けた信者の一部は江南に移り、天師道と呼ばれるようになった教団は南北に分かれた。北では、北魏の時代に天師となった寇謙之房中術などで堕落した教団の綱紀粛正を実施し、彼に心酔した太武帝によって天師道は国教にまでなった。しかし寇謙之が亡くなると元の木阿弥になった[14]。南では、の歴代皇帝から尊敬を集めた陸修静が同様に綱紀粛正を主張した。彼は明帝に請われて建康に建てられた崇虎観に入り、ここで著述とともに、さまざまな道教系の経典を蒐集整理し、道教の基本経典「三洞」を定め[14]『三洞経書目録』を作成した[15]。宋末期にはこれに「四輔」が加わり道教教理の基本が出来上がった。この経典体系成立が、道教儒教・仏教と並ぶ三教のひとつに並ばせる端緒となった[15]

三洞四輔 

「三洞」とは、洞真経・洞玄経・洞神経の3つであり、元々はそれぞれ上清経・霊宝経・三皇経(三皇文)と言い、別々の集団によって伝えられた[16]

三洞最上位の上清経を伝えた一派の開祖は、山東省任城の女性・魏華存である。彼女は2人の息子と戦乱を避けて江南に移住し、そこで天師道の祭酒(指導者)になったという。その後仙道を極めて仙女となり、紫虚元君・南岳夫人を名乗った。東晋の役人・許謐は霊媒の助けを借りて紫虚元君らを仙界から降臨させ、教示を書き残した。これが時代を得て上清経になったという[16]。これは、精神を研ぎ澄ます瞑想法の存思法などの修練を通して汚れた人間界を脱し、神仙界へ至ることを説く[16]。後に活躍した道士の陶弘景は、この上清経をとりわけ重視した[15]

霊宝経の起源は禹の時代に遡り、邪鬼を排し昇仙を成すという神人から賜った「霊宝五符」とその呪術にある。これは江南の葛氏道と呼ばれる一族が伝え、経典として整備されたという。その内容は仏教特に大乗仏教の影響を受け、輪廻転生元始天尊衆生を救済するという思想を持つ。また儀礼を詳しく定めている点も特徴である[16]

三皇経という名は天皇地皇人皇から来ているという。出自には2つの説があり、西城山の石室の壁に刻まれた文言を帛和という人物が学び取ったとも、嵩山で鮑靚という人物が石室から発見したとも言う。既にほとんどが散逸し現在には全く伝わらないが、悪鬼魍魎の退散法や鬼神の使役法などが書かれていたという[16]

「四輔」は「三洞」を補足するもので、4部に纏められた。太玄部は『老子道徳経』および関係する経典類、太平部は残存した『太平経』、太清部は金丹術に関係した文献類、正一部は五斗米道・天師道関係の経典である[15]

金丹 

「四輔」太清部は金丹の術関連の書が纏められている。古くは「黄治」や「黄白」とも呼ばれた金丹は、不老不死の効果を持つ薬の製造と服薬により仙人になることを目指すという点から、道教と密接に関連していた[17]

金丹は古くから興っていたと考えられるが、西晋の頃に方法論の文献『抱朴子』が、「三洞」の霊宝経を伝えた一派とも密接に関係していた葛洪によって著された。彼によると、後漢時代に左慈という人物が神人から授かった「金丹仙経」をごく少数の集団を経て伝えられたという。葛洪は方法を知りながらも経済的理由で必要な金属鉱物を入手できないため実践に至らないと言っていた[17]

彼に代表される金丹に重きを置く集団と、五斗米道・天師道のような教団を形成していた人々は、どちらも同じく仙人を目指すところで同じだったが、ただどの方法を重視するかという差があるに過ぎなかった。そのため反目など起こらず、むしろ密接に繋がり、場合によっては婚姻関係にあるなど重なり合っていた[17]

三教のひとつとしての道教 

孔子老子仏陀を手渡す画

南北朝北朝では、道教儒教および仏教と三つ巴の抗争時代へと入り、それは権力者の目前で論争するという敗れれば存亡に関わる厳しい状況で行われた。そのため充分な理論の形成が必要となった。南朝で形成された「三洞四輔」をさらに深め三洞をそれぞれ12部に分けて充実させた「三十六部尊経」を作り上げた。さらに北周時代には武帝が主導して初期の教理書『無上秘書』が完成した[15]

