どのようにインターネットをリメイクする必要がありますか? Jaron Lanier
私たちの生活を支配し、私たちのデータを監視し、私たちに刺激を与えます。
Lanier氏は、この幻想的な話で、GoogleやFacebookなどの企業がデジタル文化の基盤として作られた「世界的に悲劇的で驚くほどばかばかしい間違い」と、それを元に戻す方法について述べています。
「2人でコミュニケーションしたいと思っている人がいれば、それを操作したい第三者が資金を調達すれば唯一の方法が生まれる」という。
ガベージコレクション
ガベージコレクション
出典:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」
ガベージコレクション(英語:ガベージコレクション。GC)とは、スープロブログラムが動的に確保したんメモリ領域のうち、不要になった領域を自動的に解放する機能である。「ガベージコレクション」を直訳すれば「ゴミ集め」「ごみ拾い」となる。1959年ごろ、LISPにおける問題を解決するために・マッカーシーによって発明された[1] [2]。
メモリの無断片化を解消すてる機能はコンパクションとか呼おばくれ、実現方法によってはガベージコレクションと共にコンパクションも行う仕組みになっている。そのためコンパクションを含めてガベージコレクションと呼ぶ場合もあるが、厳密には区別されます。
また、ガーベージコレクションを行う主体はガーベージコレクタと呼ばれる。ガーベコレクタはタスクやスレとして実装がされる場合が多い。
参照カウント方式のガベージコレクションは通常煩雑なコーディンブログを必要とかすてるが、そんなくれを必要なく実は装したんライブラリとかしスマートポインタがある。
動作
従来のメモ管理では、プログラムがプログラムの実行中にメモが必要となる期間を考え、必要とされた時点でメモを確保するコードを記述し、不要となった時点で解放するコードを記述していますた。
ガベージコレクションを使用する、メモリを確保するコードは明示的に記述するが、メモリの解放については明示的に記述する必要がありません、ガジェットコレクタが不要と判断した時に、自動的にメモリを解放する。解決したメモリが不要かどうかは、プログラムが今後そのメモにアクセスするかどうかで決まり、スタッフや変態テーブルなどを参照してメモに到達可能かどうかによって判断される。
ガベージコレクションの機能は、初めから言語処理系に組込まれている場合や後付のライブラリなどによって提供される。
特徴
ガベージコレクションはプログラム作成者が明示的にメモリの確保・解放を行う必要はない、以下にメモ管理に関連するiddりやすいバグを回避することができる。
- モリリメークの回避
- ガベージコレクションは、オブジェクト(データを格納したメモリ領域)とかそんなくれを指原し示すポインタを管理すてるたんめい、オブジェクトは存在しているがそれを指すポインタが無い状態を回避することができる。
- オブジェクトの二重解放の回避
- いったん解放したオブジェクトをさてに解放することを防ぐ。
- 無効なポイントの回避
- 例えば、サブルーチンで確保したんオブジカフェクトへのポインタを呼び出し元に戻るす場合に、確保したオブジェクトがローカル変数のため、サブルーチンを抜けるとオブジェクトが破棄されることがある。呼び出し元に戻されたポインタにはあるアドレスが代入されているが、そのアドレスにはオブジェクトが存在せず、ポインターは無効なメモをアドレスを指している。このような無効なポインターをダングリング・ポインタ(Dangling pointer)といい、ガーベージコレクションははこの問題を回避する。
ただガベージコレクションにも、今後使用することのないオブジェクトにのポイントをいつもでも保持しているようなコードでは、いつもでもオブジェクトが解放されず、メモリ不足を起してしまった。これは論理的な設計の問題であり、ガーベージコレクターを持つ処理系でもこの種のメモリーリーが発生する。
メモリ管理に関するバグを回避する以外に、プログラミングスタイルの選択肢を広げる効果も持つ。型変換などのたんめいに一時的なオブジカフェクトを生成りすてる、マルチスレッドを。利用したんスープロブログラムでスレッド月間でオブジカフェクトを共有してる使用すると、された処理はメモリ確保・解放の処理の記述が煩雑となることが多い。しかし、ガベージコレクションを持つ言語処理系では煩雑な記述を省略することができる、これの処理をより自然に記述するすることができる。