また、特に対立した仏教に対する優位性を示すため、老子が西域に渡り釈迦になったという説を西晋の王浮が述べた『老子化胡経』や、仏教の「三界二十八天」を上回る「三界三十六天説」を作り出すなど、教理の拡充と強化を進めた[15]

これら教理の体系を解説する史書に『隋書』経籍志の道教解説部分がある。不滅のである元始天尊がおられ、その下で天地は「劫」という41億万年毎に生成と消滅を繰り返す。世界が生成された際、元始天尊は秘道を神仙らを介して人間に授ける。道教を学びたい者は入門すると先ず『五千文録』(『老子道徳経』)の勉強から始め、進捗に応じて『三洞(皇?)籙』(三皇経)、『洞真籙』(霊宝経)、『上清籙』(上清経)が、祭壇を設け星宿を祀る大掛かりな儀式の下で与えられる[15]

崇道王朝 

王朝は、最初の年号「開皇」こそ道教の劫から採り定めたが、基本的には仏教に重きを置いていた[18]。しかし次のは、珍しい崇道の王朝であった。高祖李淵と次男李世民は、易姓革命の戦いの中で難局に立った際、現れた白髪の老人に導かれて窮地を脱したと言い、その後も現れては助言を下す老人は李淵の先祖に当たる老子だと名乗ったという言い伝えがある。これは道士の王遠知による演出という説もあるが、唐王朝老子を宗室の祖と仰ぎ、宮中での道教の席次を仏教の上に置いく道先仏後の態を採った[18]

唐代の道教重視は科挙に強く反映され、高宗時代には『老子道徳経』が項目に加えられ、玄宗時にはさらに『荘子』『列子』『文子』も加わった[18]玄宗司馬承禎から法籙を受け道士皇帝となり、自ら『道徳経』の注釈書を作り、崇玄学(道教の学校)を設置してその試験の合格者は貢挙の及第者と同格とされた(道挙)。

しかし皇帝の面前で三宗が行う論争は続けられた。この頃の仏教は、西域から逐次伝わるさまざまな経典の間に整合性を持たせる必要から系統的な解釈を重ね、教相判釈という中国独自の価値序列を編み出し、思弁性を高めた[18]。これに対抗し論争ができるよう、道教側も時に仏教的な要素も吸収しながら理論の深化を推し進めた。唐の時代を代表する経典『太上一乗海空智蔵経』(『海空経』)や『太玄真一本際経』『大乗妙林経』などには「道性」(「道」を具えた本性)を誰しもが持つと説くが、これは仏教の『涅槃経』が言う「仏性」の概念から導入されている。他にも司馬承禎の『坐忘論』は禅定論の「止観」の影響を受けている。ただしこれらは単純な模倣ではなく、それぞれに老子荘子らの思想を下敷きに置きながら、思弁性を高めたものである[18]

唐の特に末期には、金丹が隆盛になった。財力豊富な皇帝たちは練丹にも手を出し、多くの道士を宮廷に招いた。しかしその結果、多くは中毒死に結びつき穆宗武宗宣宗が命を落とした。文人などにも流行し、儒者である韓愈も硫黄を服用し亡くなったという[18]。結局は成果を挙げられない金丹は、内丹の興隆もあって唐代を最後に廃れ始めた[18]

道教の展開 

の時代は、中国の大きな転換期であった。五代十国時代の混乱で貴族階級は衰え地主層が台頭、商業や生産技術が活発になり、印刷技術の普及は知識や文化を裕福な庶民層に広げた[19]

そのような中、道教も民間からの様々なものが持ち込まれた。唐代までの仙人とは、『列仙伝』や『神仙伝』などで語られる存在だったが、宋代には民間から信仰される対象が仙人に列された。その代表が呂洞賓という唐後期から五代に生き弱者や善良な者を助け、道教の布教を行ったと伝わる人物である。彼を中心に様々な人物が八仙と呼ばれて敬われた。他にも、玉皇は真武神(北極玄天上帝)、三国志の英傑関羽(關帝)なども民間信仰に発し、後に王朝が権威を与えた仙人である[19]