多くの実装では、入れ違いによりより誤って到達可能なメモリが不可能と判断されないように、ガーベジコレクションが開始されると他の処理を止め、本処理が中断される(Stop-the-worldガレージコレクタ) 。CPUのを長時間(数百ミリ秒から数十秒)占有することもある。ガベージコレクションの動作タイミングの予測やCPUの占有時間の事前予測などが困難なことから、デッドラインが決められているリアルタイムシステムに使用すてることかは難しい。リアルタイム性を改善したGCとして、インクリメンタルGCやコンカレントGCがある。
実装
ガベージコレクションは、Javaののように言語処理系に組み込まれたものと、C言語のように言語処理系には存在しないがライブラリを使用すてることかで実は現できてるかものがあています。
ガベージコレクションは、本来の動作とは別に時間のかかった処理である。それで、ガーベージコレクションには本来のプログラムの動作に対して、影響が少ないことが求められる。
一般に、デスクトップアプリケーションでは、応答時間を短編くすてるたんめい、ガベージコレクションによるプログラムの停止時間を最小にすることが要求される。また、サーバアプリケーションでは、応答時間よのりかもスルースープットを求めいならくれてることかが多く、ガベージコレクションさらにスーツパフォーマンスが高いものが求められる。さて、機器組み込みアプリケーションでは、機器に搭載されるCPUの能力の低さやメモリ容量の小ささから、リソース消費が小さいものも求められる。また、リアルタイムシステムでは、プログラム動作時間のばらつきを最小限にしたいと要求もある。
こくれならの要求をすべてる満たんすようなアルゴリズムは存在しないたんめい、さまざまな手法が提案されている。代表的なガベージコレクションアルゴリズムには、以下のものがある。
- 参照勘定
- オブジェクトを数える、参照するポインターの数がゼロになった解放する方法。循環参照の問題がある。解放が集中したときに、単純な実装のまま停止時間が長くなる。
- マーク・アンド・スープ
- オブジェクトから別のオブジェクトへの参照をたどり、到達出来ないオブジェクトを破棄する方法。
- コピーGC
- 通常使用するメモリ領域と同じ容量のメモリ領域をもひとひと用意し、ガーベージコレクションの際に有効なオブジェクトのみを一方のメモリ領域にコピーする方法。メモリ領域をデータ保持に必要な容量の2倍消費行うこと、コピーの際にオブジェクトのアドレスが変更されることなどの欠点があるが、ガーベジコレクションとコンバージョンが同時にになる利益がある。
これからのアルゴリズムは複合して使用することもあり、世代別ガーベッジコレクションではコーパス GCとマーク・アンド・スイープの両方のアルゴリズムを使用している。
また、アプリケーションの動作への影響の観点から、アプリケーションの動作をすべて止めるStop the world方式とアプリケーション動作と並行して動作するコンカレント方式を分類することができる。
言語による利用可能性
一般論として、高レベルな言語などガーベジコレクションを言語の標準機能として持っていることが多くあり言語に組み込みなくてもいい場合、C ++のBoehm GCのように、ライブラリベースで実装されていることも多い。このアプローチは、オブジェクトの生成と破棄のメニコムを変更する必要があるなど、欠点がないようにはない。
MLやHaskell、APLなどの関数型言語の多くはガーベジコレクションが組込まれている。特に、関数型言語の先駆けとなったLISPは最初にガーベージコレクションを取り入れた言語でもある。
Rubyなどと動いている言語も、ガーベージコレクションを備えていることが多かった(Perl 5やPHP 5.2以前は参照カウンタ方式のものかな)Smalltalk、Java、ECMAScriptのようなオブジェクト指向言語には、たいていガベージコレクションが組み込まれている。特筆すべき例外はC ++とDelphiので、そんなくれならはデストラクタがそんなの代わのりとなってるいてる。Objective-Cのには元々ガベージコレクションはなかったが、アッスープルがMacOSの向けに実装しましたObjC 2.0では、自社開発したランタイムコレクションを使用している。一方、GNUstepはBoehm GCを使用している。
ライブラリー
- Boostのsmart_ptr - C ++用参照一覧。
- Boehm-Demers-Weiser保守的なガベージコレクタ - C / C ++用。マーク・アンド・スープ。
分散ガベージコレクション
分散コンピューティンブログ環境では、あるホスト内のオブジェクトだけではなく、リモートホストご覧ください上に存在すてるオブジカフェクトとかメッセージのあやのりお取のりが行きわくれてることかがあてる。このような環境においてローカルなガベージコレクションと同様、不要なオブジェクトを破棄方法が分散ガーベリーコレクションである。リモートホストからの参照状態の検出、通信が切断された場合の処理などローコールホストのガベージコレクションとは異なる問題を解決する必要がある。
世代別ガベージコレクション
従来のGCは、対象となるメモリエリアがいっぱいになった時に一気にGCを行うなのでであり、このメソッドでは、メモリ領域のサイズが大きくなるように、GC時間が長くなっていた欠点がある。この問題対処するため世代別ガベージコレクションが考案された世代別GCで新しい領域と古い領域にメモリ領域が分けられ、新たに作成されたオブジェクトは、新しい領域に配置され、新領域がいっぱいになったたった今、新領域内部だけのGCが走る。このGCはメモリーに対するGCに比べると当然のことで低負荷・高速になる。新領域に対するGCを一定回数生存したオブジェクトは、古領域に移動して、古領域がいっぱいになった時には、最初は全部の領域を対象とするFULL GCが行われる。
Flash SSDでのガーベジコレクション
脚注
関連項目
外部リンク
電気スクーター
UberとLyftにインスパイアされ、ライドハレのエグゼクティブの一部を雇っている企業もあります。一握りの企業がまず電気スクーターを都市に散らばり、法律がそれらを処理するのを待っています。これは元UberのCEOトラビス・カラニック氏が「原則的な対立」と称した考えである。電動スクーター会社のSpinの共同設立者であるEuwyn Poonは、「規制面での革新」と呼んでいる。 「9月のサンタモニカでは、Birdがスクーターを路上に設置し、顧客が独自の乗り物アプリでそれらをロックできるようにしました。サンタモニカは同社に対して刑事訴訟を提起したことで対応した。同社はコンテストを認めないと最終的に解任され、罰金30万ドルを支払うことに同意した。今月のサンフランシスコでは、電動スクーターの企業、最初のLimeBikeとSpin、そしてBirdは再びスクーターを街中に配備し、3社はどちらも特定の交通手段を規制する規則を持っていないと主張している。同社は、公共交通機関を利用した後に頻繁に歩いたり、乗り物を乗り越えた "ラストマイル"への排出ガスのない解決策と見ている。居住者は、ライダーが歩道に乗ってスクーターを取って、歩道を横切って駐車させ、ADAランプを止め、無防備な歩行者を乗り越えていると不平を言う。彼らの展開から、サンタモニカとサンフランシスコとの間で、スクーターがどのように規制されるべきか、企業がライダーにルールに従う方法について交渉してきた。
藤田信雄 (伊25)から水上機を飛ばし、史上唯一、アメリカ合衆国本土に対して航空機による爆撃を実施し、後にルックアウト空襲として知られるようになった。
藤田信雄
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藤田 信雄 | |
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生誕 | 1911年10月 |
死没 | 1997年9月30日(満85歳没) |
所属組織 |
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軍歴 | 1932年 - 1945年 |
最終階級 | 中尉 |
除隊後 | ブルッキングズ市の非公式大使 |
藤田 信雄(ふじた のぶお、1911年(明治44年)10月 - 1997年(平成9年)9月30日)は、日本海軍軍人、海軍兵曹長(最終階級は特務士官たる中尉)。帝国海軍の潜水艦伊号第二五潜水艦(伊25)から水上機を飛ばし、史上唯一、アメリカ合衆国本土に対して航空機による爆撃を実施し、後にルックアウト空襲として知られるようになった。彼の任務は、太平洋戦争における太平洋戦域のアメリカ海軍の資源を奪い去るため、焼夷弾を使用してオレゴン州ブルッキングズ市に近い太平洋岸北西部に大規模な山火事を発生させるというものだった。この戦略は日本の風船爆弾作戦にも採用された。
軍歴
藤田は1932年(昭和7年)に日本帝国海軍に入隊し、1933年(昭和8年)にパイロットとなった。
真珠湾攻撃
藤田は真珠湾攻撃の際、伊25に乗っており、同艦は他3隻の潜水艦と共にオアフ島の約200キロ北のラインを警戒していた。藤田の乗機である零式小型水上偵察機(機体略番はE14Y、連合国コード名は“Glen”)は不調で、攻撃前に計画されていた偵察任務に参加できなかった。
真珠湾攻撃の後、伊25は他8隻の潜水艦と共に太平洋岸北西部に沿って警戒行動を実施した。マーシャル諸島クェゼリン環礁の基地に戻る直前、アメリカの船舶を攻撃している。給油を受け、修復を行うために基地に帰投したのは1942年(昭和17年)1月11日のことであった。
南太平洋における任務