また、金丹が衰え内丹術が隆盛になったのもこの頃である。内丹とは瞑想などを通じて体内の気を練り神(しん、こころ)を通じて体の中に金丹を生み、不老長寿に至る方法論である。これも過去の金丹が莫大な出費を要するのに対し、基本的に身体のみを使う内丹は誰でも取り組める上、出版により手軽に広がった事もある[19]。内丹も当初は2系統があり、ひとつは「気」の修練を重視し肉体的な不老不死を目指す「命宗」と、もうひとつは「神性」の修練に重きを置く「性宗」であり、こちらはの思想に近い。この2つの系統ややがて性宗が優勢になり、道教は内面化・精神化の傾向を強めてゆく[19]

道教の一側面である咒術にも「雷法」という新しい概念が持ち込まれた。を天の意思を代行する雷帝(九天応声雷元普化天尊雷官)による悪しき者を罰する正義の力と考え、内丹で練った神気を外に向ければ強烈な力を使役できると考えられた[19]

宗派の形成 

中国の道観(山東省・威海市)

宋代の江南地方では、道士に資格と位を授ける拠点を基礎に、道教の宗派が形成された。これは「経籙三山」と呼ばれる龍虎山(天師道系)、茅山(上清派系)、閤皂山(霊宝派系)の3つが過去からの正統をそれぞれ主張しながら権威を誇った。しかしやがて龍虎山が隆盛を誇り、江南全域の総本山となった。その頃には教派名も「正一」が使われ、正一教(正一派)と呼ばれるようになった[20]

一方、河北はの領地となり、不安定な政治状態に陥った。女真族の王朝は宗教統制に馴れなかった事もあり、新興の教派が人心を集めた。特に大きな組織となり代まで続いたのが太一教真大道教全真教の3派であった。このうち太一教と真大道教はやがて衰退したが、全真教は七真人と呼ばれた高弟のひとり丘処機がチンギス・カンと会見するなど王朝の後見を受けて勢力を伸ばした[21]

これら南北2つの派は元代末期には二大宗派となり、代初期には国家の制度に組み込まれて正一と全真が正当な道教の宗派と定められた[22]。どちらも道観を拠点に道士が宗教活動を行う点で共通するが、出家した道士に戒律を伝授し資格を認める厳しさを持つ全真に対し、正一は符籙を与える制度で地位を与えられた道士には妻帯も許された[22]。その後も小さな派閥が生まれては消えたが、正一と全真を本流とする道教の構造は今に引き継がれている[22]

現代の道教 

20世紀に入ると道教が拠点とする道観が2つの形態に分かれた。正一教の小規模な子孫派(小道院)となり、住持がおり弟子から後継者を選ぶ形式を持った。全真教は大規模な十方派(十万叢林)という道観を持ち、各地の道士を集め修行を積む場となった[23]

1957年には全国的な組織である中国道教協会が設立され、社会主義体制内での信仰の自由を保つため、政府への協力を行った[23]。しかし文化大革命の時期には他の宗教同様に攻撃の対象となり、道士は還俗し、多くの道観が破壊された[23]。1980年代になると徐々に宗教活動が認められ、中国道教協会が運動して「全国重点道観」21箇所が国務院宗教事務局から指定されるなど、道教は復興を果たした[23]

日本における道教 

各地で発掘されている三角縁神獣鏡道教呪術文様から、4世紀には流入していたと見られている。6世紀には百済からの仏教に伴い「呪禁師」「遁甲方術」がもたらされ、斉明天皇から天武天皇の治世にかけては、その呪力に期待が寄せられて、支配者層における方術の修得や施設建設も見えている。それに伴う神仙思想も、支配者層において教養的知識レベルに留まらず実践に至るまでの浸透を見た。これらは民衆社会にも流布しており、『日本書紀』『風土記』『万葉集』に見える浦嶋子伝説、羽衣伝説等などの神仙伝説にその痕跡を遺している。だがそれらは担い手組織の核となる道教経典・道士道観の導入を伴っておらず、体系的な移植には至らず、断片的な知識や俗信仰の受容に留まった。そして天武朝以降、道教の組織的将来の道が政治的に閉ざされると、そうした知識や俗信仰が帯びていた体系的道教思想の痕跡も希薄になっていく[24]