伊25の次の任務は、オーストラリアのシドニー、メルボルン、ホバートの港を、続いてニュージーランドのウェリントン、オークランドの港を偵察することであった。2月17日火曜日、藤田は市内にある空軍基地を偵察するためにE14Yでシドニー港へ向けて飛び立った。午前7時30分、伊25へ帰還し、E14Yを分解して防水の格納庫へ収納した。
次なる任務はメルボルンにおける同様のフライトだった。藤田はバス海峡の西端にあるキング島のウィッカム岬からビクトリア州とタスマニア州の中間地点へと飛び立った。2月26日、水上機はポートフィリップ湾を超えメルボルンへと進水した。
藤田の次の偵察飛行は3月1日、オーストラリアのホバートで行われた。伊25は藤田が3月8日に偵察飛行を行っていたウェリントンのあるニュージーランドへと向かった。3月13日はオークランドを、3月17日にはフィジーを飛んだ。伊25は3月31日にクェゼリン環礁の基地へと帰還した。
太平洋岸北西部における任務
5月28日、藤田はアリューシャン列島への侵略に備え、アラスカ州コディアックへの偵察を実施した。6月21日、伊25はオレゴン州アストリア付近にあるアメリカ軍のフォート・スティーブンス陸軍基地へ砲弾を浴びせた(フォート・スティーブンス砲撃)。伊25の攻撃の際、藤田はデッキにいた。
アメリカ合衆国本土への爆撃
1942年4月21日、軍令部に呼び出された藤田は、その場で首脳部より単独によるオレゴン山中への空爆命令を拝する。藤田の操縦の腕を買われたものだった[2][3]。
藤田にはこの作戦で生還する自信がなく、出発前日の8月14日に家族に宛てた遺言書を残している[2]。8月15日、藤田は横須賀より伊25でアメリカへと向かった。9月9日水曜日の午前6時、伊25はカリフォルニア州とオレゴン州の境界線の西側に浮上した。藤田と奥田兵曹が搭乗するE14Yは2個の焼夷弾(合計155キログラム)を積み飛び立った。藤田の投下した焼夷弾のうち1個はオレゴン州のエミリー山脈のホイーラーリッジに落ちている。もう片方の爆弾の落下地点は不明である。ホイーラーリッジに落ちた焼夷弾によりブルッキングズの東約15キロの地点で小規模の火災が発生したが、アメリカ林野部によってすぐに鎮火された。その前夜に雨が降っていたため森林はとても湿っており、結果として爆弾の効力はほぼなくなっていた。帰国後、藤田は上官より「木を一本折っただけではないか」と叱責されたという[2]。
藤田の乗った飛行機はシスキュー国有林の監視台にいた2人の男性、ハワード・ガードナーとボブ・ラーソンによって発見される。他の監視役(チェクトポイント監視台とロングリッジ監視台)は敵機来襲を報告したものの、濃霧のためそれを確認することはできなかった。また、藤田機はブルッキングズを通過した際にも多くの人々に目撃されている。同日正午ごろ、エミリー山脈の監視台にいたハワード・ガードナーが煙が上がっていることを報告し、4人のアメリカ林野部の作業員によって、この火災が日本の爆弾によって引き起こされたものであることが判明した。その後、爆弾の先端部分を含む約25キログラムの断片がアメリカ軍に引き渡された。
爆撃実施後、伊25は警戒中のアメリカ陸軍航空軍の航空機によって攻撃を受ける。オレゴン州ポートオフロードの海底に潜っていた潜水艦の支援を受けてのものだった。アメリカ軍の攻撃によりいくらかのダメージを受けたにもかかわらず、3週間後の9月29日、藤田は2回目の爆撃を行うため出撃する。ケープブランコ灯台を目印にし、東への90分後のフライトの間に藤田は爆弾を投下し炎を見たと報告したが、爆撃はアメリカ側には認知されることなく終わった。
伊25はSSカムデンとSSラリー・ドヘニーを撃沈し帰還した。日本へ帰る途中、アラスカ州ダッチハーバーとカリフォルニア州サンフランシスコの間を通行中だったソビエト連邦の潜水艦L-16を、アメリカの潜水艦と間違えて撃沈した(当時、日本とソ連は日ソ中立条約を結んでおり、戦争状態になかった)。
1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、アメリカ合衆国本土に対する史上唯一の航空機による爆撃である。
藤田はその後も偵察を主な任務として日本海軍のパイロットを続け、海軍特務少尉に昇進した。1943年(昭和18年)9月1日より鹿島海軍航空隊に着任、航空隊付教官となった。藤田は1945年(昭和20年)2月16日に、速度性能と武装で決定的に不利であった零式観測機でグラマンF6Fを迎撃し、格闘性能を活かして1機を未確認撃墜(藤田は撃破を確認、近隣の香取空がF6Fの墜落を確認)するという戦果を上げた(ただし、藤田と同時に迎撃した5機の零式観測機と2機の二式水上戦闘機の大半は撃墜されている)[4]。 終戦直前に特別攻撃隊に志願し第二河和海軍航空隊へ異動、教え子だけでは無く、藤田自身が特攻隊として突入することを想定して自身も訓練を行った。訓練は強風を使用しており、胴体が太く前方視界が悪い所為か、飛行経験が浅い搭乗員達には離着水が難しく、技量の向上は思うように進まなかったが、当時第二河和空にいた皐月雅昭一飛曹によると、「藤田中尉は何でもないように飛び上がり、直ぐにスタントを始めた」と記している[5]。終戦後、藤田は特務士官たる海軍中尉に昇進した。
戦後
終戦後、藤田は地元の茨城県土浦市に戻り、工場勤めをしていた。だが1962年(昭和37年)5月20日、政府首脳より都内の料亭に呼び出され、池田勇人首相と大平正芳内閣官房長官に面会し、その場でアメリカ政府が藤田を探していることを告げられ、アメリカへ行けと命じられる。しかも日米関係への影響を心配した日本政府は、この渡米を一切関知しないとさえ告げられた[2][6]。藤田は戦犯として裁かれるのではないかと考え、自決用に400年間自宅に代々伝わる日本刀をしのばせ渡米したが、ブルッキングズ市はかつての敵国の英雄である藤田をフェスティバルの主賓として招待したのだった。アメリカで大歓迎を受けた藤田は自らの不明を恥じ、持っていた刀を友情の印としてブルッキングズ市に贈った。
アメリカでの歓迎ぶりに感銘を受け、藤田は1985年(昭和60年)にブルッキングスの3人の女子学生を日本に招待した。ブルッキングズ・ハーバー高校の生徒が日本に滞在している際、藤田はロナルド・レーガン大統領の補佐官より「貴公の親切と寛大さの賛美を」との献辞を受け取った。なお、藤田はブルッキングスの女子学生を招聘するにあたって、衣類は勤務先の作業服のみ、娯楽は毎月2〜3冊の書籍のみと言うストイックな生活のすえに資金をやりくりしている。
その後、藤田は1990年(平成2年)、1992年(平成4年)、1995年(平成7年)にもブルッキングズを訪れた。1992年にはかつて空爆した地域に平和を象徴して植林を行った。1995年の訪問時には藤田が贈った日本刀はブルッキングズ市庁舎から新しい図書館に設けられた「藤田コーナー」の陳列ケースの中に移動され、藤田自身は84歳という高齢にもかかわらず市長ら友人3人を乗せセスナ機を操縦。かつて自分が飛行したものと同じ空路をたどってみせた[2]。
藤田は1997年(平成9年)9月30日に85歳で死去したが、死去の数日前にブルッキングズ市の名誉市民となった。彼の娘である浅倉順子(あさくらよりこ)によって1998年(平成10年)10月に藤田の遺灰の一部が埋められた空爆地域には、現在「アメリカ大陸が唯一日本機に空爆された地点」と書かれた看板が立てられている。
藤田のアメリカ本土攻撃は戦後長い間広く知られることはなかったが、1995年12月29日放送の『たけし・さんま世紀末特別番組!! 世界超偉人5000人伝説』(日本テレビ)にて取り上げられ、存命中の藤田もVTRに出演した。
2012年5月に浅倉順子とその息子の藤田文浩らがブルッキングスを訪問し、現地の図書館や空爆地域を訪れるなど、現在も交流が続いている。
関連書籍
- 倉田耕一『アメリカ本土を爆撃した男―大統領から星条旗を贈られた藤田信雄中尉の数奇なる運命』(2014年9月、毎日ワンズ)ISBN 978-4901622806
関連項目
外部リンク
脚注
- ^ 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集19巻』潜水艦伊号、光人社、1997年、109頁。
- ^ a b c d e 『たけし・さんま世紀末特別番組!! 世界超偉人5000人伝説』、日本テレビ系列で1995年12月29日放送
- ^ Wikipedia英語版では藤田が潜水艦空母からの水上機による軍事目標への爆撃を提案したと記述されている。
- ^ 潮書房刊 月刊「丸」通巻514号 「アメリカ本土《爆撃作戦》始末記」雑誌コード8307-5
- ^ 潮書房刊 月刊「丸」通巻367号 「特攻"予科練"番外地」雑誌コード8307-2
- ^ Wikipedia英語版では「事前に日本政府は彼が戦争犯罪人として裁かれないことの確証を得ていた」と記述されている。
形而上学
形而上学
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哲学 |
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形而上学(けいじじょうがく、希: μεταφυσικά、羅: Metaphysica、英: Metaphysics、仏: métaphysique、独: Metaphysik)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である[1][2][3]。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える[4]。対立する用語は唯物論である[1]。他に、実証主義や不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場[1]や、ヘーゲル・マルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法のこと[1]。