一方で、道教に取り入れられていた要素に過ぎなかった陰陽思想五行思想神仙思想、それに伴う呪術的な要素は道術から陰陽道に名を変えて政務の中核を担う国家組織にまで発展した。

この意味で日本において本来の道教が伝わっているとは言いがたい。唐王朝道教の開祖とされた老子の末裔を称しており、唐側より日本に対して道教の受け入れを求めた時に、日本側が(天照大神の子孫とされる)天皇を中心とする支配体制と相いれないものとして拒否したとも言われている[25]。しかし、例えば仏教などに融合しつつ体現された道教は存在したとする研究、または確立された道教の必要性も唱えられた。日本では吉岡義豊福井康順窪徳忠福永光司・宮川尚志・澤田瑞穂等が道教研究をリードしている。

陰陽道 

道教の廃止と共に、それに代わって、陰陽師が道術の要素を取り入れ、日本独自の陰陽道が生まれた。陰陽師としては、平安時代安倍晴明などが有名である。「天皇」という称号も道教に由来するという説がある(天皇大帝参照。すなわち北極星という意味であるという説)。

五行思想 

日本における陰陽道の中核をなす思想である。もともとは暦法易経に起源を持ち、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であった。占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。ここには後世につたわる占術としての軽さは皆無であり常に研鑽も求められるものであったが、日本ではすでに確立されたツールとしての利用のみが伝わった。現在でも街頭で易者を見掛けるなどして根付いている。中にはそれを大道芸にした六魔と言う易者の芸人がいる。

修験道 

古神道の一つである神奈備磐座という山岳信仰仏教が習合した修験道には、道教陰陽道などの要素が入っている。

神仙思想 

主に不老不死を得るための仙術の体得と、その手法の研究が流行した。やがてこれらの思想が民衆運動や政争に利用されたり、仙薬として水銀を扱い害をなすなどの弊害を産んだ。

風水 

風水道教の陰陽五行説を応用したものである。現在でも開運を願って取り入れようとする人がおり、日本台湾、アジア各国などで盛んであり、特に香港では盛んである。ただ、これは同じく地理的要素を占う陰陽道とは少し異なる。風水では天円地方の思想のうち地方の部分が形骸化しており、地方を天円と同じく重く見る陰陽道とは異なる。この地方という考えは儀式としての相撲における土俵(古来四角であった)に現れていたが、現在ではその特性が失われ、円になっている。

陰陽道の思想は沖縄の首里城平城京平安京長岡京など古代の都の建設や神社の創建にも影響を与えている。四神相応である。

庚申信仰 

日本に伝来し、定着した道教信仰と言えば、庚申信仰である。各地に庚申塔庚申堂が造られ、庚申講や庚申待ちという組織や風習が定着している。現代でも、庚申堂を中心とした庚申信仰の行われている地域では、軒先に身代わり猿を吊り下げる風習が見られ、一目でそれと分かる。

辛亥甲子革令二十四節気などの暦に関することもかなり道教の影響を受けているが、陰陽道と同じく日本独自の思想と習合などがなされている。

日本の道観(道教寺院) 

日本国内の道観は、埼玉県坂戸市聖天宮横浜媽祖廟、各地の関帝廟黄檗宗の寺院の中にある事例もある)、北海道釧路市の台湾鳳凰山指玄堂釧路分院[26]済公)などがある。

日本の道教の宗教団体 

2013年平成25年)に福岡県東峰村に創立した一般財団法人日本タオイズム協会のほか、その以前からある団体としては日本道観道士を育ている学校の道家道学院や道教の研究発表会をする日本道教学会と言う学会や日本道教協会などがある。

その他の国、地域における道教 

朝鮮越南(ベトナム)など漢字文化圏の国々にも伝わっている。特に台湾では現在も生活の中に息づいている。(「道教の神々」窪 徳忠、講談社学術文庫[要ページ番号])なお、民間信仰道教の区別は難しい。