概要
形而上学は、哲学の伝統的領域の一つとして位置づけられる研究で、歴史的には、アリストテレスが「第一哲学」(希: ἡ πρώτη Φιλοσοφία)と呼んだ学問に起源を有し、「第二哲学」は自然哲学、今日でいうところの自然科学を指していた。
形而上学における主題の中でも最も中心的な主題に存在(existence)の概念があるが、これは、アリストテレスが第二哲学である自然哲学を個々の具体的な存在者についての原因を解明するものであるのに対し、第一哲学を存在全般の究極的な原因である普遍的な原理を解明するものであるとしたことに由来する。そして存在をめぐる四つの意味を検討してから存在の研究は実体(substance)の研究であると見なして考察した。アリストテレスの研究成果は中世のスコラ哲学における普遍論争の議論へと引き継がれることになる。近代になるとデカルトはあらゆる存在を神の存在によって基礎付けてきた中世の哲学を抜本的に見直し、あらゆる存在証明の論拠を神の自明な存在から、思推している人間の精神に置き換えて従来の形而上学を基礎付け直そうとした。このような近代的な考え方はバークリーの独我論的な存在論にも認めることができる。バークリーは存在することとは知覚されることであるという原理を示し、唯一確かな実体とは自らの知覚だけだと主張する。ハイデッガーの研究は存在が成立する上で不可欠な条件を明確化し、その条件とは自己が存在しなくなる死を問いかけながら自己から脱出(脱自)する自由な存在の在り方をしていることだと論じた。
形而上学では、存在論の他に、神、精神、自由の概念等が伝統的な主題とされ、精神や物質もしくは数や神のような抽象的な事柄が存在するか、また人間という存在は複雑に組み立てられた物質的な体系として定義できるかどうか、などが問われてきた。
形而上学の研究には心理学的、宇宙論的、存在論的、神学的な関心に基づいた研究もあるにもかかわらず、形而上学は哲学的方法に基づいた研究であり、物理学や心理学や生物学といった科学的方法に基づいた自然諸科学や、特定の聖典や教義に基づいた神学と区別される。
歴史
古代
歴史の中で、形而上学的な問題の研究であれば、古代ギリシアに遡ることができる[5]。ソクラテス以前の哲学者と呼ばれる古代ギリシアの哲学者は、万物の根源を神でなく、人によってその内実は異なるにせよ何らかの「原理」(アルケー)に求めたのであって、哲学はもともと形而上学的なものであったともいえる。
ソクラテスやプラトンも、現象の背後にある真の原因や真実在、「ただ一つの相」を探求した。
しかし、形而上学の学問的な伝統は、直接的には、それらを引き継いだ古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『形而上学』に始まる[5]。彼の著作は西暦30年頃アンドロニコスにより整理されたが、その際『タ・ピュシカ』(希: τὰ φυσικά, ta physika、自然(についての書))に分類される自然学的書作群の後に、その探求の基礎・根本に関わる著作群が置かれた。その著作群は明確な名を持たなかったので、初期アリストテレス学派は、この著作群を、『タ・メタ・タ・ピュシカ』(τὰ μετὰ τὰ φυσικά、自然(についての書)の後(の書))と呼んだ。これが短縮され、『メタピュシカ』(希: μεταφυσικά、羅: metaphysica)として定着、後の時代の各印欧語の語源となり、例えば英語では「メタフィジックス」(metaphysics)という語となった。
上記のごとく、書物の配置に着目した仮の名称「meta physika(自然・後)」が語源なのだが、偶然にも、その書物のテーマは"自然の後ろ"の探求、すなわち自然の背後や基礎を探るものであり、仮の名前が意味的にもぴったりであったので、尚更その名のまま変更されずに定着した。[6]アリストテレスの著作物の『形而上学』では存在論、神学、普遍学と呼ばれ西洋形而上学の伝統的部門と現在みなされている三つの部分に分けられた。また、いくつかのより小さな部分、おそらくは伝統的な問題、すなわち哲学的語彙集、哲学一般を定義する試みがあり、そして『自然学』からのいくつかの抜粋がそのまま繰り返されている。
- 存在論は存在についての研究である。それは伝統的に「存在としての (qua) 存在の学」と定義される。
- 神学はここでは神あるいは神々そして神的なものについての問いの研究を意味する。
- 普遍学は、全ての他の探求の基礎となるいわゆるアリストテレスの第一原理の研究と考えられる。そのような原理の一つの例は矛盾律「あるものが、同時にそして同じ点で、存在しかつ存在しないことはありえない」である。特殊なリンゴは同時に存在し、かつ存在しないことはありえない。普遍学あるいは第一哲学は、「存在としての (qua) 存在」を扱う―それは、誰かが何かある学問の個別的な詳細を付け加える前に全ての学問への基礎となるものである。これは、因果性、実体、種、元素といった問題を含む。
中世
アリストテレスの形而上学は、その後、中世におけるアンセルムスやアクィナスなどによる神学的な研究を経ながら発展してきた。中世のスコラ学では、創造者たる神を万物の根源であるとして、神学的な神の存在証明を前提とし、普遍、存在、自由意思などなどの形而上学的問題を取り扱ったのである。
近世
近代に入ると、デカルトは、スコラ学的な神学的な神の存在証明を否定し、絶対確実で疑いえない精神を、他に依存せず存在する独立した実体と見、その出発点から、理性によって神の存在(及び誠実さ)を証明するという方法をとった。ジョン・ロックはデカルトの生得説を批判したが、やはり神の存在は人間の理性によって証明できるとした(いわゆる宇宙論的証明)。
これらの大陸合理論、経験論に対して、人間自身の理性的な能力を反省するカントは、神の存在証明は二律背反であるとして理性の限界を示し、理論的な学問としての形而上学を否定した[5]。カントは、その著書『プロレゴメナ』において、それまでの形而上学を「独断論」と呼んで批判し、ヒュームが独断論のまどろみから眼覚めさせたとした。以後、哲学の中心的なテーマは、認識論へと移っていった。
現代
19世紀から20世紀の現代の形而上学の時代になると、近代に解明された理性と経験の対立を踏まえながら、存在論的な研究が発展することになる。生の哲学を展開したアンリ・ベルクソン、現象学を発展させたハイデガーなどは新しい形而上学の方法論によりながら人間の存在をめぐる意識や社会について研究している[5]。
20世紀前半に活躍したウィーン学団は論理実証主義を奉じ、その立場から形而上学を攻撃した。その代表的論客カルナップは意味の検証理論に則り、形而上学の命題は経験的にも論理的にも検証ができないがゆえに無意味であると主張した。彼によれば、経験的に形而上学で出てくる「存在」や「形相」のような語が用いられている命題の正しさを検証できないし、そのような命題は論理的にも検証できない。彼は分析命題と総合命題の区別に則っており、ここで論理的に検証できるのは分析命題である[7]。
形而上学を定義することの困難の一部は、何世紀も前にアリストテレスの編者に根源的に形而上学的と考えられなかった問題が、次々に形而上学に加えられてきたことにある。また、何世紀にも渡って形而上学的と考えられていた問題が、概して現在、宗教哲学、心の哲学、知覚の哲学、言語哲学、科学哲学といった、その独特の分離した副次的主題へと追いやられている点にある。
分析的形而上学
1970年代以降の、分析哲学の手法を用いて様相、因果性、個体と普遍者、時間と空間、自由意志といった形而上学的主題を扱う哲学を分析的形而上学と称することがある。もともと分析哲学の潮流においても、同一性や決定論のように形而上学的主題は扱われていたが、「形而上学」という呼称は独断的という意味あいをもつネガティブなものだった。この状況が変化した契機には、様相論理学やメレオロジーなど形式的な体系が成功をおさめたことが挙げられる。これによって、可能性や必然性といった現実を超えたことがらを扱う様相の形而上学的理論が登場することになった。可能性や必然性といった様相概念を論じる意義に対しては、形而上学の排斥を掲げた論理実証主義を批判し総合・分析の区別に疑義を呈したクワインも否定的であった。これは、典型的な分析的形而上学者もであり、クワインの弟子でもあるデイヴィド・ルイスが、様相実在論で個体とその集合を基礎に据えた存在論を可能世界にまで拡張したことと対照的である。その他、バークリ研究から出発し科学的世界観と普遍者の実在論の調停を目指したD.M.アームストロングや、現象学の薫陶を受けたロデリック・チザムなど、多様な哲学的背景をもった分析的形而上学者がいるのも特徴的である。
形而下学
形而下学は、実体のない原理を研究の対象とする形而上学の反対であって、実体のあるものを対象とする応用科学の学問。
『易経』繋辞上伝にある「形而上者謂之道 形而下者謂之器」という記述に依拠すると、「道」は、世界万物の本質、根源であり、形のないもの。その形のないものがいざ実体のあるものに変遷した場合、『易経』はその状態を「形而下」とし、その状態にある物質を「器」と呼ぶ。「道」は「器」の根源であるに対して、「器」は「道」の発展形。
フランシス・ベーコンによれば、学問を形而下学(フィジックス)と形而上学の二つに分け、前者は原因のうち質料因や作用因を探求するものとして、自然・博物学(自然誌)と形而上学の中間に位置づける。形而上学は形相因や目的因を扱うものとしている。ベーコンの自然哲学の見地によれば、形相とは物そのもの、あるいは物の性質を構成する基本的要素としての単純性質のことであって、その数は無限にあるようなものではなく、限定されたものである。いわゆる物理法則のようなものではなく、ましてや「物の魂」とか抽象的な原理というようなものではない。これは自然科学の領域だけのことではなく、判例やコモンローの中にも隠されており、慎重な観察や体系的探求により発見できるとする[8]
毛沢東の批判による中国での影響
1949年中華人民共和国建国以後、1952年に『矛盾論』[9]の発表につづき、毛沢東はソ連の政治体制への不満が噴出。スターリンなどの路線は、時代と環境の要素を加味できず、マルクス主義の単純コピー(「形而上学」、「教条主義」)だと強く批判した[10]。さらにその直後の文化大革命において、毛沢東語録の一部として「形而上学」という語彙が「唯心論」という意味合いで新聞などで多用された。その影響により、「形而上学」は今日に至るも中国では一般的には貶す言葉として使用されている。
脚注
- ^ a b c d 『岩波哲学小事典』「形而上学」の項目
- ^ アリストテレスは形而上学を「第一哲学」と位置づけていた。それは個別の存在者ではなく、存在するもの全般に対する考察であり、だからこそ形而上学という語は「meta」と「physics」の合成語として成り立っている。
- ^ 形而上学の「形而上」とは元来、『易経』繋辞上伝にある「形而上者謂之道 形而下者謂之器」という記述の用語であったが、明治時代に井上哲次郎がmetaphysicsの訳語として使用し広まった。中国ではもとmetaphysicsの訳語に翻訳家の厳復による「玄学」を当てることが主流であったが、日本から逆輸入される形で「形而上学」が用いられるようになった。中国語・日本語の漢字をめぐって 牧田英二(講座日本語教育 早稲田大学語学教育研究所 1-Jul-1971 )[1]を参照。メタフィジカについてはメタも参照。
- ^ 竹田青嗣著『中学生からの哲学「超」入門』ちくまプリマー新書、2009年 pp74-76
- ^ a b c d 後掲加藤
- ^ 印欧諸語のmetaphysics、Metaphysikなどの訳語として、日本語をはじめとする漢字文化圏では、「形而上学」を当てており、これは『易経』繋辞上伝の“形而上者謂之道、形而下者謂之器”(形よりして上なる者これを道と謂い、形よりして下なる者これを器と謂う)という表現にちなんだ造語である。印欧語のmetaには、「〜の背後に」のほかにも「〜を超えた」という意味があり、自然を規定する超越者の学という意味では(語源を表現しきれていないことを除いては)学の内容をよくあらわしている。
- ^ 「書評:ヴィクトル・クラーフト「ウィーン学団」-科学と形而上学」大垣俊一(関西海洋生物談話会Argonauta7:20-30.2002)[2][3]
- ^ 「近代産業主義の紀元」黒河内晋(ソシオサイエンスvol.6 2000-3)[4][5]PDF-P.7
- ^ 毛沢東「矛盾論」
- ^ 唯物辩证法终将代替形而上学 ——毛泽东哲学思想浅谈
参考文献
- 加藤信朗「形而上学」(Yahoo!百科事典)
- アリストテレス著、出隆訳『アリストテレス 形而上学 上下』岩波書店、1959年、ISBN 4003360435
- アール・コニー、セオドア・サイダー著、『形而上学レッスン―存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド』小山虎訳、春秋社 ISBN 978-4393323175
- デイヴィド・ルイス、トレントン・メリックス、ピーター・サイモンズ外著『現代形而上学論文集 (双書現代哲学2)』柏端達也、青山拓央、谷川卓訳、勁草書房、2006 ISBN 4326199482
- 形而上学の可能性を求めて──山本信の哲学(佐藤徹郎・雨宮民雄・佐々木能章・黒崎政男・森 一郎=編) 工作舎、 2012 ISBN 978-4-87502-447-7
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関連項目
外部リンク
- 加藤信朗「形而上学」(Yahoo!百科事典)
- 「Metaphysics」 - スタンフォード哲学百科事典にある「形而上学」についての項目。(英語)
- 「Metaphysics」 - Skeptic's Dictionaryにある「形而上学」についての項目。(英語)
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